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もらいもの

 冬野目百草には万事に於いて自信というものが欠けていた。それはコンビニのレジを待つ行列や、ファミレスで店員に注文をするときなど、実に細かい場面でも散見される性質だ。何かを期待されたことも無ければ、自分自身に期待したことも無い。努力して一つことを成し遂げたことも無ければ、特に努力もせずに所謂「才能」や「センス」によって何かを成し遂げたこともない。

 しかしながら、何かを途中で投げ出したことも、また無い。これは、極力何かに挑戦しなければならないような状況を避けて生きてきた成果である。成績はいつも真ん中よりも少し上で、体育系の授業は周りに笑われないくらいの出来栄えだが、決して運動部から誘いがかかるようなものでもない。テストの結果で学年トップ10に入ろうとすれば当然努力が必要になるだろう。しかし、その努力を注いだところで結果が伴うとは限らない。それならば、可もなく不可も無くといったいつも通りの立ち位置にいる方が、よほど楽だ。努力や頑張りをかっこ悪いと思うことは特に無かったが、それらと自分は縁遠いものであるという認識だけがしっかりとある。それ故に、冬野目は何かに挑戦してきた経験が無いし、努力してきた記憶が無い。必然、それによってもたらされる自信なんてものを、彼は会得できるはずもない。

 このときも、自信なんて数ミリほども持ってはいなかった。喧嘩や殴り合いといったものを野蛮人がするものか、もしくは格闘家の専門だと思っている冬野目は、他人と肉体的に争ったり、感情に任せて拳を振り上げたりすることは、できない。イメージすら湧かない。そもそもが枯れ枝のようなその腕に、いくら饅頭のような力こぶをつくって他人に振るっても大した威力にはならないだろう。

 なので、逃げた。

 二人の女性を連れて、どうにかして追手から逃れようと必死に考えた結果、全力で逃げることに決めたのだ。漫画や映画ならば、可憐な二人の女性の前で大いに立ち回り追手を叩きのめし、両手に華を持ってその場を立ち去ることも可能だろう。

 しかし相手は黒一色のスーツに身を染めた男だ。見たところは筋骨隆々といったふうでもなく、腕が異様に長いことだけが特徴だが、東洋人の筋肉は鍛えるほどに引き締まるとも聞く。もし相手が何らかの武道に通じていれば、いや通じていなくても、冬野目では勝ち目が無い、そう判断したのだ。

 そして生まれて初めて母や近所のコンビニ店員の下山さん(推定年齢53歳)以外の女性の手をとり、彼は勇敢に走り出したのだ。

 そこに。

 突如、金髪のショートカットを揺らした関西訛りの女性が現れた。冬野目には無い自信に満ちたその瞳はやや吊り上がり、唇は薄く涼し気だ。背は高く、見たところ身体に余計な肉はほとんどついていない。

 あれは、一体誰だ?

「……突っ切りましょう」

 壬生が言う。それに冬野目は無言で応え、握る手に力を込めた。

「砧、久しぶりやんなぁ」

 金髪はそう言って、両手を広げた。それは子供を抱きしめる母親のようでもあるが、この場合はもっと緊迫している。金髪が黒スーツの男の仲間である可能性も排除できない以上、警戒をしないわけにはいかない。開け放たれた裏口に向けて、全力で足に力を込める。

「そ、そないにウチと……」

 少しはにかみながら、金髪は顔を深紅に染めて俯いた。

 それが、チャンスだった。

「砧、まずはひ、久しぶりのハグ……あれ?」

 目を閉じてはにかむ金髪の横を抜けて、冬野目一行は外に出た。思ったよりもすんなり通れたので肩透かしを食らった気分だが、こうなればあとは逃げるのみだ。




 どれくらい走ったかわからない。そして、どれくらい時間が経ったかもわからなかった。

 街を抜けて、森の中の抜け道を小走りで移動している。ここを抜ければ、冬野目の下宿がある。

「ふ、冬野目君、この道でいいの?」

 壬生が眉を寄せて尋ねる。まだ陽が沈むには早いはずだが、大きな木々が生い茂って太陽光を遮っているので辺りは薄暗い。砧のように幼さと妖艶さが同居した中学生くらいの女の子を付け狙う変態が横から出そうな雰囲気が辺りに充満している。壬生が不安になるのも無理は無い。

「大丈夫です。ここが下宿までの近道なんですよ」

「こ、この前はこんなところ通らなかったじゃない」

「ごしゅじん、ここ暗くて恐いですぅ……ぶるぶる」

 冬野目を真ん中にして、正面から見て左に砧、そして右に壬生がいる。それぞれが冬野目の頼りない腕にしっかりとつかまり、自分の胸元に彼の肘を引き寄せている。

「右がふかふか、左はすかすかだ」

「今、何か申しまして?」

「い、いえ。この前はもう夜も遅かったし、自転車もあったのでここは通りませんでした」

 冬野目は気が付いていた。壬生は、機嫌が悪くなるとお嬢様口調になる。美作と最後に言葉を交わした壬生は、これでもかという程に令嬢の口振りだった。しかし、傾向がわかれば対策はできる。これからは壬生の口調が変わり次第、すぐに謝ろうと心に決めた冬野目だった。

「それにしても砧ちゃん、さっきの金髪のお姉さんは本当に知り合いじゃないの?」

 森に入ってからその話は何回かしている。しかし、砧はその度に「知らない」「不良の人に知り合いはいない」と言うばかりだ。

「記憶喪失になる前の知り合いなんじゃないですかね」

「やっぱり、そう考えるのが妥当よね」

 話しながらも、冬野目の意識は両方の肘に集中している。こんな経験、『風』や『俗』の文字がつくお店にでも行かないとできないと思っていた彼は、どうやって周り道をするかに脳味噌の八割を使っている。

 そう、彼の脳は今や高速で回転をしている。必死に視野を司る部位を動かし、寿命を縮めても良いという覚悟で感覚と記憶を司どる部位にムチを打っている。

 つまり、脳内で今自分は一人の女性とこの暗い森の中を歩いているのだ、と考えようとしているのだ。その相手は壬生の容姿を持ち、乳まわりは砧ということで手を打ちたい。なので、なるべく壬生の顔を思い出し、なるべく砧の感触を感じようと死力を尽くしている。 

 しかし、そこには問題が一つある。

 彼のこだわりで言えば、砧の顔に壬生の乳まわりでも良いのだ。彼が持つ二つの強いこだわりが、それぞれどちらかだけの確立を阻もうとしている。

 葛藤が、そこにはあった。必然、時間をかけなければならない。

「冬野目君、本当のこの道でいいの?」

「ごしゅじん、ここさっきも通ったよぉ」

 二人の声など、もう彼の耳には届いてはいない。いや、空気の振動としては感知しているが、脳が受け付てはいない。それどころではないのだ。

 しかし。

「……っ!」

 急に壬生が足を止め、冬野目と砧は前のめりになった。何とか踏みとどまった冬野目とは違い、砧は大いに体勢を崩し短いスカートから桃色の三角州をちらちらと見せた。

「壬生さん、どうしたんですか?」

 横目で桃色の布を確認しつつ、壬生に問う。

 壬生の顔には恐怖とも嫌悪ともとれる表情が貼りつき、何も言わない。不審に思った冬野目が前を見て目を凝らすと、暗闇の中に誰かが立っている。

「あの黒スーツの変態、追いかけて来たんですね……」

 追いつかれたのは自分の煩悩による回り道のせいだということを棚に上げて、冬野目は拳に力を入れた。ここで二人のうちのどちらも黒スーツ変態に引き渡すわけにはいかない。

 まだ、容姿と感触の脳内補完が終わってはいないのだ。

 革靴で草を踏む奇妙な音を響かせて、黒いスーツに身を包んだ男が現れた。

 二人の女性を自分の後ろに隠して、冬野目は男に向かって言った。ありったけの、敵意を込めて。

「砧ちゃんはもちろん、壬生さんも渡さないぞ、変態め」

「冬野目君……」

 心配そうに見上げる壬生に、冬野目はだらしなく微笑んで返す。

「大丈夫です。僕が守ります。まだ、やってないことがありますので」

 不思議そうに首を傾げる二人の可憐な女性。まさか、自分の容姿と胸元の感触がどのように使われているかど、彼女たちには知る由もない。

 対峙する、冬野目と黒スーツ。黒スーツは無表情のまましばらく立っていたが、やがて口を開いた。

「そのタヌキを渡せ」

 確かに、そう言った。

「なんでそれを……」

 動揺を隠せないでいる冬野目を無視して、黒スーツはゆっくりと歩き出した。

「逃げますよ!砧ちゃんがタヌキだと知っていて手を出そうなんて……変態の極みだ!」

 しかし振り返ると、そこにも人が立っていた。走って来たのか肩を上下させている。あの特徴的な、そして個性的な革製のハンチングで顔を隠している。そしてショートカットの金髪を揺らして、振り絞るようにこう言った。

「逃げるなんて……酷いやん、砧!」

 それを聞いた壬生は、心配するように言った。

「あの、お姉さん泣いてます?」

 金髪は肩をびくっと揺らし、見るからに高そうなスーツの袖で目元と鼻元をごしごしと拭った。

「な、泣いてへんわ!驚いただけやし!」

 しかし上げた顔を見ると目が赤い。しかもそれだけでは無く、鼻の下も赤くなっている。

「あの、どなたかは存じませんがあまり鼻をかみすぎるのは良くないですよ。どうしようもない場合は柔らかいティッシュを使わないと……」

「泣いてへん言うとるやろ!だいたい、何やねんお前ら!砧を迎えに来たんはウチや!」

 金髪は視線を砧に向けた。

「砧、ほらもう怒らんと。ウチやで、秘常や。はよ帰ろ?」

 視線を向けられた砧は少し怯えた様子で言った。

「ふ、不良の知り合いはいません」

 それを聞いて、へなへなとその場にへたり込む金髪。余りにも哀愁やら悲壮感やらが漂うその姿に、居たたまれなくなった冬野目は金髪を元気付けようと口を開きかけた。

「一条さん。砧さんのことはひとまず置いておいて……あれを何とかしましょう」

 見ると、一条と呼ばれた金髪の横に小さな人影がある。布に包まれた細長いものを背負っているその人物は、へたり込む金髪の肩に手を置いている。そして冬野目たちの方に向き直り、はきはきした口調で言った。

「急に申し訳無い。この女性は一条秘常。秘するのが常、と書いて『ひつね』といいます。僕は吠木一。吠える木、に漢数字のイチで吠木一といいます」

 冬野目は、ぺこりと礼儀正しくお辞儀をしたその人物を見て、大きな瞳が特徴的な美男子だと判断した。美作のような派手なものではなく、芯が真ん中にしっかりと通った日本男児。まだ若いだろうに、こうして金髪のチンピラじみた女性を励ますなんて大したものだ、と冬野目は感心した。

 吠木は視線を黒スーツの男に向けて、威圧するように言った。

「貴様、カラスマの者だな?こちらは見ての通り一条と吠木が動いている。それでも手を出すのか?」

 振り返ると、黒スーツは歩みを止めてこちらをじっと見つめている。辺りの闇に紛れて消えてしまいそうなくらい、動きが無い。

「……諦めたのかな?」

 冬野目が安心しかけたとき、吠木がその考えを否定した。

「いえ、恐らく自分に有利な状況になるのを待っているのです。こうして悪戯に時間が過ぎれば、どんどん陽は沈み、闇は深まりますから」

 意味がわからず佇む冬野目や壬生をよそに、吠木は一条を立たせて肩や背中をばしばしと叩いている。

「ほら、一条さん。砧さんのためにも、働きますよ」

「ぐすっ……でもぉ……あんなんひどいわぁ……ぐす」

「何か事情があるのでしょう。それに、ここでカラスマに砧さんを連れていかれたら、それこそもう会えませんよ」

「嫌やぁ」

 一条は上を向き、両手の甲を両目に当てて子供のように泣き出した。痩身で長身、そして吊り目がちな瞳を持ち、話すのは関西弁。これらの容姿と今の行動はどうしてもちぐはぐな印象を与える。

「あの……その金髪のお姉さん、一条さんですか?大丈夫なんですか?なんだかずっと泣いてますけど……」

「ああ、大丈夫です。普段はこんな風にはならないのですが、砧さん絡みになるときだけ、こうして泣き虫さんになるのです」

「はじめくん!ウチのイメージダウンになるようなことは言わんといて!」

 なんだか微笑ましいなぁ……と壬生が思っていると、何かがぶつかったような衝撃があり、体勢を崩し地面に倒れた。見上げると、黒スーツの男が冬野目に掴みかかっている。片手で砧の腕を掴み、乱暴に引き離そうとしていた。

「あっ、ほら一条さん、いきますよ!」

 叫ぶとともに吠木は短い助走とつけて、黒スーツの男に向かって横向きに飛んだ。脚を全面に出して男の横腹の辺りに蹴りを入れて、華麗な動作で着地する。しかし男は少しも怯む様子は無く、相変わらず冬野目から砧を引き離そうと乱暴に腕を引っ張っている。

「やめろ!砧ちゃんは渡さない!」

「ごしゅじん!ごしゅじん!」

 男は無言で力を込める。今のところ冬野目自身にも砧自身にも危害を加える動作は見受けられないが、状況はいつどう変わるかわからない。

「やっぱり、僕では体重不足です!一条さんじゃないと!」

「なんやその含みのある言い方!」

 言いながら一条は男に回し蹴りを食らわせる。吠木と違って上背のある一条の長い脚が、遠心力を以て男の背中にヒットした。さすがにこれは効いたらしく、ぐうっと低く唸って冬野目と砧は解放された。

「やった!逃げましょう!」

 走り出そうとする冬野目や壬生や砧を、一条は制する。

「あかん、すぐに見つかるわ。ウチらがいるほうが安全やし、勝手に動いたら危険や」

「で、でも……じゃあどうするんですか!」

「消すねん」

 何でもないように、一条は言い放った。

「け、消す?」

「まぁ黙っとき、子供の出番やない」

 さっきまで赤子のように泣きじゃくっていた一条は、しかし頼もしい表情でそう言って男に相対した。

「カラスマ、こうして手ぇ出した以上、覚悟しいや」

 カラスマと呼ばれた黒スーツの男は、それでも無表情だ。いや、表情に変化は無いが、徐々にその身体に変化が現れた。元々長めだった両腕は膨らみ……膨らむとしか

言いようのない変化をした。そしてついにスーツを内側から破り、その内部を露出した。

 黒々として、艶々とした質感のものが、そこにはあった。それはどう見ても人間の皮膚では無く、例えるならば鳥の……鳥の羽のような形状と質感をしている。    

「ふん、やる気かい……」

 風が切られた音と共に、一条が飛んだ。しかしそれは彼女の意思では無く、悪意のある暴力の結果だ。男は目にも止まらぬ速さで動き、一条を殴りとばしたのだ。

「……生意気に……カラスマぁ」

 立ち上がると共に、一条の目が鋭くなった。そして頭に乗せていたハンチングを取り、足元にそっと放った。

「後悔させたる」



 一条が放ったハンチングの下から出てきた、金色の体毛を生やした三角形の突起。

 まるでキツネの耳のようだ、と冬野目は思った。 

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