壬生夏吉の混濁
なんだかずっと長い間、薄暗い洞窟の中で眠っているような気がする。その洞窟には私に害をもたらすものは何もなくて、とても落ち着いて静謐な世界。
素晴らしく居心地が良い。
いつもほんのりと温かくて、柔らかいものに包まれている。
白昼夢を見ているような気分でいられる。
何よりも素晴らしいのは、その快適な洞窟の中にいるのは私だけだということ。美しく有能で、それでいて愚妹である私に気を使ってしまうほどに人間が出来ているハル姉さんもいないし、嫉妬や妬みにまみれた目で私を見る同級生もいない。
幼いころにあれだけ望んでも手に入らなかったものが、大学生になって、こうして私のものになった。
とても奇妙で、甘美な空間。
そうそう、小さい頃には雨の日が私の休息日だった。誰も訪ねてこないし、予約もなく泊まりにくる旅客が増えるから、旅館を営む私の家族は忙しくなるのだ。私は誰の目にとまることもなく、自由に好きなことができた。お気に入りの絵本を何度でも読み返したり、きれいな石を並べて眺めたり。このままずっと雨が続けばいいのに、なんて思っていたけれど、いつも雨は止んでしまう。私の願いは叶ったことがない。
悲しいことがあっても、誰にも相談することはできなかった。他人は信用できないし、お父様もお母様も、私よりハル姉さんのほうに興味があった。だから、どうしても遠慮してしまう。
話しかけてもいいのか。
私なんかが。
今になって考えると、それは異常だったのだと思う。小さい子供は友達や親以外に、一体誰に悩みを打ち明ければいいのだろう?
こうして客観的に観察できるようになったのも、私が大人になったからかもしれない。
いや、違う。私は高校を卒業した後、本来ならば京都の大学に通う予定だった。実家の旅館から通える範囲にある、全国的にも名前が通った大学だ。その大学のすぐ後ろには吉田山があり、その山の中腹から見下ろす京都の町並みが好きだった。
しかし私は、大学進学と共に東京へ出ることを選んだ。
姉や両親、それに旅館で働く人たちから逃げたかったからだ。
あの人たちが嫌いだったわけではない。正直で、頑なで、そしてなによりも正しい人達だ。老舗旅館の娘として、礼儀や作法、その他女性としての振る舞いを教えてくれたことを、私は今でも感謝している。
でも、私は逃げ出したかったのだ。
正しいが故に、彼らは間違いを許容できない。どうして間違うのか理解できない。美しく有能な姉がいて、歴史ある旅館を経営する両親がいて、どうしてこの私がまっとうに育たないのか、誰も真面目に考えなかったはずだ。
それが、私には許容できなかった。
そう考えると、私はまったく大人になんてなれてはいない。逃げることしかできない子供で、問題を先延ばしにすることしかできない怠惰な人間だ。
子供のころの悩みも、結局はなんの解決も見てはいない。
あぁ、それに気付いてしまうと、今の素晴らしい状況もなんだか色あせて見えてしまう。結局はまだ、私は逃げている最中なのだ。
少し気温が下がったような気がする。
きっと、私は正しくないからこうして洞窟にこもることができるのだ。逃避の先を探しているうちに、目の前にこの不思議な洞窟が姿を現したのだろう。
私を包んでいる柔らかいものは少しづつ薄れていき、薄暗かった洞窟には一筋の光が射しはじめた。
やめて! もう少し、このまま休んでいたいのに……。
その時。
声だ。
声が聞こえた。
私の名前を呼ぶ叫び声。
懐かしいような、少しくすぐったいような。
誰だろう。私のことを心配してくれてる人? そんな人、いるだろうか……。
もしかして、子供のころに出会った狸かもしれない。
いまでも目に焼き付いている。私を心配するように体をこすりつけてくれた、素敵な男性。星形の模様があるお腹をなでると、気持ちよさそうな顔をしていた。
あれ、でも……あの狸が男性だとは限らないと、誰かに言われた気もする。
でも、そんなはずない。あんなに素敵な経験、したこと無いんだもの。きっと、とても素敵な男性に決まってる。私の悩みや弱さなんて全部包んでくれて、それでいて私には優しくしてくれる。そんな存在であるはずだ。
でも……。
それじゃ、この洞窟と同じだ。
もしかして、このままだと私は駄目になる? 逃げて、守られて、避けて……一人で戦う武器を何も身に付けないまま、生きていくことになるの?
それって……。
あまり、好ましくないかも。
悲鳴。次に聞こえたのは悲鳴だ。きれいな声。女の人の声だ。たぶん、本人もとてもきれいなのだろう。
でも、悲しそうな悲鳴。
何を叫んでいた? 誰かの名前?
でも、私の名前じゃない。
思い出そう。思い出そう。
もう、長い間まともに動かしてないから、私の頭はすっかり鈍っているらしい。回転数が上がらず、のろのろと低速だ。
私自身、すっかり怠け癖がついているのか。少し頭を動かすだけで疲れてしまう。
でも、駄目。ここで回転を止めてしまっては駄目。ゆっくりでも、少しづつでも、こうして動かしていなくては、いつか本当に動かなくなってしまう。
名前、名前、名前……。
どこかで聞いたことがあるような名前。
しかし、ハル姉さん以外に私が誰かの名前を呼ぶことなんてあっただろうか。学校で友達ができたことはほとんどないし、数少ない友達も、卒業する前には私に嫌悪感を抱くようになっていた。
そんな私が誰かの名前を?
思い出せ、思い出せ。それは、きっととても大事な人の名前。
ふわふわと浮かんでは消える言葉。それを掴みにいくと、するりと逃げてしまう。
もう、嫌になる。諦めたくなる。きっと姉さんなら、こんなことにはならないのだろう。
でも、私はハル姉さんじゃない。有能でもなければ、社交的でもない。いわれのない悪口や陰口にいちいち傷付くくらいにひ弱で、それを誰かに相談する勇気がないほどに臆病だ。
そんな私は、きっと諦めてはいけないのだ。
間違えないハル姉さんとは違って、私は何度も間違う。諦めかける。
まったく、私がハル姉さんと似ているところと言えば、姿形だけだ。それにしたって、自信に満ち溢れて背筋を伸ばすハル姉さんとは違い、私はいつも伏し目がちだ。顔が似ているだけでは、どうしようもならない。
少しでも真似をしようと、鏡の前で一人、背筋を伸ばして微笑んでみたことがある。そのときの私は、とてもきれいだと自分でも思った。
そう……私に面と向かって、美人だと言ってくれた人がいたはず。昔に経験したような、嫌味や変な下心なんかを感じさせない、阿保みたいにまっすぐな言葉で。
それは、誰だったっけ……。
思い出そうとしている名前は、何だったっけ……。
あぁ。少しだけ思い出したことがある。夜中にお腹が減って、くうっとお腹が鳴って恥ずかしい思いをしたことがあった。そのときに隣にいた人は、無神経にも私に「お腹が空いたんですか?」なんて聞いてきたっけ。まったく、女性にそんなことを聞くかしら?
何を考えているのかよくわからなかったけれど、その人がつくってくれた焼きそばは、とても美味しかったな。
そうだ。決めたのだった。今度は私が、その人に焼きそばをつくってあげなくちゃいけない。
そう。
冬野目君に、焼きそばをつくってあげなくちゃ、いけない。




