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上り梅雨

 射し込む太陽の光は明るく、少し開いた窓からは気持ちの良い風が吹いている。

 しかし、砧と一条はうつらうつらと船を漕いでいる。

 目の下には隈ができていて、全身がむくんでいてだるい。しかし身体のコンディションと反比例するように精神のコンディションは快調らしく、二人の声は明るい。

「砧、少しサイズ合わへんのとちゃう?」

「そんなことはないと思いますが……秘常こそ、スカートが短すぎるんじゃありません?」

「いや、でも参考資料やとこれくらいやもん。あぁ砧そないボタン開けたらあかん。見えてるで」

 冬野目の下宿にはリビングとキッチンを仕分けるために薄い引き戸がある。本来その引き戸には冬の冷気を遮断する役割もあるはずだが、その役割を果たしたことは無い。限りなくベニヤ板に近いその装甲では、冬の冷気という強敵を防ぎきるにはあまりにも戦力不足だったのだ。

 しかしこの時の冬野目は、その紙の如き装甲に感謝せざるを得なかった。この薄い引き戸の向こう側では、口は悪いが痩身にして長身の美女一条と、垂れ目がちでやや上から目線の話し口調が自虐心をくすぐる夢乳の美少女砧が着替えをしている。確かに視界を遮られているが、二人が着替えをしている現場までの距離は近い。それならば、現場に同席しているといっても過言ではないのだろうか。そう考えた冬野目は少しでも二人のリアルタイムな会話を脳裏に焼き付けるべく、隣の楽園空間と自分がいるキッチンを隔てる野暮な引き戸に耳を押し当てていた。

「冬野目さん、何をしているのですか。さすがに引きますよ」

 横でちょこんと正座をしている吠木が冷たい視線を冬野目に突き刺す。

「吠木君、きみにはわからんのかね。現在の状況の素晴らしさが。きみは見慣れているのかもしれないが、砧ちゃんも一条さんもかなりハイレベルなルックスをしている。その二人が、すぐ手の届く場所でコスプレのために着替えをしているのだよ? 四年に一度の祭典よりも有難い」

「オリンピックと比べないで下さいよ……はぁ」

 形の良い額に手を当てて俯く吠木。呆れたという雰囲気が全身の細胞から放出している。

 しかし冬野目はめげない。

「あのね、女の子の着替えは神秘なのだよ。いつもは制服や洋服に隠されて見えない場所が露わになる。しかも、『着替えなきゃいけないから』という大義名分があることによって女の子の行動は大胆になる。上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを外し、スカートを下ろすんだ」

「そりゃあ着替えですもん。それくらいしますよ。大胆でもなんでもないです」

「女の子からしてみれば当たり前のことかもしれないがね、僕ら男の子からすれば一大イベントなのだよ! 見逃すわけにはいかんのだよ!」

 拳を握り乍ら熱く語る冬野目。しかし吠木の視線はどこまでも冷たい。

「着替えなんて、毎日誰かがしているじゃないですか。冬野目さんは毎日そうやって発狂しているんですか?」

「発狂て言うんじゃないよ! いいかい、着替えというのは、知り合いの女の子がしているから燃えるんだ。そう、萌えるんだ」

「どうして二回言うんですか……あの、話によると砧さんが人間の姿で出てきたとき、ほぼ全裸だったわけでしょう?そんなところを見ておいて、今更着替えで興奮するのもおかしいと思うのですが」

 冬野目は「はぁ」とため息をついて距離を詰め、吠木の肩に手を置いた。

 吠木は冬野目が詰めた距離の分だけ、後ろに下がった。

「君は僕なんかよりも長く生きているのにどうしてわからんのだ。例えば今この瞬間に僕が引き戸を開けたとしよう。さてどうなると思う?」

「貧相な肉体の死体が一つ出来上がるでしょうね」

「……そうだね。いや、そうじゃなくて! 僕のことじゃなくて砧ちゃんと一条さんの方だよ!」

「あぁ。一条さんが瞬間で距離を詰め、冬野目さんの眉間に渾身の正拳突きを」

「違う違う! そうじゃない!」

 吠木は呆れた表情だ。

「なんだっていうんですか……」

 冬野目は人差し指を立て、それを左右に揺らし乍ら話し始めた。

「いいかい、僕がこの引き戸を開けたら、いくらあの一条さんと言えども驚くはずだ。そこにあるのは一糸まとわぬ姿なのか劣情をかきたてる下着姿なのかは判然としないが、少なくともいつもの彼女のままではいられない」

「……へえ」

「頬を赤らめ、『な、何してんねん!』なんて言うかもしれない。そして手近な服で胸元を隠しながら、どこかに身を隠そうとするだろう。しかし僕の部屋にそんな都合の良い隠れ場所なんて無い。逃げ場を失った一条さんは、『早く出てって!もう!』なんて言って動揺するだろう」

「どうして一条さんは途中から標準語なんですか?」

「お約束だからだ」

 意味がわからない様子の吠木をよそに、冬野目の熱弁は更に加速する。

「あの強気な一条さんが、『もう!』だよ。頬を赤らめて恥じらうんだよ? たまらんだろうよ! 小僧!」

「なぜ師範代のような口調になったのです……そんなに見たいなら覗けばいいじゃないですか。 命の保証はありませんが」

 そう言う吠木に対して、冬野目の態度は極めて冷静なものだった。いや、それはもう何かを諦めた者の顔ですらある。物事を達観し、全ての悩みに対して老獪なアドバイスを与える長老のようでもあった。

「違うのだよ少年……」

「僕は女の子です」

「いいかい、ここで覗いてしまったら着替えが終わってしまうんだ。そんなことをしたら、こうして聞き耳を立てて大小様々な妄想で楽しむことも、さっきみたいな『もしも~なら』の妄想で楽しむことも出来なくなってしまうじゃないか。良いかい、腕の良い釣り人は必ず稚魚を逃がすのだ。大きくなった魚のみを狙う。そうしないと、ゆくゆくは魚がいなくなってしまうからね」

「なぜ釣り人で例えたのかが謎ですが……つまり、今のように『隣の部屋で女の子が着替えている』というシチュエーションを楽しみたいわけですね?」

「平たく言うと、そうだね」

 リビングの中からは相変わらず楽しそうな声が聞こえてきている。

 昨日の夜、「警察の格好で付近の住民に聞き込みを行えば良い」という砧の提案に一条が乗り、「婦警さんのほうが話を聞き出しやすいはずだ」とう一条の提案を砧が支持した。二人は夜通し冬野目のパソコンで警察の制服を検索して、あれがカワイイこれが素敵などと盛り上がった。二人が見ていた制服のほとんどは所謂コスプレ用のものだったが、「どうせ着るならカワイイのが良い」という二人の意見に冬野目は何も言い返すことができなかった。

「しかし、砧さんも一条さんも呑気なものですね。壬生さんが大変だというのに……」

 吠木は足を崩してあぐらをかいた。そして、楽しそうな声が漏れる隣の部屋に視線をむける。

「二人とも、壬生さんのことはちゃんと考えていると思うよ。でも、暗い顔をしていても事態は好転しないもの。どこかで明るくしてなくちゃ、僕らの方が駄目になってしまうんじゃないかな」

 ふう、と息を吐いて吠木は手を組んだ。

「そうなんでしょうけどね。一条さんはあれで情に厚いし、砧さんは冬野目さんと壬生さんに恩義を感じていますから。それに、みんなでいると家族が増えたみたいで楽しいです。その家族がどこぞの変態に誘拐されたとなれば、僕だって冷静ではいられません」

「そうだね、本当に楽しい。僕は友達がいないから、こうして誰かが下宿に来てくれるのが嬉しいよ」

 そう言って、冬野目は苦笑した。

 壬生に始まり、砧や一条や吠木と知り合って、冬野目の毎日は変わった。それまでの、限りなく精神の自給自足に近い生活に他者が入り込んだのだ。戸惑いはあるものの、それは単純に今までに同じような経験が無かったからだ。

 他人と関わるなんて、面倒だし損害しかないと思っていた。他人の気持ちはわからないし、もしわかってもそれは『わかった気になっている』だけだ。本人ですら自分の気持ちなんて精確に把握していないというのに、どうして他人にそれがわかるのか。

 それを考えると、途端に人間関係が面倒になる。

 表情から感情をくみ取り、動作から心中を察し、声の響きから本心を探る。全ての人間がそれを当たり前にできていたならば、こんなにも住みにくい世の中にはなっていないだろうと冬野目は思う。

 自分が気を使われれば、今度は自分が誰かに気を使う。それは理性の動物である人間の当たり前の機能なのではないだろうか。 

 しかし、世の中の大半の人間はそうでは無い。自分と違う性質を持つ人間を見つけると、集団で排除しようと動く。みんな違ってみんな良いというのは詭弁であり、集団で生活を営む人間の本質は『異質を認めない』ことであると、冬野目は確信していた。

 その本質は集団の安全性を保つためには大いに有効だということは、冬野目にも理解できる。不確定要素や不安要素は予め取り除いておけば安全だし、自分とは違う性質を持つ人間が、自分に害を及ぼさないという保証はないからだ。

 しかし、である。

 価値観が多様化した現代において、そこまで執拗に異質を排除する必要があるのだろうか。多様化した価値観の住み分けも進み、それぞれがそれぞれの居場所を手に入れやすくなったではないか。音楽が好きな人間はネットで仲間を探し、一緒に好きなアーティストのコンサートに行けるし、お洒落が好きな人間は、自分の服装をアップするためのサイトにアクセスすれば良い。誰にも迷惑をかけず、違う価値観と交わることなく生活できる基盤ができているではないか。

 なのに、わざわざ自分の居場所から出てきて他の価値観を否定したり、ある特定のコミュニティが社会的な問題を抱えているかのように騒ぐ必要がどこにあるのだろう。そいういったことを進んで行う人間は、しばしば正義感や道徳観を振りかざす。「そんなことをしていては、不快に思う人がいる」と言って何らかの活動を批判する一方、言った本人はその「不快に思う人」ではないのだ。つまり、「声を上げたくとも上げられない人のために代弁をしている」という意識なのだろう。誰かに頼まれたわけでもないのに、だ。

 冬野目は、違和感を感じる。

 彼は高校卒業までの期間を、東北の田舎町で過ごした。人口が少なく、限られた人間関係しか存在しない田舎では、価値観などというものは軽く扱われがちだ。多数派と同じでなければ異質だと認識され、同調圧力の力に押しつぶされる。そんな環境下で思春期を過ごした冬野目は、ある意味では人間関係というものをすっかり諦めていた。嫌ったり憎んだりしたのではなく、諦めたのだ。

 空気を読んで、周りに合わせて生活することも出来ただろう。むしろ、それが処世術として広く認識されているやり方だとは思う。しかし、冬野目はそれを良しとしなかった。周囲に迎合するのではなく、あくまでフラットに振る舞った。気に入ったものは、それが周囲にどう認識されていようとも好きだと明言し、自分が気に入らないものは、それがどんなに周囲に受け入れられていようとも嫌いだと言い切ってきた。その結果、変人だの変態だのとレッテルを貼られ、深い付き合いができる相手などいなかった。レッテルが浸透した後の冬野目は、冬野目百草という一人の人間ではなく、関わってはいけない何かとして認識されていったのだ。

 しかし、冬野目はそれで良かった。これで、半端に他者との付き合いが残れば未練も生まれよう。しかし冬野目が暮す小さな田舎町では、冬野目は完全なる異質であり異物であった。なので、彼は安心して諦めることができた。

 自分は誰にも相手にされないし、誰も相手にしない。そう決めることができた。

 それでも、大学進学と共に上京するにあたっては微かな希望もあった。様々な人がいる都会であれば、自分と同じように考える人間もいるのではないか、と思えたのだ。

 冬野目は入学してすぐに、鎌田という男と知り合った。彼に自分と同じような空気を感じた冬野目は、勇気を出してこの饅頭のような男に話かけた。鎌田と冬野目はすぐに意気投合し、互いに好きなものを紹介し合う仲になった。

 しかし、結局はお互いが自分の価値観を持ち、その中でしか呼吸ができないような人間だ。交流は一時的なもので、決して嫌いな相手ではないのに、冬野目はなぜか距離を感じた。

 そんな中、出会ったのが壬生だった。

 気まぐれで加入したサークルだが、初日で後悔した。メンバーはそれぞれが上っ面の会話を交わし、「仲良くなるために仲良くしている」という本末転倒な有様を誰もが当たり前のこととして受け入れているようにしか、冬野目には見えなかった。

 これでは、自分の田舎と同じではないか。

 結局、大学でも東北の田舎町でも人間関係の構図は同じなのだ。本音を隠して円滑な人間関係を築くという価値観も尊いが、ならば本音を晒して尚且つ互いを尊重するという価値観もまた、尊ぶべきでは無いのか。

 失意のうちに帰路につく途中、いきなり壬生に声をかけられた。

 その可憐な見た目からは想像が出来ない変人ぶりに、冬野目の価値観は揺らいだ。なぜこのような育ち方をしてしまったんだ。それに、なぜ自分に話しかけるんだ。

 壬生の振る舞いは傍若無人乍らも、一緒にいるのは楽しかった。それはひとえに壬生が楽しそうにしていたからであるが、それがなぜ自分の楽しさにつながるのか、冬野目にはわからなかった。

 気付けば、一人でいる時間は減っていた。

 しかし、それが心地よかった。

 隣の壬生が笑っていたからだ。


 


 隣の部屋から聞こえる賑やかな声は止まない。

 吠木が口を開く。

「しかし、妖と人間がこうして仲良くしているというのも妙なものですね」

「異文化交流だよ、吠木君」

「そうですね……いつまでも、こうして楽しく過ごせれば良いのですが」

 しかし、それは無理だと冬野目はわかっていた。

 それでも、口を開く。

「本当に、こうして皆といると楽しいよ。でも……」

 冬野目は視線を落とし、自分の膝のあたりを見つめた。


「一人、足りないよ」


『楽しそうな壬生がいないと自分は楽しくない』という言葉を、冬野目は胸の中に仕舞った。

 

 

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