帰り梅雨
創設当初は小さな警備会社だった『美作警備保障』は、次第に事業を拡大していった。最近では警備会社以外にも関連会社を抱え、様々な分野に影響を及ぼす程に大きなグループにへと成長した。初代社長である美作幸三の一人息子、美作翼は後継者としての期待を一身に受けて育ち、本人もその期待を意気に感じていた。
小さなころから見目麗しく周囲の人間からの注目を集めていた美作翼は、大学入学までは何一つ苦労せずに過ごしてきた。学業の成績は優秀、部活動でも常にレギュラーで、先輩が引退するとチームメイトからの推薦で部長を務めた。女子生徒からの人気もあるが、特定の恋人をつくったことは無い。それは『一人を選ぶと、他のウインガー達に不公平だから』との理由だった。ちなみにウインガーとは美作翼に想いを寄せる不特定多数の女子のことである。サッカーにおける、ライン際を駆け上がる俊足選手のことではない。
小学校から高校まで、バレンタインデーの日は両手に抱えきれないほどのチョコレートが贈られた。同じ学校に通う女子はもちろん、噂を聞きつけた周囲の学校の女子生徒までもが美作にチョコレートを渡しに来るため、二月には周辺の道路に交通規制がされた。
その美作翼が初めて挫折を味わったのは大学二回生の春だ。いや、それは一般的な男子から見れば決して挫折などではなく、ただの日常だろう。しかしそれまでの学生生活でそのような思いを抱いたことが無い美作にとって、それはまさに挫折としか受け取ることができなかった。
挫折の原因は壬生夏吉だ。
サークルの新入生紹介の場で、美作の視線は一人の女子学生に釘付けになった。心臓の鼓動は高鳴り、開いた口を閉じることすら忘れた。
その視線の先には、壬生夏吉が澄まし顔で佇んでいる。
白く柔らかそうな肌に、憂い気な瞳。すらりと伸びる脚は形良く、僅かに笑みを浮かべた唇は可憐だった。
一目で美作は壬生の虜になった。
女子から迫られる経験は豊富でも、自分から迫った経験の無い美作は困惑した。気持ちをどう表現すれば良いのかわからず、ひたすら壬生の姿を網膜に焼き付けるように眺めた。
今までであれば、女子の方から美作に話しかけてきた。そして連絡先の交換を望まれ、応えるだけで充分だった。しかし壬生はあくまで毅然とした態度で、美作に興味を示そうとすらしない。
混乱した美作は、その日のうちになんとか壬生に話しかけようと試みた。
具体的には、帰宅途中の壬生に話しかけ、どこか気の利いた喫茶店にでも入っておしゃべりをしようと計画した。それだけすれば、自分に好意を抱かない女子なんていないだろうと美作は確信していた。
新入生紹介の帰り、美作は壬生の後をつけた。どのタイミングで声を掛けようかと身構えていると、壬生は一人の冴えない男子学生に話しかけた。その後二人は駅前の喫茶店に入り、長い時間を楽しそうに過ごしていた。
愕然とした。なぜ壬生は、自分ではなくあのような男と一緒にいるのか。
そう言えば自己紹介の場で、壬生はあの男の言葉に大きな興味を示していたような気がする。成程、あの男は壬生が興味を持つ話題を予め調べておいて、わざわざあの場でその話題を口にしたのだろう。そして純白可憐な壬生はそれにつられてしまい、あんな魅力の欠片も無い男と一緒にいるのだ。
つまり、壬生はあの男に騙されているのだ。そうとしか考えられない。ならば自分は直接的でわかりやすい手段で好意を伝え、壬生の目を覚ましてやらねければならない。
美作はそう考えた。
それからは、美作にとって慣れないことの連続だった。ひっきりなしに受信する女子学生からのメールを無視し、ひたすら壬生にメールを送った。内容にも気を使って、なるべく好意が伝わるようにと心がけた。そして映画や遊園地や旅行など、女子が喜びそうなものは一通り誘った。
しかし壬生からの返信は無い。待てども待てども携帯電話は鳴らず、原因もわからないまま美作は悩み続ける日々が続いた。
そして出た、一つの結論。
きっと、あの冬野目とかいう男が壬生にべったりと張り付いて洗脳しているのだろう。そうとしか考えられない。学食で直接壬生を誘って断られた時も、横には冬野目がいた。なんとかして、あの不気味な枯れ枝男を引き剥がさなければならない。そして壬生を自分の手元に置いておかなければならない。
そのためには、手段の善悪を問うてはいられない。
美作はまず、タヌキを使えないものかと考えた。それは壬生が異常な反応を示すキーワードであり、容姿も言動も綻びが無い壬生にあって、唯一のとっかかりだと美作には思えたのだ。
ネットでタヌキについて調べ物をしていると、気になるコミュニティを見つけた。そこではタヌキを害獣として指定し、捕獲するべきだと主張している。都内のタヌキ分布地や目撃情報などを細かく整理してあり、並々ならぬ熱意を感じる。ここなら何か使える話が聞けるかもしれないと思った美作は、ホームページから連絡を取ることにした。相手からの返信は迅速で、是非一度会って話しましょうという運びになった。
そのコミュニティは『カラスマ』と呼ばれていた。
コミュニティのトップは既に何匹ものタヌキを捕獲していて、生態にも詳しい。捕獲したタヌキを自分の自由にできれば、いつでも壬生とタヌキを会わせることができる。そうなれば、きっと自分に振り向いてくれるに違いない。そう思った美作は、親の資金力を一部利用して、『カラスマ』に協力者として近づくことにした。
会談の場所に指定されたレストランは店内が異様に暗い。
お互い簡単な挨拶を交わす。
相手の顔も満足に確認できないまま、美作は切り出した。
「あなた方の活動方針には共感します。僕の父はとあるグループの経営者なのですが、ぜひとも資金面での協力をさせてほしいと思いまして。きっとお役に立てると思います」
相手は薄暗い闇の中で低く笑った。
「それは有難い。当方としましても、先立つものが無くては活動ができませんから……」
『カラスマ』は主に東京都内のタヌキを捕獲しているという。ゆくゆくは千葉や埼玉など、近隣の県にも活動範囲を広げるつもりらしいが、そのためには資金が足りない。美作の申し出はまさに渡りに船だったらしく、話はトントン拍子に進んだ。
食事が済んで珈琲が出てきたタイミングで、美作は本題を切り出した。
「ちなみに、捕獲したタヌキ達はどうしているのですか?」
「今はまだ数が多くないので、当方が所有する土地に隔離しています。それが何か?」
「いえね……どうでしょう、捕獲したタヌキ達の管理は僕に任せてくれませんか」
相手は「ほう」と言ってから黙った。何かを考えていた様子だが、やがて口を開いた。
「それをお願いできれば、こちらとしても管理費がかからなくて助かりますが……しかし条件があります」
「条件?」
「そうです。当方はとあるタヌキを探しています。それだけは、こちらに渡していただきたい」
美作にはその条件の意味するところがわからなかった。しかし、たった一匹のタヌキを差し出すだけで良いのであれば、条件を受け入れない理由は無い。
「わかりました。で、そのタヌキというのは?」
相手は内ポケットから一枚の写真を取り出し、美作に渡した。
「このタヌキです。目印としては、胸元に星の模様がある」
写真は、小さなタヌキがこちらを見た瞬間のものだ。確かに胸元には特徴的な星形の模様がある。
「わかりました。しかし……なぜこのタヌキだけを?」
一瞬、相手の顔が赤く照らされた。美作はぞっとしたが、相手が煙草に火をつけただけだと知って安堵した。
「それは、話せば長くなりますので……」
それで話は終わってしまった。
理由は聞き出せなかったが、美作の目的は達成された。話の最後には、「人手が足りないでしょうから、ウチの若いのを貸します」と相手が言い出し、美作は自由に動かせる手下も入手した。
こうして人手やタヌキを確保した美作は、ついに強引な方法で壬生を自分の手元に置くことに決めた。
「しかし、どうすりゃええねん」
しかめっ面の一条が憎々しそうに言う。彼女は長い脚を器用に折って、冬野目愛用の座椅子の上であぐらをかいている。本来そこは家主お気に入りの席だが、一条が冬野目の下宿に転がり込んで来た日に「なにここ、落ち着くやん」と言って当然のように奪っていった。
そして吠木はその座椅子の横に正座で座っている。背筋をぴんと伸ばしていて姿勢が良い。先程からなにやら難しい顔をしたままで何も言わないが、二度目の壬生誘拐について思うところがあるのだろう。一条の言葉に何も返さないものの、厳しい表情を張り付けている。
ベッドには砧が優雅に鎮座している。両足を斜めにして座るという女性特有の座り方で部屋の中を見渡し乍ら、膝の上でやわらかく指を組んでいる。
「まずは壬生さんの居場所を探さなければなりませんが……前回のように有力な情報があるわけでもなく、厳しい状況ですね」
そう言う冬野目は部屋の隅で立っている。座椅子は一条に取られてしまったし、砧がいるベッドの端に座ろうとしたら、一条から殺意に満ちた目で見られたので、仕方が無くただ立ち尽くすことにしたのだ。
「やはり警察に届けるのが一番なのではないでしょうか……」
吠木が申し訳なさそうに言った。顔は下を向いていて、に覇気が無い。
吠木は二度目の壬生誘拐の現場で、砧は壬生救出の手助けなどせずに本家に戻るべきだと言った。それは吠木の役職上、当然の発言だろう。しかし当の砧に戻るつもりは無いらしく、どうしても壬生を助けると言ってきかなかった。
結局一条と砧の意見に押されて、壬生救出を達成してから皆で本家に戻るということで話はまとまった。
「ええ。警察に届けるのは賛成ね。でも、それだけでは駄目。わたくし達も動くべきでしょう」
「でも……壬生さんはどこにいるやら……」
ため息がもれる。
「どうすりゃええねん……」
幻覚の化け烏との戦いを終えて冬野目の下宿に戻ってからは、同じ話の繰り返しだった。壬生を助けたいけれど、どこにいるのかがわからないのであれば助けようがない。ならば組織で捜査ができる警察の力に頼るのが妥当なところだが、警察はすぐには動いてくれない。ならば、警察に捜索願を出して、こちらはこちらで壬生捜索をするのが一番効率的ではないのか。しかしどのようにして探せばいいのか、それすらわからない。手がかりが無いのだ。
部屋の中には重たい空気が満ちている。
「あの、みなさんの胆力とかいうので探し出せたりしないんですか?」
冬野目の問いかけに一条が答える。
「そんな都合の良い能力なんて無いわ。見たやろ、ウチは火の玉出すくらいやし、はじめくんは雪丸で妖を消すくらいしかでけへんねん」
「あの、雪丸って?」
吠木は部屋の隅に置いてある日本刀を指差した。
「妖だけを切る妖刀、雪丸です。刃を潰してあるので生き物は切れませんが」
「あぁ、前に見たアレか。成程、なんでもできるわけではないんですね……」
「当たり前やろ。不思議なポッケと一緒にすなや」
一行は考えを巡らせるが、何も情報が無い以上は何もできないというのはわかりきっていた。
「やっぱり……警察みたいに聞き込みとかをするべきなのでしょうか……」
意気消沈気味に言う吠木に、一条が答える。
「せやかて、ウチらがいきなり聞いても何も話してくれへんやろ。あれは警察がやるから意味があんねん。それによくニュースとかでみるやん、事件現場近くのオバハンが、聞いても無い事をべらべらとインタビューで喋ってるの。あれもテレビやから口が軽くなるんやで。『友達が誘拐されました。何か知りませんか?』って、普通の若者が聞いて回っても意味無いわ」
吠木は「ですよねぇ……」と言って口を閉ざしてしまった。
「ネットとかで目撃情報を募ってみますか……」
冬野目は、何か突破口があるもしれないと、ノートパソコンを開いてパスワードを入力した。不特定多数の人間が利用するサイトで情報収集を行えば、何かヒントくらいは拾えるかもしれない。使える情報が拾える確率的には限りなくゼロに近いとわかっていても、何かせずにはいられなかった。
モニターの画面が切り替わり、壁紙が表示される。
「うわぁ……」
血の気が引いたような一条の声。その原因はパソコンの壁紙だった。
「いやぁ、先日変えまして。えへへ」
自らの後頭部に手をやり乍らはにかむ冬野目。なぜか誇らしげだ。
「冬野目さんって、羞恥心とか道徳心とかは何処かに落としてこられたんですか?」
吠木はあくまでも真面目な表情で冬野目に尋ねた。その目には一点の曇りも無く、微かに残った冬野目の社会性やモラルといった殊勝な感覚をちくちくと刺す。
ノートパソコンのモニターには、数人の女の子キャラが表示されていた。真ん中には長い黒髪をなびかせた少女、右には赤髪と吊り目が特徴的な少女、左には色白で胸部に圧倒的な威圧感を持つ少女。その三人には共通している項目があり、それは婦警の制服を着ていることだ。もはや履いている意味が感じられない程の短いスカートに、業務に支障がでそうな程色っぽいガーターベルト、頭にちょこんと乗っているだけの帽子。
冬野目が最近気に入っているパソコンゲームのキャラクター達だ。
「きっしょいなぁ……なんでこんな短いスカート履く必要があるん? 動けなくて犯人逃がしてまうやろ」
あからさまに侮蔑の視線を向ける一条。冬野目がなんとか作品の魅力を説明しようとすると、次は吠木が口を開いた。
「この色白の女の子、服がおかしいですよ。こんなに大きな胸をしているのに、服の裾が普通の位置にあります。これじゃ、はじめから服に胸用の膨らみを設けていたとしか思えない。そんな服つくりますか? 公務員の制服ですよ?」
冬野目はもはや何も言えなくなった。放たれる言葉は正論の矢として彼の心に突き刺さり、目には見えない血液がどくどくと流れ出た。冬野目はもちろん、世の男性が『お約束』として取り上げてこなかった問題に、こうも真正面から挑もうとは。痛い所を突かれただけではなく、もはや切り裂かれた思いで一杯の冬野目。
やんややんやと騒ぐ一条と吠木をよそに、砧はパソコンのモニターを眺め乍ら何やら思案している様子。
「わかりました!」
砧の声に、三人は静かになった。冬野目は、砧が自分にトドメ刺すのではないかと身構えたが、彼女が口にしたのは意外な一言だった。
「秘常、わたくしと一緒に聞き込みに回りますよ。壬生さんの情報を集めるのです」
一条は抗議の声をあげる。
「せやかて砧、さっきも言うたやん。ウチらがやっても誰も答えてくれへんて」
しかし砧の表情にははっきりといた自信がうかがえる。
「要は、住民の皆さんは警察が相手だとお話してくださるわけですね?」
「せやな、でも……」
一条の言葉を遮り、砧はパソコンのモニターを指差して声高に宣言した。
「コスプレしましょう!」




