《冥府の王》が動き始めたようです。
少女を背負ったロウは、《龍王》の住処へと戻ってきていた。
『ヒトの子よ。『使い魔』を殺せたようだな。小さかったヒトの子がこれ程強くなったとは、喜ばしいことだ。……その小娘はどうした?』
「《龍王》様、この子は…『使い魔』が連れ去ろうとしていた子です」
その言葉に、大きく目を見開く《龍王》。何千年か昔に神が作った《冥府の王》。その使い魔が来るようになって数千年。
何かを探すことはあってもヒトの子を攫うなどということは一度も無かった。
『冥府』に何かがあったのだろうか?それとも神の差金か?《龍王》はその真意を図りかねていた。
『……ふむ。かつて無いことではあるが……ただのヒトの子にしか見えんな。特に心配は無いと思うが…ううむ、『使い魔』が何故そのような事を…』
「このような事は初めてなのですか?」
『うむ。我はお前の手足の指の数よりも遥かに多く奴らを見てきたが…ヒトを攫うなどとは思わなかった。お前の村の者には迷惑をかけたな』
「…いえ、そんな事はありません」
『冥府』含む外敵から山と森に住む者達を守る《龍王》にとって、『使い魔』の行動はあまりに予想外だった。
時折魔力の波を広げて様子を確認はすることはあったが、その時も『使い魔』はうろうろと何をするでもなく歩き回るだけの存在だった。
何百年と同じことを繰り返す『使い魔』に《恐怖》を撒き散らす以上の害は無く、死を司る《冥府の王》の機嫌を損ねる気も無かった。
『―――――同じ神の下僕同士仲良くやろうじゃあないか。なあ?《龍王》よ―――――』
当時はいなかったから考えもしなかったが、今思えば、ヒトに似せて創られた存在だった。
違うとすれば男とも女とも判断が付かない中性的な顔と、黒く淀んだ魔力の波。
全ての終焉、《死》そのものである《冥府の王》は、現状、神に次ぐ強さの持ち主であった。
…何を考えているのか分からない、あの悪意の存在を何故神は作ったのだろうか。
考えこむ《龍王》を見て、ロウが不安気に声をかける。
「それでこの子なんですが…《龍王》様?」
『…む、どうした?』
「いえ、この子を村で引き取ろうと思いまして…どうしようかと…」
『うん?村の者では無かったのか?』
「村の者の名と顔は全員覚えております。…外から来たのではないかと思うのですが…」
『…お前達が良いのであれば問題あるまい。《刻印》を付けてやれば良いか?』
「お願い致します」
爪先を軽く振るい、少女に魔力の波を染みこませる。
森に住む者のうち希望者は、この魔力による《刻印》を受けることによって相手が外敵かどうかを知ることが出来るようになる。膨大な魔力を扱い、数万年を生きてきた《龍王》の《魔法》の一つだ。
ヒト種が扱う《魔術》では精々が付けた火を長時間保ったり空中から水を少量取り出す程度だが、《龍王》の《魔法》は森全体を灰にし、大地の水を奪って荒野に変えることが出来る。
長年の研鑽によって創りだされた《魔法》と見様見真似の《魔術》では大きな差があった。
『この小娘が起きたら伝えておけ。我が森で狼藉を働けばこの《龍王:グラン》が骨も残らず喰い尽くすとな』
「…分かりました。ありがとうございます」
『……我は疲れた。山で少し寛いでくる』
そう言うと、《龍王》は立ち上がり、自らの魔素を力場に変え始めた。身体が少し浮いたかと思うと、その巨大な翼を羽ばたかせて上空へと一気に舞い上がる。
目指すは大陸中央の山。活火山であるそこは《龍王》によって溶岩を風呂代わりに使われている。全身を溶岩へと投げ込み、身体に付着したゴミや老廃物を焼き尽くしてまた戻ってくるのだ。
残されたロウは少女を抱え、木にしがみついていた。
50メートル近い巨体が舞い上がったとは思えない程には地上への影響は僅かだった。
だが、ヒトにとっては十分暴風だ。
必死でしがみつかなければロウはともかく、少女が身体を木に叩き付けられていただろう。
「っと。…相変わらず凄い風だったな…」
脇に抱えた少女を見る。これだけの暴風があったにも関わらず暢気にも寝息を立てていた。
一体この少女は何者なのだろうか。《龍王》ですら分からない以上、謎としか言いようがない。
(…もしかしたら本当に外から来たのだろうか?)
そんな事を考えながら、ロウは少女を連れて村へと戻った。
《龍王》もロウもいなくなったその場所で、人影が一つ、音も無く浮き出た。
「いやー、楽しみだなぁ。《冥府の王》も一体何企んでるのかなーあんなことしてー」
【知っていてその発言ですか】
「人類の皆にはぜひこの苦難を乗り越えて成長して貰いたいねえ。《龍王》の庇護はもういらないだろうし」
【苦難ですか。最初からハードルを上げると脆弱な現ヒト種には厳しいのでは?】
「そんなことないって。なんてったって―――――」
「―――――真に愛し合う二人は無敵なんだから」
格好付けたその人影は満足したのか、空間に吸い込まれるようにして消えていった。
その姿を見ていた者は、誰もいなかった。