第3章 亜子
第3章 亜子
亜希子の葬儀、七日日などすべてが終わり、亜希子は骨だけになり、家族とともに実家に帰って行った。晴はその後、有休休暇を取っていたが、引きこもりがちになってしまい、外へ出る気力さえ失くしてしまった。通夜や葬式の時は、友人をはじめいろんな人たちが来てくれた。喪主だといってもやることがたくさんある。
悲しんでばかりいられない。というより悲しんでいる暇がないといったほうがいいのだろうか。
一人になる時間などほとんどなかった。それがかえってどんなによかったことか。
すべてが終わり一人になると、じわじわと悲しみが波の様に押し寄せてくる。
砂のように足元が崩れ、倒れこみ押し流されてしまいそうだ。
亜希子との生活は短い間だったけど、いろんなことが思い出される。
楽しい思い出より、してやれなかったことでいろんなことが悔やまれる。
俺は何をやっていたんだと。
今になって、濁流の様に涙が流れてきて止まらない。
親友の健三と夏子は、仕事を終えてから毎日晴の家に顔を出していた。
亜希子の遺影もなくなり、線香もあげられないけど、毎日晴の様子を見に寄ってくれた。
今までは、当たり障りのないようにしていた健三も、ぐずぐずしている晴にとうとうぶっち切れた。
「おい、大丈夫か!そろそろ仕事来いや。一人でぽつんといるよりいいだろ」
って叫ぶように言った。
「うん。待ってる」夏子は健三の少し後ろで、ひかえめに夏子らしくない小声で言った。
夏子は、紹介した自分にも責任があると思っているらしく、健三に何げなく言ったらしい。
「バカじゃないの!何の責任!?そんなことあるわけないだろ!」
って夏子に向かって怒鳴ってしまったことを、健三はちょっと前に晴に話してくれた。
それを聞いた晴は「ありがとう健三」って久しぶりにちょっとだけ笑った。
「夏子に責任なんて、そんなもんないだろ。誰も悪くないだろ」ぼそぼそと言う健三に
「お前は、やっぱり親友だな」とまた笑っていた。
健三に「そろそろ仕事来いや」と叫ばれて反論してくるかと思い、次の言葉を用意していた健三は、晴の言ったことに拍子抜けしてしまった。
「うん。明日から仕事行くよ。ありがとうな」二人に向かって呟くように晴は言った。
健三と夏子は、やったとばかりにうれしそうに顔を見合わせ、ゆっくりそしてしっかりと頷きあった。
次の日晴は、いつもよりだいぶ早く出勤した。
いつも通りに出勤して、みんなに同情の目で見られるのが、何だか嫌だったからである。
「おぉ~晴、おっはよう」健三は昨日のことなど忘れ、いつも通りに声をかけてくれた。
「城崎さん、おはようございます」夏子も以前と変わらぬ、笑顔で挨拶してくれる。
ありがたいことだ。持つべきものは友達ってよくいったもんだとつくづく思った。
「あぁ~おはよう」晴は、いろいろどうもとでも言うように、ちょっとだけ目を合わせ言った。
健三と夏子は昨日のように目を合わせ、お互い『うん』と言うように微笑みあっていた。
その後晴は、局長のもとへお礼方々挨拶に向かった。
局長は目に涙をため、何も言わず肩をぽんと叩き、晴は深くお辞儀をしていた。
一週間ほどすると仕事のほうは、だいぶ以前の様に戻っていった。
戻っていくというよりも、みんなにもう心配かけないように早く戻らなければと焦っていたのかもしれない。そして笑い顔は増えた。
しかし、家に帰り一人になると当然の如く悲しみの波が、じわじわと足元から押し寄せてくる。
でも、晴はそれをしっかりと受け止めることができるようになった。
夕陽がきれいな時は大岩海岸に一人出掛けた。
亜希子とよく出かけプロポーズした場所でもある。
ここに来るとほっとする。ヒンヤリと冷たくなった秋の終わりの風が、とても気持ちよく頬を撫でて通り過ぎていく。もうすぐ冬が来るのだ。北国の冬は寒くて長い、いや厳しいと言ったほうがいいのかもしれない。雪は時々横から降って来る。
今年の冬はどうかな?雪が多くて寒いかな?行き交う人たちは誰もが口癖のように言う。
そして冬が始まる前から、早く春が来ないかなぁ~なんて笑いながら本気で言っている。
亜希子への想いも、季節が変わるたびに少しずつ変わっていくのだろうか?
今は、楽しい思い出ばかりだ。悲しいし寂しい思いは、いつまでも消えないだろう。
でもそれ以上に楽しい思いがいっぱい思い出される。
晴は、大岩海岸の大岩の頂上で、そんなことを思っていた。
大きく背伸びし深く深呼吸する。目は潤んでいるが顔はにこやかだ。
大岩には、天国に昇る階段がある。という言い伝えがある。
亜希子は天国にいるのだろうか?
空を見上げる目元から、涙が零れ落ちてきた。両手で涙を払い空を見つめる晴の顔は、今までになく穏やかだ。その目の向こうに、笑っている亜希子がうっすらと姿を現しているかのように、晴はどこまでも続く空に向かって大きく手を振っていた。
3月、雪はまだ時々降るものの、気温も10℃近くまで上る時もあり、冬と春の押し合い合戦が続いていた。
4月の下旬には桜が咲き始めた。今年は平年より一週間ほど早いと、テレビでお天気お姉さんが言っていた。ゴールデンウイークの始まる頃には、残念ながら散ってしまうだろうとも。
5月には、木々の緑が増え新緑の香りが漂い、命の芽吹きが強く感じられるようになった。
6月、梅雨に入りじめじめし始めた。これが終われば暑い夏がやって来る。
今年の夏は、例年にない猛暑だとか?これもテレビでお天気お姉さんが言っていた。
そして七月、梅雨も例年になく早く開け、予報通り暑い夏、猛暑を思わせる夏がやって来た。
短い夏が。亜希子の初盆でもある夏が。
「暑くなりそうだな」
って健三がすでにダウンしたかのように、だるそうにぐずぐず言っている。
「だなぁ~」って晴も青い空を見上げ、ギラギラと輝く太陽に目を細め、ヘルメットを被って赤いバイクのステップを元気なく踏んで、エンジンをかけた。
でも、雨や雪の日よりはいいかって、また空を見上げ「行ってくるか」と呟き出かけた。
ん?ここに誰か引っ越してきたんだろうか?晴は手紙の宛先の前でバイクを止めた。
もうずいぶんと長い間空き家だったはずじゃないかなと、バイクを降り辺りを見渡す。
一戸建ての古い家で、家の周りは高いコンクリートの塀で覆われている。
その塀のおかげで中の様子は見えない。
けど広い庭がありそうで、家も築70年以上はなるかもしれない。
そして大きな門がどっしりと構えている。
もう一度住所と宛名を確かめる。宛名は、朝風亜子。
晴は、一字違いかと亜希子という名を思い出していた。そしてこの朝風亜子と書かれた字体、
どこかで見たことあるような気がしたが、深く考えないでいた。
名前が少しだけ似ているだけなのに、ドクッと心臓の音がひとつ大きく聞こえた。
ドキドキしながら門の方に進んでいくが、心臓の音はますます高まっていくばかりだ。
中の様子を窺うようにそうっと覗き込む。回りから見れば完全に怪しい人だ。不審者だ。
制服を着ていなかったら完全に通報されるだろう。
おそるおそる一歩踏み出し、門を開け中へ入る。
広い庭は、きちんと整備されており雑草らしきものは一つも生えていない。
サフィニアやパンジーなどが、赤・白・紫と色鮮やかに植木鉢の中でこんもりと咲いている。
わぁ~いっぱいきれいに咲いているなぁ~。うちのと全然違うなぁ~。
きっと花の大好きな、おばさんなんだろうなと思った
すると広い庭の奥のほうから子供らしき笑い声が聞こえた。
男の子が三輪車を力いっぱい漕ぎ、ぐるぐる回っているのが見えた。
晴は、金縛りにでもあったかのように、その場から動けなくなってしまった。
この光景どこかで見たことがある。どこだろう?どこかで絶対見たことがある。どこだろう?
思い出せない。夢でか?いや夢ではない。けど間違いなく見たことがある。
思い出そうとすると頭がズキズキする。
その時、玄関から女の人が出てきた。
黒髪のポニーテールが揺れ、懐かしいようなシャンプーの香りがした。
色白でスタイルもよく、年のころは、晴と同じくらいだろうか?そしてかわいい。
おばさんだろうと思っていた晴は、さらに身動きできなくなり、金縛りでもかかったようになってしまい、声も出なかった。
「あの~」とその人は不思議そうに晴に声をかける。
と、先ほどかかったような金縛りがするっと解け、晴は転びそうになった。
額には汗がびっしょり、暑くてびっしょりなのではなく、冷たい汗でびっしょりなのである。
身震いしてきそうだった。
「大丈夫ですか?」その人は、心配そうに寄ってきた。
三輪車の男の子も、どうしたのというようにじっと晴を見ている。
「あっ、すみません。今日暑くてちょっと体調くずしちゃって」
ハアハア息を切らせ、晴はやっとの思いで声に出し深く頭を下げた。
「ちょっと待っててくださいね」
と言い、その人は家の中に入っていき、麦茶を持ってきてくれた。
一口で飲み干した晴は、ようやく落ち着いて
「ありがとうございます」と丁寧にまた頭を下げた。
彼女は、さらにコップに麦茶を注ぎ、どうぞと言うように微笑んだ。
また晴は、一気に飲み干した。その横で彼女はずうっと微笑んでいた。
「あの・・・俺・・・郵便屋なんですけど・・・」申し訳なさそうに言う晴に
「はい。見ればわかります」彼女は、くすくす笑いながら言った。
「はぁ・・・」と息を吐くかのように言った後に、晴は続けて言った。
「あの・・・朝風亜子さんのおうちですか?」
「はい。私が朝風亜子です」またくすくす笑っている。
「あっ・・・そうですか・・・あの・・・お手紙きてました」とまた申し訳なさそうに渡した。
「ありがとうございます」今度は大きく頷いて声を出し笑った。
「麦茶おいしかったです。ありがとうございます」と言い、晴は深くお辞儀をした。
「いいえ、どういたしまして」と彼女も深くお辞儀する。
三輪車に乗っている男の子が、笑いながらバイバイと手を振っていた。
晴も手を振り、また母親であろう彼女にも、また深くお辞儀をし、門をくぐりぬけ出て行った。
あの光景が何だったのか?どこかで見たような光景が何だったのか、ようやく思い出した。
亜希子の七日日が終わった朝に見た夢と似ている。夢のようで夢でない夢。あの時と同じだと。
何とも不思議な感じだったが、このことは同僚の健三にすら話さなかった。
話したところでどうなるわけでもなく、まだ亜希子のことを引きずっていると思われるのが嫌だったから。不思議だけどどこか懐かしくて心地よい気持ちが晴を包んでいた。
その日、仕事終えた晴はいつもの大岩海岸へ向かった。今日もきれいな夕陽になりそうだ。
観光客だろうか。若いカップルが手を繋ぎ大岩海岸を歩いていた。少しはうらやましく思うけど、
あの頃の楽しい思い出のほうが晴を笑顔にしていた。
そしてカップルに向かい、いつまでもお幸せに呟いた。
そして一週間後、また朝風亜子に手紙が来た。
晴は何気に裏返し、差出人を見るが何も書かれていない。先週よりはかなり落ち着いていたが、
なぜかまだちょっとだけドキドキしている。これが何なのかよくわからないけどドキドキしている。次第に大きくなっていくドキドキ、ゆっくり深呼吸をする。
門から覗き込むように庭に入っていくと、先週と同じく男の子が三輪車を一生懸命漕いでいる。
手を振る男の子に「こんにちは」って手を振り返し、郵便受けに手紙を入れた。
「そら」って呼ぶ声が家の奥から聞こえた。晴は、今度心臓が飛び出るくらいびっくりした。
そしてまた「そら」って呼びながら朝風亜子が玄関から出てきた。
「あっ、この前は失礼しました」晴は、また冷や汗を掻きながらお礼方々深く頭を下げる。
「いいえ。あの~そらって子供の名前なんです。まだ三歳なんですけどね」
って亜子は子供に目をやる。
「空のそらね」って今日も青く澄み切った空を指さし笑っている。
「あっ、そうですか。いい名前ですね」
亜希子に、男でも女でも『空』ってどうかなって言ったのを思い出している。
亜希子は、男の子ならいいけど女の子だと、ちょっとねぇ~、でも女の子でもいいかもって笑ってうんうんと頷いて言ったのを思い出している。
「ちょっと待ってね」と亜子は言い、家の中に入っていく。
「空か、同じ考えの人もいるんだなと」と晴は青い空を見上げ微笑ましく思った。
亜子は、また麦茶とコップを持ってきてくれた。
「あ、すみません」と言い終わる前に亜子は「今日も暑いわね」とニコニコしている。
一気に飲み干した麦茶のコップを亜子は受け取り話し始めた。
この前引越ししてきばかりでまだ全然片付いていないことや、この町は初めてでまだよくわからないことや、仕事ももう少ししたら探さなきゃいけないこととか話してくれた。
ただ、空君の父親、旦那さんのことは何も話さない。
ましてこちらからは聞けないと晴は思った。
「あの、城崎さん」突然名前を呼ばれて晴は、またびくっとなった。
えぇ!何で知ってる?けど悪い気はしなかった。
なぜだろう?なぜかずうっと昔から亜子のことを知っているような気がした。
「名札、ね、名札」胸を指さし亜子は笑っていた。
「えぇ!あ、あぁ~」声にならない声で晴は、自分の胸の名札を見て笑った。
「城崎さん、夏子って知ってるよね」
「え、はい。同じ職場ですけど」
「うん。そうだね」
「はい・・・そうです」
「実は、夏子と高校時代のお友達なの。先週言おうとしたんだけど何か言いそびれて・・・」
「えっ!あっ!そうなの。あぁ~先週は俺、ちょっと何か、体調が、いや何かよくわかんないけど・・・あの・・・その・・・」
晴は先週のことを言われ、またしどろもどろになって、何て答えたのかわからなくなってしまった。
「ただ、夏子にはまだ引越ししてきたこと言ってないの」亜子は俯いて言った。
そして顔を上げ、ゆっくりと言った。
「ちょっと訳ありで・・・だから城崎さんもまだ黙ってくれるといいなぁ。
引越しして、こっちに来ることは言ってあるんだけどね。
もうちょっとしたら私のほうから言おうと思ってるから。だからお願い」
「えっ!えぇ~はい。そうですか。いや大丈夫です。
黙ってます。俺、おしゃべりでもないですから。口は堅い方だと思います」
「夏子から城崎のことは聞いていますから」と亜子は笑って言った。
「えっ!・・・」と晴は頭の上に手をやり、ヘルメットを被っているのに今気づいたようだ。
「夏子の言う通りだね。どうりで好きになるわけだ」って顔を覗き込みニコニコしている。
「えっ!えっ!ちょっと!何・・・何・・・」
また頭の中が混乱して何を言おうとしているのかわからなくなってしまった。
「えっ!はぁっ!そんなこと・・・絶対にないです」ようやく自信を持って晴は言った。
「城崎さんは鈍感だからね」亜子はじっと晴の目を見つめてくる。
「いつも城崎さんの名前も出てくるし」
「・・・・・」
「城崎さんの話をしている夏子は、とっても楽しそうだしね」
耳の奥から熱く火照ってくるのがわかる。しだいに顔が赤らんでくるのもわかる。
夏子が俺を好きになる?ありえない、この世に何があってもありえない。
夏子は高校卒業と同時に就職してきて、それ以来一緒に働いているし、まして亜希子を紹介してくれた人だ。たしかに夏子はいい人だと思う。
けど二人の間には男と女の恋愛感情のような思いはない。生まれるはずもない。
まして俺なんかと。さらに夏子には彼氏がいるはずだ。
結婚はまだしていないが彼氏はいるはずだ。いや、付き合っている人はいるよと言っていた。
「夏子には彼氏いるじゃないですか?」
まだ声が高ぶっているのが自分でもわかった。
「いないわよ。夏子見栄張って嘘ついてるの」
フフフと笑う亜子は晴の目をまだ見つめたままだ。
「えっ!見栄?嘘?・・・何で?」まったく意味がわからない。
「でも、これもまだ言っちゃだめよ。その時が来るまで。ねぇ。」
亜子は人差し指で口に手をあてた。
「・・・その時?・・・」
「そう。その時が来るまで。もう少しだけどね」
「あ、じゃ、俺まだ配達残ってるもんで」と言い、そそくさと逃げようとしたら、
「バイバイ」と空君が手を振るので傍まで行き、
「空君、いい名前だね。じゃ、またね。バイバイ」
って頭を撫でて、再び亜子にお辞儀をし残りの配達に向かった。
職場に帰った晴は、とりあえず麦茶をゴクリと飲む。
はぁ~ってため息をつきながら夏子をチラ見する。
夏子はお客さんに対応してて、目が合わずほっとしながらも、彼氏がいるのは嘘なのか?何で?と聞きたかった。
お客さんがありがとうって言って帰って行く。夏子も丁寧にお辞儀をし見送っている。
そして振り向き晴と目が合う。ぼうっとしていた晴と目が合う。
何?と言うような顔で夏子は晴に目を向ける。
すばやく目をそむけ仕事に戻ってく晴を、夏子は不思議そうに首を傾げ見ていた。
「おい!どうした?何かあったのか?」健三が隣に立って言う。
「あっ!いや!何も・・・ない」急に言われびくっとしながらも、ハッキリと言う。そして
「健三、あのなぁ~」
「ん?」
「夏子って彼氏いるよな?おまえ会ったことあるか?」と聞く。
「いるんじゃないの。けど会ったことはないなぁ~だってあれだろあれ遠距離何とかってやつ」
「そっか。えぇ~そうなんだ」晴は一人頷く。
「こういっちゃなんだけど」と少し間をあけ、健三は晴に面と向かって言った。
「あれからまだ一年立たないけど、新しい人見つけてもいんじゃないかな。そりゃ欲しければ見つかるとか見つからないとかいう問題じゃないけどさ。
まさか、俺はもう恋なんてとは言わないだろうな」真面目に言う健三に
「わからない」短くはっきり答えた。ほんとにわからないのである。
これから先、誰か好きになることなんてできるのか。恋とかは、したくてできるものじゃないだろうし、誰かを好きになるというのもそうそう簡単なものじゃないはずだし。
「そっか。わからないか。それならよしとしよう」健三は背中をパンと叩いて仕事に戻った。
亜希子は時の流れと共に忘れられていくのだろうか。
亜希子の人生に関わったどんな人達も、亜希子のことは忘れていくのだろうか。
ふと思い出すことはあるかもしれないが、涙を流すことはなくなっていくのだろうか。
死ぬことよりも忘れられるほうがどんなに怖くて辛いだろう。
けどまた、それも仕方のないことだとも思う。生きている者の宿命とやらではないか。
俺はどうだろう?亜希子を忘れる時は来るのだろうか?
10年20年先も思い続けているのだろうか?
でも忘れるってどんなことだ?その時の記憶がなくなるってことか?消去してしまうってことか?いや違う。悲しみを抱えたまま人は生きていけない。
だから悲しみを忘れる。そういうことか?
それもまた違う。忘れるって一体どんなこと?
覚えていると忘れるはどう違うのか?
今でもあの頃のことを時々思い出す。
けど悲しみはない。涙はもう出てこない。出てくるのは楽しかった思い出ばかりだ。
心の隅っこにしっかりと刻まれているのは楽しかった思い出ばかりだ。
今日も晴は、天気の良い日は大岩海岸で夕陽を見つめている。
俺は忘れない。あの楽しかった日々をと。
また朝風亜子の家の前にいる。晴はバイクを止めゆっくりと歩く。差出人の名前はない。
庭では亜子と空君がキャーキャー笑い叫びながらサッカーボールを蹴って遊んでいる。
空君が蹴ったボールが晴の元に転がって来る。晴は足でうまく拾い上げ、そのままリフティングを始める。
1・2・3・4・5と数えながら続けたところで失敗し、ボールは空君のところへころころと転がっていく。
あぁ~と苦笑いする晴に空君は、おっ!ちょっとうまい!ってびっくりして、手を叩きキャッキャッと笑っている。
横で亜子は「こんにちは」とお辞儀をする。
「お手紙です」と晴は差し伸べる。亜希子はありがとうございますとにっこりと受け取る。
「今日も暑いですね。今、麦茶持ってきますからちょっと待っててね」
「あの~大丈夫です」と言う前に亜子はまた家の中に入っていき、コップと麦茶を持って来る。
「あぁ~すみません」と言いながらも、ついでもらった麦茶を一気に飲んでしまう。
「夏子元気?」飲み干したコップを受け取ろうと手を差し伸べながら言う。
「うん。普通に元気だよ」頭を下げ、どうもとコップを申し訳なさそうに返す。
「そう。よかった。ここしばらく電話してないから」と安心したかのようにさらに続けた。
「城崎さん、夏子のことどう思う?」亜子は首をちょこんと傾げ聞く。
「えっ!?どうって?」答えに戸惑う晴に笑いながら続ける。
「城崎さんって、えっ!しか言わないのね」まだ笑っている。
「えっ!えっ?」また言ってしまったと思ったが、何て言えばいいのか?
あと何も言えないだろって思った。
「じゃ、これから私のお願いというか、言う通りにしてくださいね」
ニコニコ笑っていた顔が、急に真面目顔に変わった。
「夏子はね、城崎さんのことが好きなの。わかる?好きなの。ずうっと好きなの」
この前、うまく逃げられたから今日は逃がさないとでも言うように直球で来た。
「えっ!」あと声が出てこない。
まさかそんなことあるわけないよ!と言おうとしても声が出てこない。
「夏子、いっつも城崎さんの話ばかりだもん。それって好きってことでしょ」
この前と同じことを確かめるかのように言い、そして目を見て続ける。
「城崎さんが亜希子さんのこと忘れられないのはわかるよ。尚更まだ一年たってないしね。
夏子が亜希子さんを思っている気持ちも、城崎さんと同じだと思う。夏子も辛いんだよ。
だから夏子から告白なんてできるわけないし、城崎さんのこと忘れていくしかないんだよね。
でもそう簡単に忘れられないし、諦めきれないものなのよね。恋って。
本気で人を好きになるってそういうもんじゃないかな」
空を見つめ、そして返ってこない答えを待っている。
「私、もう一度城崎さんに幸せになってほしい。もう一度って変な言い方だけど絶対幸せになってほしい。もちろん夏子にも幸せになってほしい。二人が別々の幸せを掴んだとしても、それはそれでもいい。
絶対二人には幸せになってほしい。たった一度の人生だもの、いつも笑って生きていてほしい」
ちょっと目が潤んでいるように感じた。それを誤魔化すかのように亜子はフフフと笑い
「ごめんね。ちょっと変なこと言っちゃった」
と背伸びをするかのように青い空に両手を伸ばした。
「でも俺なんか・・・」とやっと声を出せた晴に
「そうだ!だからまずは、城崎さんから毎朝おはようの挨拶をすること。
それも名前を先に言うこと。夏子さんおはようってね。小桜じゃなくて夏子だよ」
亜子は楽しそうにいつもの笑顔に戻ってきた。
「いつも夏子からでしょ。城崎さんから言ったことないでしょ」
すべてわかってるよと亜子は言う。
「そう言えば・・・ないかも」と素直に出てしまった自分が恥ずかしかった。
「でしょ~正直でよろしい。じゃ、とりあえず明日から、しっかりね」フフフ。
「城崎さんだって、夏子のこと嫌いじゃないでしょ。むしろ好きのほうでしょ」フフフ。
「えっ!えぇ~・・・」なぜこうも直球でくるんだろ。
それも剛速球で。唖然としてしまう晴に
「いいの。いいの」と慰めるかのように亜子は言い、飲み干したコップにまた麦茶を注いだ。
晴はそのコップを素直に受け取り、一口飲み、何も言えず残りを一気に飲み干した。
「がんばって」と優しく手を振る亜子に、ぺこんと頭を下げた。
二・三歩歩いて晴は、振り返った。
「朝風さん」
「はい」
「俺・・・あ、麦茶いつもありがとうございました」今度は大きく頭を下げた。
「いいえ、お仕事も気を付けてがんばってくださいね」
「は、はい」晴は、また大きく頭を下げて、門から出て行った。
何を言おうとしたのか自分でもわからなかった。気が付くと振り返っていたのだった。
なぜ亜子の言うことに頷いてしまうのか?
黙ったまま何も言えず話を聞いてしまうのか?
亜子って誰?一体何者なんだろ?
夏子の高校の時の友達と言っていたけどそれだけか?
夏子には、まだ何も言わないでって言っていたけど聞いちゃおうかな。
亜子って知ってる?と。
亜子だって別にそれで怒ることもないだろ。まぁ怒られてもその場一回だし、そのうちわかることだろうし、特に問題はないかなとも思った。
でも、何かが引っかかって夏子に言えないのも確かだ。
近いうち自分から言うからと言っていたから、よほどの事情があるのかもしれないし。
やはり、もうしばらく夏子には黙っていたほうがよさそうな気がしないでもない。
あぁ~何が何だか、俺の頭の中はごちゃごちゃで整理がつかない。
ただでさえ俺の頭の中は、空っぽのくせにいつも散らかっている。
まるでゴミ屋敷みたいなのに、さらにだ。とベッドに倒れこんだまま頭を掻きむしった。
夏子が俺のこと好き?もしそうだとしたら亜希子のことを紹介したりするかな?
どう考えても紹介しないだろ。夏子とは職場の同僚でどちらかと言えば仲の良いほうではある。
確かに好きか嫌いか言われれば好きのほうに入るかも。夏子は明るくて優しいところもあるし、いわゆるいい人だとは思っている。でもそこに、男と女の間にある好き嫌いの感情は確かにない。なかったはずだった。そんなことを思い、あぁ~とまた頭を掻きむしった。
でも、でも何だ。晴は自分に問いかける。亜子に会い、どこか気になり始めてる自分がいる。
滲みのついた天井を見つめてると、夏子はちらっとこっちを見て微笑んでる気がした。
「夏子さん、おはよう」
次の日、晴は出勤してきた夏子が言う前に言った。それもきちんと顔を見て。
なぜこんなことになったのか?口が勝手に開いて言っている。そんな気がした。
「・・・・・」夏子がじっと固まっている。目を丸くしてじっと固まっている。
何かとんでないものを見たかのように。健三がどうしたというように夏子の顔の前で手を振っていた。
「あっ!・・・城崎さん、立林さん、お・・お・・おは・・おはようございます」
ようやく夏子は口を開いた。
健三は、ん?というように首を傾げ仕事に向かい、晴はニコッと微笑み、頭をペコっと下げて仕事に向かった。
自分の意志で頭をペコっと下げた気がしない。体が勝手に動いているような気がする。
でも嫌な気がしないのはなぜだろう?
むしろ清々しい気持ちが足元からじわじわと登ってくるのを感じる。久しぶりに心も体も軽くなり気持ちがいい。今日一日楽しく過ごせそうな、そんな気までしてくる。
亜子のことを夏子に聞いてみようか悩んでたけど、それはやはりやめとこうと決めた。
亜子から言わないでと言われたからだけど、破るのはいとも簡単だ。
でもやめとこうと決心した。
夏子は、顔を赤くしたまま晴の後姿を目で追いながら、不思議に思いながらも微笑んでいだ。
もう夏なのに、それも暑すぎる夏なのに、長く厳しい冬がようやく終わり、春の日差しが差し始め、待ち遠しかった春がやっと来た時の様に、ルンルンと心が弾み何もかも新鮮に感じた春の訪れのように心が自然と踊り始め、振り返った晴の顔は爽やかでもあった。。
「城崎さん、おはよう」
城崎さんではなく『晴君、おはよう』と夏子は、晴の姿を追いながらもう一度心の中で呟いた。
今日は、朝風亜子の家には手紙は来ていない。
昨日の今日でまた手紙が来るはずもないが、妙に気になった。
家の前を通りかかった晴はバイクを止め、エンジンを切った。
中の様子を伺おうとしたがやはりやめた。
昔ながらの古い作りの大きな家で高い塀もあるので、外から中の様子は見えないようになっている。ヘルメットの中から溢れ出る汗を拭き、再びバイクのステップを踏みエンジンをかけ次の配達先へと向かった。
配達から帰って来ると夏子と目が合った。何だか恥ずかしくてすぐ目をそらした。
そしてしばらくして夏子が晴のとこへやってきて、何やらまたメモ用紙を置いて行った。
『今日夕陽きれいみたいでよ。久しぶりに見に行きませんか?大岩海岸で待っています』
大岩海岸は、晴と亜希子の思い出の場所でもある。それを夏子は一番よく知っている。
晴は仕事を終えてから大岩海岸に向かった。
日も長くなり、抜けるような青空が清々しくまだ眩しい。
大岩海岸に着くと、夏子がぽつんと佇んでいるのが見えた。晴はしばらくその姿を眺めていた。
どこか遠くを見つめているその後ろ姿が、寂しそうでもあり、笑っているようにも思えた。
亜希子と夏子を重ねてしまった。けどその後ろ姿は、亜希子ではなく間違いなく夏子だった。
なぜか急に夏子が愛おしく見えきて仕方なかった。
その時、晴の気配に気づいたのか「城崎さ~ん」って呼ぶ声が聞こえた。
ふと我に返ると、彼女が振り返って立ち上がり大きく手を振っていた。
持ってきた冷たい缶コーヒーを「はい」と夏子に渡すと、
「ありがとう」と恥ずかしそうに微笑んだ。
二人一緒に岩場に座り、カチッとプルタブを開け一口飲んだ。
二人は遥か地平線を見つめたまま、もう一口飲んだ。
いつもは明るくてどちらかというとお喋りなほうの夏子は、何も言わずまだ地平線を見つめたままだ。
ちらっと横見すると、目が潤んでいる。けど顔は楽しかった時を思い出すように微笑んでいる。
二人の間に言葉がなくても、気まずい思いなどまったくない。
夏子は何を思っているのかわからないが、夏子の隣はとても居心地がよく、晴もつい微笑んでしまっていた。
青かった空も次第にオレンジ色に染まり始めた。
「きれいだね」ぽつりと夏子は言った。
「うん」晴はそうだねと頷いた。
「今日はありがとう」
ちらっと晴を見つめ、またオレンジ色に染まり始めた地平線に目を向けた。
「えっ!何が?」何のことかわからず晴は夏子を見る。
夏子の横顔が夕陽に照らされはじめ、きれいなオレンジ色を浴びて輝いている。
「いろいろと・・・ねぇ」夏子と目が合った。大きな黒い瞳はまだ潤んでいるかのようだった。
夕陽が地平線に近づいていこうとする頃、ゴールドラインができ二人を照らすようにすうっと伸びてきた。
「ここ思い出の場所だよね。亜希子と・・・」夏子は小さな声で言った。
「思い出というか・・・まぁ~」
二人は遠くを見つめたままだ。ゴールドラインがさらに二人の元に伸び照らしてくる。
「私も忘れられない。だって一番の親友なんだもん。早すぎるよ。あんまりだよ」
声が涙声に変わった。
「だよね」夏子の顔を見ることができなかった。
「亜希子ってどこへ行っちゃったのかな?」
夏子は空から見てくれてるのかな、とでも言うように空を見上げて言った。
「どこへも行かないよ。せめて俺と夏子さんの中にはいると思うよ」
そう言う晴を夏子は涙目で見ている。
「そうだね。私と城崎さんの中にはずうっといるね」
また空を見上げ力強く頷いた。
「私この町好き」
「うん。実は俺もだ」二人は、一緒になって笑った。
「この町から出たこともないけど、好き。田舎だけどとっても好き」
「俺も出たことないよ。この町でずうっと暮らせたらといいなと思っている」
「私もずうっとこの町で暮らしていたいなぁ~」
「そうなの?」
「うん。この町を出たいと思ったことはあるよ。すぐにでも出たいと思ったことはあるよ。
でも今は、残っててよかったと思ってるし、できればずうっと暮らしていきたいと思ってる」
「じゃ、俺と夏子はずうっとこの小さな町にいるわけだ」
「そっか」
二人はまた笑いあった。腹の底から笑っておかしくなりそうだった。
老夫婦が、ゆっくりとこちらに歩いてくるのが見えた。
どうやら地元の人ではなく、観光客だろう。歳をとっておじいさんおばあさんになっても、
あんなふうに仲睦まじく幸せそうに生きてこれたらどんなにいいだろう。
そんな二人の姿が、何とも微笑ましく、またうらやましいなと晴は思った。
その横にいる夏子もまた、同じことを思っていたのだろう。
夕陽に照らされた夏子の口角がそう言っていた。
でも俺は、この先どうなるんだろ。
ひとつの幸せは終わった。
夏子の横顔をじっと見つめていた晴に気づき「ん?」と首を傾げる夏子。
目には、沈みかけた夕陽が映っていた。
「あんなふうに仲がよいおじいさんおばあさんになれたらいいね」
「城崎さんなら大丈夫だよ。・・・あ、ごめん」
「別に、謝んなくてもいいよ」晴は、クスクス笑った。
「夏子さんこそ、良い人と出会ってあんなふうになれたらいいね。うん。大丈夫」
「そうかな」
両膝を腕で抱えたその膝の上に、ちょこんと顎をのせ言った。
沈みかけた夕陽がいつの間にか消えたが、空はさらにオレンジ色に染まっていった。
もう少しするとそれは、群青色に変わり染まっていく。
「夏子さんって、彼氏いるんだよね」
晴は、バツが悪そうに膝の上に顎をのっけている夏子に何げなく聞いた。
「いるよ」晴の目を見て笑ってはっきりと言った。それも間を置かずに。
「どこの人なの?俺の知ってる人?」目と目が合ったまま晴は聞いた。
「さぁ~どうでしょ。気になる?お・し・え・な・い」
フフフフと笑う夏子がたまらなくかわいく思えた。
「まぁ、いるんならいいけど。でもこうして二人で会って大丈夫なの」気まずそうに言った。
「全然大丈夫。気にしない。気にしない」まだ笑っている。
「城崎さんはどうかな?まだ何とも言えないよね」笑いは収まっている。
「えっ!何が?」意味がわからず聞き返す。
「う~ん、これからのこと・・・とか。まぁいいっか」夏子は一人頷いた。
気がついてみると、オレンジ色だった空もすっかり薄暗くなり、群青色に変わった空には一番星が輝いていた。
そしてこの海辺の上には、もうすぐ満天の星がまき散らされる。
「帰ろうか」晴が言う。
「もうちょっといようよ。ほら星が・・・きれいだねぇ~」一番星を指さし夏子は言う。
晴は何も言わず空を見上げた。
こうして星空を見るなんて今まであっただろうかと。
見る見るうちにあたりは暗くなり、あっちこっちで星が輝き始めた。
「ほしってどういう漢字書くか知ってる?」
「え、何?・・・そりゃ知ってるけど」
「だよね」ハハハ。
「こうでしょ」と夏子は、晴の手を取り掌に漢字で『星』と書いた。
「おぉ~正解」急に手を握られ、掌に書かれた晴は、ドキっとし顔が赤くなるのがわかった。
「誰かが言ってたんだけど、誰だったかなぁ~。まぁ誰でもいいか、俺にしとくか」
晴は笑い、そして笑い続けた
「星と言う字は、日が生まれると書く。辛い時星を見上げてください。
きっと明日が生まれます。そして明日は、明るい日に違いありません。何か忘れられないんだよなぁ~この言葉が」
「うん。何か滲みる。心に滲みるね」
二人は、輝きだした星を見つめる。
二人の間に生まれるこの沈黙。止まったようなこの時間。
二人のためだけに与えられたこの時間。
星が一段と、あっちこっちで輝きだした。
「流れ星でも見えないかな」と言い、夏子は両手を伸ばし、はあ~って砂利の上に寝そべった。
「うん。でも無理かも?でも見たいな」晴もつられて砂利の上に、あぁ~って寝そべった。
夏の夜の風が、生暖かく二人の前を通り過ぎてはまた新しい風がやって来る。
小粒の小さな石も、体を指圧するように気持ちいい。
「もし見えたら何お願いする?」真剣に夏子は聞く。
「ん~急に言われても・・・わかんないや。じゃ、夏子は?」
過去のことか未来のことか、お願い事なら未来に決まっているかもしれないが、
どっちをお願いするべきか、晴にはわからなかった。
「内緒」秘密の願い事が叶うのが確実かのように、夏子はニヤニヤしている。
「えっ、何それ」晴は夏子の横顔を見て、つられて笑った。
どれくらいの時間が立ったのだろうか?
気が付くと満天の星が目の前に広がっていた。吸い込まれそうだ。
「あ!北斗七星!別名ひちゃくぼし!」晴は指さして言った。
そしてその由来を得意げに話し始めた。
確か、小学校の教科書に載っていたよねと思い出しながらも、途中で忘れてしまって。
あれ?いや?違うな?ん?あれ?と誤魔化し、空を眺めながら一人笑った。
隣の夏子も、晴を見てまた大きな声で笑った。
二人の笑い声が、暗闇の静かな浜辺に優しく響いていた。
隣に寝転んで、星を見上げている夏子。
不思議な子だけど、一緒にいるのがとても心地よくてほっとする。
何も考えなくてもいい今の時間が、ずうっと続いてくれるなら続いてほしいとも。
この体を、すうっと生暖かい風がさらって、満天の星の近くまで運んでくれたらどんなにいいだろうかとも。
そして、人は死んだらどうなるんだろうか?
いつかは、誰もがみな死ぬ。ただ、早いか、遅いか。短いか、長いか。
23歳ってどうなんだ。
人生はどう生きたか?なんてよく言うけど、
23歳って一体どうなんだ?どうもこうもないじゃないのか。
どう生きたかなんて、全然足りないじゃないか。悔しさにも似た感情がこみ上げてきた。
「城崎さん・・・」夏子に呼ばれ我に返った。隣に目をやると夏子はなぜか泣いている。
「ん・・・」返事をするだけで、あと何も言えなかった。
「何でもない」涙を拭い、空を見上げたまま夏子は言った。
しばらく二人の間には、時間だけが流れていった。
「いいよ、何言っても。・・・俺は大丈夫だから」空を見上げたまま、晴は微笑んで言った。
「・・・人って死んだらどうなるのかな?」夏子は、晴を横目で気にしながら小声で言った。
「どうなるんだろうね」晴は夏子が、同じことを考えていたことになぜかうれしくてたまらなかった。
「すっかり暗くなちゃったね。じゃ、帰ろうか」ゆっくり起き上がって晴は言った。
「うん。ごめんね」夏子の目には、まだ涙が浮かんでいた。