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通り雨

 鼻につく血臭と、荒い呼吸音。

 冬野目の視界には、とてつもない質量を持った大きな暗闇が広がっている。その暗闇は先程から少しも動かない。

 肉を切断する音と骨が砕ける音が響き、その度に一条の苦悶の声があがった。

 しかし、わからない。

 一条は初めから最大出力といった様子で動いていた。細かくステップを刻み、相手を翻弄し乍ら打撃を打ち込む。その見事な動きに、冬野目の目はついていくことができないくらいだった。

 しかし、一条が相手に攻撃を仕掛ける度に傷つくのは一条の方だった。みるみる身体中に傷が増え、鮮血が飛ぶ。

 だが暗闇の中にいるであろう敵は、依然として揺るがない。打たれても動かず、蹴られても揺れない。

 なぜだ。一条の拳は、膝は、踵は、相手に届いているはずなのに。

 冬野目がいくら目を凝らそうと、深い闇の向こう側は見えない。ただ大きな身体と、何本も生えている脚、大きな翼。そしてこちらじっと凝視するような二つの目。それだけが、闇の中で圧倒的な存在感を放っている。

 敵は大きいだけではなく、ひたすらに打たれ強いのか。

 冬野目は吠木を見た。この強大な敵に、一条だけではとても適わないと思ったからだ。しかし吠木は硬直したように立ち尽くし、敵の目を見つめたまま動かない。首筋には汗をかき、張りつめた雰囲気を感じる。

「ほ、吠木君、加勢したほうが良いんじゃないか」

 声を震わせつつ、冬野目は言った。

 しかし吠木は何も答えない。

「他に敵もいないようだし、僕と砧ちゃんのことなら大丈夫だから。一条さんを……」 

 振り絞るようにして、吠木が答える。

「駄目です。僕がこの場を離れると、冬野目さんも砧さんも壬生さんのようになってしまう」

「え? それって……」

 一際大きな悲鳴が聞こえた。鈍い音の後、空中で弧を描いたものが目の前に何かが降ってきた。

 腕だった。

 見覚えのある、細くて白い腕。

 冬野目が見ると、一条は右肩を押さえて荒々しく息をしている。

「い、一条さん!」

「来るな! 動いたらあかん!」

「ほ、吠木君!い、一条さんの腕が……!」

 しかし、やはり吠木は動かない。相変わらず視線を逸らすことなく、口だけを動かした。

「僕にも、そう見えてます」

 冬野目には意味がわからなかった。明らかに一条は非常事態だ。形勢は不利で、絶対的に絶命の危機に陥っているはずだ。それでも、なぜ吠木は動かないのか。

「じ、じゃあ助けないと! 一条さんが」

 吠木は冬野目の言葉を遮った。

「黙っていてください! 気が散ります!」

 片腕を失った一条の動きは鈍り、それまでの俊敏さは次第に失われていった。暗闇はそれを攻め時と見たのか、相変わらず動かないままで一条を痛めつけた。

 なんだ、どうなっている。

 冬野目から見ると、一条は何も無い空間からの攻撃を受けているように見える。それはまるで、打撃を受ける一人芝居をしているような光景だ。一条が一人で吹き飛び、弾かれ、払われる。攻撃の手段はおろか、相手の手足すら見えない。大きな暗闇の翼も足も嘴も、先ほどから一度だって動いてはいない。

 そして、聞き覚えのある音が再び響いた。

 見ると、今度は一条の右足がどこかに吹き飛んだ。断面からは血飛沫が飛び、その量はみるみるうちに増えていった。支えを失った一条は倒れ、自らの血の海に横たわる。

 冬野目は考えを巡らせた。一条が手も足も出ない相手に、自分が何かできるわけが無い。それならば、砧を連れて逃げた方が得策だろう。そう結論を出した冬野目は、砧の手を握った。自分の手足がもがれても、何とか砧だけは助けようと思った。

 しかし。

 砧は、動かないどころか血の海に這いつくばって動かない一条に声をかけた。それは今までの砧の口調とは違う、やや高圧的な言葉だった。

「秘常……しっかり視なさい」

 砧の顔は今や幼さをどこかに仕舞いこみ、高貴な気品を漂わせているように冬野目には見えた。それはまるで他人に指示を出すことに慣れた指揮官のようであり、尚且つ自分の言動がもたらす結果を自覚している一国の主のようだった。

「砧……ちゃん?」

 開いた口がふさがらない。一体、何を言っているのだろう。一条はこんなにも傷ついていて、もはや戦闘の継続なんて不可能だというのは明白なのに。

「いつまで寝ているのです。早く立たなくては本当にやられてしまいますよ」

 背筋を伸ばしたまま、凛とした態度で砧は言った。

 しかし、一条は動かない。その姿からは、まだ生きているのかすら確信が持てない。

「き、砧さん……もしかして……」

 信じられないといった表情で吠木か言った。

「吠木、わたくしが解きますので、もう大丈夫です」

 今までの、甘えたような雰囲気は消えていた。砧は顎を引き、おもむろに右手を挙げた。

「目くらましだなんて……。小賢しい」

 そう言うと、砧の右手が煌々と輝いた。光はどんどん広がり、それまで工場内を満たしていた暗闇を全て飲み込んでいく。そしてついに比率は逆転し、昼間のような明るさがもたらされた。 

「どうです秘常。これで、よく視えるでしょう」

 そこには、先程までの血の海は無かった。床に点々と血痕はついていたものの、ごく少量だ。そして切断されて吹き飛んだはずの一条の腕と足は元に戻っている。

 今床に倒れている一条には、大きな怪我は確認できない。せいぜいが、数か所の擦り傷や切り傷くらいだ。そこから滴った血液が、床に赤黒い斑点を描いている。

「うぅ……」

 うめき声をあげて一条は起き上がる。自分の右腕と右足がまだくっついていることを確認するようにさすり、よたよたと立ち上がった。そして歓喜の声を上げた。

「砧……砧ぁ!」

 一瞬で一条の顔面の穴という穴から水分が飛び出し、ぐしゃぐしゃになってしまった。そしてまだ違和感が残るのか、右足を引きずり乍ら砧に駆け寄った。

「よかった……元に戻ったんやな」

 そう言って、砧に抱き付いた。砧と一条ではかなり身長差があるので、砧が全体的に覆われているような格好になっている。

「どうやら、そうらしいです。世話をかけました」

 一条の控えめな胸に埋まり乍ら、砧はもごもごと言った。一条は余程嬉しいのか、砧の頭に鼻をこするようにしている。

「それよりも秘常、今は戦場です。早く決着をつけなさい」

 いい加減に息苦しくなったのか、砧は一条の胸元から顔を出して言った。そして上目遣いのまま、少し恨めしそうにこうも言った。

「また……背が伸びましたね」

 一条は相変わらず鼻水や涙やその他もろもろの水分で顔をどろどろにし乍ら答える。

「うぐっ……せやねん……ひぐっ……そ、育ち盛りやねん……んぐっ」

「喧しいです。わたくしがいつまでもこんなにちんちくりんなのに秘常だけ……。おや、身長と共に体重も増えましたか」

 相手のお腹のあたりをつねる砧。すると、一条は一瞬で砧から離れた。

「き、気にしとんねん。やめぇや!」

「ふふふ、天は二物を与えないのです」

 仲睦まじく戯れる二人に、吠木が割って入った。

「それよりも砧さん、今は戦場ですよ。早く決着をつけましょう」

 砧はきょとんとした顔で、人差し指を自分の唇に当てて小首を傾げた。

「あら、どこかで聞いたような台詞……まぁいいです。吠木の言う通り。秘常、早く終わらせておやつにしましょう」

 すっかり蚊帳の外にいた冬野目は工場の奥を見た。そこには今の今まで一条を苦しめていた相手である、あの不気味な化け物がいるはずだ。

 確かに一条は復活したみたいだが、果たしてあの相手に勝てるのだろうか。このまま再戦となれば、先程の二の舞になるだけではないのか。変わった条件と言えば、工場の中が明るくなったということだけだ。それに、どれほどの意味があるというのだ。

 しかし冬野目の視線の先には、想像したような化け物の姿は無い。変わりに、横長の穴が開いた箱が設置してあるだけだ。それは吹き抜けの工場の中で、二階くらいの高さに設置してある。穴以外には得に変わった様子が無い、至って普通の箱だった。

「箱男ならぬ、箱烏というわけです。御主人」

 いつの間にか冬野目の横に来た砧が、口角を上げ乍らそう言った。見ると彼女は腕を組んでいてで、豊満な無乳が寄せ合いひしめき合い、見ただけで感触が想像できる『柔らかさの化身』がそこには降臨していた。

「箱烏……そういうこと?」

 なんとか相手に視線を気取られぬよう、冬野目は務めて真面目な表情をつくった。  

 なんだか、砧を相手にしている気がしない。今横にいるのは、比較的高額な料金を支払うと隣に来てくれて、お酒をつくって一緒に飲んでくれるお店のお姉さんみだな、と冬野目は思った。

「ふふ。あの穴があるでしょう。相手はあの穴からこちらを見ていたのです。烏の目は僅かに光ります、そして暗闇に入ってきた者は、無意識にその僅かな光を追ってしまう。そうすると、術にかかりやすくなってしまう」

「じゅ、術?」   

「そうです。わたくしは『炯眼』と呼んでいますけれど……まぁそんなことはどうでも良いのです。重要なのは、その炯眼に魅入られると、幻覚や幻聴の類を引き起こすという点」

「幻覚や幻聴……」 

「そう。例えば大きな嘴と翼に、何本も脚が生えた化け烏を見たり……」

 それは。

「切れてもいない手足が切れて吹き飛んだように見えたり、それらが床に落ちた音を聞いたり、床が血の海に成ったように見えたり……等々」

 幻覚。幻覚だったのか。しかし、現に一条は身体中に傷を負っている。それらは大きな傷とは言えないが、決して幻覚では無い。床にはその傷から滴り落ちた血が、点々と続いているのだ。それが見えているということは、これも幻覚のひとつなのだろうか。冬野目はそう尋ねた。

 砧は澄まして言った。

「あれは幻覚ではありませんよ、御主人」

「ど、どういうことなんだい砧ちゃん」

「その絡繰りは、こうです……」

「カラクリ?」

「まぁ、見ていてください。秘常!派手にやりましょう!」

 一条は意気揚々と向き直り、両手を上げて構えた。

「ほいさ!」

 刹那、火球が宙を舞った。それは工場内のコンテナや段ボールを次々となぎ倒したが、不思議と発火はしない。

「いつ見ても秘常の狐火はきれいですねぇ」

 うっとりとし乍ら砧は言った。 

 次々となぎ倒されてゆく障害物の陰に、何かが走る姿。

「秘常、あそこです!」

 砧が言うより早く、一条が動く。物陰から物陰へ逃げ込もうとする何かを次々と一瞬で追い詰め、素早く打撃を加える。

「これで全部や」

 一条が両手をぱんぱんと払った。その後には、小さな何かが倒れている。それは大枠の形状こそ人間と近いが、口元には嘴を、両肩からは黒々とした羽を生やしていた。

「烏丸の兵隊や」

「兵隊、ですか……」

 まだ得心のいかない冬野目に、砧が説明をする。

「つまり、暗い空間に我々をおびき寄せて炯眼を魅せ、大きな化け烏の幻覚を魅せる。そして我々がその幻覚に、決して届くことの無い攻撃を繰り出している隙に、この小兵達がちまちまと切りつけるのです。だから致命傷には至らないのですが、長引けば長引くほど、烏丸に有利になるのです。現に秘常は右手足を失った幻覚を魅て、かすり傷しか負っていなにも関わらず戦意を喪失して倒れました。そうなると、相手の思うツボですね」

「つまり、暗闇と相手の炯眼、この二つの条件が揃ったために、一条さんは負けそうになったんですか?」

「そうです。さすがに呑み込みが早いですね、御主人は」

 にっこりと笑う砧。見た目と雰囲気のギャップに冬野目は違和感を感じる。

 砧は言葉を続ける。

「そして、わざわざこのような舞台装置を用意しなければならない程に、炯眼の使い手は自分の腕っぷしに自信が無いということになります」

 穴が開いた箱に視線が集まる。

「秘常」

 一条は再び両手を構える。その先には穴が開いた箱がある。

「やってくれたな。幻覚でも、手足が無くなく感覚は嫌なモンやったでぇ」

 次の瞬間、箱が閃光に包まれた。そしてばりばりと音を立てて崩れ、中の様子が露わになる。

 しかし。

「……逃げたか」

 一条は舌打ちをして、両手を握り込んで収めた。すると閃光はすっと引き、そこには箱の残骸のみが残っていた。

「恐らく、初めから時間稼ぎが最大の目的だったのです。それは秘常が倒れたあたりで達成できていた。だから、炯眼の使い手は小兵達を残して逃げたのでしょう」

 砧はため息をつき、呟く。

「恐らく、お姉ちゃ……壬生さんは再び誘拐されました」

 それを聞いた冬野目は、脱兎の如く走り出した。工場の外に出て、自分たちをここまで乗せてきたタクシーを覗き込む。

 そこに壬生の姿は無かった。

 かけておいた上着だけが残されている。

 呆然とタクシーの後部座席を眺める冬野目に、後から来た砧たちが追いついた。

「やっぱり……烏丸と美作は手を組んでますね」

 砧はそう言って、自分の顎に手をやった。

「せっかく助け出したのに……あの腐れ変態」

 生温い風が吹いた。

 雨が上がって、ぬかるんだ地面に足を取られる。

 吠木が口を開いた。

「砧さん、僕と一条さんは、あなたの記憶が戻ったなら本家に連れて帰るように仰せつかってます」

「でも、今はそんなこと言うてる場合ちゃうやろ!壬生はんが」

「一条さん、僕らの仕事を忘れないでください」

 吠木の表情はかたい。

「せやかて……!」

 二人の会話を砧が制した。

「待ちなさい、二人とも」

 そして冬野目の方へと向き直って言った。

「御主人。あなたはどうしたいですか?」

「き、砧さん!何を言ってるんですか!」

 しかし、砧は意にも介さない。

「わたくしは、わたくしを助けてくれた恩人に何か恩返しをしたいと思っていました。しかし何もできなかった。記憶の無い私は、ただの女の子でしたから。でも、今ならお役に立てる。相手は烏丸、つまり妖です。そうなればわたくしや一条や吠木の領分ですから」

 砧は真っ直ぐに冬野目を見ている。

「僕は……」 

 冬野目は下を向いて、ぬかるんだ地面を見つめる。   

「大事な、お友達なのでしょう?」

 それを聞いて、顔を上げた。

「そう……壬生さんは僕の大切な――友達です」

 砧は上目遣いに冬野目を見乍ら、ゆっくりと手を握った。

「ならば、助けましょう」

 砧は自分が着ている服の一部をぎゅっと握った。

 それは壬生が選んだものだった。

  


「きっと、助けましょう」 

 

   


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