『すこし、「ある」。』−釈尊曰く
今回は、牧田紗矢乃氏著『すこし、「ある」。』について、その価値を考察する。
紹介作品の詳細は以下の通りである(詳細はいずれも作品URLより引用)。
ジャンル: ホラー〔文芸〕
作品名: すこし、「ある」。
著者: 牧田紗矢乃
作品URL: https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n2000ei/(最終アクセス2020年1月12日21時18分現在)
作品分類:短編作品
あらすじ:兄は言った。「お化けはすこし、『ある』んだ……」
紹介作品の概要は以下の通りである。
主人公は、部屋で漫画を読んでいる時に、兄に汚い落書きが書かれた紙を提示され、その「読み」を問われる。それに対して主人公が答えると、兄は、その回答について解説を始める。
紹介作品の概要として語れる部分は非常に少ない。それは、紹介作品の文字数が600字程度である事、そして、作品のジャンルがホラーであるため、この作品の概要を完全に紹介する事は、適切でないと考えられるためである。しかし、その一方で、紹介作品には、多くの解釈の余地が存在し、さらに、その解釈に行きつく為に、様々な道筋を作る事が可能である。その理由はひとえに文字数の少なさと、作品ジャンルである「ホラー」が有する特殊性、即ち、明晰さ以上に要求される行間の魅力が求められる事に起因する。文字数の少なさは、そのまま行間に解釈の余地を与える事に役立つが、これによって、ホラー作品特有の「不気味さ」が結果的に生じる。紹介作品は、そうした点から、短編のホラー作品としての特殊な雰囲気を醸成する事に成功していると言えよう。
一方で、本稿では、紹介作品が題材とした「クイズ」について解釈を深める事によって、紹介作品の価値を再解釈する事で、その価値を考察する事とする。よって、以下では、紹介作品の核心部分に触れる恐れがある「表現」を深堀する必要がある事に留意されたい(以下に、一旦、普段よりも多くの行間を置く配慮を施す)。
本稿では、紹介作品を考察するにあたって重要な要素として、「『存在』の解釈」を挙げる。
まず、概要に述べた、兄に出されたクイズの答えは「ゼロ、またはレイ」である。ゼロは、以下の意味を有する。
『ゼロ【zero】①(数の)②零。零点。③(数量・価値などが)全く無いこと。皆無。』
新村出記念財団代著・新村出編『広辞苑 第七版』(2018、岩波書店)1652頁
次に、零とは、以下の意味を有する。
『れい【零】①数えるべきものが一つもないこと。また、目盛などの基準・基点。』
前掲新村3113頁
即ち、紹介作品にある0とは、「ゼロ」乃至は「レイ」と読み、これらの言葉には、厳密には意味合いが若干異なっている。その理由は、zeroと言う概念が、インドから発生し、英語として伝来した概念であり、あるものや数値が『存在しないこと』を意味するものであるのに対し、零とは、インドで発生した概念が中国より伝来し、「ほんのわずかしかない」と言う意味をも有する漢字であった為である。現代においても、インドでは数学が非常に発展していると言われるが、その位に数字が存在しない事を示す概念を発生させたのもインドであり、インドにおいてこのような概念が生じたのは、「存在しない」という概念が存在した事に起因する。
そして、紹介作品では、この違いから、「霊」を「レイ」と呼ぶ、という文言によって締めくくられている。
では、「霊」とは、「存在しない」のであろうか、それとも、「ほんの少ししかない」のであろうか。この点について、以下では、ルネ・デカルトの「存在証明」を取り上げ、霊が「ほんの少ししかない」と解釈できる余地がある事を述べる。
ルネ・デカルトは、自身の存在が思考する主体として存在しなければ、思考は存在しえない事から、自身が存在する事を確認した。デカルトは、自身以外のあらゆるものが存在するか否かを理解する前に、まず、思考するという行為によって、自己の存在を確認し、以後、演繹的に神の存在、物質の実在までを証明している。デカルトは実在する事物に関して演繹法によって証明を果たしたが、思考する主体である自己が確かに存在する事に基づいて自己を証明する際に、彼は前提として自己が何者かでなければならない事を示した。そして、それは被対象であるその他の事物に関しても言い得る。
即ち、『霊』が存在するためには、まず大前提として『霊』となる存在が必要となる。少なくとも、紹介作品の主人公には、実在する「兄」という前提が存在する。よって、少なくとも、『霊』という概念には、最低限先立つ前提が存在する事が必要であり、また、それを認識する自己が存在しなければならない。これらの事実から、霊とは、少なくとも『全く存在しない』状態では成立しえないと言えるのである。
紹介作品において兄の存在が認知されている事は、存在しないはずの『霊』を、『零』と読み解く事の助けになる。
一方で、デカルトは、人間がしばしば誤謬を侵す事を認めている。これは、霊が実際には全く存在しないのに、自身が空想において作り出したものではないか、と言う反論を助ける言葉と言える。実際、作品からは、兄が実際に存在するのか、主人公が創出した幻覚なのか、はっきりとした答えが得られない。しかし、仮に存在しない誤謬によって、霊が作られたとしても、やはりその幻想は何らかの観念によって前提を与えられなければ、存在のしようが無い。
即ち、誤謬によって現れた霊が(実際には存在しないとして)創出されることは、それ自体が、「兄」の概念や、「霊」の概念という前提が存在する事によってしか、果たされない。従って、やはり、霊は「zero」と異なり、「零」の言うように、「数えるべき事物が存在しない事」、つまり、「全く存在しない」事を意味しないと言えるのである。
最後に、本考察のまとめとして、私見を述べる。
不存在の概念を生み出した古代インドにおいて、因果律からの解脱によって一つの救済とされる宗教が生まれた事は、多くの人々の知るところであろう。この仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタは、どのような幸福な生であれ、老い、病、死と言う苦痛からは逃れられない事を悟った。そして、そのような苦から逃れられない生は、どの様な素晴らしいものであっても、やはり苦痛であると悟った。この輪廻から逃れるべく、彼が人々に説いた教えを経典と言い、これらの経典は、私達に、様々な知見を齎している。
彼の言葉とされる多くの言葉が、実際に彼の言葉であるか否かはもはや判断のしようがないが、仏教の主要な経典の中に、『魔訶般若波羅蜜多心経』と呼ばれる経が存在する。その中では、「無」とは異なる「空」という概念が説明されている。
「空」とは、実体が存在しない事を指す言葉であるが、それは、この世に全く存在しないという事を意味せず、概念付ける事によって、実体が存在され得ることをも示す。それは、零が全く存在しない事を意味する言葉ではなく、また、zeroを置く事によって、そこに存在していない「空」を可視化させ、存在させる事を可能にするという二つの概念を作り上げた。
翻って、紹介作品の「霊」について思考を巡らせると、そこには何らかの実体が先立つ必要があると述べたが、実際には形としては「存在しない」。我々は思考によってさまざまな物を作り上げてきたが、それらは厳密に意味、形、組成、要素を定義づける事によって一つの客体となり、「実体」となる。
私達の認識が世界の多くの実体を作り出したというならば、「霊」もまた、私達が作り出した実体であると言えるだろう。紹介作品は、形として存在しない実体を創出する私達人類の力を見出す事に役立つ。その意味で、紹介作品には希少な価値が『大いに、「ある」』と言えるのである。
本当に長らくお待たせいたしました。
今回の考察は、私の専門外の中でも特に言葉が難解な哲学に踏み込む必要がある程、巧妙な言葉遊びが仕組まれた短編作品です。その文字数に反して、一つの言葉から奥行きを感じられる、非常に興味深い作品でした。
最後に、本考察を御快諾してくださいました、紹介作品の著者であらせられる、牧田紗矢乃様に、改めて御礼申し上げます。本当に有難うございました。
なお、参考文献は以下の通りです。
公方俊良『空海たちの般若心経』(2004、日本実業出版)
金岡秀友校注『般若心経』(2001、講談社)
ルネ・デカルト著・山田弘明訳『省察』(2006、筑摩書房)
小林道夫『デカルト入門』(2006、筑摩書房)
量義治「合理論の哲学Ⅰ‐デカルト」『西洋近世哲学史』(2005、講談社)82頁‐107頁