『イノチノウタ』‐アリストテレスからの問いかけ
今回は、NADIA氏著『イノチノウタ』※を考察する。小説情報は以下の通りである(小説情報は作品URLより引用)。
作品名:『イノチノウタ』
著者:NADIA
ジャンル:純文学(文芸)
作品分類:短編作品
作品URL:https://ncode.syosetu.com/n8390en/(最終アクセス2018年7月27日現在)
あらすじ
殺されるために、生きていた証を歌い上げる。
作品の概要は以下の通りである。
諜報員である主人公は、戦争の最中、とある町に侵攻ルートを定める。崩壊していく敵政府と、蹂躙されていく人々を、彼は無感動に処分していく。多くの知識人を処分し終えた彼の前に、とある少女が立ちはだかる。彼女は自らを「歌い手」と称し、自ら彼らに対して、自分を殺すように願い出る。彼女は自らが歌い手であることを証明するべく、銃を手に持つ兵士達の前で喉を震わせる。家業に嫌気がさしつつも、誇りを持って生きてきた彼は、自ら死にゆくために手を挙げる彼女の歌声に、心と価値観を震わされる。そして、兵士達は、彼女に銃口を向けた。
紹介作品は、ブックマークが24件(2018年7月27日現在)の短編小説である。なお、短編小説において、ブックマーク24件を獲得しているというのは、一般的に高評価を得ていることの証左でもあるが、『小説家になろう』においては、短編作品が埋もれやすいため、この作品の価値を考察することは、本稿の主旨に適うものである。
紹介作品の概要を見て明らかなように、紹介作品は非なろう系作品である。主人公は既に勝利を間近に控えた国家に所属し、蹂躙に慣れ切って死に対する感情を殆ど失っているが、必ずしもそれを臨む立場を取っていない。また、彼らは人を「助ける」事もせず、自らの在り方に疑問と葛藤を抱えつつも、相手を傷付ける事を受け入れている。
そのような中で現れた少女が彼らに与えた衝撃は、単純な戦争の虚しさや惨状とは一線を画するものであった。
本稿では、紹介作品を考察するにあたって重要な要素として、「1.人命の価値に対する解釈」、「2.正義の概念」の二つを挙げる。
1.は、恐らく紹介作品の著作者が明示的に示そうとした重要な要素であり、言い換えれば人の命とはどの程度の価値を持つのかというものである。私見ではあるが、紹介作品においては、主人公含む将校達の方が、少女よりもより命の価値を重く見ているようにも感じられる。即ち、命は「至上の価値を持ち、それを奪う事は罪である」という価値観である。一方で、少女は命に対して「自らの誇りと比べ、高くはないもの」と解釈しているようにも感じられる。
現代日本では後者の方が受け入れられ難くなっているものの、戦前の日本、或いは世界的に見ても、後者の考え方は古来から受け継がれてきた。例えば、第二次世界大戦中、特に前期の日本兵は、例外は大いにあろうが、祖国の誇りの為に命を切り捨てることを厭わなかった。例えば、中世の騎士達が心酔した十字軍遠征なども、誇りと命を天秤にかけられるものと解釈しているのである。
いずれの考え方に正しさが認められるか否かは本稿とは別に考察する必要があろうが、私見は、人命を救う余地がより大きいのは、後者の立場により近いように考える。
命に絶対的な価値を認めた場合、一人よりも二人殺すことが罪となるだろう。一方で、命に相対的な価値しか認めない場合には、個人間における価値の対立がないことを立証できない限り、命の無価値を証明できず、無いことを証明するためには、世界中のあらゆる人間から無価値を承認させなければならない。このような証明はおよそ不可能なものであり、完全に命の価値を否定できず、殺すことは平等な罪となる。
但し、後者の意見には重大な欠陥があり、1.価値の承認を一定のテリトリーに限定する、2.価値の承認を一般的慣行に準拠させることで、人を殺すことを正当化することが出来る。
尤も、この論拠は命を奪ってはいけない理由を述べるための論理であり、私見が必ずしも人命を奪うこと全てを否定するものとは言えない。日本には死刑制度があり、それを承認する人間が国民の中に一定数存在すると考えられる以上、人命を奪う事全てを否定するならば法制度上の問題を指摘する必要があろう。この点は、別途検討する必要があろう。
次に、2.「正義の概念」について論ずる。2.を論ずる上で、本考察における「正義」の定義を確認しなければならない。一般的な正義の定義としては、
『1 人の道にかなっていて正しいこと』、『2 正しい意義。また、正しい解釈。』『3 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。』(松村 明監修、池上 秋彦・金田 弘ほか編集「せい‐ぎ【正義】」『goo辞書』(提供元『デジタル大辞泉』(小学館))(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/121244/meaning/m0u/正義/、最終アクセス2018年7月27日13:09現在))
を指すとされ、一般的には引用部分1の意味で利用されていることが多い。しかし、本考察における定義は3の部分を指す。上記の意味を考慮したうえで、本稿では、「正義」を「国家主体として、どの様な運営方法が望ましいかを決める基準」と定義する。これは、英語ではjustice(正義)に相当するもので、一般的な意味であるgood(善行)という意味とは必ずしも同じものではない。
紹介作品における少女の行動に関しては賛否があるだろう。彼女の行動は、「命」よりも「誇り」を重視するものであるからだ。彼女は確かに歌う事によって自分が歌い手であることを認めさせた。その代償が命であることは、1.で論じた命の価値を貶める事となる。しかし、ここでの議論は個人に関する議論であった。では、国家の領域においては、どの様な在り方が求められるだろう。
国家の主軸を決めるうえで、三つの考え方から正義を考察する事が出来る。
第一に、「最大多数の最大幸福」、ジェレミー・ベンサムに代表される功利主義である。功利主義の前提は、幸福はある程度可算的であり、全体的に見て最も幸福をもたらすことが出来る体制こそが正義に適うと考える。可算的な幸福には、物質の価値を定めることが出来るという前提があるため、欲求が満たされる物質に囲まれているほど、基本的には個人も全体も豊かになる。つまり功利主義は、物質的な幸福の最大化を重視する考え方と言えよう。
功利主義は、あくまで幸福はある程度数値化できることを前提としているに限り、必ずしも、人間一人の価値を蔑ろにする立場を取っているわけではない。即ち、一定の拘束を受ける事によって、個人の幸福を制限することが全体の幸福につながるか否かを考えるものである。つまり、必ずしも、一人を犠牲にすることによって、二人、三人が幸福であることが正しいという事は出来ない。そのため、功利主義においては、少数派に対する多数派の不安を招くような迫害やいじめを容認するものではない。しかし、そのように解すると、果たして本当に幸福を数値化できるのか疑問が生じる。功利主義の問題点は、ここにあると言える。
第二に、自由主義である。自由主義とは、国家は最低限の枠組みを設けるだけに限り、個人の自己決定を重視するという考え方である。自由主義は、個人の自己決定にこそ最高の価値を認めるため、法に反しない限り、個人は自由である。そして、この場合における法とは、個人の自由を侵害しない為に定めるものである。つまり、国家は、1.他人から思考する権利を奪う事、2.自分の時間(命)の使い方、3.自己財産の処分の仕方のいずれも、個人の自由の権利を侵害しない限りは制限できない事となる。
功利主義には、明確な幸福の在り方があったが、自由主義には幸福が完全な個人の裁量に求められることとなり、個人は自由に物事を決定できるが、個人は自由に物事を決定する義務さえ有する。即ち、臓器売買は容認され、需要と供給のバランスを崩す詐欺まがいの取引も必ずしも否定されるものではない(一部の詐欺や脅迫に基づく場合は、個人の決定権限を侵害するものと考えられるため、規制の対象となる)。個人の自由を制限しない代わりに、国家は個人を救済することも最低限とするのが、自由主義の基本的な在り方である。
最後に、コミュニティには志向するべき「正義」が存在し、この正義実現の為に、個人もまたあるべき役割に従事する事を善しとする考え方である。ここでいう「正義」は引用部分における1.の意味に該当し、「善良な人間」や「善良な国家」に明確な定義が存在する。共同体主義と呼ばれるこの考え方では、目指すべき理想像へ向かい行動するために、規則を設ける。個人の精神的自由はある程度制限するが、社会全体が認める良心の赴くままに規則を作るという明確な根拠と目的がある。その点、現代の価値観とは相いれない部分があるものの、ある意味では最も「素晴らしい人間」を作ることが出来る考え方である。
紹介作品の時代は、恐らく第三の正義を重視する時代であると言えよう。この執筆者は必ずしもこれを善しとしているようには見えないものの、少女の在り方に心打たれる読者も一定数いるだろう。それこそが、明に暗に「人間はこうあるべし」という定義づけが存在することの証左とも考えられる。共同体主義を完全に否定することは、ある意味で最も良心に反する考え方と呼べるかもしれない。
紹介作品における少女の在り方は、自由や功利を正義の基準とする私達へ対する、過去からの問いかけのように思える。紹介作品は、「正義の在り方」とそれに伴って定められる「命の在り方」について問いかける、考察をする価値のある作品である。
最後に、本考察のまとめとして、私見を述べる。「命の価値」を定義づけることは、必ずしも簡単なものではない。命に値段はないと言う者があるが、それでは腎臓を二つ売ることは、どの程度の価値になるだろうか。あるいは、民主主義国家である日本の法規制、例えば、自動車事故による民法第710条の不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において賠償をできる額、即ち生涯収入と逸失利益をどのように説明づけるべきであろうか。そして、値段がないというならば、命には価値がないのだろうか。あるいは、何故値段がないのだろうか。
いずれの在り方に立とうとも、我々は批判にさらされることだろう。その答えを求めるとすれば、不特定多数の他者に頼るほかはない。即ち、その人間が自殺をするに値するのかを、相対的価値を根拠に求めるしかないのではないだろうか。「全世界の人間にとって、貴方という存在は価値がないという証明を受けなければ自殺を認めない」というより他にないのではないだろうか。
では、正義はどこにあるのか、その為には国家はどうあるべきだろうか。国民皆保険制度、労働条件改善、徴税による道路整備と被災地支援……。日本という福祉国家にありながら、我々は余りにも自由を求めて主張をしすぎてしまう。
一枚岩ではないにせよ、基本的には自由主義とはこれらの国家共同体による支援の多くを排除し、最低限最小の国家において、各々の責任に全てを任せるための論理である。私はある程度幸福を定型的に計算し、全体が一定の制約を受けながらも、国家の庇護を受ける在り方を否定することはできない。その上で、あれこれと自由化を行う事、それによって自己の責任を高めていくことが、必ずしも正しいといえるだろうか。全体として相当数の承認を得られる定められた幸福を享受しつつ、適度な開放を楽しみ、一定の制約を受け入れる。そのような国家運営は、筆者には、少なくとも受け入れるに値するもののように思える。
では、少女の在り方は間違っているのだろうか。
アリストテレスは著書『政治学』において、人間をポリス的存在と考え、都市国家の下で共同生活をすることが肝要であるとした。それは、目指すべき目標を、守るべきものを、自分の価値を最大化させるための生きる目的を果たすことこそが、豊かな社会を作る鍵となると考えたからだろう。彼が現在の国家を見た時、その瞳には自由な人が映るのだろうか。それとも、あるべき姿を見られずに落胆するのだろうか。もし後者であれば、彼はこう尋ねるであろう。「この法律の目的は一体何であろうか?」と。
この作品は絶対に取り上げようと心に決めていました。最後に、本考察を行う事を御快諾いただきました 『イノチノウタ』著作者のNADIA様に、改めて感謝申し上げます。
また、以下に、本考察の執筆にあたっての参考文献を挙げさせていただきます。
参考文献
マイケル・サンデル著・鬼澤 忍訳『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』(2011年11月)(早川書房)
滝川裕英編・滝川裕英・米村幸太郎ほか著『問いかける法哲学』(2016年9月)法律文化社
※作者様引退の為、現在は削除されてしまっております。ご了承下さい。