『星をきいたら、君に奏者の花束を』‐シャーロキアンはコナン・ドイルの仮面を礼賛する
先に述べておきますが、私は恋愛小説というジャンルがあまり好きではありません。しかし、私のジャンルの好みにかかわらず、作品には必ずと言って良いほど大きな価値があるのです。
今回は、七ツ樹七香氏著『星をきいたら、君に奏者の花束を』について、その価値を考察する。
紹介作品の詳細は以下の通りである(詳細はいずれも作品URLより引用)。
ジャンル: 現実世界〔恋愛〕
作品名:『星をきいたら、君に奏者の花束を』
著者: 七ツ樹七香
作品URL: https://ncode.syosetu.com/n9602ep/(最終アクセス2019年3月29日18時59分現在)
作品分類:未開拓作品
あらすじ:ファンか、友達か――あるいはこれは恋なのか。
めぐるの同級生で、気鋭のピアニストでもある空野セイジは、ほとんど通学しない幽霊学生だった。
ちょっとした有名人ぐらいの認識しかなかっためぐるだったが、偶然彼と出会いその飼い猫が運ぶ手紙を介して少しずつ交流を深めていく。
会えばうれしい、もう少し話していたくなる。
けれど――、彼は好きになっても遠い人だ。
――恋とピアノと青い春、白ネコの運ぶ結び文。
少年少女の青春コンチェルト
「星をきいたら、君に奏者の花束を」
※本連載は「セルバンテス」にも掲載しています。
紹介作品の概要は、以下の通りである。
「ごく普通」の女子高校生七夕めぐるは、ある日、保護した迷子の白猫を送り届けるために、同級生でありピアニストである空野セイジの家を訪れていた。彼女はピアニスト空野セイジが弾くピアノにより、星と、嵐のイメージを想起する。そのイメージに興味を抱いた空野セイジは、彼女と白猫を通して交流を続ける。そして、七夕めぐるは彼の本名が空野晴時であることを知り、自分が彼に惹かれつつあること、そして自分と彼が釣り合わないことに煩悶する。
その最中、彼女は、同級生で友人である一ノ瀬菜都から、「空野セイジ」に告白したい旨の相談を受けた。
紹介作品は、ブックマーク数44件の未開拓作品である(2019年3月29日21時30分現在)。概要に述べたとおり、紹介作品は典型的な恋愛小説であり、作品の概要からは新規性はあまり見られないものの、読了と共に、上述した概要の「」内の用語が非常に有効に活用されていることがうかがえる点が特徴である。
筆者は、紹介作品を論ずる上で重要な点として、「1.他者へ向けた仮面」と「2.自己を定める仮面」を挙げる。
まず、1.について述べる。本節における「仮面」とは、一般的な意味での仮面を指すのではなく、抽象的な概念としての仮面、即ち、「自己」の本性を隠すための思想的な遮蔽、区別の事を指す。以上を理解したうえで、本節では、1.の仮面と2.の仮面という、二つの仮面が発揮する効果について検討していく。
1.における仮面は、紹介作品で言えば空野晴時が持つ「空野セイジ」、即ち、天才ピアニストの仮面である。彼は、七夕めぐる(より正確に言うならば、精神的乃至距離的に彼のより身近に存在する人々)へ向ける表情や言動と、その他の人々へ向ける表情や言動とが大きく異なる。これは、他者へ向ける「仮面」の典型例であって、自己の考えに近い、より自分の素顔にあった仮面を被っている状態が、七夕めぐるへ向ける表情の柔らかさや豊かさを表しており、同時に、その他の人間の為に作られた仮面は、より空野晴時の素顔に合わない「空野セイジ」の仮面として作られている。
このような仮面は、芸術作品に触れる人物に時折現れるものであり、その最も顕著な例がサー・アーサー・コナン・ドイルであろう。
アーサー・コナン・ドイル卿はシャーロック・ホームズシリーズの作者として有名であり、恐らくその名を知らないものは少ないだろう。探偵シャーロック・ホームズの活躍について触れる事は本稿の主旨に沿わないため言及しないが、このシリーズがドイル卿の代表作であり、主要な収入源の一つとなっていながら、彼は二度もこの探偵に辟易し、殺害を企てている。そして、二度目にはついに明確に彼の結末を書き上げる事になる。もっとも、その後にこの探偵は再度活躍の場を与えられることになるのであるが、ドイル卿はこのキャラクターを時に疎ましく思っていた事は確かである。
彼が書いた「軽い文体」の小説(当時は探偵小説の黎明期であって、現代の価値観と異なり、このように認識されていた)の主人公を信奉する者をシャーロキアンと呼ぶが、彼らはこの探偵が死亡したと思われた事件の直後にドイル卿に向けて痛烈な批難を挙げており、この探偵の葬儀さえ行われたという。
この事実を踏まえ、改めて空野セイジという仮面について考えると、彼はピアノを嫌っているわけではないが、その在り方に世間や家族と一定の距離を感じている。そして、この距離に応じて、彼はそれにより近い仮面である「空野セイジ」によって取り繕っているが、七夕めぐるという人物が彼の素顔により近い仮面を見出した時に、彼は「空野セイジ」という仮面を脱ぎ、「空野晴時」としての表情を見せる。
ドイル卿の周囲に群がる顔の見えないシャーロキアンたちは、彼の仮面、つまり創作の一側面である「シャーロック・ホームズ」をよく褒め称えたが、心霊主義者であり、医師であり、歴史作家として名を上げる事を望んでいたドイル卿の素顔により近い仮面には触れていないのである。この二つの対比が、空野セイジにどのような変化を齎すのかについては、紹介作品の著者である七ツ樹七香氏がどのような仮面を作るのかによって今後明らかになるであろう。
次に、2.について述べる。
1.に述べた仮面が他者へ向けた仮面であるとすれば、2.の仮面は自己の内心に付ける仮面、即ち「自分はこうあるべし」と断じて自己の本性を隠すための仮面である。
紹介作品においてその仮面を最も顕著に持つ存在が、主人公である七夕めぐるであろう。彼女は自分が「普通」であることを自覚し、自分に釣り合わない相手へ向ける思いを可能な限り拒絶し、相手と釣り合った他者へ向ける思いを可能な限り後援したいと考えていた。しかし、自分と自分を定める仮面の間にある乖離、紹介作品で言えば自分と釣り合わない相手へ対する思いの拒絶は彼女にとって耐え難いものであって、最終的には彼女はその仮面を外す事になる。
自己を定める仮面の特徴は他者へ向けた仮面よりも一層秘匿性が強い点にあり、他者へ向けた仮面にはある種の「付き合いとしての距離感」が存在する事を他者が自覚し得るものの、自己を定める仮面は内面に秘匿され、それが家族であっても必ずしも解放されない。その結果、自己を定める仮面と自己との区別はより曖昧になり、他者からの耐え難い評価となって現れる事がある。紹介作品では、この評価がかなり顕著に現れており、二つの仮面を比較しながら、どちらがより素顔に近いのかを考えるうえで、非常に参考となる。
最後に、紹介作品の考察について私見を述べる事で、本考察の結びとする。
社会性生物である人間は、常に何らかの自己への抑制をかける事によって、より良好な社会的地位を得ようとする。重要な点として挙げた二つの仮面もまた、この抑制の一類型であって、その点に着目すれば、二つの仮面は同質のものとなる。
さらに、重要な点として挙げた二つの仮面を比較すると、それらが非常に曖昧な区分の中で分けられている事が分かる。何故なら、外観上はいずれの仮面も当該人物を表象する一側面なのであって、素顔も含めて、それらを他者乃至自己が完全に区別して理解する事は非常に困難であると言えるためである。
言い換えれば、自分の「素顔を認識している」という認識自体が曖昧なものであり、素顔に貼りついた二つの仮面はいずれも一つの素顔であるとも解釈できる。この解釈によって、自己と他者の区別が自分を構成する重要な要素であるという事が理解でき、自己の認識は他者によって構成される要素が少なくともある程度存在することが分かる。
紹介作品には、恋愛小説としての新規性は必ずしも多くはないが、これら二つの仮面について考察する余地を与える力が存在する。
ドイル卿によって作り出されたシャーロック・ホームズという探偵は、彼を高い地位に押し上げたと同時に、彼に対してそれを作り続けて欲しいという他者からの要求となり、彼を抑制し続けた。その結果が彼の一つの決断を支える事になったというのは、余りにも皮肉な話である。
いま一つの例を挙げる。藤原香子という人物をご存じだろうか。本名が不明なこの人物について、簡単な来歴と共に、彼女の仮面に触れてみたいと思う。彼女は藤原為時という平安時代の学者のもとで生まれ、高い教養を得たが、父には男でないことを残念に思われたという。彼女が宮仕えを始める際には、彼女は教養ある女性として周囲から見られており、彼女自身はその視線に強い苦痛を感じて、自分が抜けた人間であるように振る舞う事によって、女房間での社会的な地位を保ち続けた。
この人物はその生活を日記として残しており、また、誰もが知る一つの傑作を生みだした。
彼女の作品では、女の生き辛さを含め、男の見栄、出生の秘密に疑問を抱きながらもその位置に甘んじる若者など、いくつもの仮面と素顔が描かれていく。
彼女を示す最も明確な固有名詞に触れなければならないだろう。彼女の女房名を「紫式部」と言う。
恋愛小説という作品群は、素顔と仮面の間にある大きな距離を表現する事によって、作品に深みが現れる点で、他の作品群よりもより複雑かつ繊細な他者への理解が求められる。紹介作品も同様に、いくつもの素顔と仮面に触れ続ける事によって、その価値は今後も多様になっていくであろう。それは、その素顔と仮面によく似た「他人」によって、常に求められるのである。
紹介作品は、少し冷たい言い方もしましたが、新規性はそれほど大きくありません。これは裏返せば王道と言う言葉に行きつきます。それをどのように捉えるのか、それは読み手次第です。
私はそのいずれにもつかずに、出来る限り理性の領域で作品を読み解きました。ジャンル如何を問わず、この作品には非常に重要な価値があるとは、断言しておきます。これは、読み手としてではなく、書き手としての言葉です。
最後に、今回の考察について快諾くださいました、紹介作品の作者であらせられる 七ツ樹七香様に、改めて御礼申し上げます。本当に、有難うございます。
参考文献は以下の通りです。
ダニエル・スタシャワー著 日暮雅通訳『コナン・ドイル伝』(2010、東洋書林)
サミュエル・ローゼンバーグ著 柳沢礼子・小林司訳『シャーロック・ホームズの死と復活』(1982、河出書房新社)