『とある「妖怪ブクマ外し」の習性 』-カントと見えざる色眼鏡
今回は、月森コウ氏著『とある「妖怪ブクマ外し」の習性』を紹介する。作品の概要は以下の通りである(詳細はいずれも作品URLより引用)。
ジャンル:エッセイ〔その他〕
作品名:『とある「妖怪ブクマ外し」の習性』
著者:月森 コウ
作品URL:https://ncode.syosetu.com/n7465eo/(最終アクセス2018年8月17日現在)
作品分類:短編小説
あらすじ:今日も「小説家になろう」のどこかで、ブックマークが解除された、と悲嘆の声があがる。
「妖怪ブクマ外し」が出た、と慄く声が聞こえる。
「……申し訳ありません。それ、私です」
どんな時、ブクマ解除をするのか。どんな作品だったら解除しなかったか。考察してみました。
作家の皆さんのストレスが少しでも緩和されれば、と、思い切って投稿してみました。
紹介作品は、ブックマーク数6件(2018年8月17日現在)の短編作品である。作品の概要は以下の通りである。いわゆる「妖怪ブクマ外し」である著者が、自身がブックマークを外す理由とそれに対する作家側のできる一応の対応策について、簡潔に紹介し、「妖怪ブクマ外し」という存在への理解を深めて貰うことを主たる目的とするエッセイである。
紹介作品を紹介するにあたって、本稿における「妖怪ブクマ外し」についての一応の定義づけをしなければならない。
「妖怪ブクマ外し」とは、広義には小説家になろうに投稿する作家が、自身の作品についたブックマークを外された際に、外した人物を呼称するために利用するネットスラング・名詞である。
一方で、狭義には、所謂一度作品にブックマークを付けた人物が、直ぐにブックマークを外す場合をも指す。この場合は、もともと作品に興味がなかった場合や、荒らし目的などの悪意のある悪戯として行われる場合が多く、広義の定義よりもより作品への熟読がなされていないと考えられる。
一般的に、底辺作品などのブックマーク数の少ない作品ほど、作家に与える影響が強い点が特徴であり、ある程度人気を得た作家の場合は、ブックマークの減少を嘆くことは少ない。これはブックマークの絶対数に対する割合からくるものであるが、妖怪ブクマ外しが作家の感情に与える影響が少なくないことは理解できるだろう。
紹介作品では、広義の「妖怪ブクマ外し」を採用していると考えられる。そこで、本節での「妖怪ブクマ外し」の定義は、「ブックマークを登録していたものの、何らかの理由によってブックマークを外した者の総称」とする。
本稿では、紹介作品を考察するにあたって重要な要素として、「1.自己認識の変化と世界観の変化」、「2.『妖怪』の意義と認識」の二つを挙げる。
はじめに、1.について述べる。紹介作品の著者があらすじに提示している通り、妖怪ブクマ外しがどのような判断基準でブックマークを外しているのか、そしてその行動に対する理解を求める事を目的としている。
一方で、上述の通り、小説家になろうに投稿する投稿者の多くは、この妖怪ブクマ外しに対してよい印象を持っておらず、恐れを抱いてすらいる。紹介作品は、妖怪ブクマ外しと投稿者の相互理解を深めようという積極的な妖怪側からのアプローチであると言え、その点に大きな価値を見出すことが出来る。
しかし、投稿者側がその理屈を理解し、問題が解決するか否かは、やはりまた違った問題であると言える。即ち、ブックマークを外されることによって負わされた傷が、理解によって解消されるわけではないからである。
それでは、果たして投稿作品は全くの徒労であったと言えるであろうか。筆者は門外漢ではあるが、哲学の分野では「認識論」という議論が存在する。代表的な論者として挙げられるのが、ルネ・デカルトやイマヌエル・カントである。デカルトと言えば、「我惟う、故に我あり」の言葉で有名な人物であるが、その理論は自己の存在を思惟によって確認し、その上で対象の物質が存在すること、ひいては神の存在まで証明するというものである。言い換えれば、自身の肉体を含むすべての物の実在は懐疑的であるが、少なくとも思考する自分は存在しなければならず、自身が知覚や聴覚などを認識する以上、認識させるものが必要であるために物質の存在を証明するのである。
デカルトの理論において神の存在証明は重要な命題ではあるが、本稿の主旨からは反れるため、本稿では取り扱わない。
そして、カントの理論は、デカルトの理論よりも科学的知見に近づいているという事が出来る。1.人間は初めから「色眼鏡」をつけており、それを通してしか事象を認識できず、2.それを通して認識する事象を解き明かしていくことが可能であるという、いわばデカルトが示した認識の万能性を制限し、認識可能な制限の中での、事象の解明に意義があると考えるものである。
カントの言う色眼鏡は、時間的制約や空間的認識まで含まれるため、一般的な「偏見」と必ずしも一致しないが、投稿者が妖怪ブクマ外しに対して一種の色眼鏡を持っていることは事実である。筆者は、自己が認識する領域の限界を否定しないため、完全に妖怪ブクマ外しを色眼鏡を通してのみ理解することが出来ないことは否定しないが、その行動原理を知ることは、色眼鏡を付けた自己の認識において、彼らを限定的に理解できるという事である。
もっとも、紹介作品は非常に穏やかなものであり、いわば時間的制約と自身の関心事項の変化が、ブックマークを外す原因であると述べている。そのため、資本主義社会の意に反するような思想と言うわけでも、自由主義社会から排除されるべき思考と言うわけでもなく、至極真っ当な、いわば理解と譲歩が可能なものであった。即ち、我々投稿者側に欠けているのは彼らに対する知識の不足であって、この溝を埋めることが出来れば、一定の偏見を拭い去る事は出来ずとも、恐怖を抱くような存在ではない、と認識を改めることが出来るであろう。その意味において、紹介作品は意義があると言える。
1.では、相互理解の為に必要な知識の獲得が、紹介作品の価値の一つとして認められると紹介した。一方で、2.は、「妖怪ブクマ外し」という用語に関する考察をしたいと考える。紹介作品の意義と言うにはやや議論が逸脱するものの、彼らへ対する我々の認識を発展させるには非常に有効であると考えられるため、紹介する。
まず、妖怪ブクマ外しという言葉を単語ごとに分解していくと、「妖怪」「ブックマーク」「外す」という三単語に分割できる。ブックマークとは、言うまでもなく、気に入った、或いは注目する作品に読者側が付けるいわば栞の様なものであり、この数が多いほど、作品の注目度が高いという事が出来る。次に、外すも言うまでもなく、興味・関心の喪失からブックマークを取り除く事、思ったほどよくなかったという意思表示である。
では、妖怪とは何か。妖怪とは、
『人の理解を超えた不思議な現象や不気味な物体。想像上の天狗・一つ目小僧・河童など。化け物。』
(松村 明監修、池上 秋彦・金田 弘ほか編集「よう‐かい〔エウクワイ〕【妖怪】」『goo辞書』(提供元『デジタル大辞泉』(小学館))(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/226205/meaning/m0u/妖怪/ 、最終アクセス2018年8月19日11:56現在))
を指す。即ち、妖怪とは、認識する側が理解しえない物質や現象などを指すと言える。つまり、「妖怪ブクマ外し」とは、「突然ブックマークを外してくる不思議な(不気味な)存在」であると言える。そして、妖怪である以上、不思議な、不気味な存在でなくなれば、その意味は失われていくものであり、「得体のしれない」存在を理解しようとする投稿者側の意識によって、ある程度対策が可能なものであると言える。それは決して簡単なことではないが、不可能なことでもないのである。その一環として、紹介作品は意義があると言える。
そもそも、妖怪の意味に関する引用部分からも明白な通り、日本社会における妖怪とは、必ずしも悪意のある存在として描かれているわけではない。火車などの疫病に起因するものは勿論悪意のある存在として描かれるものの、枕返しや小豆荒いなどが、果たして悪戯の域を逸脱するようなものであろうか。この点が、西洋における「悪魔」との本質的な違いであり、その本質は妖精などに近い物と言える。
最後に、筆者の私見を述べて、結びとしたい。
投稿者にとって、妖怪ブクマ外しのは得体の知れない存在である。無知は偏見を生み出し、偏見から生み出された色眼鏡を通してみる世界は、簡単に逃れることが出来ない。しかし、一応の行動原理を把握してみれば、それは「自分にとって面白い作品を読みたい」という至極単純な、真っ当な思考から現れる行動であり、「作品をブックマークから外さないでほしい」と言うのは、投稿者側の身勝手な、そして評価されたいと願う至極真っ当な思考から来るのかもしれない。このような、真っ当な感情から来る偏見を取り払うには、やはり、どちらかがもう一方の意見に耳を傾ける必要があるだろう。カントはその色眼鏡を通して世界の真理を解き明かそうとすることを善としたが、この色眼鏡を通して世界を理解するには、真っ先に対象を「理解する」事が必要なのである。
あるいは、日本における妖怪のように、「妖怪の仕業なのだから、仕方ない」と考える事も可能かもしれない。妖怪達は我々にとっては不思議な存在なのであって、そもそも理解すること自体が無意味なのかもしれない。寝相の悪さを枕返しのせいにすれば、幾らか気持ちも楽になるのであろう。
果たして我々は、色眼鏡を通してみる他者を、どの様に解釈すればいいのだろうか。あるいは、分からないものと割り切ってしまうべきなのだろうか。紹介作品は、相互理解を求める投稿者兼読者から差し出された手であり、それを取るべきか否かを考察する一つのきっかけなのである。
作品を作る者として、あるいは読む者として、どちらか一方に傾けば、世界は思う以上に偏見に満たされます。どうやら私たちは、簡単には偏見から逃れられないようです。
最後に、本考察にご快諾頂きました、紹介作品の作者であられる月森コウ様に、改めて感謝申し上げます。