序章 晴76歳
序章 城崎 晴 76歳
あの日から、早くも50年が過ぎた。
顔は、当たり前のように皺に深く刻まれ、髪はとっくの昔に真っ白になり、今はさらに薄くなった。腹回りの脂肪も増え、体重は若い頃よりどれぐらい増えたことだろう。
文字を読む時は老眼鏡が必要になり、耳も遠くなった。腰痛もひどく、体はあっちこっち湿布だらけで、歩く姿も前屈みになりそして遅くなった。また飲む薬の量も種類も増えた。
けど、大きな病気ひとつもしないで今まで生きてこれたのだから、幸せなほうなのかもしれない。
あの日と何も変わらないのは、目の前に広がっている、この透き通るような景色だけだ。
あの日と同じく、7月の空はどこまでも青く、大きな入道雲がどっしりと構えている。
今日も穏やかな海には、ゴールドラインがキラキラ光り輝いて伸びてきて眩しいくらいだ。
はるか遠くの水平線に吸い込まれるように沈もうとする夕陽が、まん丸い顔でオレンジ色になって笑っている。青く抜けるように澄み切った空もオレンジ色に染まり始め、ほんのりと温かみを与えてくれる。北国の短い夏も、ようやくやって来たのだった。
そんな夕陽を見つめながら城崎晴は、ゆっくり深呼吸し瞼を閉じた。
50年前きみと見たあの夕陽と同じだ。きみにプロポーズしたあの日の夕陽と同じだ。
この日、晴と亜希子は大岩海岸にある大岩の頂上に昇っていた。
小さな町が一望できる場所でもある。何千年も何万年も前から、いや地球が生まれてからだろう。
岩が波に削られ丸い小石となって海辺に打ち上げられ、小石の海岸となっている。
海には尖った岩が、ところどころで顔を覗かせている。
その中で大きくて島のようなのが大岩と呼ばれ、海岸から海に向かって百メートルほど先にある。
波の荒い日は渡ることができないが、今日のように穏やかな日は、大岩まで歩いて行けるように整備舗装され、歩遊道としてまっすぐに伸びている。。
その歩遊道を歩き、大岩の前まで来ると10メートルほどの小さなヒンヤリとした洞穴がある。
その小さな洞穴を潜り抜け、岩場を登っていく。その洞穴から見える空は、格別だ。
狭くて一人ずつしか登れないが、安全に登れるように階段や手すりも作られている。
登りきると、そこは別世界の様な解放感に包まれる。
カモメが空高く、気持ちよさそうに『アーアーアー』と円を描いて舞っている。
見渡す限り真っ青な海で、海の真ん中にぽつんと浮かぶ小さな島のようでもある。
手を伸ばせばどこまでも伸びていき、はるか上空にぽつんと浮かんでいる雲でも掴めそうである。
もちろん棒を手に取り、くるくる回せばおいしそうな綿あめも作れそうな気さえする。
またそこには、天国に昇る階段があるとも言い伝えられている。
城崎晴は、その大岩の頂上で意を決してプロポーズをしたのである。
婚約指輪も買えず、サプライズもないプロポーズだったけど
きみは涙を浮かべ「はい。こちらこそよろしくお願いします」と言い頷いてくれた。
慌ててそこらへんに咲いている草花をちぎり、きみの左の薬指に巻いた。
本来ならダイヤモンドか何かの宝石がついているはずの指輪には、白い花が小さく咲いていた。
きみはその手を夕陽にかざし、フフフと笑ったかと思ったらまた一粒涙を落した。
頬を伝わり落ちていく涙が、夕陽に照らされキラキラと光り輝いてまた落ちていった。
目の奥には、夕陽に照らされた変な薬指が、とてもきれいなシルエットとして映っていた。
そんなきみの横顔がとてもきれいでかわいい。これからもずうっと傍で見ていられるものだと晴は思っていた。晴と亜希子はキスを交わし、二人肩を寄せ合い、ゆっくりとじゅわっと音を立て沈んでいく夕陽を見つめていた。海に吸い込まれるように沈んでしまった後も、じっとただ遠くを見つめていた。二人の未来でも見ているかのように。
きみの横顔は微笑みを浮かべ、目に潤んでいるものはいつまでも光り輝いていた。
あの日から50年、あっという間に過ぎてしまった。
青森県深浦町大岩海岸はあの時と何も変わらない。
今では、時々城崎晴の散歩コースになってしまっただけだ。
76歳になった晴は、じゃまたなと言い、沈んでいく夕陽を見ながら目を潤ませ微笑んでいる。
夕陽を見ていると、とても幸せな気持ちになる。
なのに目頭がどうしようもなく熱くなり、目の前が霞んでしまう。
俺は76歳になってしまったけど、きみは相変わらず23歳のままだね。
73歳のきみって一体どんなんだろう?
やはり皺に、たるみ、白髪。当たり前か。でも髪は染めてるだろうね。
そしてまだポニーテールかな?体は太ってる?痩せてる?背中は?少し曲がってる?
足は大丈夫?どっか悪いところない?ん~想像できないや。
でもあの笑顔だけは変わらないかもな。俺はもう少し生きていくかもしれない。
いや多分、もう少し生きていけるんじゃないかなと思う。
けど、みんなに迷惑だけはかけないようにしないとな、って苦笑いする。
そして晴は、すっかりオレンジ色に染まったきれいな空を見上げて思う。
いつも心の奥底にひっそりと佇んでいて、動こうともせずにいるものを。
何度も引っ張り出すのはよくないとは思っている。でも今日は引っ張り出して来よう。
いつまでも消えずに、心の奥底に佇んでいるきみへの想い。
「きみは幸せだったのか?」
誰にも言うこともなく、言えるわけもなく、自分だけの秘密のように時々ふと思うのである。
そして、ズボンの後ろのポケットから封筒を取り出す。
やけに黄ばんでしまった封筒。かなり古いような気がするが、大事にとっておいたのだろう。
ぼろぼろではなく、ただ黄ばんでいるだけの封筒。
宛名は、城崎 晴様。切手を貼った後もなく、裏には差出人の名前もない。
しわくちゃの枯れた手で封筒の中から、一枚の便箋を取り出す。
白かった便箋も封筒同様かなり黄ばんでいるが、きれいにたたまれている。
これを読むのは、今日で何回目だろう?今までも何回か見たことはある。一人の時こっそりと。
そしてきれいにたたまれた、便箋をゆっくり開く。
縦書きで丁寧に書かれた文字。それも真ん中に書かれた、たったの一行。
「はれじぃ~」波打ち際で、10歳になる理奈がはしゃぎながら手を振っている。
隣には、73歳になる夏子が膝をかかえたたずんで、理奈を見つめ微笑みを浮かべている。
「おぉ~」と晴も手を振り、ゆっくりと封筒に便箋を戻しズボンの後ろポケットにしまう。
理奈が転びそうになりながらも、小石の海岸を小走りで晴のところにやってくる。
そして思いっきり足元に抱きついてくる。
「大きくなったなぁ~こりゃもう無理かな」頭を撫でながら言い、晴は抱き上げようとして苦笑いする。抱き上げられた理奈は、両手を広げ「わぁ~っ」て叫び、その手を晴の首に回す。
「なつばぁ~も早く早く」理奈は夏子に手招きをする。
「はい。はい」と言い夏子は、はにかみながらそれなりに早足でやってくる。
晴には、娘が一人孫が一人いる。娘が近くに嫁いだので、時々こうして孫と一緒にやってくる。
孫は、自分の子供よりかわいいとよく言うが、ほんとだなと晴と夏子は思っている。
孫は、責任がないからかわいいともよく言うが、それはどうかな、ちょっと違うんではとも思っている。若い頃は、自分に孫ができその孫を抱いているなんて考えてもみなかった。
ごく普通のことが、こんなにも幸せで生きる希望を与えてくれるとは思ってもみなかった。
「理奈ちゃんったら早いねぇ」少し息を切らせながら、夏子は理奈のほっぺたをぐにゅぐにゅしながら言う。晴の腕の中でうれしそうに暴れる理奈は、キャーキャー言ってる。
「おぉ~危ない。危ない」晴はゆっくり理奈をおろし、また頭をくしゃくしゃに撫でる。
嫌がる理奈は、本当は楽しくてうれしくて仕方がないようだった。
理奈を真ん中に挟んで右に晴、左に夏子。
三人は手を繋いでオレンジ色に染まった夕陽を見つめている。
「はれじぃ~なつばぁ~きれいだね」夕陽を浴びてキラキラしているかわいい笑顔で、理奈が二人を交合に見上げながら言う。二人は、理奈の身長に合わせしゃがみ込む。
「うん。きれいだね」夏子が、理奈のふっくらとしたほっぺたをつついて言う。
「何かお願い事してごらん」と晴は、理奈の顔を覗きこみ笑っている。
「えぇ~夕陽にお願い事なんて聞いたことないよ」理奈は不思議そうに晴に首を傾げる。
「これはね、誰も知らないんだよ。夕陽にお願い事するとほんとに叶うんだってことがね」
「そうなの?」理奈はまだ不思議そうな顔をしている。なつばぁにそうなのって顔をむける。
「これは、なつばぁ~と三人の秘密だよ。誰にも言っちゃダメだよ。ママにもパパにも絶対言っちゃダメだよ。誰かに言うとね、そのお願い事が消えちゃうんだよ」
「うん。わかった」理奈はハッキリと頷き、眩しそうに夕陽を見る。
「じゃ、三人でお願い事しようか。夕陽に向かって目を閉じて3回言うんだよ」
「うん」理奈は、思いっきり力を込め目を閉じ、何やら真剣にお願いしている。
唇も強く引き締まっている。晴と夏子も、目を閉じている。
二人ともあまり口に出しては言わないほうだけに、晴は夏子に、夏子は晴にありがとうこれからもよろしくね。そしていつまでも元気でいますようにと願った。
「理奈ちゃん、何お願いしたかなぁ~」晴がまっすぐ目を見て、微笑みながら聞いた。
「内緒だよ」ふんって首を横に振り、頬っぺたを膨らませ理奈が言う。
ハハハハそうだねって晴は、これまた大声で笑った。
「はれじぃは、何お願いしたの」真剣に問いかける理奈がとてもかわいい。
「決まってるだろ。理奈ちゃんがいつまでも幸せでいられますようにってお願いしたよ」
「あれ、お願い事言っちゃダメなんじゃないの」理奈はクスクス笑ってる。
「あ、そうだった。でもこれは三人だけの秘密なんだからいいの」頭を抱え笑う晴。
「そうなの?なつばぁ~」理奈の目はオレンジ色に輝いている。
「なつばぁもね、理奈ちゃんがいつまでも幸せでいられますようにってお願いしたのよ」
理奈の頭を撫でながら言う。理奈はちょっぴり恥ずかしそうに微笑み
「うん。わかった」大きく頷き、二人を交合に見てさらに言った。
「理奈は、はれじぃとなつばぁが元気でいますようにってお願いしたよ」
「理奈ちゃん」晴と夏子の声が重なった。そしてちょっぴり震えてもいた。
二人は、理奈を強く抱き締めた。ゴールドラインが三人にスポットライトを当てているかのようにキラキラと穏やかな海の上を伸びていた。
「じゃ、帰ろうか」夏子が理奈に微笑む。
「うん。お腹すいた」理奈が、二人を見上げて言った顔は、まだ照れ臭そうだった。
ハハハハと晴は、またまた大声で笑い
「じゃ、帰ろう」って三人で手を繋ぎ、大きく手を振りながら大岩海岸を後にした。