最終章 大岩海岸
最終章 大岩海岸
8月15日、晴と夏子は山上家の亜希子のお墓の前にいる。
北国である青森県深浦町は、お盆が終わると同時に急に涼しくなり、秋が早々とやって来る。
日もいつの間にか短くなり、夕方6時を過ぎる頃には辺りも暗くなり始め、風もヒンヤリと冷たく感じられる。どっしりとした入道雲も気がついてみると消え、うろこ雲に変わっていく。
ただ夕陽だけは、秋が近づくと空気が澄んでくるからであろうか、夏より一段と赤く燃え、最後とばかりに空をオレンジ色に染めていく。また秋の夕陽はどことなく寂しさを漂わせている。
けど今年は本当に残暑も厳しいようだ。
この分だとあと1ヵ月ぐらいは夏らしい日が続くのかもしれない。
今日も空は青く抜けるように広がり、大きな入道雲がどっしりと構えている。
夏が終わるのが名残惜しいと思うと、今日の暑さもまったく気にならない。
今年の夏は、二人にとって忘れられない夏であり、そして始まりの夏でもあった。
お墓の前には、家族がお供えしたのであろう仏花やお菓子・ジュースなどが供えられている。
晴と夏子も持ってきた白・赤・黄・紫・ピンクの仏花をお供えし、お墓に水をやり線香に火をつけた。線香の煙は、優しい風に乗りゆらゆらとまっすぐ青い空を目指し昇っていく。
二人とも何も言わず、亜希子の前にしゃがみ、手を合わせ静かに目を閉じる。
『亜希子、きみは幸せだったのか?』
晴は、天国があるかのように、その先にゆっくりと登っていく線香の煙を、目で追いながら心の中で叫んだ。目にはもう涙が浮かばない。『亜希子、ありがとう』とも心の中で小さく呟いた。
見上げている広い空には、大きな入道雲だけがどっしりと佇んでいる。一瞬強い風が吹いてきてその入道雲の姿を変えていった。それは、亜希子と子供が微笑んでいるように見えた。
子供の顔は、はっきり見えなかったけど、きっと空君に違いないだろう。亜希子は空君と一緒なんだなと思うと、自然と晴の顔もほころんでいった。
また強い風が吹き、亜希子と子供の顔はすうっと消え、そこには先ほどの大きな入道雲がどっしり構えていた。隣では夏子がまだ目を閉じ、手を合わせている。
「帰ろうか」晴が言った。夏子の閉じた目からは涙が零れていた。
「うん」夏子は涙を拭い小さく頷いた。
「あ、そうだ。今日お祭り最終日で花火大会だよね。行こう、行こう」
晴は笑顔を作って言った。
「うん。行こうか」夏子は涙目で微笑んで答えた。
あとここに来ることはないかもしれない。多分、これが最後のお墓参りかもしれない。
石畳の上をゆっくり歩きながら晴はそう思った。
夏子と結婚することも亜希子に報告した。だからここに来るってことは夏子に悪いと思うとも報告した。亜希子はあと来なくても全然大丈夫。私はここにはいないよ、晴君の心の隅にはいると思うけどね。って微笑みながら言ってくれた気もした。
だからお墓参りはこれが最後だと思う。最後にしようと思った。
『亜希子は、俺の心の隅にしっかりいるよ、いつまでも』振り返り、晴は心の中で呟いた。
ヒュー、ドーン、ドーンと大きな音を立て、小さな町の花火大会が始まった。これで夏も終わってしまう。夏の最後を惜しむように、どこにこれだけの人がいたんだろうと思うほど、人が集まっていた。ヒューと花火が空高く上がり、ドーンと広がる音と共に、大きな歓声が真っ暗な空に鳴り響いていた。でもお盆の帰省で帰って来てた人たちは、明日にはほとんど自分の日常に帰って行ってしまうのだろう。また静かでのんびりとした毎日に戻っていく。
それがまた、田舎のいいところでもある。
お酒があまり飲めずそして弱い晴は、お盆だからとビールを一杯だけ飲んで顔を真っ赤にしている。目の前に広がる、大きなきれいでそしてどこか物寂しい花火を見上げている。
隣には、浴衣姿の夏子がかき氷を手にし、今にも子供のようにキャッキャッしそうに笑い、見上げている。晴は、花火の灯りに照らされる夏子の横顔をちらっと盗み見し、
『夏子、お前って・・・いいやつだな』と心の中で呟き、今にも笑い出しそうだった。
そして初盆か?
お盆には本当に亡くなった人たちが、帰って来るのだろうか?
ほんとうにそうだったらいいな、いやそれは本当なのかもしれないなと思った。
「よ、お二人さん」
「健三~・・・びっくりしたぁ~」
健三は、子供を肩車し後ろから囁いた。
「いやぁ~後ろから見てたら、あまりに仲良さそうで近寄りがたくて」とにやついて言った。
「城崎さん、おめでとう」
健三の隣にいる奥さんが、ほんとによかったっていうな笑顔で言いお辞儀をした。
「いやぁ~ありがとうございます」頭を掻きながら晴もぺこりとお辞儀をした。
「こちらが奥さんになる人、夏子さん」健三は、これまた自慢げに言った。
「はじめまして夏子です。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。でも初めてじゃないし」フフフと笑う。
「あ、そっか」フフフ。
「郵便局には何度か行くこともあるしね」
「ですよね」二人とも歳も近いし、これから仲良くなりそうだなと晴はうれしかった。
「でも何で、あんたが紹介すんの」
奥さんにそう言われて、もじもじしている健三がおかしくて、晴も夏子も笑ってしまった。
何かにいっても、どうやら健三夫婦はうまくいってるようだ。よかったと晴は一人頷いていた。
「あ、晴。おまえビール飲んでんの?わぁ~いいなぁ~」
うらやましそうに隣の奥さんにちらっと目をやる健三。
「何?飲みたいの?」
「いや、別に・・・」
「じゃ、一杯だけだよ」
「えっ!・・・ほんと?・・・ありがと」
「じゃ、私買ってきてあげる。一杯だけね」
そう言い、夏子は走って行った。その姿を見ていた健三の奥さんは、目を赤くして言った。
「城崎さん、ほんとによかったね」と。
「お待たせぇ~これ私の奢り」
そう言い、健三にビールをのべた。
「うわぁ~夏子さん、ありがとう」そう言う健三の顔は、またまた笑えた。
「夏子さん、ごめんね」
「いやいや、とんでもないです。仕事でもお世話になってますし」
「私たち、いい友達になれるかもね」
「はい」
これからは、健三とは家族付き合いか。それもまた悪くないな。
おいしそうにビールを飲んでいる健三の肩の上で、子供が『わぁ~』って叫びながら歓声を上げている。手に持っているアイスクリームが落ちそうでもある。最後の花火が打ち上げられ、大きな拍手が起こった。これで今年の夏もそろそろ終わりを迎える。短い夏だったけどいろんなことがあった夏。最高の夏だった。
翌日、仕事を終えた晴はいつも通り、まっすぐ家に帰ってきた。
うっすらと雲が広がっているが、その隙間から時々太陽が顔を覗かせ、まだまだと言うように今日も暑く、日もまだ長い。
郵便受けを開け、中を確かめる。普段あまり郵便物などこないけど、確かめるのは日常のことだ。
それに自分の家は配達の区域ではない。
ん?白い封筒が一つ入っている。何だろ?
『城崎 晴様』と書かれた宛名に驚きに似た衝撃を覚え、体中に電気が走ったようだ。
この封筒と字体、どこかで見たことあるような。どこだろう?複雑な思いが駆け巡り、心臓が震えた。きれいにそして丁寧に書かれた『城崎 晴様』
そうだ朝風亜子に配達していた封筒と同じだ。そしてこれは亜希子の字体だ。朝風亜子宅に配達していた手紙の字体も、はっきりと思い出した。
そうだ、亜希子の字体と同じだ。書道何段とか言っていただけあって、字はきれいでうまかった。亜希子の字に間違いない。届いた手紙をじっと見つめていると、持っている手が震えだした。気がついてみると切手も貼っていない。もちろん住所も書かれていない。
震えてる手を抑えながら手紙をひっくり返した。裏には差出人の名前も書かれてなく、真っ白だった。鼓動がさらに激しくなり、汗がどこからともなく噴き出してくる。
その場で思いっきりちぎって封筒をあけた。
白い便箋が一枚だけ入っている。おそるおそるゆっくりと便箋を取り出し、大きく深呼吸し開いた。
『わたし、幸せだったよ』
3つに折られた便箋の真ん中に一行だけ書かれていた。
亜希子か!目が充血し叫ぼうにも声が出ない。ダムが崩壊するように涙が溢れ出し嗚咽した。
晴は、手紙を握りしめ走った。
涙も鼻水も横に流れていく。気がついたらがむしゃらに走っていた。
どこへ向かうのかわかっている。亜希子に会うためだ。亜希子に会うため、今日がほんとの最後かもしれない。亜希子に会えるのは、お墓でもない、大岩海岸だ。そこに亜希子はいる。
夕陽は、すでに沈みかけているが、雲に隠れてぼんやりとしか見えない。辺りもうっすらと暗く淀んでいる。でも晴は海岸沿いをひたすら走る。大岩海岸が見えてくる。とにかく大岩海岸まで行かなきゃと無我夢中で走る。額から汗が流れてきて目に入って来る。汗だか涙だかわからないが手で拭いながら走って行く。回りの時間が止まったように、すれ違う車も人も動きもしない。空を舞うカモメも空中で止まったままだ。その中を晴だけが走っている。
海岸にたどり着き、さらに大岩の頂上まで駆け上がる。洞穴を潜り抜け、石段を飛び越え頂上に向かった。
天国に続く階段があるとも言われている、大岩の頂上に。
またそこは、亜希子にプロポーズした場所でもあり、夏子にもプロポーズした場所でもある。
息を切らし大岩の頂上についた晴は、両膝に手を当て大きく何度もむせびながら息を吐いた。
まだハァハァしながらも頭を上げると、沈みかけていた夕陽を覆っていた雲が、すうっと消えていった。オレンジ色に染まった夕陽が顔を出し、ゴールドラインがゆっくりそしてキラキラと晴の元へ流れてきた。オレンジの光を浴びてる晴は、ゆっくり立ち上がり地平線に吸い込まれていく夕陽に目をやる。
目には、透明で大きい粒が一粒二粒今にも零れ落ちそうに留まっている。
そして小刻みに震えている唇を何とか開き、晴は呟いた。
「亜希子、ほんとに幸せだったのか?でも・・・俺・・・」
涙が溢れ出てきて言葉が続かず、泣けるだけ泣いた。声を出し、気のすむまで泣き続けた。
「亜希子、きみは何て人だ・・・。すべて亜希子、きみのおかげだ・・・亜希子」
その涙は、枯れることなく流れてくるが、いつの間にか温かい雫に変わり頬をつたっていた。
「亜希子~!」思いっきり叫ぶ晴の顔は、どこか清々しく爽やかに微笑んでいた。
夕陽はじゅわうっと音を立て完全に沈んでしまったが、辺りの空はより一層オレンジ色に染まっていった。一通の手紙を握りしめている晴は、もう一度開いた。
『わたし、幸せだったよ』
「俺、亜希子の分までとかは言わないけど、がんばって生きてみるよ。夏子と二人幸せになるようがんばるよ。あと・・・誰かを好きになることなんてないだろうなとも思ってたし、ましてそんな資格なんてないとも思ってた。恋という文字は俺の中から消さなきゃと思ってた。
そして一人で生きていくのも悪くないとも。
しかしそれは、もろく簡単に崩れてしまったんだよね。けど、夏子と付き合っている間中も、いろんな葛藤が生まれたのも事実だ。どうしたらいいのか、わからなくなってしまったんだよね。そんな時、何やってんのよと言ってくれたのは亜希子きみだ。
俺たちを見守ってくれとは言わない。俺たちが亜希子に恩返しする番だ。
亜希子が見られなかったものを、これから俺たちは見せてやる番だ。
亜希子、きみに出会えてよかったよ。ありがとう」
しわくちゃになってしまった封筒と便箋を腿の上で丁寧に伸ばし、皺をとった。
そして一枚の便箋を白い封筒に入れ、胸のポケットに心の奥深く沈めるようにそっと入れた。
オレンジ色だった空も青黒くなり、そして次第に暗くなっていった。空には星がいつものように変わりなく一つ二つと輝き始めている。
空を気持ちよさそうに、ヒュルリヒュルリと飛んでいたカモメも、いつの間にか寝床へ帰って行ったのだろう。辺りにはカモメが一羽も飛んでいない。
涼しげな風を頬に感じながら、大岩の頂上から降りていく晴は、どことなく軽くなったのを感じていた。今までずうっと背負っていた重い何かが、消えてなくなったように。
すっかり闇に包まれた大岩海岸。この静寂の中で、岩にぶつかる波の音だけがいつまでも力強く響き渡っていた。
そして亜希子が亡くなって1年が過ぎ、鬱陶しい梅雨も明け、短い夏がやって来た。
その年の夏に、晴と夏子は結婚式を挙げた。
去年プロポーズした後、秋の終わりに籍だけ入れていた。結婚式はいいよという夏子だったが、
友達が、私たちがやってあげるからしようよと何度も言うので、ついに折れたという感じだった。日にちは、みんなが帰省もかねて集まりそうな夏になったのだ。
そういうことであればと、親友の健三は張り切って結婚式を仕切り、何から何まで準備してくれた。自分の結婚式でもないのに、自分の様に大泣きしていた。
挨拶では何を言われるか少々気にしていたが、悪口一つ言えず、いやに緊張していた。
『えぇ~この度は、この夏の晴れた日に・・・』とダジャレを言おうとしてスベッてしまい、それが逆に大爆笑を食らっていた。
終わり頃には酔っぱらい過ぎて、ろれつも回らなくなり奥さんにさんざん叱られていた。
そんな健三はやはり親友だ。これからもいろいろあると思うが何があってもずうっと親友だ。
新婚旅行はいつか海外に行こうねということから、とりあえずは沖縄にした。
これも夏子の希望だった。ほんとは気を使っているのだろうと晴は思ったが、夏子はまったくそんな素振りは見せなかった。
その時、夏子のお腹の中には子供がいた。
そして今、晴は76歳になり夏子は73歳になった。
今まで夏子と二人、特に重い病気をすることもなく生きてこれたのは、亜希子が使いきれなかった時間を二人に分けてくれているような気もした。
夏子と生きた人生いろいろあったけど、夏子は、ほんと出来過ぎた人だ。
夏子のおかげでまずまずの人生だったと思っている。
まずまずと言えば叱られるかぁ~。最高の人生だったなと思っている。
まだもうちょっと残っていると思うけど。
夏子には、言葉では恥ずかしくて中々言えないがとても感謝している。
いつか近いうち必ず、『ありがとう』と言葉で伝えなきゃと思っている。
そして『愛してる』とも。
「理奈~」遠くから手を振り、大きな声で呼んでいるのが見える。
「ママ~」理奈は、はれじぃとなつばぁの真ん中で繋いでる手を放そうともせず、大きな声で答えた。見上げるように代わる代わる見つめる理奈の笑顔は、オレンジ色に照らされキラキラしていた。
夕美はゆっくりと大岩海岸まで降りてくる。
はれじぃとなつばぁと理奈を、ポニーテールを夏の爽やかな風に揺られながら、夏子に似た笑顔で待っている。
「ママ~お腹すいた」とニコッと笑う理奈。
「何回言うのかなぁ~」と晴も大きな声で笑い、夏子も楽しそうにフフフと笑っている。
「じゃ、今日はなつばぁにおいしいもの作ってもらおうね」
夕美はしゃがみ込んで理奈を覗き込む。
「うん」と言い理奈は、なつばぁにニヤニヤしながら目をやる。
「それじゃ・・・ハンバーグ」と言うと
「やったー」って理奈は、二人にぶら下がって足をバタバタさせて、満面の笑顔で言った。
夕陽を背に晴と夏子と娘の夕美と孫の理奈の四人は、歌を歌いながら大岩海岸に背を向け帰って行った。
『夕焼け小焼けで日が暮れて・・・』と。
晴は、ズボンの後ろのポケットにそっと右手を当て、一瞬だけ振り返りひとり頷いた。
オレンジ色に染まった大岩海岸を後にした四人の姿は、きれいなシルエットとなり伸びていった。絶えることなく続く四人の笑い声が、いつまでも大岩海岸に優しく響き渡っていた。