風が吹いて
冬野目一行が訪れたのは見覚えのあるアパートだ。砧を除く三人は、その建物を苦々しい表情で見上げている。
それは、以前壬生が監禁されていた小奇麗なアパート。住人がいるのかいないのか、わからないくらいに静かだ。前に来た時にはすっかり陽が暮れていたが、今は日中なので印象が違う。
明るい太陽の光を浴びたその建物は、平和の象徴のように冬野目には思えた。閑静な住宅街の真ん中で、何事もないようにそこにある。しかし、確かにこの建物の一室に壬生は監禁され、意識までも混濁させられていた。それは決して許せる行為ではないし、社会的なモラルに照らし合わせて見ても、とても迎合するものでは無い。
本来ならば美作を警察に突き出して相応の償いをさせるべきなのだろうが、なぜかその気にはならなかった。それは、何ら物的証拠を持たないもしくは持っていても素人の冬野目達ではそれが証拠に成り得るかはわからないといった、常識的で当たり前の判断からではなかった。
なぜだろう、と冬野目は思う。
目の前で広がっていた光景には、どう見ても犯罪性があった。壬生は手足を拘束されていたし、何かの薬物を飲まされているのは明白だった。それならば、専門家である警察にすべてを任せるのが道理であり、一番効率的だろう。
しかし冬野目は思う。警察に通報して全てを話して任せるよりも、自分たちでやらなければならないことがあるはずだ。例えそれがどれほどに的外れでも、またどれほどに無謀なことだとしても。自分の脚を動かし、そして自分の手でそれを掴まなければならないという確信を持っていた。
一行は二階へと続く階段を上がる。先頭の一条は大きなバッグを抱えて扉の前に立ち、浅く息を吸い込んでからドアノブを回した。
あの時と同じように、あっけなく扉は開いた。
しかし中はもぬけの空だった。壬生が寝かされていたベッドは跡形もなく、壁一面に貼られていた写真も一枚残らず撤去されていた。
「逃げたか……」
憎々しい表情で呟く一条。その後ろで、吠木が口を開いた。
「ここはいつでも捨てられる場所だったのでしょう。そうなれば、次は警戒してもっと本居地に近いところに監禁されいているのかもしれません」
美作一家が営むグループは、様々な分野に影響を及ぼす。本職である警備保障から医療関係、そして不動産に至るまで関連企業を抱えている。そうなれば、学生が住むような安アパートなどは都内に複数所持していても不思議ではない。言い換えれば、いつでも切り捨てられる隠れ家を豊富に持っているということだ。
「そう……先と同じように、どこかのアパートに隠れているとは思えませんね」
一同は声の主に視線を向けた。その先にいるのは砧だ。
「先方からしてみれば、わたくし達が壬生さんを取り戻しにきたのは想定外なのでしょう。その証拠にあの日、このアパート付近に護衛は一人もいなかった。ならば、せっかく再び誘拐した彼女を同じような環境下に置いておくとは思えません」
「つまり……次は簡単に連れ戻せない、ということですね」
吠木の言葉に、砧は頷く。
「ええ。おそらく烏丸一派が護衛として付いていることでしょう。前回の戦闘で、わたくしが記憶を取り戻したという報せが向こうに入ったかもしれませんし。そうなれば向こうも本気に近い戦力を用意してくるはずです」
それまでぼんやりと部屋の中を見回していた冬野目が会話に加わる。
「砧ちゃん、一条さんに聞いたんだけど君はとても強いらしいじゃないか。その君が本来の力を思い出したという事実が向こうに知れているのは、好都合じゃないかな?」
意外な人物の意外な言葉に、妖の三人は顔を合わせる。
「御主人……何を仰りたいのです?」
得心のいかない様子の三人に、冬野目は言葉を続ける。
「つまり、君のように強大な力を持つ存在がこちらについてるのであれば……本来なら争いは起こらないと思うんだ」
争いはあくまで同じ戦力を持つもの同士、もしくは片方が、自分は相手と同じだけの戦力を擁していると思っている時にこそ発生する。仮に自分よりも相手の戦力が圧倒的に上であれば、争いは起こらないだろう。余程の阿呆でもない限り、勝てない戦はしないものだ。
「ほう……」
砧は納得したともしてないともとれる表情で相槌を打った。
冬野目は続ける。
「なら、むしろ真正面から美作さんに交渉した方が得策じゃないかな? こっちには強力な戦力である砧ちゃんがいる。向こうの後ろについている烏丸だって、砧ちゃんとぶつかって一派を潰すような真似はしたくないだろうし」
それを聞いた砧は瞳を閉じて微笑みを浮かべ、何度か頷いた。
「成程、人間社会の力関係を用いた意見ですね」
「砧の力を背景にして交渉っちゅうことか。冬野目らしい陰湿な意見やな……」
一条は言葉は悪いが、少なくとも冬野目の意見に反対ではないらしい。その証拠に、先ほどよりも表情が明るくなっている。
もしかしたら、思ったよりも簡単に壬生を連れて帰れるかもしれない。
しかし、その可能性を否定したのは砧だった。
「しかし御主人、烏丸一派はこのわたくしと真っ向からやりあう腹積もりのようです」
言葉の主以外は眉根を寄せた。
信じられないといった様子の一条が口を開く。
「そんなわけないやろ。烏丸一派は京都でウチらの本家とドンパチしとるんやで。東京で砧とやりあうだけの戦力は無いハズや」
「それが、そうでも無いのです」
砧がその場に腰を下ろしたので、自然と他の三人も座った。
部屋の中には健康的な太陽光が射し込み、あの光景が嘘のようだ。
「まず、わたくしがなぜ単身で東京に向かったのかを説明します」
澄まし顔で膝の上に手を置いて、砧は体勢を整えた。その姿は貴族然としていて、冬野目は少し違和感を感じた。
「京都で烏丸がわたくし達に宣戦布告をしてから、不可思議な戦闘が続きました。いくら戦っても相手の数は減らず、こちらの被害も少ない。激化することも無く沈静化することも無く、ただ淡々と何かの約束事のように戦闘が続きました」
「それは、単純に烏丸一派の力不足やったんちゃうん?ウチも意外や思たで。あの烏共が、まさかウチらに喧嘩売るなんて思わへんもん。そんなん、自殺行為やん」
「そう……そう思うのが普通でしょう。秘常や吠木がいるように、我が砧一派は種族を超えた一派です。そのため勢力は妖界一で、誰も歯向かう者なんていない。まぁ、お父様が周辺の妖に気をつかっていたのもありますが……」
「気を使っていた? 砧ちゃんのお父さんは、なんというかこう……親分みたいなものじゃないの?」
冬野目の言葉に、砧は苦笑いを浮かべる。
「そうなのですが、余計な争いは無い方が良いでしょう。なので、お父様は周辺に気をつかい、争いの種が育たないようにしていたのです」
それは人間と同じ考え方だと、冬野目は思った。人の上に立つ人間は、周囲から反感を買わないように立ち回るのが上手い。立場が下の者にも優しくし、自分が蹴落とした人間とも公平に接し、いつの間にか周りを味方につける。そのシステムさえ構築できれば、あとは上を目指していくだけだ。立場が下の者は、こんな自分にも誠実に接してくれると感激し、本来争うべき相手は、あいつには適わないと戦意を喪失する。
しかし、完璧にこのシステムを構築できるのは、限られた一部の才能だけだろうと冬野目は思う。凡人であれば、そうした立ち振る舞いはすぐに看破され、むしろ腹黒いと罵られ貶められることだろう。
これは頭の回転だけではなく、天性の感覚が必要な綱渡りなのだ。
となれば、砧の父親は優れた才能の持ち主なのだろう。キツネとイヌとタヌキ、種族が違う者同士を内包しつつ更に外部にも気を配る。凡人にはとても出来ないことだと、冬野目は思う。
しかし。
「それでも、やはり起きてしまったのです。きっかけは些細なことでした。烏丸一派の子供と、我が一派の子供が喧嘩をして……といったよくあることです。本来ならば一派同士の争いになぞならず、当家同士が話し合ってどうにか収まる問題だったのです」
砧の視線は窓の外に向いた。一条と吠木は黙って話を聞いている。おそらく、今話している部分は冬野目のための説明なのだろう。
「しかし、烏丸はこちらに牙をむいた。いや、嘴ですか……。とにかく、あれよあれよと言う間に戦火は広がり、いつのまにか砧一派と烏丸一派の抗争にまで発展してしまいました。周囲の妖達は飛び火を恐れて京都から去り、今ではすっかり閑散としています。丁度、この部屋のように……」
視線を部屋の中に移して、砧は寂しそうに呟く。
「お父様が守ってきた平和が、ついに崩れてしまいました。烏丸はお父様に、抗争を止めたければ在野妖の頭取を辞し、その権利を烏丸に譲渡せよと要求してきたのです」
一条と吠木は悲痛とも憎悪ともとれる表情をしている。それを視界の隅で認めつつ、冬野目は砧に問うた。
「つまり、地位を寄越せと?」
こくり、と砧は頷いた。
「そうです。しかし、はいそうですかと渡すわけにはいきません。わたくしの父はよくやっていました。それで大きな争いも無く、平和的に世界は回っていたのですから。しかし乍ら、この権利があの烏丸に渡ればどうなることでしょう。今回のことで彼らの血の気の多さは知れました。そうなると、絶対に渡すわけにはいかない。それどころか、我が一派は負けるわけにもいかないのです。わたくし共がいなくなると、烏丸一派が最大派閥となってしまいます。せっかく父が守ってきた平和が、戦火に変わってしまいます」
砧は真剣な表情だ。
冬野目の脳裏には、甘えた砧の姿がまだ焼き付いている。肌の露出を気にせず抱き付いて来たり、壬生と楽しそうに笑う砧。
それは本当の姉妹のように、冬野目の目には映った。
「あぁ、話が逸れてしまいましたね。それで……相手の戦い方を不審に思ったわたくしは探りを入れたのです」
「探り?」
「そうです。戦闘が止んだと思えば火が放たれ、かと思えば激化する直前にぴたりと攻撃は止まる。この行動の真意を探ろうと、烏丸の真ん中に飛び込みました」
「え?」
思わず、冬野目は声を裏返らせてしまった。
「その、砧ちゃんが……敵の真ん中に?」
冬野目の向かいに座る少女は当たり前のように頷いた。
「ええ。わたくしの変化は、大抵の妖を完璧に騙せます」
以前に一条から聞いたことを冬野目は思い出す。砧は、吠木や一条と違って完璧に人間の姿に化けている。本来ならば、一条の耳のようなものが体のどこかに残ってしまうらしいが、砧の身体のどこにもそんなものは無い。完全に人間の少女に成っている。
そう、化けているというよりも、成っているのだ。
「確かに……今の砧ちゃんは完璧に人間に成っている。砧ちゃんを見た鎌田なんて、本気で犯罪者の目付きをしていた……」
「きっしょいなぁ……あのぷよっと君、冬野目と同じ属性やんな」
犯罪者属性かな? と思いつつ冬野目は砧に話の続きを促した。
砧は、ふふふと笑う。
「人間の男性を完璧に騙せるほどに、わたくしの変化は完璧です。それで烏丸一派の内部を探っていると、不思議なことに気が付いたのです」
「不思議なこと、ですか?」
吠木は首を傾げる。
砧は言葉を続ける。
「そうです。烏丸が我が一派に攻撃を仕掛けるとき、後ろに増員は用意されていませんでした。そして戦闘が激化する直前に引き上げ、再び攻勢に出る……その時の構成員が、最初とは顔ぶれが微妙に変わっていたのです」
「変わっていた?」
「そうです。しかし、最初に言った通り増員なんて用意されてはいません。果たして変わった構成員はどこから出てきたのか……それで、ふと思ったのです」
砧は視線を落とし、膝の上で組まれた自分の指を見つめた。
「烏丸の本陣は京都ではなく、どこか別にあるのではないかと」
息を飲む音が聞こえた。冬野目が視線を向けると、一条と吠木が青い顔をしている。
「き……砧、今も烏一派と砧一派は互角の抗争を続け取るんや。ウチらは戦力の全部とまではいかんまでも、相当数を突っ込んどる。それでようやく互角やっちゅう相手が、本隊やないっちゅうことか……?」
動揺が隠せない様子の一条に、砧は涼しげに答える。
「そうです。今現在、京都で我が一派と抗争を繰り広げているのは烏丸の別働隊です。本隊ではない」
「なんやて! あんなに苦戦しとるのに……そんな……」
言葉を無くす一条の横で、吠木が口を開いた。
「しかし、なぜそのようなことをするのでしょう……。片手間で我々の相手が出来るほどの戦力があれば、総力を挙げてかかれば戦況は決すると思うのですが……」
それを聞いた一条は拳を握った。余程悔しいのだろう、そのきれいな細い指が真っ白になるほど力が入っている。
それも無理は無い。もしも砧の話が事実なのであれば、烏丸は最大派閥である砧一派を片手であしらっているに過ぎないのだ。もし烏丸の本隊が砧一派討伐に動けば、吠木の言う通り戦況は簡単に決する。砧一派の惨敗という形で、である。
「それが、そうともいかないのです。烏丸一派はここ東京で何やら企んでいる。構成員のほとんどをこちらに投入して、その企みを進めているようなのです」
「企み……? それが壬生はんの誘拐と関係あんのんか?」
顔を上げて一条が食いつくように砧に問うた。
しかし砧は至って冷静に答えた。
「いえ、直接は関係無いと思います。しかし乍ら、烏丸は東京での活動のスポンサーにとある企業をつけた。おそらくその企業側からの要望が、壬生さんの誘拐だったのでしょう」
「き、砧ちゃん。その企業って……」
「ええ」
ふう、と息を吐いてから砧は言った。
「美作グループです」
あぁ、と冬野目は思った。これで謎が解けた。なぜ美作の誘拐劇に、あの化け物が絡んできているのか。美作が強硬手段に出たのは、人外である烏丸という戦力を得たからなのだ。対する冬野目はただの人間だし、砧がいるとはいえ、それでも烏丸が本隊を動かせばひとたまりもないだろう。砧の本隊は京都にあり、烏丸の本隊はここ、東京にあるのだ。
戦力差は歴然だった。
砧は言葉を続ける。
「京都での戦いはただの時間稼ぎであり、目くらましでしかない。そう思ったわたくしは急いで東京に向かいました。名目上は烏丸との休戦条約を結ぶため、あちらのトップと会うつもりだったのです。しかし」
砧の表情に曇った。
「しかし、謀られました。烏丸は移動中のわたくしを狙い、亡き者にしようとしたのです。奇襲を受けたわたくしは怪我を負い、都内のアスファルトの上でついに倒れました」
まさか見破られるとは……と、砧は悔しそう呟いた。
あぁ、という呑気な声が冬野目からもれる。それを聞いた砧の表情は一変し、あたたかなものになった。
「そうです。そこを御主人に助けて頂いたのです」
にっこりと優しく微笑む砧だが、次の瞬間にはその笑顔も消えた。そして引き締めた顔で一条に言った。
「このような事情から、烏丸はわたくしとやり合うのを避けるつもりは無いようです。この東京であれば、むしろ真っ向からぶつかったほうが好都合でしょう。わたくしたちは少数で、烏丸には本隊があります。まさに、多勢に無勢なのです」
沈黙が降りた。一条と吠木は未だに砧の話が信じられない様子だが、冷静に考えれば考えるほど砧の話には筋が通っている。
吠木が口を開いた。
「しかし、なぜ京都で我が一派と抗争を続けているのでしょう? 烏丸は、どうせなら全ての構成員を東京にうつしてしまったほうが得策なのでは?」
砧は吠木のほうを向いた。
「我が一派を京都から出させないためだと思われます。烏丸の企みは、まだその途中なのだと思います。なので、ここで最大派閥である我が一派がその企みに気づくとやっかいだと踏んだのでしょう。不安要素はなるべく潰すに限りますからね。別働隊と我が一派を戦わせているうちに、東京で企みを完遂させるつもりなのでしょう」
一同は再び黙り込む。それぞれがそれぞれの視点で考えを巡らせている。しかし、一条と吠木の考えはおおむね似通っていた。
砧の記憶が戻ったとなれば、あとは壬生の居場所さえ判明すれば話は簡単だ。砧の力を活用して迅速に壬生を救出し、砧は京都に戻って本家に合流する。そして烏丸一派を撃退し、あとは以前のような平和な日常に戻れば良い。
そう考えていたところに、砧がもたらした新事実はあまりにも衝撃的だった。
このままでは壬生救出どころか、砧の本家すら危うい。烏丸にそれほどまでの戦力が集まっていたことなんて考えもしなった一条と吠木は、途方に暮れた。
このまま、打つ手はないのだろうか。
重たい沈黙を破ったのは、冬野目の頼りない声だった。
「僕は、壬生さんを助けに行きます」




