つまみもの
冬野目百草が通う大学は東京の外れにあり、そこは周囲を緑に囲まれた起伏の多い街だ。夏は都心より熱く、冬は都心より寒い。小さな街ではないが学生と地元民が多く、そのせいかでこかのんびりとした雰囲気がある。
壬生と砧が下宿を冬野目の下宿を出てから、五日が経った。すぐにでも何かしらの連絡がくると思っていたが、その予想は外れ、平穏な日常が続いている。壬生がアルバイトをしているコンビニにも度々寄ってみたが、彼女の姿はなかった。一度、自分から連絡を入れてみようかと思ったけれど、若い女性に連絡を取ったことが無い冬野目には切り出し方がわからない。そうこうしているうちに時間は過ぎ、半は忘れかけていたところに、壬生からのメールが入った。
『明日の昼。学食で』
果たして、世の二十代前半の女性が送るメールというのはこんなにも無味乾燥なものなのだろうか。他にサンプルが少ない、というか初めての体験なのでわからないが、きっと違うだろう。もっと様々な記号や顔文字で彩られ、文面から(きゃぴっ)と擬音が聞こえてきそうな代物であるべきはないのか。やや不機嫌になりながら、冬野目はそのメールを保護した。
そして、約束の日である。午前の講義はほとんど頭に入らず、数時間後には女性との密会、いや逢瀬だと思うと緊張が高まる。
「壬生さん、もしかして僕のこと好きなのかなぁ」
午前の講義が全て終わり、荷物をまとめて素早く学食へと移動しようとする彼に、後ろから声がかかった。
「おーい、飯いかね?」
振り向くと、そこには全体的に茶色い色彩を身にまとった坊主頭の男がいた。彼は冬野目の数少ない友人の一人で、ロボットアニメと二次元の百合モノをこよなく愛する生粋の紳士であった。名前を鎌田といい、アルバイトで稼いだ現金をほとんど具現化したアニメキャラに使う豪傑だ。
「あれ、珍しい。飯なんて食って、フィギュア買えなくなってもいいの?」
「いやあそれがさ、最近いいバイト見つけたんだ。けっこう稼げるから、お迎えしながらでもこうして飯が食えるってわけよ」
鎌田が言う「お迎え」とは、彼が気に入ったキャラのフィギュアをレジに持って行き、現金を支払い自宅に持ち帰る行為のことだ。彼曰く「母親が幼稚園で待つ子供を迎えにいくのと同じ」だという。当初の冬野目は、その行為は紛れも無く「買う」という行為だと思っていたのだが、鎌田の熱意に当てられて感心し、それからこの紳士とよく話すようになっていった。鎌田は自分の好きなアニメを冬野目に勧め、冬野目は自分が好きな文学作品を鎌田に勧めた。しかし、それが何往復かする頃には、お互いがパソコンゲームを貸し合うよになっていた。今、冬野目のノートパソコンで待機している夢遊戯作品の半分は、鎌田のものだ。
「へぇ……でも、今日は駄目なんだ。先に約束があって」
「え……お前と一緒に飯食ってくれる人が、俺の他にもいるのか」
「失礼だな。そりゃいるよ」
「信じられんなぁ、どんなやつだ?」
冬野目は下品に口を曲げた。どうやら笑ったつもりらしい。
「女の子だ。僕はこれから深窓の令嬢とお昼をご一緒する」
「あ……それこの間貸したやつじゃん。ハマってんのな」
「いや……まあいいや。でも今日は本当に駄目なんだ。すまん」
「そうか……わかったよ。じゃ、またな」
手を振って去ってゆく鎌田を見送り、冬野目は早足で学食へと向かった。
学食の扉を開くと、広いスペースに大勢の学生がいて、それぞれが学友や恋人と賑やかに食事を摂っている。
ざっと見渡すと、ぽっかりと人がいない席があったので、そちらへ向かう。
人気がない空間の真ん中に、壬生が淑やかに座っていた。セルフサービスのお茶が入った湯呑を両手で包み込み、両目を閉じて瞑想でもするかのように佇んでいる。冬野目はそちらに心持ちゆったりとした歩調で歩み寄り、周囲の学生が遠巻きに眺める彼女に話しかけた。
「すいません、遅れてしまいました」
すると壬生はゆったりと瞼を持ち上げ、口元に上品な笑みを浮かべてこう返した。
「いいえ。昼食をご馳走になるのですもの。さして気にしておりませんわ」
鯖の味噌煮定食と大盛りの焼きそばがテーブルに並ぶ。壬生は両手を胸の前で合わせ、厳かにいただきますと言った。そして持ち上げられるだけの麺を一気に持ち上げ、無造作に口へと運んだ。
「詰まりますよ。ゆっくり少しづつ食べたらどうです」
冬野目は鯖の骨を器用によけながら、身だけを口へと運ぶ。
「ふぉんなふぉとふぃってお」
口の周りにソースをたっぷりとつけた壬生が、苦しそうに口を動かす。見かねた冬野目が湯呑をすすめ、お茶で流し込んでようやく理解できる言葉が聞こえてきた。
「そんなこと言っても、いつ食べられるかわからないのだもの。食べられるときに食べておかないと」
「戦場の兵士みたいな価値観ですね。それで、砧ちゃんとは何か話せましたか?」
それから壬生は少量ごとに麺を運ぶ方針に変えたらしく、ちょこちょこと小鳥のように口を動かしながら会話は続く。
「それがね、砧ちゃん、記憶喪失らしいのよ」
「記憶喪失?」
「そう。あの駐輪場で怪我をして倒れていた以前のことは何も覚えていないって」
「何らかの事件に巻き込まれた、とかですかね?」
「私もそう思ったんだけど、ひとつだけはっきり覚えていることがあるらしいの」
「なんですか?」
「自分がタヌキだってこと。それは忘れようのない事実らしいわ」
「……そうですか。でも、そんなことが現実にあるんですかね……」
冬野目は思い出す。自分のベッドの中から出てきた、包帯以外には何も身に付けていない少女。
「でも、そうとしか考えられないわ。それにもし嘘だとしても、そんな嘘をついてあの子にどんなメリットがあるの?」
「確かに、何もないですね」
「ここ数日でいろいろ話をして、たくさん本も読んで聞かせたわ。少し言葉に慣れてきたみたい」
「そのまま記憶が戻れば、万事解決なんですけどね」
「そうね……。ねえ、冬野目君」
「はい?」
「あの……聞きたいことがあるの」
急に壬生は姿勢を正した。しかしその直後には少し猫背になり、耳まで真っ赤に染めて顔を伏せた。
「な、なんですか急に。変な空気出さないで下さいよ。周りから白い目で見られます」
周囲の学生は訝しんだ。この儚げで焼きそば好きな美少女と、向かいに座る木の枝のような雀の姿揚げのような男は、どのような関係なのか。
「この間……あなたの下宿に泊めてもらった日のことなんだけれど」
何人かが、がたりと席を立った。明らかな殺意に満ちた目で冬野目を睨み付け、今にも飛びかかってきそうな雰囲気でこちらを見ている。
「あ、あの壬生さん。場所を変えませんか?ほら、あの初めて話した喫茶店でゆっくりと。ケーキも食べていいですから」
「あ……あの日のこと、覚えていてくれたの?」
壬生はさらに顔を赤くし、とうとう両手で顔面を覆ってしまった。そして身悶えるように身体を左右に振り、呼吸を整えるように胸に手を当てた。
「ご一緒しますわ。ケーキもいただきます」
周囲の視線圧力が強まる中、ようやくテーブルから立ち上がることができた。しかしいざ移動しようとしたとき、どこからともなく美麗な声がかかった。
「なっちゃん。珍しいね、こんなところにいるなんて」
見ると、サークルの先輩がそこにいた。壬生に並々ならぬ好意を寄せる美男子で、男子学生の一部と、女子学生の半分以上が彼のファンだ。その美男子はサークルに加入した壬生にアプローチをかけ続けているが、彼女にそれを受けるつもりは無いらしく、今のところは特別な関係にはなれていない。
しかし、だ。
なっちゃん、である。壬生がそのように呼ばれているのを、冬野目はみたことが無い。いや、一度だけ彼女のアルバイト先の店長らしき人物がそう呼んでいるのを聞いたことはあるが、それとこれは話が違うだろう。
「美作先輩……何か御用ですか?」
壬生は珍しく嫌悪感を前面に出し、その美男子に対応した。普段はお嬢様然とした壬生なので、こうして感情を表に出して人と対するのは珍しい。
「つばさ、で良いって言っただろう?みまさか先輩、なんて他人行儀に呼ばないでくれよ…僕と君の仲じゃないか」
美作は前髪をさらりとかきあげ、実に絶妙な角度で壬生に微笑みかけた。その角度は綿密に計算されつくされたもので、美作の魅力を一点に集中して放出することから、ファンからは「美作メガ粒子砲」と呼ばれている。
「関係って、サークルの先輩後輩というだけですけれど。それに、私もうあのサークルで活動するつもりはありません、辞めます」
今度は、それを聞いた冬野目が情けない声を出した。
「え、壬生さん辞めちゃうの?そんなぁ。唯一の話せる人なのに」
「冬野目君だってほとんど来てないじゃない。それに、あなたはもう辞めたものとして認識されてるわよ」
「えっ」
二人の会話を聞いていた美作は、長い脚を颯爽と動かして近づいてくる。あまりにもそのスタイリッシュなその歩行風景は、ファンの間では「つばさコンパス」と呼ばれている。
「なっちゃん、申し訳ない。僕が君にばかりかまうものだから、他の女の子が君に嫉妬して意地悪をしているんだね?それに耐えきれなくて辞めると言うのなら、僕は止めない。あえて、止めない。だってそのほうが、他人の目を気にせず自由に交際ができるもの」
教科書で見たことがある、ギリシャの彫刻のように美しい顔を歪めて、美作は悲痛な顔をした。そして壬生の華奢な肩に手をかけて、耳元で囁いた。
「何の心配もない。さぁ、午後の講義は無視して、僕とお茶にでも行こう。美味しいスウィーツを知っているんだ。ぜひ、君に」
しかし彼が全て喋りきる前に、壬生は自分の肩に置かれた手を軽く払い落とした。
「お誘い頂き有難う御座います。けれど、わたくしこれからこちらの方と約束がありますので」
横に立つ木の枝、もとい冬野目の腕を引き寄せ、壬生はぺこりと頭を下げた。
「み、壬生さん。さっきの焼きそばのソースが手についてるよ。やめてよ僕の服にもついちゃうよ」
美作と壬生、二人の美形は木の枝を無視して会話を進める。
「……どうして僕の誘いを受けてくれないのか、聞きたいものだね」
「それはご自分の胸に聞いてください。普通、一日に100通近くのメールを送られたら、その相手には嫌悪感を抱きますわ」
「100通?それは思い違いだ。僕は君に153通、送るようにしている。つまり『いち・ご・さん』、君はイチゴさんのように可憐だ、という気持ちを込めて」
「……失礼します」
無理矢理冬野目の腕を引き、壬生は歩き始めた。後ろで美作が何かを言っていたけれど、もはや聞くつもりは毛頭無い。
駅前の喫茶店。レトロな内装と軽快なジャズ、その両方が相まって何とも居心地が良い空間が形成されている。しかし品書きに表記されている洋菓子や珈琲の値段は良心的で、冬野目はこの店が案外気に入っていた。
「いやーすごい人でしたね」
「……なにが」
壬生の目が据わっている。店につくなり彼女はケーキを三つ、タルトを二つ、プリンを一つ続けざまに注文し、今は全てをお腹に仕舞いこんでカフェオレの到着を待っている。
「先輩ですよ。あんな美形の人間がいるんですね。背は高いし顔は整ってるし。それに噂によると、あの人の家庭は会社をいくつも経営しているお金持ちらしいじやないですか。完璧だなぁ。どうしてあんなに邪険にするんです?」
タイミング良く運ばれたカップをつかんで、壬生は中身を一気に飲み干した。
「もう一杯」
マスターにそう言って、冬野目と目を合わせる。
「私、ああいう自信家みたいなタイプは嫌いなのよ。何でも自分の思う通りになって当たり前、って思ってるようなタイプ」
「でもあの、いちごさん、のくだりはウマいなぁって思っちゃいましたよ」
「気付かなかったわ。そもそも私なんかにちょっかいを出さなくても、いくらでも女の子なんているでしょうに。なんで私に固執するのかしら」
「そりゃあ、壬生さんはとびきりの美人ですからね。惹かれるのも当然でしょう」
それを聞いた壬生は目を見開き、もじもじとたじろいで静かになった。
「あれ、どうしました?まだお腹空いてるんですか?」
「ち、違うわよ」
「じゃあ、なんです?」
「……そんな、面と向かって、と……とびきりの美人とか、言わないでよ」
「え……」
「そりゃあ、自分の容姿が良いのは理解しているわ。そのせいで虐められて、こうしてひねくれたくらいだのも。でも、あなたみたいに面と向かって言われたことはあまりないの。いつも物陰からコソコソと、当てこするような、ぐちぐちと刺すような表現で揶揄されていただけ。だから……」
「だから、なんです?恥ずかしいんですか?」
「う、うるさいわね……。それよりも、あなたはどうなのよ」
「僕ですか?え、何がです?」
「私のこと、その……美人だって思ってるんでしょう?」
「思ってますよ。でも、それだけです」
「それだけ……?」
「はい。美作さんがなんで壬生さんにちょっかいを出せるかと言うと、それは彼が壬生さんと同じレベルで、同じ土俵に立っているからです」
「ど、どういうこと?」
「つまり、壬生さんがプロ野球選手だとするじゃないですか」
「え……?」
「ただの例えですよ。話を戻しますけど、壬生さんがプロ野球の選手なら僕は草野球か、それ以下の選手なんです」
「そ、その判断基準はなんなの?」
「まあ基本的には見た目ですね。美人な壬生さんはプロ、ゴミクズな僕は草野球、です」
「ゴミクズだなんて酷いこと、私言ってないわ!」
「客観的に観察した結果です。気にしないで下さい」
「そんなこと言われても……」
「それで、草野球の選手がプロ野球選手に勝負を挑んで適いますか?適いませんよね。試合にすらなりません。だから、僕は基本的に何もしない。これは壬生さんに限らず他の女性に対しても同じです。僕のようなゴミクズで雑草以下の存在は、美人を眺めることが許されるだけでも奇跡なのです」
「そんなに卑屈にならなくても……私はこうして冬野目君といるのが、楽しいのに」
「壬生さんが僕と友人関係を持ってくれる背景に、タヌキや食事の狙いがあるのは気付いてます」
「そ、それは」
「でも、まあいいんです。目の保養です。それに、僕にはどうしても譲れない基準がある」
「譲れない基準?」
「そうです。その基準を満たしていたら、僕は全てを捧げてでも壬生さんを口説きにかかっていたでしょう」
「は、はぁ……」
「でも……壬生さんは惜しかった……あと一項目、いや二つの大きさ?。とにかく、それだけが足りない。だから僕は壬生さんに全力を尽くすわけにはいかない。今のままで、いいんです」
「な、なんだか悔しいわね。それで、その基準ってなんなの?」
「それは……」
冬野目が言い淀んだところで、店の扉が勢いよく開かれて何かが店内に転がり込んできた。それはしばらく転がってから二人のテーブルの前で止まり、お尻や頭をさすりながら顔を上げた。
「あ!ごしゅじん!それにお姉ちゃん!」
「き、砧ちゃん!どうしたのそんな格好で」
砧が着ていたのはセーラー服だ。しかしサイズが合っておらず、どう見てもやましい店のやましい従業員にしか見えない。胸元ははち切れそうに膨らみ、スカートは短すぎて先ほどからチラチラと桃色の布が見えている。
「なんかね、お散歩してたら変な人に襲われたの。それで何も考えずに逃げてたら、何かにぶつかって転んで、起きたらここにいたの」
壬生の努力の成果か、砧は潤滑な会話ができるほどに上達している。しかしそれを喜ぶ暇もないほどに危険な状況に陥ってしまっているもの事実だろう。
「なんてやつだ。きっととんでもない変態だよ、そいつ。変態は許せないね!」
「あ、あれっ!」
砧が指差した先には、黒いスーツに身を包んだ男が立っている。店の外から冬野目たちを見つけ、ゆっくりと歩いてくる。
「に、逃げよう」
冬野目は砧と壬生の手をとり、店の裏口へと向かった。マスターは何やら物騒な雰囲気を察したらしく、さりげなく裏口を開けた後『自分は関係無いですぅ』という顔をしてグラスを拭いていた。
追手は駆け出している。二人の女性を連れて逃げ切れるかどうかは望み薄だが、とにかく冬野目は二人の手を引き裏口へと走った。
もう少しで、外に出られる。そう思った直後、目の前を誰かが塞いだ。
金髪のショートカットを揺らし、革製のハンチングを被った、吊り目がちな女性。口元には微笑を浮かべ、八重歯をのぞかせて嬉しそうに言葉を発した。
「見つけましたぇ、砧んとこのお姫様」