すぐれもの
時刻は既に深夜を過ぎて、日付が変わっている。冬野目は自転車のカゴに傷ついたタヌキを入れて、なるべく揺らさないようにゆっくりと歩いていた。
ふと空を見上げると、夜空には一片の雲も無い。月が大きく見えていて、道の向こうにある森は風に吹かれてざわざわと騒いでいた。一日働いてきた疲労感と開放感で、気分が良い。このまま自転車でどこかへ出かけ、朝になるまで戻らないのもいいな……そう考えていると、隣からくぅ、と可愛らしい音が聞こえた。
「壬生さん、お腹が空いたんですか?」
横を向くと、腹部を押さえた壬生夏吉が平然とした顔で歩いている。本来ならば彼女は朝までアルバイトの予定だったが、駐輪場で怪我をしたタヌキを見つけるや否や、目にも止まらぬ速さで店の責任者に電話をして、『頭が痛くて割れそうだ。このまま働いていては自分の頭は破裂してしまい、この店は頭部破裂女子大生が最後にいた場所として国から何らかの指定を受けるだろう。そうなる前に自分を帰してほしい』という旨の話を回りくどく、しかし確固たる意志を感じさせる口調で言った。その後すぐに駆けつけた責任者らしき男性は、『なっちゃんに何かあったら大変だから』と冬野目に見送りを命じた。
その一連の流れの中には、冬野目の都合を心配する言葉など一言も無かった。
「大丈夫よ。どうして?」
前を向きながら、毅然とした態度で彼女は答える。今ではすっかり頭痛は治まり、もう頭部が破裂する心配は無いようだ。
「お腹、鳴ってませんでした?」
「あのね冬野目君。女性というのは三十路を過ぎるまでお腹は鳴らないし、トイレとも無縁な生き物なの。それなのに、私のお腹が鳴った音が聞こえたなんておかしな話じゃない?それともなに、私のことを女性として見ていないの?」
「いいです。僕の聞き間違いでした。きっと僕のお腹が鳴ったんです」
「あら、それは可哀想……どこかで食べ物を買ってから行きましょう」
胸の前あたりで手のひらを合わせ、壬生は慈愛の顔つきになった。そして、ある方向を指差して「あそこにしましょう」と言った。
それは深夜を過ぎても営業しているスーパーで、一人暮らしの学生にとっては心強い味方だ。なにしろ、全ての食品がコンビニで買うよりも格段に安い。それに加え、この時間なら売れ残りが値引きされている可能性が高い。店員が極度の不愛想で一言も発さずに接客をこなすことを除けば、それはまさに完璧と言える救済施設だ。
しかし。
「あ、でも僕はさっき壬生さんのコンビニで買った諸々の食料があるので、大丈夫です」
それを聞いた壬生は、大げさに仕方がないわねぇという顔をした。
「あぁ……それではさっき冬野目君が買ったものか、これからあのスーパーで買うものが無駄になってしまうわね……食べ物を無駄にするのは、心苦しい限り」
そのまま眉間にシワを寄せ、右手の人差し指をおでこに当てた。唇を斜めに歪ませて、全身で『考える壬生』を表現している。
「いや、無理にこれから買い物をしなくても」
冬野目が言い切る前に、壬生が「そうね」と言った。
「そう、そうだわ。不要になった食料を、私が頂けばいいのね。そうすれば無駄は生まれない。あぁ、良かった」
「お腹が空いたって普通に言えばいいじゃないですか」
「別に空いてないけど」
「何が食べたいんですか」
「焼きばがいい」
「わかりました」
その後二人は深夜営業のスーパーの入り口をくぐり、店内で食材を物色した。冬野目は飲み物と、壬生のリクエストである焼きそばの材料。壬生は飲み物と、壬生のリスエストである焼きそばの材料、そしてチョコレートを冬野目が持つ買い物かごに入れた。彼は何も言わずに会計を済ませた。
「あの、壬生さん。自転車が支え難いので買い物袋を持ってくれませんか?」
思ったよりも荷物が多くなったので、極小の生命力しか持たない冬野目の腕では、それを支えるのが辛い。そこで、軽そうなトートバッグしか持ち物がない壬生に提案をした。
「冬野目君、私、女子よ」
期待したものとは違ったが、予想通りの返答が返ってきた。
カゴの中のタヌキは疲れたのか、すやすやと眠っている。起こさないようにそっと抱き上げようとすると、その役は私のものと言わんばかりに壬生がタヌキを強奪した。
「起こさないでくださいよ」
自転車に鍵をかけて、片手で重たい買い物袋を持ち、もう一方の手で家の鍵を用意した。
冬野目が住むアパートは二階建てで、全部で六部屋と小さな規模の建物だ。事前に不動産屋で聞いたところによると、一階の中部屋の人気が悲しいくいらいに無い。なにしろ日あたりが悪く、夏になると湿気が部屋の主になる。それに左右と上の住人には騒音被害という意識が欠落しているらしく、曜日も時間も関係なく騒ぎ出すことがある。そして何よりも、この部屋に住んだことがある人は皆同じ体験をしたと口にするという。それは、雨が降る真夏の夜中に呼び鈴が鳴り、不思議に思いつつもドアを開けると、赤い傘を差した美女が立っていて募金を募るというものだ。しかし募金の用途を聞いても答えてはくれない。そして不審に思い、募金を渋っていると一言だけ「麦茶をいただけませんか?」と言ってすぐに帰ってしまう。
怪談のような詐欺のような、不可思議な話だ。
冬野目は一階の中部屋の前に立ち、鍵を入れて回した。薄っぺらいドアは頼りない音を立てて開き、二人と一匹は部屋の中へと入った。
部屋の中は真夏の到来を待たずして既に湿気のお化けに占領されようとしていた。汗でぺたぺたと張り付いて気持ちが悪い服を脱いで、いつものように全裸でパソコンの前に鎮座したい気持ちをぐっと堪えて、冬野目は壬生に座椅子を勧めた。それを当然のように受け入れ、すやすやと眠るタヌキを大事そうに抱えた壬生は音を立てないように静かに座った。
きょろきょろと部屋の中を見回し、落ち着かない様子の壬生を見て、冬野目のほうがなんだか恥ずかしくなる。そういえば、自分の部屋に女性が入ったのは初めてのことだ。しかし、その理由は『傷ついたタヌキの保護』であり、何ら色気のあるものではない。駐車場で悩む冬野目に、タヌキのことなら私に任せなさいと本当に胸を叩いて壬生が言ったのだ。
静かな部屋に、胃が収縮する音が響いた。
「すぐにつくりますね」
冬野目は我に返り、愛用している花柄のエプロンを着用した。これは彼が上京するにあたり、下山さんが選別にとくれたものだ。
買ってきた食材を包装から出して、水で軽く洗う。そして次々に食べやすい大きさに切り、ボウルに一旦入れておく。それからフライパンを温め、油をひいて火が通りにくい順番で食材を入れる。麺を入れた後は少量の水を入れて蒸し焼き状態にして、ある程度麺がほぐれたタイミングで調味料を投入。
食欲を誘うソースの香りが部屋中に漂う。一息ついて横を見ると、壬生が冬野目をじっと見つめていた。
「もう少しですから。我慢できますか?」
壬生はこくんと頷き、その後囁くような声で何か言った。
「え?何か言いました?」
うまく聞き取れなかった冬野目が聞き返すと、壬生は慌てるように左右を見てから再び何かを囁いた。それも聞き取ることができなかった冬野目は部屋を移動して、彼女の横へと移動した。
「なんですか?声が小さすぎますよ」
「あの、そんな大きな声を出して大丈夫なの?」
壬生は顔をひきつらせている。
冬野目は不思議に思った。確かに時刻は真夜中過ぎだが、そこまで大きな声を出しているわけではない。それにもし仮に隣の住民に聞かれていたとしても、そこまで煩く感じるような会話ではなかったはずだ。
もしかしてこのお嬢様は騒音に関しては人一倍神経質なのだろうか。そう一瞬でも思った自分を、彼は殴ってやりたかった。あの自己紹介やその後の尋問、そしてうら若き乙女がつい数時間前に知り合ったばかりの、どこの馬の骨かもわからない男に連絡先を渡すなど、その行動はどれを取っても神経質という言葉には縁遠いものだ。
しかし、と冬野目は思う。こうして静かに大人しく行儀よくしていると、あの奇行が幻だったようにも思える。そう言えば、壬生の実家は京都で旅館を営んでいると言っていた。それならば、生活音や会話の音量に関しては、一般人よりも神経質にならざるを得ないのではないだろうか。もしくは彼女の実家は古都京都において歴史ある老舗旅館で、静けさや趣といったものを一番の売りにしているとしたらどうだろう。その御令嬢である壬生夏吉にも、その感覚が身についていると考えてもなんら不思議はない。彼女は確かに変わり者ではあるけれど、そう考えると今は自分のほうが下品なことをしているのではないかという、自虐的な気分に冬野目は襲われた。
「私の下宿、壁が薄いからすぐに怒鳴られるのよ」
心底怯えた様子でそうカミングアウトした壬生を見て、冬野目は先ほどまでとは全く違う仮説を立てた。
「壬生さん、もしかしてお金ないんですか?」
通常、地元を離れて都会で一人暮らしをする娘には、セキュリティが整ったところに住んでもらいたいと考えるのが親心だろう。しかし、壬生が住む下宿は普通の会話の声すら隣人に筒抜けだという。そんな建物のセキュリティが高水準だとはとても思えない。それに、顔合わせの日の帰りに自分を喫茶店に連れ込んだのも、単にコーヒーとケーキが食べたかったけれど手持ちがなっただけなのかももしれない。タヌキの話を聞く壬生の顔は真剣そのものだったけれど、先に颯爽と席を立って帰ってしまったのも、企みが明るみに出る前に退散しただけだと考えると、合点がいく。
そう考えると、あの時に連絡先を渡してきた真意は……。
英語と数字が並んだメモ用紙を眺めて、その時の冬野目は素直に喜んだ。自分と同年代の女性から連絡先を渡されたのはもちろん初めてのことだったし、帰り際に「これから仲良くしましょうね」と言った壬生の姿が、まるで女神様のように見えていたのだ。
そして今。確かにこの時間に部屋にいるという状況は、客観的に見て非常に仲が良いと言えるだろう。親密だとも言えるし、人から見れば恋人同士だと思う人もいるかもしれない。
しかし、その全ての意見はことごとく間違いである。
焼きそばと、タヌキ。この二つの条件が奇跡的に揃ったが故に、壬生はこの青年漫画の盛り上がり場的状況に参加したのだ。大学で出会った男女間で一般的に交わされる「仲良くする」の範疇に、今回は入っていない。例外なのだ。
ここまでの材料を以て出てくる結論はただ一つである。そしてその真偽のほどを、先ほど冬野目は壬生に問うたのだ。
「なくないよ?」
ここにきて無邪気な子供のような声で壬生は答えた。そして続けた。
「足りないだけ」
スーパーで買った焼きそばは、一袋で二人前の量がある。本来ならば一袋だけ調理すれば夜食としては十分だったけれど、途中で壬生が「これも入れましょう」と言って、もう一袋も調理することを提案、いや強要した。
テーブルの上には皿に盛られた四人前の焼きそば。それは二人の想像以上に大量で、壬生は喜んだが冬野目はただ慄いた。食が細い彼は、この時間に焼きそばなんて油っこいものを胃袋に入れたら、翌日はもたれてしまって動けない。なので、皿と一緒に持ってきた箸は一善のみだった。
「冬野目君、食べないの?」
「僕はいいです。全部、壬生さんが食べていいですよ」
それを聞いた壬生は両手を合わせ、念仏のようなものをぶつぶつと唱えた。そして箸を山盛りの麺の中に差し込むと、一心不乱にその小さな口へと運び始めた。その光景はさながら、逆流するダムのようであった。それを見ていた冬野目は心の中で「壬生ダム」と命名した。
それでも、自分がつくった料理を美味しそうに食べてくれる光景は悪いものではない。満更でもない彼はコンビニの袋をあさり、小さなゼリーとヨーグルトを取り出して、交互に自分の口に運んだ。
壬生が半分ほど食べ進めた頃、どこからか物音が聞こえた。この日は珍しく下宿の他の住人が静かなので、小さな物音でも気が付く。
「ん?起きてる」
ベッドのほうを向くと、タオルにくるんでおいたタヌキが起き出して、こちらを見ている。そしてある一点を集注的に見つめて動かない。
「お腹が空いてるのかな?」
タヌキの視線の先には、壬生が抱える大皿があった。それに気付いた彼女は何本かの麺を取り、そっとタヌキの口元へと運んだ。
「食べさせてもいいのかな?」
「大丈夫。タヌキは雑食だし、人間の食べ残しを食べるなんて日常茶飯事よ」
少しにおいをかいで、タヌキは麺に食いついた。すぐに食べ終わったので追加を運ぶと、次はすぐに食べ始めた。
「かなりお腹が空いていたんだね」
壬生を見ると、まるで我が子に母乳を与える母親のような表情だった。慈愛に満ちて、その存在は優しさのみで構成されているのではないかと錯覚しそうになる。冬野目はその下らない妄想を振り払うために頭を激しく振り、改めてタヌキの身体を見た。
「脚を怪我してる。他の動物に襲われたのかな」
タオルの一部が赤く染まっていて、その近くにある後ろ足から少量の出血がある。しかしどう手当てをしていいのかわからなかったので、食事に夢中になっているタヌキと餌付けに夢中になっている壬生を放置して、冬野目はノートパソコンを起動させた。検索エンジンに素早く文字を入力し、表示された情報を頭に入れる。そして部屋の隅に置いてある救急箱を開けて、手当に必要なものを取り出しだ。
「壬生さん、少しいいですか?」
手当をしようと近づく冬野目から、タヌキを隠すように身体を滑り込ませる壬生。
「ダメ。私の子!」
手に持った消毒薬や包帯などを見せて、傷の手当をすることを告げる。それを見た彼女は急にしおらしくなり、「先生、よろしくお願いします」と言って退いた。
いつかテレビでみただけのぼんやりとした知識をかき集めて、怪我の応急処置をした。それでも傷口は消毒できたし、食事のおかげか発見当時よりは元気になっているタヌキ。満腹になったのか、その後再びタオルに身をうずめて眠ってしまった。
山盛りの焼きそばが盛られていた皿を見ると、見事に空になっている。食器を水につけて、時間を確認するとすでに二時をまわろうとしている。
「壬生さん、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないですか?僕も明日は一コマ目からあるのでそろそろ寝ますよ」
すやすやと眠るタヌキを指先で控えめにつつきながら、壬生は信じられないことを口にした。
「泊まるわ」
「え?」
「泊まっていくわ。もう帰る手段が無いもの」
それを聞いた気弱な冬野目は、おどおどとした態度で弁明めいたことを口にした。
「いや……それはちょっと……壬生さん女性ですし、僕は男ですし……」
渋る冬野目をみて、今度は壬生が態度を変えた。詐欺師でも見るかのような目つきで彼を見つめ、少し後ずさりをして口に手を当てた。
「あの……壬生さん?」
「信じられない……そんなつもりだったの……」
「いや……あの」
壬生は眠るタヌキを指差し、声高にこう言った。
「このポン吉を、独り占めしようって魂胆ね!」
聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず誤解を解くために冬野目は説明をした。タヌキはある程度回復したら山に帰すこと、独り占めなんてするつもりはないこと、そもそもタヌキの独り占めとは一体どんな状況のことを示すのか、など。
一連の説明を聞いた壬生はひとます納得し、デザート用にとカゴへ放り込んでおいたチョコレートを食べている。
「壬生さんの下宿はどのあたりなんですか?」
その住所はこの下宿の最寄駅からは二駅ほど離れており、若い女性が歩くべき距離ではないと判断した冬野目は、もう一度だけ壬生に確認をした。
「本当に、泊まるおつもりなんですか?」
「ええ」
壬生はチョコレートをぽりぽりとかじりながら、平然とした態度で答えた。しかたなく冬野目は予備の布団や毛布を用意して、座椅子を畳んで枕のかわりになるようにセッティングした。
「じゃあ壬生さん、申し訳ないけどこの座椅子を枕のかわりにして」
「冬野目君」
説明が終わる前に、口を挟んだ挟まれた。そちらを見るとまるでこの部屋の主のようにくつろぎ、ベッドに腰掛けてタヌキ(ポン吉)を膝に置いている壬生がいた。目が合うと壬生はゆっくりと口角を上げ目じりを下げ、小首を傾げてこう言った。
「私、女の子よ?」
部屋の電気は消され、ベッドにはポン吉を抱いた壬生が安らかな表情で横になっている。そして腕の中で大人しくしている獣の腹部を優しく撫でている。
冬野目は固い床と座椅子に慣れず、何度も寝返りをうっては姿勢を正している。
「壬生さん」
「なあに?」
冬野目はずっと気になっていたことを尋ねることにした。
「なんで、ポン吉なんですか?」
「夏吉、から一文字頂いたのよ」
やがて二人は深い眠りに落ちていった。