第5章 告白
第五章 告白
今年はとんでもない猛暑だ。
ヘルメットの中から、これでもかと汗がいくらでも滴り落ちてくる。
ちょっと勘弁してよと太陽を見上げるのも、これまた何かと億劫だ。
あれから何日ぐらいたったのだろうか?
朝風亜子の家の前でバイクを止め、手紙を確かめる。
裏にはやはり差出人の名前はない。誰からだろう?と気にしながらも、手紙が来たことに晴はほっとする。いや手紙が来たことではなく、朝風亜子に会えることにほっとしていた。
ちょっと不思議な朝風亜子に。
映画のお礼も言わなきゃいけないけど、また何か言われるのだろうかと、期待に似た思いも抱いていた。
門から頭だけ出し、そっと中の様子を伺う。
あれ?留守かな?三輪車はあるけど乗っている空君も見えない。
辺りを見回しながらゆっくり歩いていき、玄関のところにある赤い郵便受けに、ぽとんと手紙を落とし入れた。
すると家の奥から空君らしい笑い声が聞こえてきた。バタバタという足音と一緒に。
「こら、待ちなさい」亜子が叫んでいる。怒っているのではなく、笑いながら叫んでいる。
小さなバタバタを追うように、大きなバタバタが後ろからついてくる。
家の中から晴を見た空君は、汗びっしょりのまま玄関を開け、にっこりと笑い、おぉ!と手をあげ挨拶をしてくれた。ちょっと遅れて亜子が、息をちょっぴり切らしながら
「どうもすいません」とお辞儀をする。
いつもながらの微笑ましい光景に晴は「手紙入れときました」と郵便受けを指さし微笑んだ。
「ちょっと待って」と亜子は言い、引っ込んで行った。
まだ息を切らしながらも麦茶とコップ3個持ってきた。今日は三人で麦茶だ。
空君はぷわっとおいしそうに飲む。亜子もまた額に張り付いた髪を撫でゴクッと飲む。
「いつもほんとにすいません」と晴は、遠慮もせず一気に飲み干してしまった。
「あの~映画行ってきました」何度もちょこちょこ頭を下げ、晴は報告でもするように言った。いや、報告するかのようではなく報告だ。報告そのものだ。
「楽しかったらしいねぇ~。夏子から聞いたよ」頭を上げた晴と、目と目が合った。
「えっ、そうなの?」別に隠すことではないが、あと夏子が何て言っていたか気になった。
「あの~夏子さん、何か言ってました?」肩をすくめ、ちっちゃい声で言った。
「気になる?」フフフと笑い、どうぞとまた麦茶を注ぐ。
あぁ~何て変なことを聞いちゃったんだろう。これじゃめちゃくちゃ気になりますと同じことじゃないか。晴の顔は暑さのせいではなくて、恥ずかしくて真っ赤に染まっていった。
「城崎さん」一呼吸おいて、そして亜子はさらに言った。
「プロポーズの前に、とりあえず告白ね。まずは城崎さんの気持ちをきちんと伝えないとね」
「えぇっ」
「やっぱり声に出して言わないと、伝わらないってこともあるし、声に出して言ってほしいこともこの世にはあるんだよね」
「まぁ、わからないでもないけど・・・」
「好きなんでしょ」
「えっ、まあぁ~」
「まぁ~て何?」
「はい。好きです」はっきり言ってしまった。
「だったらあと何か問題でもある?」
「いやぁ~あの・・・まだ早いっていうか。その~」
「亜希子さんだって心配していると思うよ」
「えぇ!・・・」
「城崎さんが、いつまでもグズグズしているから」
「えぇ!・・・」
「早いも遅いもないと思うよ。亜希子さんだって一日も早く幸せになってほしいと願っていると思うよ。夏子と幸せになってくれたらと絶対思ってるよ」
そう言う亜子は、今までとは違う、何かを思い詰めているような顔をしていた。
「あの~次の配達あるから、もう行くね」おろるおそる後ずさりしながら言った。
「絶対うまくいくよ。夏子も城崎さんのこと好きだから、ねぇ」
「はぁ~」ぺこぺこ頭を下げている。
「振られる城崎さんも見てみたいけど、それは残念ながらないかぁ」
微笑む亜子は、さっきとは違う顔をしていた。
それから何日か経った夕陽のきれいな日、晴は夏子を大岩海岸に呼び出した。
ようやく夏子に告白をする決心が固まったのである。
亜希子に後ろめたさはある。でも決めたのである。
「待った?」
じっと遠くの夕陽を見つめ、ぽつんと座っている晴の後ろから夏子の明るい声が聞こえた。
「全然、俺も、今来たとこ」
振り返って言う晴は、落ち着いていてさわやかな顔をしていた。
「今日もきれいね」
と言い、夏子は晴の隣に座った。
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「城崎さんから呼び出しもらうなんてびっくりしちゃったけど、うれしかった」
ううんと首を横に振った後、肩をすぼめ晴の目を見る。
「俺、夏子が好きだ」
夕陽を見ていた目は、夏子の目を見つめている。
「亜希子が亡くなってまだ一年立ってないけど、夏子が好きになってしまった。
いつも傍にいてくれた夏子が好きだったんだ。気づかなかったけどわかったんだ。
いや、気づかないふりしていたのかもしれない」
「城崎さん・・・」
夏子の目は潤んでいた。
「夏子は、付き合ってる人いるって言ってたけど、ほんと?」
「いないよ」
「えっ、そうなの」
「うん。私と付き合う人なんているわけないでしょ」フフフと笑ってる。
「じゃ、何で嘘ついてたの?」
「なんでかなぁ~よくわかんない」
「じゃ、俺と付き合ってくれないか?いや、付き合ってください」
改めて向き直って、唾を飲みこんでから晴は言った。
「えっ・・・城崎さん、またまた冗談でしょ」
「冗談でこんなこと言えるかよ」
「ありがと。うれしい」
「・・・・・」
「私も城崎さんのこと好きだよ」
晴の目じりはほっとして下がっていった。二人は、お互いの目に映る自分の顔を見つめていた。
「ほんとは、ずっと前から好きだった。でも好きになっちゃいけなかったんだよね」
「えっ、どういうこと?」
「どういうことかなぁ~」
遠く空の向こうを見ている夏子は、何を思っていたのだろう。唇がかすかに震え、先ほどの潤んだ目とは違い、涙が浮かんでいた。夕陽に照らされ光る涙が、今日はやけに悲しく思えた。
「私高校一年生の時、城崎さんと一度会ってるんだよね。雨の日に」
「えっ、マジでか?俺、まったく覚えてない」
「うん。城崎さん優しかった」
「・・・・・」
「そして就職した時、あっ!あの時の人だって思ったもの」
「・・・・・」
「その時から、ほんとは気になりだしちゃって」
「・・・・・」
「でも好きになっちゃいけない。絶対好きになっちゃいけないと。
でもそう思えば思うほど、人ってますます好きになっていくんだよね」
「夏子・・・」
何も言えなくて、夏子の横顔を見つめたままだったが、名前だけは自然と零れた。
「ほんと言うと、今が一番好き」
「じゃ、付き合ってくれるよね?」
「でも私には、そんな資格ないの。ごめんね」
目からはぽたぽたと大粒の涙が零れ落ちていた。
そう言うと夏子は立ち上がり、来た道を小走りに走って行った。
小走りに走って行く夏子の後姿を目で追う晴、ただ茫然としている。
『振られた』
今までも何度か振られたけど、今回ばかりは立ち直れそうにない。
こうなるんだったら告白などするんじゃなかった。今のままで仲の良い友達のままでよかったんじゃないか。笑いながら何でも気なげに話せる友達のままでよかったんじゃないか。
俺は、やっぱりだめだなぁと寝転んだ。空はいつもと変わらずオレンジ色に染まっている。
どのくらい立ったのだろうか。空にはいつのまにか満天の星が輝いていた。
いつか夏子と見たあの満天の星が。晴の目じりからは、冷たい雫が流れ落ちていた。
「おい晴、どうした?何か元気ないみたいだけど。具合でも悪いのか?」
隣で郵便物を仕分けしながら健三は言った。
「いや、何でもない、大丈夫」
「そんならいいけど。何かあったら俺に言えよ」
「おぉ~」
受付では、いつものように笑顔で対応している夏子が気になって仕方がない。
朝も、いつものように何ら変わりなく挨拶をしてくれる。
昨日、晴の告白に『ごめん』と言い、走り去った夏子。
もう忘れるしかないなぁ~と思いながらも『そんな資格ないの』という言葉が
今になって気になる。どういう意味だろうか?あの涙は何を言おうとしていたんだろうか?
でも、もう夏子のことは諦めよう。やっぱり俺には、恋愛なんて向いてない。
これからは、誰かを好きになることもなく、穏やかに平々凡々と生きていく。
それが俺には、似合ってる。それが俺の人生だ。そう思い晴は配達に向かった。
今日は雨だ。
そう言えば7年ほど前に、夏子は一度会っていると言っていた。
夏子が高校一年生の時で、その時は雨だったらしいが思い出そうとしてもまったくわからない。
雨の日にどこで出会い、どんなことがあったのか。7年ほど前の記憶を探るが何も思い出せない。夏子は俺より三つ下だから、俺は19歳の頃ってことか?
久しぶりの雨が、やけに冷たく感じる。俺のすべてを洗い流してくれとバイクを走らせていた。
朝風亜子の家の前を通ったが、今日は郵便物は届いていない。
もう会わない方がいい。会うとさらに惨めになっていくのが見え見えだ。
もしもまた郵便物が来たとしても、すぐ帰らなければ、麦茶もいらない。
雨が段々と激しくなっていく。空は真っ暗だ。ゲリラ豪雨ってやつだ。
けど今日は、雨でよかった。天気の良い日にこんな情けない顔は、していられない。
土砂降りの中、晴はどこかに急いで向かうようにバイクを走らせていた。
それから何日過ぎただろう。今日は熱中症に気を付けてくださいとテレビで言っていた。
そんな猛暑の日、朝風亜子にいつもの手紙が届いていた。
今日はすぐ帰ろうと思い、こっそり郵便受けに放り込んだ。
ガラッと玄関の扉が開き、空君が飛び出してきた。つい振り向いてしまった晴の足元に空君は抱きついてきた。自然と空君の頭を撫でている自分に少し驚いてしまった。
空を追って亜子も出てきたが、いつもと様子がちょっと違った。
もしかして、夏子に振られたのを知っているのか?いや、知らないわけがない。
「城崎さん」
亜子に呼ばれたけれど
「じゃ、手紙入れときました」
と言い、そそくさと逃げるようにお辞儀をし出て行こうとした。
「いいの?・・・城崎さん」
「いいのって何が?」
つい振り向いて言ってしまった。
「本当の夏子のこと知らなくても」
「本当も何も。俺、振られちゃったから」晴は、笑ってみせた。
「あれは振られたんじゃないよ。まだ夏子の気持ちがわからないのね」
亜子の元に戻った空君の頭を優しく撫でながら言った。
ニコニコ笑っている空君も、そうだよって言うように、うん。うん。と頷いていた。
「もういいよ俺は。やっぱ恋愛なんて似合わないから」
「そうね。城崎さんに恋愛は似合わないよね。夏子以外の人とは無理よね」
「だから、俺は振られたんだって」踵を返して帰る晴に、さらに亜子は言う。
「すんなりいく恋愛なんてすぐ終わっちゃうよ。恋愛には壁みたいなのが必要なの。
その壁を乗り越えて初めて結ばれるもんなのよ。夏子は好きだと言ったんでしょ。
あと一歩進めないのには理由があるのよ。それをわかってあげられるのは、城崎さん、あなたしかいないのよ。城崎さんは、夏子の気持ち全然わかっていない」
「今、俺には何もできないよ」
「夏子が何を思い、悩んでいるのか。私にもどうしようもないの。もっと夏子の気持ちをわかってやって。夏子を力いっぱい抱きしめてやって」
亜子は、今にも泣きだしそうに言った。
晴は、何も答えず歩き出し仕事に戻って行った。
配達を終え帰って来ると、夏子はいつものように『お疲れさまでした』と微笑んだ。
告白され、私も好きだと言ったけど『そんな資格ないよ』と断った相手に。
今まで深く考えてみなかったけど資格って一体なんなんだ。
人を好きになるのに資格は必要なのか?そんなこと言ったら俺は、もっと人を好きになる資格なんてないじゃないか。仕事をしている夏子の後姿が妙に寂しく感じられた。
「なぁ健三、夏子のこと何か知ってるか?」
「ん、どうした?やっと気になってきたか」にやつきながら言う健三に
「そんなんじゃないよ」と睨みつける。
「そんな顔すんなって。そうだなぁ~両親が離婚して母と二人っきりだとは聞いてるが」
「それはみんな知ってるよなぁ~別に隠すことでもないし」
「あと何かある?付き合っている彼氏がいるとかいないとかか?俺はいないと思うなぁ~」
「どうしていないと思う?」
「そりゃあれだろ。いるのであれば、どこの誰かなんてすぐ広まるんじゃない」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ。俺いつでも応援してやっから遠慮なく言えよ」
「だからそんなんじゃないけど、まぁ何かあったら頼むよ」
肩をぶつけてくる健三は、うれしそうに
「おぉ!」と囁いた。
部屋のベッドに寝転び携帯をみる。あれから夏子とメールのやりとりもしていない。
過去のメールを見ながら、遠い昔でもないのに、やたらとなつかしく感じられる。
その時、携帯が短く鳴った。まさかと思ったが、健三からだった。
『俺の情報だと、夏子はおまえのこと好きらしいよ』
『あ、そう』と悪い気はしなかったけど、健三が調子に乗らないよう、ぶっきらぼうに返してやった。でも健三はやはり友達だ。唯一の親友だ。つい顔がにやけてしまった。
「晴、ご飯できたよ」下から母が呼んでいる。
晴の両親は、亜希子が亡くなってからは一度も亜希子のことは口にしていない。
亡くなった時は、晴より泣いていたのに。両親にはいろいろと感謝しないとな、と思っている。
「今、行く」と言い、晴はベッドから立ち上がり、亜希子の写真立てを見て呟いた。
「もう一度、夏子を誘ってみようかな。そしてもっと話を聞かないと。いいかな、亜希子」
写真立ての亜希子が、うんと頷いているようだった。
「夏子、最近何かあった?」
テレビを見ていた夏子の母が、CMに入ったのか振り返り言った。
「えっ、何もないよ。どうして?」
晩御飯は、母が遅い時は夏子が作り、母が早く帰って来る時は母が作っていた。
今日は母が晩御飯を作ってくれたので、後片付けは夏子がしていた。
「何もないんなら、別にいいけど」
「うん。何もないよ。少し仕事で疲れてるのかな」
「なら、よかった」
「お母さん、『なら、よかった』って言うのも、ちょっとおかしいんじゃない」
「そうだね」
テレビに目を戻した母は、ハハハハと大声で笑っていた。
母には、何となくわかるのだろう。夏子がここんとこちょっと元気がないのが。
けど、それ以上しつこく聞いてこないところが、夏子は好きだ。
何も言わなくてもわかってくれている。そんな気がする。お母さんはいつも優しくしてくれる。
洗い物も終わり、明日のコメを研いでいると
「じゃ、先にお風呂入ろうかな」
テレビも終わったのか、母は立ち上がり夏子を横目で見ながら言った。
「早く上がってよ、私もすぐ入るんだから」
振り向きもしないで言う夏子に
「はい。はい」
と笑いながらお風呂に向かった。
風呂から上がりベッドに倒れると、深い溜息が出た。
私は、ずうっとこのまま生きていくんだろうな。それも、まぁいいか。
でも、うれしかったよ城崎さん。私もずうっと好きだったんだもん。
でも、それ以上は怖くて進めない。嫌われるのが怖くて進めないんだよ。
嫌われるのがわかってるんだ。だから私には、人を好きになる資格なんてなかったんだよ。
でも気がついた時には、もう遅くて好きになっちゃってた。私ってほんとにバカだ。
どうしようもないバカでマヌケでアホだ。
今でも時々、あの日の事が蘇って来る。思い出すたび体が震える
亜希子とお母さんがいたから、私は助かった。二人は私を抱きしめてくれたもん。
亜希子と二人で写っている写真立てを見て、涙が出てきた。
けど顔は、どこかすっきりしたような笑顔だ。
それから何日かしたある日、配達から帰ってきた晴と、書類を持っていた夏子が偶然にもドアのところでぶつかった。パラパラと書類を落としてしまった夏子が
「あ、ごめんなさい」と拾おうとすると
「あ、ごめん。悪いのは俺だ」と言って拾おうとする晴の、頭と頭がゴッツンとぶつかった。
「痛えぇ!」二人同時に声を上げ、ゆっくり顔を見上げて大笑いした。
「大丈夫?」
「私は大丈夫。城崎さんは?」
「大丈夫じゃねぇよ。夏子って結構石頭なんだねぇ~」
「悪かったわね」
と言い、二人はまた大笑いした。
「おい、おい、何やってんだよ二人とも」
帰ってきた健三があきれたように言った。そして「俺、手伝わないから、がんばって」とも。
どういう意味でがんばってと言ったのか、晴も夏子も首を傾げた。
落した書類を拾うのをがんばってなのか、それとも二人のこれからにがんばってなのか。
書類を拾う二人は、小学生のように楽しんでいるようだった。
書類を拾い上げ、「はい」と夏子に渡すと「ありがとう」って返って来る。いつもの笑顔で。
そして晴は、ゆっくり夏子の目を見て言った。
「今日、何か予定ある?」
「別にないけど」
「ちょっと話があるんだけどいいかな」
「うん。いいよ」
「じゃ、御飯でも行く?7時頃迎えに行くけどいい?」
「うん。じゃ、待ってる」
「うん。じゃ、あとで」
あれ、私、待ってるって言っちゃった。どうしよう、どうしよう。
もう二人っきりでは、合わない方がいいかなと思っていたのに、どうしよう。
話ってなんだろ。この前、逃げるように帰っちゃったからなぁ~
でもいつかは、本当のこと言ったほうがいいのかなぁ~
その方が、城崎さんも私もきちんと諦めきれるかもしれないしね。
でもやっぱり好きだ。どうしようもなく好きだ。どうしたらこの気持ちなくなるんだろう。
本当のこと言って、嫌われるのが怖かったけど、それは自分のことしか考えてないってことだよね。本当のこと言って、嫌われたほうがいい。その方が私だって少しは強くなれるかも。
私だって前に進まなきゃいけないんだ。進めるかどうかわかんないけど、進めなきゃ進めなくてもそれでもいい。ただ、このままじゃいけないってことだけは確かだ。
「ごめんね、急に」
「ううん」と首を横に振る夏子。まともに晴の顔を見れなくて俯いている。
「初めて夏子と二人っきりで食べたビーフシチューってどう?」
「うん。この町特産の雪下人参使ってるところね。いいね」
どことなくぎこちない二人だが、少しずつ笑顔が戻ってきた。
「うん。やっぱおいしいね」
「うん。うまい」
いつもより会話も少なく、夏子のつっこみもないけど穏やかな時間が過ぎていった。
他愛のない話も続き、時々見せる笑い顔は、どう見ても仲の良いカップルに見えた。
「じゃ、そろそろ出ようか」
「うん。じゃ、今日は私に奢らせて」伝票を取ろうとする夏子だけど
「いや、今日は無理に呼んだ俺に奢らせて」と言い、そそくさと伝票を持ち会計に向かった。
車に乗り込んだ二人、穏やかだった時間がまたどんよりと雲がかかるように変わっていった。
「いつも奢ってもらってばかりでごめんね」
「そんな気にすることないよ。ほら、一応先輩だし」
「うん。ありがとう」
いつかのように、今度私に奢らせてって言えなかった夏子は、寂しそうな目でちらっと見た。
その晴の横顔も、ここに心あらずって感じで無表情のまま、エンジンをかけた。
どこに行くっても聞かずに、晴は車を走らせた。
きっとこのまま私を家まで送っていくのだろう。
話があると言ってたけど、特にこれといった話もなくこれでもう終わりってことなんだろう。
これでよかったんだ。もっと深く傷つく前に終わってよかったんだ。夏子はそう思っていた。
けど車は夏子の家とは反対方向に走っていった。えっ!と思った夏子は隣を見るが、晴は何も言わず暗くなった道をまっすぐ見つめてアクセルを踏んでいた。
5分ほど走って車はゆっくりと止まった。大岩海岸の駐車場に。
フロントガラスからは、暗闇の中でうっすらと雄大に構える大岩が見えている。
星がその周りをキラキラと輝きながら舞い踊っているようだ。その数は段々と増えていく。
これまで数えきれないほどの人生を見てきた大岩や星、そして空が二人を見守っているかのような静かな夜だ。この静けさが、より二人を暖かく包んでどこかへ連れて行きそうだ。
二人が、時には喧嘩をし、涙ぐみ、でも最後にはいつも笑っている。そんな世界に。
「夏子」
「うん」
言葉が続かない。二人はフロントガラスから見える景色をただ見ている。
「夏子、俺やっぱり好きだ。この前、振られたけど諦めきれない」
「城崎さん、私も好きでどうしようもない。でも・・・」
「でも・・・何だ?」優しく問いかける。
「・・・・・」
「亜希子のことだよな?」
「違う」
「えっ、違うの」
夏子は、小さく頷き、ずうっと下を向いたままだ。
「もし、よかったら話してくれないかな」
「・・・・・」夏子は顔を上げ、晴を見つめる。今にも涙が零れ落ちそうだ。
「少しでも力になれることがあったら、力になりたい」
「・・・・・ありがとう」
「・・・・・」
「私、高校一年生の時、雨の日城崎さんと一度会ったって言ったよね」
「うん。この前言ってたけど、俺覚えてなくて、ごめん」
「ううん」晴を見つめ首を横に大きく振る。唇が小刻みに震えている。
「あの雨の日私、泣いて歩いていたんだ。そしたら、一台の車が止まって『大丈夫』って声をかけてきたんだよね。私、ビクッとして逃げようとしたけど、その人、傘を差しだしてきね。
『じゃ』、って言って車に戻っていったんだよね。私ね、その傘を受け取ってまた泣き出してしまったんだよね。とってもうれしくてね。それ人が城崎さんだったんだよ」
「えっ、傘?」
「普通の透明なビニール傘だったけどね。今でもきちんと、とってあるんだよ」
雨に傘、雨に傘、それに透明なビニール傘、ビニール傘。あっ!と思い出したのか
「そう言えば、何かそんなことあったような?。雨の中泣いて歩いている高校生いたな。
傘も差してなくて、すんごい雨だったんで、もうずぶ濡れいうか何ていう。すごい濡れてた。
それで泣いているのかなと思って傘を渡したっけ。その時の高校生が夏子だったの?」
「うん。私」零れ落ちそうな涙を拭きとり、少しだけ笑顔で言った。
「私が就職した日、あっ!あの時の人だとすぐわかったんだよね。
私にとっては、神様に見えたんだから」
「そっか。そんなに印象に残ってたんだ。でも傘ぐらいで神様に見えたら、この世の中神様だらけになっちゃうよ。」微笑む晴につられ、夏子も微笑む。
「それが何かしたの?夏子の言う『資格なんてない』とは違うよね?」
少し微笑んでいたと思ったら、崩れだし、目からはボロボロ涙が滝の様に流れ出してきた。
声を上げ嗚咽し泣き始めた夏子を、そっと抱き寄せ、肩をさする。
でも夏子は鳴きながら、晴の顔をまっすぐ見て続けた。
「私、急な雨で傘も持っていなくて、少しすれば止むだろうと思って雨宿りしてたんだ。
そしたら一台の車が目の前に止まって、送るから乗っていく?って言われてね。
でも知らない人だし断ったんだ。でもその人しつこくて、私逃げるように雨の中走り出したんだ。そしたらその人、車ら降りてきて無理やり私を乗せて走り出して。ナイフみたいなの突き出されて怖くて怖くて身動きできずにただ泣いていた。どっか空き地みたいなとこに止まったと思ったら襲って来たんだ。私もう怖くてどうしていいかわからなくて、いくら叫んでも誰にも届かないし、黙ってろって顔は叩かれるし、次第に声も出なくなって・・・・・」
「わかった、もういいよ。よく言ってくたね」
晴は夏子を力強く抱き締めていた。その胸の中で夏子は嗚咽していた。
でも夏子は声を振り絞って続けた。
「このこと知ってるのは、お母さんと亜希子だけだよ。警察にも行ったけど、私その人の顔も車も何も覚えてなくて・・・」
「そっか。辛かったね。何にも知らなくて勝手なことばかり言ってごめんね」
夏子の嗚咽は激しくなるばかりで、ただ抱きしめているだけの晴の目にも涙が浮かんでいた。
夏子の嗚咽も少し落ち着いてきて、晴の胸から離れて涙を拭きとり晴をまっすぐ見て言った。
「だから私、汚れてるだ。城崎さんとは付き合えないんだ」
「夏子、それは違うよ。汚れてなんかいないよ。夏子は、今も僕の好きな夏子だ」
「城崎さん・・・」
「夏子、改めて言う。俺と付き合ってください」
「いいの?」
「いいのも何の。俺と付き合ってください」
「はい」と頷いた夏子は、晴の腕の中でさらに大声で泣きじゃくっていた。
頭を優しく撫でていた晴も、零れ落ちないように我慢してたけど、ついにそれは頬を伝わり零れ落ちてきた。どれくらいそうしていたであろう。
夏子の両肩を掴んでそっと起こし、優しい目で見つめる。
涙で腫れてしまった目元が妙にかわいいくて晴は涙目で笑い、そっと夏子の涙を拭った。
そして二人は、どちらともなく顔を寄せてきてキスをした。
甘いはずのキスは、ほんとにしょっぱかった。
何度も何度もキスをした。けどやはりしょっぱかった。
大岩も星も空も、やれやれと溜息をつきながらも、ほっとし微笑んでいるようだった。
今夜は今までにないくらい満天の星で、お月さまもまん丸だ。とてもきれいな夜だった。
次の日晴は、出勤してきた親友の健三に報告した。
「なぁ健三、俺・・・夏子と付き合うことになった」
「そっか、よかった。二人はお似合いだよ。待ってたぜぇ~その言葉。晴~」
と言い、抱きついてきた。
「おい、おい、おい、」と戸惑う晴に、周りの目も気にせず思いっきり背中を叩いていた。
そんな二人を出勤してきた夏子は、不思議そうに首を傾げながらも微笑んでいた。
夏子に気づいた二人は、礼儀正しく規律をし「おはようございます」と深くお辞儀をした。
クスクス笑う夏子につられ、向き合った晴と健三もつられて大声で笑ってしまった。
亜子にも報告しないとまた叱られるなぁと思っていたけど、その日の郵便物はなかった。
毎日毎日、郵便物がきていないか確認したけどなかった。亜子宛にはなかった。
そのうち来るだろう。報告はその時でもいいかと晴は、毎日が楽しくて仕方なかった。
「お邪魔します」
「夏子さん、いらっしゃ~い。上がって、上がって」
晴の母は、うれしそうににっこりと微笑んで、二階にいる晴に向かって
「夏子さん、来たわよ」と言った。
「あぁ~」と返事にもならない返事をしてる晴に、『愛想ないわね』としかめっ面をしていた。
「な~に照れてんだかねぇ~」と夏子に困った顔をする母を見て、夏子は小さく笑っている。
「ケーキですけど、よかったら食べてください」と差し出すと
「ありがとう。遠慮なく頂くわ」と今にも泣きそうな笑顔で言った。
階段を上り部屋の前まできてトントンとノックをする。
「入って」と中から晴の声がし、ゆっくりとドアを開けた。
「来ちゃった」と肩をすくめ言う夏子の顔は、ちょっとだけ赤くなっていた。
「うん。よく来てくれたね」恥ずかしそうに言う晴の顔も赤く火照っていた。
「掃除・・・した?」
「いや、特には・・・いつもこんなだよ」
「へぇ~ちゃんと片付いてるんだね。もっと散らかってると思ってた」
フフフと周りを見渡しながら笑ってる。
「物も少ないしね、適当に座って」とベッドに座っている晴は、二人掛けのソファーを指さす。
「うん」と言い、二人で食べようと思って買って来たケーキをテーブルの上に置いた。
「亜希子だね。見ていい?」
「別にいいよ」
写真立てを手に取り、「かわいいね」と呟く。
「私の部屋にもあるんだよ。亜希子と二人で写っている写真」
「えっ、そうなの?」
「うん。今度うちに遊びに来たら見せてあげるね」
と言い、晴と夏子のツーショットに目を戻した。
晴としては、複雑な気持ちだった。今は夏子と付き合っている。いくら友達だったといったって亜希子は晴の奥さんだった人だ。その写真を飾ってて夏子に見せている。
亜希子は、すべて知っているけど、どんな気持ちなんだろう?夏子を好きになればなるほどその複雑な気持ちはさらに絡まって複雑になっていく。
「ん、何?」夏子は、何か考え込んでいるような晴を不思議そうに見てた。
「いや、何も。ケーキ買ってきてくれたんだ。じゃ俺、飲み物取ってくるね」
と言い残し部屋から出て行った。
始めて晴の部屋に入った夏子も、いろんな思いが巡っていた。また辺りを見回している自分が嫌でもある。けど見回してしまう。晴の家には、たしか夏子の遺影もない。あるのはこの写真立てだけのようである。静かな時間が流れていた。
ドアが開き、晴がペットボトルを4・5本と小皿とフォークを持ってきた。
「ケーキ食べてもいい?」
「うん。食べよう」と夏子は、取り出したケーキを皿の上に置いた。
二人は、テーブルに向かい合って『いただきます』と口に入れた。
二人の間に沈黙が訪れ、晴は夏子にキスをしようとしたが、夏子は下を向いた。
気まずそうにしている晴に『ごめん』と言い、下を向いたままだ。
何が『ごめん』なのか意味がわからず、「こっちこそごめん」と頭を下げる。
顔を上げた夏子の目の先には、写真立ての中の亜希子が微笑んでいた。
晴は、その写真立てを手に取りしばらく見つめ、そして言った。
「これ捨てようと思う」
「えっ、何で?」
「もういいんだ。でも、捨てても亜希子は心の奥底にはいるかもしれないけど」
「でも・・・」
「そうさせてくれ」
夏子は返事ができなかった。そんな夏子を抱き寄せ力強く抱き締めた。
次に遊びに行った時には、その写真立ては消えていた。
「ごめんください」
「は~い、どうぞ。よく来てくれたね、城崎さん」
「お邪魔します。あの~つまらないものですけど、よろしかったらどうぞ」
と、夏子の母の大好物だという『タイ焼き』を差し伸べた。
「うれしい~」と言う夏子の母は、やっぱり夏子の母だった。喜ぶ顔や仕草がまったく同じだ。
隣で、母をどうしようもないなと見ている夏子は、あきれ顔だった。
「まぁ入って」と母に言われるままに、リビングに入って行った。
きちんと挨拶しなければと思っていたのでかなり緊張はしていた。
そしてテーブルの向こうの母に
「あの~城崎晴と言います。郵便局に勤めています」と深くお辞儀をし、さらに続けた。
「夏子さんとお付き合いさせてもらっています。連絡遅れて申し訳ありません」
とまた深く何度もお辞儀をした。
「承知しております。夏子の母でございます。娘を何卒よろしくお願いします」
と丁寧にお辞儀をした。それを見た夏子は、何だかおかしくて笑ってしまった。
「あぁ~ごめん。お母さん、何それ」
「私も緊張しちゃった」って口に手を当てて笑う夏子の母。つられて晴も笑ってしまった。
一気に緊張も解け、和やか空気が三人を包んでいった。
「あら、もうこんな時間私パートに行かなくちゃ。ゆっくりしててね、いつでも遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
「あ母さん、晩御飯用意しておくね」
「うんありがとう、じゃね」
夏子は母に手を振り、晴はニコッと頭を下げた。
「お母さんって、優しくて楽しい人だね。あぁ~緊張して損しちゃった」
「ん~どうかな。よくケンカもするけど、お母さんには感謝してる」
「俺はダメだけど、夏子はちゃんと親孝行してると思うよ。うん、えらい」
「親孝行なんて・・・」と言い、『私は親不孝だよ。だってお母さんに一生消えない辛い思いをさせちゃったし』と心の中の声を、飲み込んだ。
「じゃ、私の部屋に行く?」
「うん。これもまた緊張するなぁ~」
「私だって。男の人、入れるなんて初めてだし」
女の子らしいかわいい部屋だ。ピンクの布団カバーが、薄い黄色のカーテンが、机の上にはかわいらしいぬいぐるみや置物がきれいに並んでいる。その中に亜希子との写真立てが見える。
晴は、知らないふりをしていたが夏子は、その写真立てを取り言った。
「私、この写真は大事に取っておくよ」
自分のほっぺたにくっつけて自慢げに言う夏子の顔は、クシャクシャになって笑っていた。
すぐに返事をできない晴は、もう一度聞くように覗き込むおかしな夏子の顔に『うん』と頷いた。よかったと言うように、夏子はその写真立てをいつもの場所に静かに置いた。
「夏子のちっちゃい頃の写真見たいなぁ~」
「えぇ~恥ずかしいよ」
「見たい、見たい」
駄々をこねる小学生のように言う晴に観念したのか、アルバムを取り出してきた。
「笑わないでよ」とほっぺたを膨らませる顔を見て、アルバムを開く前に笑ってしまった。
「ほら、もう笑ってる」とさらに頬を膨らませてる夏子に、『ごめん』とさらに笑ってしまった。
ベッドに背を預け、かわいいじゃんって言ってる晴の隣で、夏子もなつかしそうに見ていた。
これいくつ?へぇ~かわいすぎだね。かわいくないよ。と二人は時に見つめ合い笑ってる。
アルバムの中の夏子も段々と大人になっていく。高校生の頃になると亜希子と一緒の写真がいっぱい出てくる。この写真亜希子も持っていたなと思い、なつかしく思えた。
何も言わずページをめくる晴に
「この写真も大事にとっておくよ。だって一番の友達だもん」
誇らしげに言う夏子の目をしっかり見て『うん』と呟いた。
「御飯食べていくよね?」
「いいよ。この次ごちそうになるから」
「どうせ作らないといけないし、味は保証しないけど食べてって」
「じゃ、ごちそうになるかな」ほんとはうれしくてしようがなかった。
「何がいい?好き嫌いってある?」
「好き嫌いはなし、何でも食べるよ」
「そうなの、いいねぇ~じゃ、何にするかな?」
「簡単なものでラーメンでいいでしょ。インスタントで十分だよ」
「お母さんのも用意しないといけないから、肉じゃがなんてどう?」
「いいの?実は大好物なんだ」
「じゃ、決まりね。城崎さんはリビングでテレビでも見てて」
「あの、その、城崎さんてもうやめない?」
「あっ、そうだね。ん~じゃ、晴さん?晴君?」
「俺は夏子って呼び捨てだから、俺も呼び捨てでいいよ」
「は・れ?・・いやぁ~やっぱり晴君にしよう。ちょっと照れ臭いけど」
「ん~。まぁ~いっか」
二人は立ち上がり自然と向き合った。『晴君』『夏子』と恥ずかしそうに言い、そして抱き合った。
夏子が料理しているのを横目で見ながら、テレビを見てた。いや、ぼんやりと眺めていただけだった。どうも落ち着かなくて台所へ行く、俺にも手伝わせてと腕まくりをしていった。
いいよ、座っていてと言われるが、俺料理まったくできなくてこれを機に教えてよ。と言われ、
まぁいいっかと。じゃ、ジャガイモの皮剥いでみる?とにこやかに言われ、よっしゃーと包丁を手に取っていた。あ~だこ~だ言いながら、もういいかな?と鍋を覗き込む。
「完成」
「おぉ~」晴は叫び、二人はハイタッチをしていた。
「いただきます」晴が先に箸を入れ、口に頬張る。向かいで夏子は心配そうに見つめている。
「うんまぁ。俺の手伝った肉じゃが最高!」と威張り散らすようにグーサインをする。
恐る恐る口に入れた夏子は
「うん、うまい。晴君もがんばったもんね」と顔を突き出して小刻みに震わせながら言った。
初めての夏子の手料理、幸せだなと思わないわけがない。できるなら結婚したい。けど、それだけはまだ言えないな、亜希子が亡くなってまだ一年、それが早いかどうかはわからない。
いや、あまりにも早すぎる。その前に、夏子が何て返事するかが一番の問題だけど。
付き合うのと結婚とは違うのだろうか。好きになったから結婚をする。一生この人と一緒にいたいと思ったから結婚をする。そうでありたいと思いつつ、俺は再婚になるしそう簡単なものでないとは自覚している。でも、どうしようもなく夏子が、日々好きになっていく。
二人で後片付けもしながら笑っているこの時間も、たまらなく好きだ。
子供の頃からお母さんを手伝い、いろいろ苦労してきたからこそ、今の笑顔があるのだとも思う。
高校一年生の時の悪夢も消えることはないだろう。でも必死に生きてきた。そこに安らぎを与えることができるかどうかはわからないけど、俺は好きだ。この気持ちだけは伝え続けていけたら、いや、伝え続けていきたいと、隣で洗い物をしている夏子に心の底から思った。
「お母さんに、晴君も手伝ったって言っとくね」
「えぇ~別にいいよ。ジャガイモの皮剥いただけだし。それに恥ずかしいし」
「大丈夫」フフフと意地悪そうに笑う夏子がとても愛おしく感じる。
「今日はありがとう。じゃ、また」
「うん」
手を振りドアを開けようとする晴に、夏子は自分の唇に人差し指を当て軽く叩く。
「えっ」と驚いた晴は、ちょっと開いたドアを再び閉めて、夏子の唇に自分の唇を重ねた。
それから二人は仲良く出かけ、お互いの家を行ったり来たりもして楽しい時間が過ぎていった。
「おはよう健三。ん?どうした?」出勤してきた健三の様子がいつもと何か違う。
「よく聞いてくれた。実は奥さんと喧嘩してしまって」
「おまえ、浮気でもしたか!」
「いやいや、まさかそんなことするわけないだろ。・・・今日、実家へ帰るとかで」
「何があったんか?」
「靴下も服も脱ぎっぱなしでだらしないとか、洗い物の後片付けぐらいしてくれてもいいとか、もっと子供の面倒もみてくれてもいいとか、酒も飲みすぎだとか、なんやかんやって言われて。それで、もう我慢できなくて愛想が尽きたとも言われて」
「・・・・・」
「このままじゃ離婚されちゃうかもな。どうしよう、晴」
「そっか、おまえのことだから奥さんの言うこともよくわかる気がする」
「そんな冷たいこと言わないでくれよ。俺、どうしたらいいかな」
「まずは、きちんと謝ることだな。そして今までの自分を振り返り正す。それだな、うん」
その日の健三は、珍しく一日中うなだれていた。
「きっと大丈夫だから、帰ってくるよ」と何度か肩を叩き声をかけていたけど、落ち込む一方だった。最悪の場合俺から奥さんにも話して見なきゃとも思っていた。
次の日「おはよう」と入って来る健三は昨日とうって変わって機嫌がよさそうだった。
「晴、今日帰ってくるって」健三は、今にも飛び上がりそうに抱きついてきた。健三は時々男の晴にも抱きついてくる時がある。今日はよっぽど嬉しかったのであろう。痛いぐらいだった。
「昨日実家に電話してきちんと謝って、これからは俺も手伝うって言ったら、『手伝うって何?』って逆切れされて、『ごめん』手伝うじゃなくて俺もする。って言ったら、わかった。じゃ、明日帰るって言ってくれて・・・」喜んでいたと思ったら、今度は泣きそうな顔になったので晴は笑いながら、それでいんじゃない。と肩を痛いほど叩いてやった。
夫婦って長く一緒にいるといろいろあると思う、それも結婚だな。ちょっぴり健三がうらやましく思わないでもないが、親友にはいつまでも幸せでいてほしい。