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◇◇◇
まさか陛下があんな行動を取ろうとは思いもしなかった。陛下、やるじゃん。
やっぱり陛下はいい男だわ。
「名誉の負傷?」
「ふんっ。うるさいぞ」
私がわざと軽口に告げれば陛下は傷を負ったのとは逆の手で、しっしっと払うような仕草をしてみせた。
事件は夕刻に起こった。
早朝からの掃除の仕事を終えたシャクラが私の元を訪ねてくれたのだ。これは別段珍しい事でもなく、二日に一遍くらいは仕事終わりのシャクラと陛下の政務室でお茶を飲みながらおしゃべりをして過ごしていた。
「フミィ、今日も楽しかったぞ。そろそろダルジャン殿の迎えの時間であろう? わらわはおいとまするかの」
シャクラは飲み終わったカップをトンっと置けば、そっと席を立った。
「うん、また来て」
私も一緒に席を立って、シャクラを政務室の扉まで見送るのはもう習慣。
見送るシャクラの背中、侍女のお仕着せは未だに馴染まない。シャクラは生まれも育ちも生粋のお姫様。滲み出る気品はやはり、隠しようもない。
「シャクラ、ちゃんと侍女仲間と上手くやれてんのかなぁ?」
政務室に戻れば、ムスッとお茶を啜る陛下。いつからだろう、陛下が長ソファを陣取るようになって、私が一人掛けのソファに座るようになったのは。そうすると必然的に後から来るシャクラは空いている陛下の隣に腰掛ける。
陛下とシャクラが並ぶとそれだけで周辺の空気がグッと華やぐ。
「さあな」
肩を竦めて見せる陛下はしかし、シャクラが上手くやれているとは思っていないだろう。ムンムンに不満ですって空気を漂わせてる。
「あっ、これシャクラのじゃん」
ソファテーブルの端、そっと置かれたままの花柄の手巾は私のものじゃない。女の子らしいレースの意匠のそれ。
私が手に取るよりも早く、サッと取り上げたのは陛下。
「え?」
「……返してくる」
えぇぇぇぇ!?
ぶっきらぼうにボソッと呟く陛下。どうやら陛下自らハンカチを返しに行く役を買って出るようだ。
一体どういう風の吹き回しよ?
しかし陛下が扉を開けた所で耳に届いたのは不穏な話し声。
「わらわは、そんな……」
「いつもいつも、アンタは高みから人を見下して笑ってる! しかも! それをちっとも悪いだなんて思ってもいない!!」
「……すまなんだ」
いや、話し声というよりは一方的に詰め寄る激昂した女のそれ。
「アンタら皇族に人の心なんてないっ!! おかしい! おかしいわよっ!」
急いで私も飛び出していけば、激昂した少女は半狂乱にシャクラに掴みかかっていた。その片方の手は自身のスカートを漁っている。
嫌な予感がした。
少女はスカートのポケットからあろうことかナイフを取り出し、シャクラに向かって振りかざす。
「やめろっっ!!」
「やめてぇぇぇっ!!」
私と陛下の声もしかし、半狂乱の少女を止めるには至らない。
私の一歩先行く陛下も間に合わないっ!! シャクラっ!!
私は振り上げられたナイフを直視なんて出来なくて、ギュッと目を固く瞑った。
ザシュッッ!
皮膚を割く音、飛び散る朱色。見ていないのに脳裏に走る不穏な映像にギュッと心臓が掴まれたみたいに痛い。
「ッテェ」
耳に届いたのは何故か陛下の低い声。そっと、そぉーっと瞼を薄く開けてみる。
陛下は己の腕の中、しっかりとシャクラを抱き込んでいる。そうして陛下の右半身、肩から二の腕に掛けてシャツ上に走る朱色の筋。そこから鮮血がポタリポタリと伝って落ちて、床を濡らしていた。
ああ、陛下は自らを盾にした。あのタイミングではいかに武芸に明るい陛下とて、ナイフを振り下ろす少女の手を止める間などなかった。
掻き抱くようにシャクラを胸に庇って、迫りくるナイフから身を捻るしか取る手がなかったろう。
シャクラは目を見開いたまま、ガタガタと震えていた。
しかし陛下を傷つけた少女はシャクラ以上に震えていた。床にうずくまり、ガタガタと震える少女の下に広がる水たまり。少女は失禁してしまっていた。
「立てる? 貴方はこれから近衛での取り調べになる。けれどその前に一旦、お手洗いに行こう? 私の着替えを貸してあげる」
シャクラには陛下が付いているし、陛下の傷はそのうち御殿医が飛んできて治療を始めるだろう。私はせめて、震える少女の身を整えてやりたいと思ったのだ。
それに私はこの少女を知っている。
もともとの宮中女官じゃない。この子はシャクラに同行していた侍女の一人だ。シャクラが途中、馬車から降ろしたと語った侍女だ。
「……いえ、いえ。恐れ多い事でございます。貴女様のお手を汚してしまいます。大罪を犯した私はもう、間もなく散る身でありますれば」
消え入りそうな、けれど芯の通る声で少女は言った。シャクラに向けた激しい憤怒とは対照的、少女は私にえらく謙った物言いをした。
「貴方のした行為はどうしたって正当化できないね。でも、だからって貴方の命まで奪うなんてのはあり得ない。陛下なら大丈夫よ、だって指、ちゃんと動いてるもん。治る治る」
この少女は己の命を引き換えにしたってシャクラに一矢報いたかった、それだけの理由があったんだろう。シャクラに同行した5人の中でこの少女だけが帰国を望まなかった。アルバンド王宮での職を願い出た。
少女の小さな背中に、負った決意の強さを見た気がした。
「アルマ! すまなんだ! わらわがそなたにした事、ほんにすまんかった!」
陛下の胸を押し、身を乗り出してシャクラは少女に詫びた。ナイフで切りかかられて、震えを未だ残しながら、それでもシャクラは頭を下げる。
「皇女殿下、私は謝罪を受け入れません。その代わり、犯した罪に対してはいかような罰も全て受け入れます」
少女はシャクラに背を向けて凛と立った。
「此度の襲撃事件の動機は何だ?」
私は陛下に直訴して近衛の聴取に同席させてもらっていた。同席を許可された私は聴取室の隅で、ただ静かに聴取官と少女のやり取りに耳を傾ける。
「動機……。皇女殿下に馬車から降ろされた時、なんというんでしょう一気に色んな感情が噴き出してしまったのです。テジレーン公国で第一側妃様付きだった私の母が不興をかい侍女の職を失くした時、皇女殿下が困っていた私達母子を雇い入れてくださったんです。皇女殿下にとってはほんの気まぐれで母の事など覚えてもいないでしょう」
だろうなぁ。それはきっと、たまたま雇用のタイミングが合ったと言うだけ。だからシャクラは覚えていないだろう。
それを重々承知しているだろう少女は薄く自嘲気味な笑みを載せた。
「もう母は亡いけれど、それでも私は恩ある皇女殿下に身を賭して尽くしてきたのです。それなのに、皇女殿下は一瞥すらくれずに、まるで塵屑みたいに私を切り捨てた。知らぬ地に身一つで捨て置かれた私はもう、皇女殿下に死ねと言われたのと同じこと。全てがどうでもよくなって、それと同時に皇女殿下へのどうしようもない怒りが沸いてきたんです」
少女の語り口に既に狂気はなく、落ち着いた声音で坦々と語る。聴取官の質問にも少女は素直に応じた。
「左様か、幼い身で苦労をしてきたのだな。……其方は幾つになる?」
「十三になりました」
……若い。親の庇護下にあってしかるべき年齢のこの子が、当たり前のように働いて身を立てている。
アルバンド王国もテジレーン公国も、成人は十六歳。これは見過ごせる事態じゃない。
「母親は亡いと言っておったな。父親はどうした?」
「父親は最初からおりません。……ただ、母が第一側妃様の不興をかったのは、私の父親に第一側妃様がお気付きになったから……」
!! シャクラとこの娘、異母姉妹!?
「なんと……皇帝は? 皇帝は其方を認知しておらんのか?」
聴取官の表情が一気に険しさを増す。
「母は私の平穏を望んで伏しておりましたし、第一側妃様も私の存在を決して公にはいたしませんでした。私自身どんなに傅かれる暮らしが出来ようともあちら側にはいかぬ、それが矜持でございましたので申し出てはおりません」
「……なんという事だ。テジレーン後宮のえげつない噂も耳にしてはいたが、ここまでとは……」
本当に、ここまでただれているとはテジレーン後宮恐ろしや。これじゃ、シャクラの当初の傍若無人な振る舞いも責められない。
そんなただれた環境で育てば、真っ当な思考判断は育たない。
「私の本音としてはなんとか其方を救ってやりたい。しかし事は陛下への傷害事件だ、無罪放免という訳にもいかん。だが其方の身分を明らかにした上でテジレーン公国よりの正式な要求があればあるいは、」
「聴取官様、私はそれを望みません」
少女はゆるゆると首を横に振った。
「……左様か」
聴取官は切なさの滲む表情でパタンと帳面を閉じた。
そのまま対面に座る少女を見下ろす。その瞳に浮かぶのは労わりや同情なのか、優しい目だった。
「……なぁ、娘さん。これは職務とは関係ない私の独り言だ。私にも、一人息子がいるんだ。でもな、まるっきり偉そうな事なんか言えんのだ。父とは名ばかりで、愛情をこめて撫でてやった事もこの手に抱き締めてやった記憶すらない。少々難しい状況の妻に手一杯であったとか、言い訳はいくらでもあるのだが、結局は私にとってその方が楽だったから、私は逃げていたんだ」
聴取官は柔らかな声音で対面する少女に語り掛ける。
少女はいきなり始まった聴取官の身の上話に虚を突かれたように、ポカンとした表情で聞いていた。
「息子も其方のように年齢以上に達観していた。その目はまるで其方の目と重ね合わせたかのようにピタリと同じだ」
……聴取官は近衛の上級官僚だから、当然爵位持ちだろう。
「息子はもう三十にもなるが、対外的には立派に職務を熟し陛下をお助けしている。けれど、息子自身は己の幸福にはまるで無頓着に暮らしているようだ。それは息子が幼少期から幸福というものを知らぬまま育ったからだと、私は今更ながらに後悔の日々を過ごしている」
そして三十の一人息子を持つ、やもめのおじさん……ふむ。
「これは贖罪なのかもしれない。息子にしてやれなかった事を其方にしてやりたいと望むのは、完全に私の自己満足だろう。しかし幼い其方の状況を聞きながら捨て置く事が、私にはどうしても出来ない。縁あって出会った息子と同じ目をする其方から、私は今度こそ逃げたくないと思ったのだ」
「……聴取官様?」
少女も聴取官からの思わぬ話の流れに困惑を滲ませている。
「其方の後見人を、私が引き受けたい。私の保護観察下に置く事を条件に、陛下に減刑を嘆願しよう。償いを終えたその後は、私の屋敷に暮らすといい。侍女として雇い入れたいのではない、其方は我が屋敷で家庭教師に学び、心の向くように将来を定めたらいい」
聴取官は貴族社会においては規格外の提案を初対面の娘にポンと投げかけた。
これは親切とか、同情とか、そういう次元の話じゃない。
この少女の何かが、聴取官の心の琴線に触れたのだ。
「聴取官様、お優しい貴方の御心に私は救われた思いがいたします。けれど減刑も後見のお話もその御心だけありがたく頂戴いたします。……私はどのような罪状になりますでしょうか?」
少女は深く聴取官に頭を下げた。既に潔く自身の罪を受け入れている少女は、減刑も後見も望まなかった。
しかし聴取官の心に触れてだろう、少女はまるで憑き物が取れたように穏やかな表情を浮かべていた。
対する聴取官は表情を曇らせて、ギュッと拳を握った。
「……うむ、そうか。では、罪状は……」
ガチャン。
「陛下!」
聴取室の扉をノックも無しに開け放ったのは陛下だった。聴取官は慌てて立ち上がり陛下への礼を取る。少女に至っては床に頭を擦り付けるようにしてひれ伏していた。
出遅れた私は当然椅子に座ったままだ。
「よい」
陛下はスッと手を上げる。上げた手を辿れば陛下の腕、着替えたシャツの下に透けて見える包帯。痛々しいけれど御殿医がきちんと手当てを済ませ、これだけ普通に動かせていれば後遺症だってないだろう。
陛下に制されて、聴取官は向かいにひれ伏したままの少女を引き上げて椅子に座り直させると、自身も聴取官席に戻った。
「サルドーレ聴取官、聴取は中止だ」
うん、やっぱりね。……サルドーレ、それはダルジャンの家名と同じ。
聴取官はサルドーレ侯爵その人、ダルジャンのお父さんだ。
「は? 陛下、それは一体?」
ダルジャンのお父さんの少々惚けた顔だって決して責められない。陛下の開口一番、「中止」が意味するものはなに?
けれど何となく、私にはこの先の陛下の行動が見て取れた。
「中止だ。何故ならこの怪我は俺がリンゴを剥き損なって負った物だからだ」
「プッ!!」
やばい! 想像してたけど、リンゴの剥き損ないは流石に想像してなかった!! 静かにしているを条件に聴取の同席を許されていた私だけど、腹の底から湧き上がる笑いの発作は抑えられない!!
ギロリと鋭い視線が陛下から飛ぶけれど、ダメ!!
「プッ! プハハハハハハっ!!」
「へ、陛下? どういう事でしょう?」
ダルジャンのお父さんは流石だ。腹を抱えて笑う私を視界にすら入れずに、口元を引きつらせるに留めて陛下に問う。
「……二度は言わんぞ。俺の怪我は自傷。だから聴取も何も無い。ちなみに少し聞かせてもらったからな、その身寄りのない娘はサルドーレ侯爵、やはり其方が引き取れ?」
!!
「はぁああ??」
これにはダルジャンのお父さんの平静の仮面も剥がれた。私はなんとか笑いの発作を抑え、ダルジャンのお父さんの所に向かうとその背をポンポンと叩いてやった。
「聴取官」
ダルジャンのお父さんは眉を八の字に下げた少々情けない顔で振り返った。うんうん、私は無言の訴えに深く頷いて応える。
だけどダルジャンのお父さん、権力者の発言は絶対だから最後はこうなるよね。
「結果オーライ、ですよね? この子は、貴方が一人前にすればいい。貴方にはその、財も力もある。なにより、この子を優しく見守るだけの懐が貴方にはある」
ダルジャンのお父さんは目が落っこちそうなくらい見開いて、次いで諦めたようにガックリと肩を落とした。
こうも一気に事態が動こうとは、ここにいる誰も想像すら出来なかった。流石陛下だ、とてもじゃないが一筋縄ではいかない男だった。
俯いて何事か考えていた様子のダルジャンのお父さんは、しかし次に顔を上げた時には決意の篭った目をしていた。
「……やはり其方は私の屋敷においで。屋敷の者達も気のいい者ばかりだ。私は君を心から歓迎する」
ダルジャンのお父さんは唖然とする少女に向かうと、腰を低くして目線を合わせた。
「聴取官様……、けれど……」
いまだ逡巡に揺れる少女の瞳。
「其方は断罪を望んだ。ならば成人まで後三年、我が屋敷でまっとうに生きる力を身につけろ。そうして立派な女性になって世に羽ばたけ。それが立派な贖罪にもなろう?」
見開いた少女の目から大粒の涙が零れた。聴取官は少女の肩をそっと抱き締める。
堰を切ったように止めどなく涙を溢れさせる少女を見下ろすダルジャンのお父さんの目はどこまでも深く優しいものだった。
ダルジャンのお父さんは陛下にひとつ礼を取ると、涙に濡れる少女の背を促して聴取室を出て行った。
並んで歩く二人の背中はまだ少しぎこちない。これは少女だけじゃなく、ダルジャンのお父さんにとってもまた贖罪なのか。
……いや、違う。二人のこの出会いは未来への希望。悔いも憂いも昇華させ、より良い未来を望む新たな船出だ。
二人を見送って、斜め向かいに立つ陛下をそっと見上げる。陛下の背中が何も言うなと言っている。
「陛下、今度リンゴが食べたかったら私に言ってよ。リンゴくらい剥くよ?」
今回の一件、陛下が事を荒げるのを望まず、陛下の一声によって全て内々に処理(要は無かったことに)された。
「ふんっ」
陛下は事件が明るみになる事で、シャクラがダメージを受ける事こそ防ぎたかったんだろう。
陛下の愛、深すぎるわ。