『人間の向こう側』‐ニムロドは天を目指す
今回は、相沢昭人氏著『人間の向こう側』について、その価値を考察する。
紹介作品の詳細は以下の通りである(詳細はいずれも作品URLより引用)。
ジャンル: 空想科学〔SF〕
作品名:『人間の向こう側』
著者: 相沢昭人
作品URL:https://ncode.syosetu.com/n0378fg/(最終アクセス2019年6月6日7時42分現在)
作品分類:下流小説
あらすじ:
父親の教育方針
①学校に通わせない
②自分以外と一切関わらせない
③勉強に関係ないものは一切与えない
結果、息子の優作は極めて優秀なものの何かが欠落した人間となる。
彼は、「人間より優秀なものを生み出せば、人類の抱えている問題はすべて解決する」と実験に没頭するようになる。
普通の人なら目を瞑りたくなるようなことでも、心の成長が止まった優作にとっては何でもない。
ある時、実験がうまくいき、高知性を持った猿が誕生するが......
紹介作品の概要は以下の通りである。主人公・優作は、父の教育方針の下で、閉鎖的な環境下・限定的な交流関係の中で、独自の英才教育を受けていた。彼の父は優作の限界を定めないこと、優れた人間を作る事を目的としたうえで、彼の為の投資を惜しまず、優作もそれに答えるように、きわめて優秀な人間となった。
ある日、「人間を超越した存在を作る」研究の一環で、優れた猿が誕生する。優作はその猿にガウデゥムと名付け、教育と知能テストを施していた。
ある時、彼はガウデゥムが人間の言葉で会話が出来ない事を悟り、新たな研究対象を求めてガウデゥムを檻に戻してしまう。
父はこの時に初めて自分の教育に欠落したものがある事を察し、彼を中学校へと通わせようとする。
紹介作品は、ブックマーク数543件の下流小説である(2019年6月6日8時現在)。紹介作品は、所謂空想科学に分類される作品であり、『小説家になろう』の中では主流なジャンルの作品ではないと言える(各ジャンルの作品数について、(中間報告https://ncode.syosetu.com/n3727ew/8/)を参照)。紹介作品は時代背景としては現代かより近い未来と推察でき、優作など一部の人物を除く多くの人物について、現代の価値観により近い価値観を持っていると考えられる。よって、紹介作品の現実との特異点は社会との接触を意図的に避けて育てられた人物と、その周辺の人物らによるところが大きい。
本稿では、紹介作品を考察するにあたって重要な要素として、「1.倫理的対立」、「2.人間の定義」の二つを挙げる。
紹介作品を考察するにあたって、まずは現代日本における倫理観の基礎と、限定的な倫理観との違いについて、一定の考察が必要である。そこで、1.について考察する。
この考察において参考になると考えられるのは、本考察に前掲した「正義の概念」の項目(https://ncode.syosetu.com/n3727ew/5/)に挙げたものである。そこで、正義の概念に前掲した幾つかの定義を基に、現代日本と紹介作品の登場人物との間の倫理的対立について考察する。
まず、現代日本の標準的な倫理観は、どの立場に準拠していると考えられるかについて確認する。
現代日本における重要な秩序となっているものは「法」、とりわけ法律のうち、刑法と民法という主要な公法・私法、そしてそれらの根幹をなす最高法である憲法であろう。そこで、国家の根幹をなす日本国憲法について確認すると、序文において、「我が国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こる事のないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい……全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する事を確認する」とある(日本国憲法序文)。
この序文に示されるとおり、日本国全体としては、「国民主権(同法序文)」と「平和主義(同法9条)」と「基本的人権の尊重(同法11条)」を基礎とした国家の成立を目指している事が分かる。そのため、国民の「自由」を重んじる事、平和的な問題解決を慎重に法制化している。
例えば、刑法の基礎として、罪刑法定主義があり、刑罰は法律に定められたことしか認められていない。これは、国家の横暴な処罰を避ける目的を最優先した結果であると言える。
その結果として被害者の権利が問題視されることもあるが、私見では、被害者の権利は出来る限り私法によって補完されるべきであって、刑法とは罪に対する応報であるとしなければ、加害者への不当な権利侵害となるであろう。この点については、本稿の主旨から逸脱するため、言及するにとどめる。
実際、日本国憲法における国民の権利及び義務は、全体の約3分の1(憲法10条~40条)に及び、現代日本は一見すると自由主義にも思われる。
然し、自由主義の中でも、日本はとりわけ福祉の領域、社会法へ過度に干渉している点が特徴と言える。そのため、一定の国家の拘束を認める修正された自由主義乃至人間の自由を基礎として全体の利益が向上する功利主義のいずれかを基礎とすると考えてよいであろう。
一方で、優作及びその父である誠司の倫理観において、これらの考え方は一定の拘束となって立ちはだかることになる。
優秀な人材を作るために、誠司は自由を重んじる日本国の倫理観から大きく外れるような拘束を息子に課している。また、優作も、日本国の倫理観から大きく外れた重大な罪を犯し、また、スタッフを労働資源としてしか認識していない。彼らの中には人間の在り方に明確な指標が存在し、また、それを育むための妥協も許そうとしない。その意味で、彼らの考え方は共同体主義により近く、しかし、共同体主義と異なり、その思想が個人の領域で完結している。この倫理観の欠如(と思われる価値観の対立)は、作中で度々登場し、同時に、我々の日常生活にも一見すると見えづらい形で表れている。彼らが目指すものを敢えて言葉で表現するならば「万能の神」により近く、それらは現代日本に住む「人」の価値観からは大きく外れて見えるのである。
1.を踏まえたうえで、続けて「2.人間の定義」について述べる。
まず、人間とは、
『1 ひと。人類。』、『2 ある特定の個人。ひと。(後略)』
(松村 明監修、池上 秋彦・金田 弘ほか編集「にんげん【人間】の意味」『goo辞書』(提供元『デジタル大辞泉』(小学館))(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/281649/meaning/m0u/、最終アクセス2019年6月6日9:00現在))
を指す。即ち、人間とは、ひと、人類そのものであり、あるいは個人、特定の人をも指す広範な定義であるといえる。
しかし、「人」と言う言葉とは別に、「人間」という言葉がある点に注目すると、人間と言う言葉をより慎重に考察する必要が生じる。そこで、人間と言う言語を解体すると、「人」と「間」で構成されている。「人」の「間」には必然的に二つ以上のものが存在していなければならず、人間とは複数を前提としている事が理解できる。また、人間という言葉について、以下のようなものも存在する。
『人の住んでいる世界。世間。にんげん。』
(松村 明監修、池上 秋彦・金田 弘ほか編集「じん‐かん【人間】の意味」『goo辞書』(提供元『デジタル大辞泉』(小学館))(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/281649/meaning/m0u/、最終アクセス2019年6月6日9:14現在))
即ち、人間とは、生物学的な意味におけるヒトという定義に加え、社会性を持つ「ニンゲン」という意味を持つ言葉であると解釈する事も出来る。よって、紹介作品のタイトルにある、人間と言う言葉は、結果的にヒトと言う種としての人間と、社会性を持つ「ニンゲン」という二つの意味を内包していると解釈できる。
そして、実際に優作は、中学校に通う事で不完全ながら人間の社会性を一定程度学び、その社会性を利用して外敵を排除するような行動に出るようになる。そして、その姿を見た猿であるガウデゥムは、優作の変化に戸惑い、またその変化を外的要因から齎された優作への悪影響と考えるようになった。
では、この人間との交流を悪影響と考えたガウデゥムが、果たして人間でないと言えるのであろうか。確かにガウデゥムは人ではない事は明白である。一方で、人間とのかかわりを全くもたないわけではない。仮にガウデゥムを人間と定義する場合、優作は当然人間であると言え、一方で、ガウデゥムを人間でないとすると、優作もまた、限定された領域にしか存在しなかった、即ち、世間を知らなかったという点で人間ではないと言える。この問題については、より詳細な言語の成り立ちを調査したうえで、別途検討が必要であろう。
最後に、本考察のまとめとして、私見を述べる。
空想科学と言う分野に思いを馳せる時、多くの人々は未来を志向する。しかし、その本質にあるものはその時代の倫理観であり、空想科学の世界を解体する時に問われる問題の多くは、「人間」に起因する。
紹介作品は現代乃至近未来の事であろうと推察できるものの、その問題は古代から受け継がれてきた人間性に対する問いかけであると考える。
ガウデゥムは人間であろうか、と言う問題は、AIにも、アンドロイドにも問われてきた問題である。そこで、翻って、古代の人間が目指した「人間の向こう側」の世界に思いを馳せたいと考える。
人間が最初に志向した高次の存在と言えば、神に他ならない。人間は神に助けられ、芸術、文学、科学、数学に至るまで、様々な学問を発展させていった。とりわけ、13世紀には、専門化しつつ発展した建築技術のために、大聖堂の建設が頻繁に行われるようになる。大聖堂は西洋世界各地に建設され、神を目指す鐘楼は都市の象徴として市街地の遍く場所を見下ろしていた。それはさながら神が人々を慈しみ見下ろすようであった。
さて、この教会の巨大化においてよくモチーフにされたものが、「バベルの塔建設」である。バベルの塔は、旧約聖書『創世記』の一節にあり、古代の一つの言語を持つ人々が、巨大な塔を作ろうとした逸話である。当時の指導者ニムロドの名は、そのまま「反逆する」を意味するヘブライ語であり、バベルの塔の物語は神への挑戦と言う意味さえも持つ。しかし、彼の指示した建設プロジェクトは、神が言語を「分かつ」事によって頓挫した。
バベルの塔の建設と大聖堂時代が重なるのは、当時の技術革新が見受けられる点も影響しているであろう。煉瓦の開発と機器の発展は当時の人々にとっては魔術のように思われたに違いない。
紹介作品では、父である誠司が自分よりも優れた人材を、子の優作が人間より高次の存在を作ろうとし、被造物であるガウデゥムが自らより優れた彼らに観察され、そして観察しあう奇妙な構造が生じている。
我々が神を仰ぎ見るのと同様に、神もまた、我々を見下ろすのであれば、神々は人間の技術革新に驚き、人間の本質の普遍性に辟易するであろう。ニムロドの目指した人間の向こう側は、後に信仰の領域で華開き、そして紹介作品では冒涜的ともいえる、創世の領域へと足を踏み入れようとしている。
新たなる技術が創世の人間を離散させたように、人間は再び、人による新たな技術によって倫理観を分かち、離散する。紹介作品は、それ自体が現代の世界観であるにも拘らず、人間の普遍的な在り方に対する問いかけとして、大きな価値を持つと言えるのである。
この作品は、ある面においてはやや読む事が「苦しい」と言えるかもしれません。その知識の深さと多角的な視点の交叉が、小説家になろうでは珍しい複雑な「感情の浮沈」を作り出します。優れた技術革新に、人間が追い付く時までは、常にこの問題と向き合う人々、「感情の浮沈」と向き合う立場にある人々にとっては、読みやすい文体にも拘らず頁をめくる手が遅くなる事と思います。しかし、読み進めるにあたって、何かを得るには十分な価値があります。独自性はそれほど大きくありませんが、読みやすさと論理の精緻さの視点からは、非常に意味の大きい作品です。
最後に、考察の執筆に御快諾いただきました、著者であらせられる相沢昭人様に、改めて感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
なお、参考文献は以下の通りです。
参考文献
芦部信喜『憲法 第五版』(2011、岩波書店)
マイケル・サンデル著・鬼澤 忍訳『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』(2011、早川書房)
アラン・エルランド=ブランダンブルグ著・池上俊一監修・山田美明訳『「知の再発見」双書136大聖堂ものがたり-聖なる建築物を作った人々』(2008、創元社)