ヒカリ
ピンポーン、という軽快な音が室内に響いた。その部屋の中は無音であった。彼はその音を無視した。ただ一つ、小さなため息をついて、またか、と呟く。
その音は、それだけでは止まなかった。ピンポーンと繰り返し同じ音が彼の耳に障った。二度、三度と鳴らされ、ようやく音は止まった。安堵の息をつく。
だが、チャイムを鳴らしていた人物は、諦めてはいなかったようで、彼の意に反し、今度は音の伸びる間もないほど高速に、連打し始めたのだった。
「……っ、ああもうしつこいな!」
彼はついに我慢の限界に陥り、手にしていた鉛筆を机に叩きつけ、立ち上がり音の元凶へ、ずかずかと歩いていく。靴を履かず裸足のまま散らかった靴の上を辿り、彼は勢いよく玄関のドアを開け放った。
「っとぉ、びっくりしたぁ。やっぱいるんじゃん、何で開けてくんなかったの」
同時にチャイムの音が止む。チャイムを狂わせていたのは、これでもかというほど顔を歪ませている部屋の主の目の前に立っている男、唯野輝だった。
「……お前だとわかってたから開けなかったんだよ」
そう呟いて、そのままドアを閉めようとする彼を、唯野は必死になって阻止した。
「ちょ、何すんの、せっかく俺が差し入れ持ってきたのに! 馬鹿っ閉めるな!」
「うるっさい! 俺は仕事中なんだ、帰ってくれ邪魔すんな!」
必死の抵抗にも拘わらず、彼と唯野の体格差は誰の目からもはっきりしているため、ドアは呆気なく開かれてしまった。唯野は彼に打ち勝ったことに満足したのか、ふう、と言って汗を拭う素振りをしながら胸を張る一方で、彼は息切れする始末である。
「『呆れた王だ、生かして置けぬ!』」
「……なんで、そこでメロスが出てくる」
彼は何度か息をついて、ようやく落ち着きを取り戻した。
「『セリヌンティウス、私を殴れ。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない』」
「殴っていいなら殴るが」
身振り手振りまでつけてメロスを演じた唯野だったが、彼はため息をついてそれを無視した。しかし、よくあることなのだろうか、唯野は傷ついた様子の一つも見せない。
「いや、とんだ暴君だと思ってー。献上物を奉りに参りました、五十嵐春樹殿」
五十嵐と呼ばれた彼は、再びため息をつくと、くるりと身を翻し、靴の上を歩いて玄関に上がった。唯野はそんな五十嵐の姿を見て、にこりと笑ってその後ろに続き、自分が入った後にドアを閉める。
「お前……ほんと暇だな。こんなとこ来てもおもしろくも何もねぇのに」
靴を脱いで「お邪魔ー」と言って上がってくる唯野を振り返りながら、五十嵐は呟いた。
「ん? そんなことねーよ。俺ここ来るのすごい好き」
「なんで?」
「春樹と話すのが楽しいから」
唐突に言われた一言に返事をすることができなくて、五十嵐は無言のまま部屋の中まで唯野を率いていく。案内するほどでもない狭い部屋ではあるが。
街の住宅地の一角でも最も安い賃貸アパートの一室が、五十嵐の自宅兼仕事場だった。ただでさえ狭い部屋なのに、部屋はほとんど彼の仕事道具で――部屋に慣れている彼自身でも、時々足をひっかけて大量の本の上に突っ込んでしまうほどに――埋め尽くされている。
だから、こんな汚いところに好んでやってくる唯野のことが不思議で仕方なかった。それでいて、周囲から孤立した自分のところにわざわざ訪れてくれることに喜びも感じていた。故に、いつになっても唯野を突き放すことはできなかった。
「相変わらずものすごいお部屋で」
「素直に汚い部屋だなって言え」
「いやいや、汚いとは思わねぇよ? 俺こういう本に囲まれた部屋って好きなんだ」
「……ふぅん……」
適当に座って、と言いたいところだが、あまりに部屋が狭いために、唯野が座れるような場所に選択の余地はほとんどない。だが唯野はそれも慣れているのか、何の迷いもなく五十嵐がいつも仕事で使っている小さな円卓の前に腰を下ろした。
「あ、そうそうこれ、差し入れ。春樹これからどっか出かけたりする?」
「いや、別に?」
「じゃあよかった。お前の好きな酒買ってきた。飲もうぜー」
準備のいい奴だな、と五十嵐は笑う。台所の棚にかろうじて残っていた、酒の肴になりそうな菓子やらを引っ張り出して、五十嵐は円卓を挟んで唯野の前に座った。
だが、円卓の上には先程まで使っていた本やら鉛筆やらが散らかっていたために、とりあえずそれらを片付けようとした。
そして、その中に『それ』があった。五十嵐は危険を察知し、慌てて隠そうとしたものの、
「お? それもしかして新作?」
……見つかってしまった。
「違う、これはただ息抜きに書いてただけだ」
言いながら、その束をとっとと回収してしまおうとしたが、唯野の興味津々な目線はそれから離れない。
「何の話?」
「……招き猫を盗んだ男が強盗に騙される話」
「へえ、春樹にしては珍しいな! ちょっと読ませてよ」
「あっこら!」
呆気なく奪い去られてしまった。これあげるから、と言われ渡されたのは、烏賊の一枚干しだった。一袋数百円するわりに一枚しか入っていない高級品である。彼は五十嵐がこれを好きだと知ってわざわざ買ってきたらしい。ったく、と呟いて口を尖らせながらも、五十嵐は抵抗せず烏賊を受け取った。
五十嵐の職業とは、言わずと知れた小説家だった。そして唯野は、一読者であり「小説家・五十嵐春樹」の一人目のファンでもある。
唯野は、五十嵐が趣味で小説を書き続けていたことを高校生のときから知っていた。唯野とはもうかれこれ十年以上の付き合いになる。高校生のときに初めて、唯野に投稿してみたらどうかと言われてから今日に至るまで、五十嵐は小説を書き続け、彼はずっと五十嵐の小説を読み続けていた。そして時にアドバイスもしてくれた。彼はよく、五十嵐でも気付かなかったような間違いさえも見つけて指摘した。
言ってみれば、「小説家・五十嵐春樹」は唯野がいなければ存在し得なかったと定義しても過言ではないだろう。現に、プロへの道を進むきっかけになったのは、彼の言葉だった。彼にその言葉をかけられていなかったら、おそらく五十嵐の小説は「趣味」の域で留まっていただろう。少なくとも、今のように書店に当たり前のように自分の作品が並んでいることなど、当時の自分は想像もしていなかった。そもそも、作品を人前に出すことなど、考えもしなかった。
ちらりと目をやると、目の前の彼は原稿用紙の束を真剣に見つめていた。小説家の生原稿など、ファン(どれだけいるのかは知らないが)にとってしてみれば相当レアなものだろうに、彼にはもう何度、正式な本になっていない紙束を読まれたことか。
だが、彼は五十嵐の既出版の本を全て購入し、自宅の一つの本棚にずらりと丁寧に並べていた――それを目にしたとき、動揺を隠せなかったのは言うまでもない。元の原稿を読んでいるのだから、改めて買う必要はないのではないかと彼に言ったことがある。その時彼は、「本として並んでいるのがいい」と言い切ったのだった。
恥ずかしいやつだ、彼は。
唯野から目を離し、五十嵐は気を紛らわせるために手元に原稿用紙を一枚広げ、鉛筆を走らせた。こうしていると、気が楽だ。小説家として当たり前かもしれないが、小説を書いているときが一番幸せだった。今ではもう、これだけが生きがいだと言ってもいい。
しん、と部屋の中が静かになった。どれほどの間、目の前の原稿用紙に集中してしまっていたのだろうか。もう読み終わったろう、と顔を上げかけたその時、
唐突に、パシャリ、と音がした。
「……は?」
座ったままほんの少し背を反らし、黒いカメラを構えている彼を見て、ようやく状況を掴んだ。一体いつの間にそんなものを。
「ちょ、何撮ってんだよ!」
いつになく真面目な顔をしてレンズを覗いていた唯野は、カメラを顔から離し、満面の笑みを作る。
「いいのが撮れた」
「バカヤロー、消せ」
「『こころよく我にはたらく仕事あれ、それを仕遂げて死なむと思ふ』」
油断していた。唯野の本業はカメラマンである。カメラをどこに隠し持っていたのかは知らないが、彼はいつも外出時には一眼レフカメラを持っていた。いつ「美しいもの」に出逢えるかわからないから、だそうだ。
そして、余談だが、彼は五十嵐に負けないほどの読書家だった。だから五十嵐の小説を読んでいる、というのもあるかもしれないが、彼は今までに、有名作家から無名の詩人に至るまで、あらゆる本を読み尽くしてきたそうだ。
その知識があってか、こうやって書物の言葉を引用して使うことがよくある。もう、慣れたことではあるが。
「お前、それ仕事用のじゃねぇのかよ?」
ふふん、と言ってにんまりと笑う唯野。彼は自慢げにカメラを持ち上げ、五十嵐の前に差し出して見せた。
「これはね、仕事用じゃない、俺のサービス業用。簡単に言えば、趣味兼練習用ってやつな」
キラキラと効果音がつきそうな顔で彼は語る。彼のカメラにかける愛情は、嫌というほど知っている。それだけあって、今ではほぼ呆れるだけになっていた。
「で、何で俺を撮った? ただ原稿書いてるだけだろ」
「俺は仕事でも趣味でも、美しいものだけを撮るって決めてんだ」
「言ってること矛盾してないか? 何でこんなものが美しいんだよ?」
「何言ってんだよ。だって、美しいじゃないか。作品っていうのは、小説でも漫画でも曲でも物でも、人間の手が、人間の力が、人間の意思がないと生まれない。そうだろ? 俺は今、その誕生の瞬間に立ち会っている。俺の目の前で、今新たな作品が生まれようとしている! なっ、素敵だろう?」
思わず恥ずかしくなって、五十嵐は唯野から目を逸らした。どうして彼は、こんなにも恥ずかしいことを堂々と人前で披露できるのだろう。そんな五十嵐のことも気にせず、唯野は続ける。
「世界ってのは、元々美しいものばかりでできてるんだ。ただ、個人の解釈によって美しさの優劣が決まる。それは、大昔からずっと変わらない。
わざわざ絨毯に入ってまで独裁者カエサルの元に現れたクレオパトラも、法家思想を信じて法を変えようと勇気を出した商鞅も、ノルマン=コンクェストを起こしたウィリアムも、ヨーロッパを遊説して歩いたフランクリンも、皆新しい世界を求めていたんだ。新しい世界には必ず真の美がある。平成の世の中だって、紀元前の世界だって、美への関心はずっと変わらないんだよ。
そして今、俺はこの場で、美の歴史を一つまた刻んだ。この写真一枚によって」
ふい、と目の前にチューハイの缶が差し出された。「差し入れ。お前の分」と唯野。笑いが漏れる。ひんやりと程良く冷えたその缶を受け取り、
「お前の美への哲学は聞き飽きたよ」
五十嵐が呟くと、唯野はけらけらと笑った。彼は自分も同じ缶を開け、傾けながら言う。
「嘘だね。春樹はいっつも俺の話を楽しそうに聞いてる」
「はっ? 何言って」
「だって、そう言っときながら俺が話してるとき、じっと俺の目を見て聞いてくれるんだもの。だから言ったろー? お前と話すのは楽しいって。お前に話を聞いてもらってるときが一番楽しい。こんなに真剣に話聞いてくれるやつ、なかなかいないからな」
また、恥ずかしくなって五十嵐はチューハイを一気に呷った。
酒を口にするのは久々だった。先月まで、新刊の話が固まらなくて、酒を飲む暇などなかったからだ。数か月ぶりの酒に体も喜んでいるような感覚が広がる。
「んで、話変わるけどお前さ、さっきこれのこと『原稿』って言ったな?」
急に身を乗り出されて、飲み込み切れなかったチューハイを吹き出しそうになる。なんとか喉の奥に流し込んで、首を傾げると唯野は意気揚々とした様子で、先程彼が読んでいた原稿の束を突き出してきた。
「つまりこれ、出版予定ってことか!」
……しまった。
「というか息抜きだったら原稿用紙になんか書かねーだろ。しかももうここまで枚数あるし、しっかり訂正も書き込まれてるし。俺が今まで見てきた原稿と一緒の感じですよ、五十嵐先生?」
もはや言い逃れる術もなく、五十嵐はため息をついて、唯野の手からその紙束をひったくった。
「ああ、そうだよ新刊だよ。まだ出版社にも話出してねえからあんまり公開したくなかったんだっつの」
そっけなくそれだけ述べて、円卓の下にあったファイルにそのままそれを詰め込む。急に唯野が何も言わなくなったために、少しきつく言いすぎたかと思い、ちらと視線を送ると、五十嵐の意に反し、彼は終始ニヤニヤとして五十嵐の手元を見つめていた。
「……何?」
「ふふん、その割に俺が読ませてって言ったときにあんま抵抗しなかったなーって思って」
「それはお前が……」
唯野がニヤついている理由を掴んだ。五十嵐は、ひどく馬鹿にされている気がして恥ずかしくなった。事実である、口答えはできなかった。
「『……ハムレット、君は馬鹿だ、大馬鹿だ』」
彼の真似をして、思いつく台詞を口にしてみる。唯野は少し目をぱちくりとして、今度は声を上げて笑い始めた。
「な、なんで笑うんだよ?」
「いや、あはは、春樹やっぱおもしろいなって」
複雑な気持ちになり、チューハイを傾けようとすると、その缶はいつの間にか既に空になっていた。仕方なく、酒の代わりに先程自分が持ち出してきた菓子を一つ適当に取り上げて机の上に広げる。
「春樹にハムレットは似合わないよ」
ぼそりと呟かれた一言の意味が捉えきれず聞き返すと、唯野は黒いカメラを指先で弄びながら、
「春樹には悲劇なんて相応しくない。……そうだな、ドン・キホーテ辺りがいい。春樹には喜劇の方が似合う。まぁ、俺はお前の小説が好きだから、お前が書いたやつならどんな内容でも読むけど」
また、いつもの笑顔を見せた。
彼が、本当に言いたかったことは、五十嵐には掴めなかった。だが、唯野は何事もなかったようにへらへらと笑った。五十嵐はそれにつられて笑っていた。
「ふふん。それ、完成するの楽しみにしてるぜ? 出版する前にまた読ませてな。どんなのになるか楽しみだ」
――こういう読者が、世の中にもいてくれるのだろうか。自分の作品を待ち望んでくれる人が。……いや、きっと、いるに違いない。彼の笑顔を見ていると、自然とそういう気持ちになれた。
彼がいなければ、きっと、今の自分は存在していない。
「……ありがとう、」
本当に、心からそう思っている。
「ん? なんか言った?」
「何でもない」
「え、嘘だ今絶対なんか言ったろ?」
「何も言ってない」
「えー」
ふてくされてチューハイの缶を卓上でぐるぐると回し始めた唯野に、五十嵐は笑った。
彼といると、生活に対する憂いや仕事に対する焦燥も、何もかも全て忘れられる気がした。まるで、何も苦悩のない人生を送ってきたように、思えるんだ。
感謝してるよ、本当は。ただ、口には出さないだけで。
「――なぁ、輝」
俺と友達になってくれて、ありがとう。
了
引用
『走れメロス』 太宰治
『一握の砂』 石川啄木
『新ハムレット』 太宰治