片時雨
若々しい見た目よりも、もう一回り程幼い話し方で会話をする少女、砧。垂れ目がちな大きな瞳に、肩よりも上で切りそろえられた髪。
彼女には記憶の大半が無い。正確に言うなれば、壬生や冬野目と出会う前の記憶が無い。残っている中で一番古い記憶といえば、痛む右足をかばうようにして、何やら明るい場所が見えるところで倒れているというものだ。遠ざかる意識の中で、風の中に湿り気が多いことを懐かしく思った。
そのときの彼女はタヌキであった。
いや、人間の姿をしている今でも、砧の本質はタヌキだ。しかし、そのときの砧は身体中にもこもことした体毛を生やし、目の周りには黒い模様、そして顔の中央は突起して、その先には鼻があった。
本人は理由を覚えていないが、当時の砧はひどく消耗していた。体力を使い切り、どうやら怪我をしたらしい右足からは絶えず血が流れた。このままでは意識を失い、あっさりと死んでしまうだろう。なんとかして体力の回復を図りたがったが、本家から遠く離れた東京の地では頼れる相手もいない。
もう、駄目だと思った。
意識はどんどん薄れ、もう何を考えることもできなくなっていた。
そして、砧は失意の内に意識を無くした。
次に目覚めたとき、砧は違和感を覚えた。先ほどまでの堅いところではなく、柔らかくてなんとも心地いいところで横になっている。不思議に思って顔を上げると、なんと近くには人間がいた。人間は男女の二人組で、こちらに危害を加えたりする様子は無い。しかし安心するのは危ないと、砧は本能に従うまま警戒心を抱いた。観察していると、髪の長い人間が何かを食べているのが見えた。とても良いにおい漂ってきて、砧の視線は釘付けになる。
すると、枯れ枝のような人間が砧の視線に気付いた。そしてなにやら髪の長い方と言葉を交わし、良いにおいがする食べ物を砧に差し出してきた。
そろそろと鼻を近づけてから、口に入れ、咀嚼し、飲み下した。
今までにも何回か、人間の食べ残しは食べたことがある。その度に父や他の大人に怒られてきた砧だが、記憶が無い砧はこの食事に夢中になった。どうやら自分は空腹だということを忘れる程に空腹だったらしく、何も考えずに差し出られるものを食べた。
こんなに美味しい食べ物があるのか、と感激した。
満腹になって落ち着いてみると、右足の痛みが和らいでいることに気が付いた。目をやるとなにやら白い布が巻かれており、手当をされたことは明白だった。
この人間達は自分を助けてくれたのだ。そして、食事までさせてくれた。
自分は保護されたのだと思ったら、安心したのか急に眠くなってしまった。髪が長くて可憐な人間と、なにやら貧相で頼りないけれど優しそうな人間。この二人に何か恩返しがしたい、そう思い乍ら砧は眠りに落ちた。
次に目が覚めた時には、すっかり体の調子は良くなっていた。手当が効いたのか食事が良かったのか、足の怪我も痛みが引いている。
安堵の気持ちと、何かを忘れているという焦燥感。
しかし、いくら考えても何も思い出せない。頭の片隅でははっきりと何かが見え隠れしているのだが、それが何なのかがわからない。
そうこうしているうちに、砧を呼ぶ声がした。
はたと我に返る。布団の中にいることに気が付いて、横を見ると細くてきれいな足が見えた。これは昨日、茶色くて細長い食べ物をくれた人間の足だろう。
すると、自分を呼んでいるのはもう一人の人間ということになる。
ふと、違和感に気が付いた。なんだか風通しが良くて、胸のあたりに重たい感覚もある。
見下ろすと、人間の身体に成っている。しかし、その事実をすぐに受け入れることができた。これはひとえに砧が強力な胆力の使い手であり、変化の類は得意だから慣れているからなのだが、もちろんこのときの砧には過去の記憶が無いので、単純に全てを受け入れただけだ。
自分を呼びかける声に答える。このときの砧は、自分を助けてくれた人間に何か恩返しがしたいという思いと、相手はどんな人間なのだろうという気持ちがあった。
布団から出てベッドから飛び降りた。すると相手の人間は大層驚いた様子でこちらを見ている。言いたいことは山ほどあったが、言葉が上手く出てこない。相手をどう呼ぶか迷ったけれど、砧は僅かに残った記憶の中から妥当そうなものを選んだ。それが『ごしゅじん』だった。
言葉が拙いことを承知で、枯れ枝のような男・冬野目と会話をした。相手は思った通りの優しい人間で、何の悪意も感じられない。やがてもう一人の人間も起きて出して、服を着せてくれた。
もう一人の可憐な人間からは、『ごしゅじん』とはまた違う優しさを感じた。そうやら自分を心配してくれているらしく、何かと世話を焼いてくれる。この可憐な人間はなんと呼ぶべきか。考えた末に『お姉ちゃん』で落ち着いた。
少しすると、冬野目のところから移動するとこになった。不安が無いわけではなかったが、壬生が一緒にいてくれるのが救いだった。壬生の部屋で、ここで色々な話をした。言葉も少し教えてもらったし、砧でも読みやすい本が部屋にあったので、それを読んでゆっくりと人間の言葉に慣れていった。
変化があったのは、それから数日後のことだった。天気が良かったので散歩でもしようと思い、壬生が貸してくれたヒラヒラとしている服を着て外に出た。しばらくは気持ちの良い散歩が続いたが、突然なんだか怪しげな人間が目の前に現れた。
その人間と相対したとき、何故だか全身の毛穴が粟立つような感覚があった。
なぜだろう。記憶を無くす前の知り合いだろうか。もしそうならば、相手から何か話しかけてくるかもしれない。そう思って、近づいてくる相手を見ていた。
しかし、そのとき気が付いた。
自分はタヌキなのだ。人間に知り合いなんているはずが無い。それこそ、自分を保護してくれたあの二人以外は。
そう考えると、目の前にいる黒い服を着た男が気味悪く思えてきた。それに、これは直感としかいいようが無いが、何だか嫌な予感を砧は感じた。
なので、逃げた。
どう逃げたか、どこへ向かって逃げたかは思えていない。しかし、少しでも自分が安心できる場所を目指したのは確かだ。空気中に漂う僅かな壬生と冬野目の匂いを感じ取り、そちらに向かって走った。
どうやら追ってくる相手は、そこまで脚に自信があるわけでは無いらしく、追いつかれる心配は薄かった。しかし長時間走るうちに疲れが出て、ついに足がもつれて転んでしまった。全力で走っていたので歯止めが効かず、何かの扉を開けて転がり込んだ。
奇跡的なことに頭を上げると、冬野目と壬生がいた。砧はすっかり安心したが、追手はまだ諦めてはいないらしく、逃げ込んだ先にまで現れた。
枯れ枝のような冬野目が、砧の手を取って逃げ出した。それは嬉しい反面、また助けてもらうのは申し訳無いという思いが込み上げてくる。
どうやら見せらしき建物の裏口から出ようとすると、前方を塞がれた。そこには背が高くてすらりとした金髪の女性が立っている。頭には個性的なハンチングを被り、砧は出し抜けに名前を呼ばれた。だがいくら考えても相手の顔に見覚えはなく、もちろん相手の名前もわからない。
しかし結局その金髪の女性と、後から来た、砧よりも幼く見える女の子が自分たちを助けてくれた。どうやらこの二人も悪い人間では無いらしいが、どうも金髪というのが怖かった。砧の中には、金髪は不良だという方程式が成り立っている。それを正直に伝えると相手は泣き崩れた。
蓋を開けてみれば、砧を追ってきていた人間は人間ではなかった。それは人ならざる者で、途中からは人間の姿ですら無かった。しかしその人間では無いものと、一条と名乗る金髪の女性が拳を交える現場を目にしたとき、不思議と恐怖も気味の悪さも消えていった。更に吠木と名乗る小柄な女の子が後ろに控えているのを見て、根拠は無いが砧は「もう大丈夫」と安心した。そしていつのまにか眠ってしまっていた。
それからの毎日は、まるで家族が増えたかのように賑やかだった。いや、家族というものの記憶が無い砧にとっては、まさに家族同然だった。相変わらず壬生の家では本を読んで言葉の勉強をしたり、一緒に簡単な料理をつくったりした。眠るときにはお互いがお互いの身体に抱き付き、とても良く眠れた。
異変に気が付いたのは、壬生と買い物に出かけたときだった。色々な店を見て回り、あぁでも無いこうでも無いと意見を交わし乍ら散歩をした。壬生は決して金持ちではないので、買い物自体は滅多にしない。しかし、こうして街に出て様々なものを見て回ることは楽しく、砧はいつも楽しみにしていた。
その日も朝から街へ出かけて、歩き疲れたから公園で休もうとベンチに座った。すると、後から来て、少し離れたベンチに座った男がチラチラとこちらを見ているのに気がついた。初めは気のせいかとも思ったが、公園から移動してもその男は付いてくる。相手は隠れようという気が無いらしく、只でさえとても特徴的な外見をしているのですぐにわかる。そして、なにやら首からぶら下げている小さな機械を、こちらに向けていることもあった。それを壬生に伝えると、みるみる顔が青ざめた。
それからは展開が早かった。再び冬野目の家にいくとこになり、一条や吠木も加わってなにやら難しい話をした。砧は難しくてよくわからないので、早々に眠ってしまった。
そして、これが一番思い出に残っている出来事。冬野目と壬生、それに一条や吠木も一緒に買い物に出かけた。
色々な服を見て、色々なことをみんなで言い合った。どれも可愛かったり素敵だったり、服を合わせる度に楽しい気持ちになれた。
吠木に女の子らしい服を選んであげようと、みんなで意見を出しあった。本人は恥ずかしがっていたが、何着か着てみるうちに気分が乗ってきたらしく、最後には自分で気に入ったものを選んだ。
壬生は美人だから、何を着ても素敵だと砧は思った。そして、すっかり見惚れていると砧の服も選んでくれて、一緒に試着をして何が良いか決めた。「冬野目君が喜ぶわ」と言って短いスカートを勧めてくれて、砧もそれが気に入った。
一条には、みんなで耳隠しの帽子を買うことにした。彼女は背が高くスタイルが良いので、帽子の類は何でも似合う。その中でも一際似合っていたキャスケットが良いのではないかということになり、本人もそれが気に入った様子だ。
帰るころには、すっかり荷物が多くなってしまった。しかしそんなことよりも、楽しい気持ちの方が強い。
このまま、ずっと遊んでいたかった。暗くなったらどこかに移動して、外で食事をするのも楽しそうだ。
しかしそう上手くはいかない。
ここ最近、自分と壬生に付きまとっている人間を見つけるために、みんなが動いた。早くこの一件を解決して、もう一度みんなで遊びに行きたい。その一心で砧は、冬野目や一条の後をついて回った。
しかし。
壬生が走り出してしまったあたりから、何故だか胸が騒いだ。首から小さな――皆はデジタルカメラと呼んでいた――機械をぶら下げた小太りな男に拘るよりも、どこかに行ってしまった壬生を探す方が良いのではないかと思っていた。しかし一条も冬野目も、そうは考えていないようだったので、何も言えなかった。
吠木からの報告が入ってからは、全てが悪い方向へと進んでいるような気がした。早く壬生に会って、また一緒に抱き合って眠りたかった。
走り去った壬生を見つけたとき、それは砧が知る壬生ではなくなっていた。
目に意思は無く、あの包み込んでくれるような優しい雰囲気が消えていた。
泣き出してしまいたかった。
でもそれはできない。一条や吠木、それにこういった争い事が苦手なはずの冬野目までもが、壬生のために泣き語とは言わずに尽力していた。だから、自分だけが泣いて甘えるわけにはいかないと、砧は自分を戒めた。
壬生を見事奪還したは良いものの、どうやら自分達は逃げきれなかったらしく、人気が無い工場へ誘導された。開け放たれた入口からは不気味な空気が流れ出ており、ここから先に入ってはいけないと、砧の本能は告げている。しかし壬生を元の優しい『お姉ちゃん』に戻すためには、中に入るしかない。
早く壬生を元に戻して、また楽しく暮らしたい。
その一心で、砧は自分も戦うと志願した。どうやら相手は以前に自分を追っていたカラスのような男の仲間らしく、一条や吠木の手助けになれることはないかと思ったのだ。
しかし、一条はその申し出を断った。
どうやら、自分は大切な仕事があるらしい。それは無くした記憶の中にあるらしく、一条は「早く記憶を取り戻して、本家に帰れ」と言った。
頭を撫でられ、砧は自分の無力さを知った。言葉こそ違えど、自分は戦力にならないということだ、そう思った。
にっこりと笑って敵が待つ戦場へ向かう一条の背中を、砧は見守ることしか出来ない。それが悔しくて情けなくて、歯噛みをし乍ら見守った。
敵が姿を現す。それはもはや初めから人間の姿を放棄していた。
何本も生えた脚に、黒々として大きな羽。そして鋭利な嘴。身体自体もかなり大きい。だがなによりも印象的だったのは、その眼球だった。
硝子玉のように、無機質な球体。それが、確実にこちらを見ている。それと目を合わせると何かが自分から吸い取られていくような気がして、砧は咄嗟に視線を外した。
なんだあれは。以前に追ってきたものとは全く格が違う。
しかし、そんな相手にも一条は怯まなかった。果敢に全身を使って攻撃を仕掛け、俊敏さを最大限に利用して動き回った。
次第に変化する戦況を見て、砧は自分がただの足手まといにしかならないということを自覚した。
血液で赤黒く染まる床。ちぎれ飛んだ腕。時間が経つにつれて素早く動く方が疲弊していった。
しかし相手の大烏は、最低限の動きしかとらず、一条の攻撃はほぼ無駄であると傍目にもわかる。
そして、大烏の姿を確認してから約十五分後、大方の戦況は決した。
砧が目にした光景は、床に這いつくばる一条の姿。右手と右足がもがれ、自らの血で全身が赤黒くぬらめいている。
「砧ちゃん……逃げよう」
冬野目は小声でそう言うと、砧の手を握った。一刻も早くここから逃げ出さなければならない。
それは、一条との約束だった。
しかし、砧は微動だにせず、床に横たわる一条を見ている。
工場内の高い天井に響く、一条の荒い呼吸音。
「砧ちゃん、行こう!逃げるんだ!」
再び砧の手を引く冬野目だが、信じられない程の力で抵抗された。驚いて砧の顔をのぞき込むと、砧はゆっくりと瞼を閉じた。
そして、妙に大人びた声でこう言った。
「秘常……しっかり視なさい」




