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私雨

 壬生夏吉はゆっくりと目を覚ました。しかし目の前に広がるのは完璧な暗闇で、何も見えない。それに、何かの薬物の影響なのか全身がだるくて動けない。

 朦朧とする意識のなか、自分に何が起きたのかを思い出す。

 そうだ、冬野目達と物陰に隠れ、ここ最近自分をつけ回していたストーカーの正体を暴こうと待ち構えていたのだった。冬野目達がいるのがとても心強く、早く相手を確かめて全てを終わらせたかった。

 初めにストーカーの存在に気付いたときには、自分のことよりもまずは砧を守らなければいけないと思った。なので、あまり怖いとは思わなかった。しかし執拗な尾行や無遠慮な視線、そして夜に電柱の陰から自分の部屋を覗いている相手の姿を見て、さすがに気味の悪さと恐怖心が芽生えた。相手は首からカメラのようなものをぶら下げており、それで自分達を盗撮しているということは、簡単に想像がつく。

 そうだ、みんなと一緒に相手の姿を確認した瞬間、自分の中に押し込めていた恐怖心が一気に溢れ出したのだった。勝手に涙が出てきて、手や足ががたがたと震えた。まるで、自分の身体ではないような気分だった。

 相手の顔も見たくないし、何も考えたくなかった。自分の生活が覗き見られていたという事実を消してしまいたくなった。

 皮肉なことに、みんなの協力のおかげで相手と相対した結果、自分がストーキングされていたことを改めて認識してしまったのだ。

 急に恥ずかしくなり、怖くなり、気味が悪くなり、気が付いたら走っていた。

 どれくらい走っただろう。気付くと大学の敷地から出て、街の中にいた。しかし辺りに見覚えはなく、今まで自分が来たことの無い区域だと理解した。

 見上げると、空には分厚い雲が広がっている。

 震える身体をなんとか押さえ込み、混乱している頭で考えた。ひとまず、冬野目達のところへ戻ろう。自分のために時間を割いてくれたのに、自分が真っ先に逃げ出したのでは申し訳が無い。

 それに、お礼も言いたかった。

 震える自分に、冬野目は気を使って「大丈夫です」と言ってくれた。それが、どんなに心強かったことか。

 子供の頃ですら、虐められていた自分にそんな優しい言葉を言ってくれる友人などいなかったのに。

 壬生は、あの変態にお礼を言うのは少し癪だけど、ちゃんと「ありがとう」を言おうと思った。そしていつかの焼きそばのお礼に、今度は自分が手料理をご馳走しようと決めた。

 そう考えると、不思議と全身の震えは止まった。

 しかし、今自分がどこにいるのかさえわからない。走って来たので、大学からはそんなに離れてはいないはずだけれど、どれでもどちらに向かえばいいのか見当もつかない。携帯電話は吠木に預けたままだし、周りに人もいない。

 ただでさえ曇っていて暗いのに、次第に陽も暮れてきた。

「お困りのようだね」

 立ち尽くしていると、声をかけられた。その声には聞き覚えがあるような気がしたけれど、よく思い出せない。それよりも大学の方向を教えてもらおうと思い、壬生は声の方へと振り返った。

「なっちゃん。ようやく二人になれたね」

 オレンジ色の夕焼けを背中にして、美術品のようなルックスの人物が立っていた。

「美作先輩……どういうことですか」

 壬生は少し後ずさった。なぜか、この人物に助けを求めるのは危ないと思ったのだ。

「どうもこうもないよ」

 美作は一歩踏み出して、壬生へと近づく。それを見た壬生は後ろへ一歩下がった。

「なんですか。私は戻ります。大学はどちらですか?」

 美作は微笑みを浮かべている。

「大学?なら、僕の車で送ってあげるよ」

 見ると、道端に気障な外車が停めている。完璧に手入れされているらしく、ボディには汚れ一つ見当たらない。

「結構です。歩いて行けます」

「どうしてだい? 一人では危険だよ」

「ここまでも一人で来たので、大丈夫です」

「でも……また後をつけられるかもしれないよ?」

「え……?」

 再び震えだしそうになる身体をどうにか制御して、壬生は美作を睨み付けた。

「その話、大学では冬野目君にしか相談していません。どうして先輩が知っているのですか?」 

 美作は低い声で笑った。

「君は……どの場面を切り取っても可憐だ。カメラを意識していないとは思えないほどに……完璧な写真が撮れた」

 壬生は自分の全身に鳥肌が立つのを感じた。嫌悪感が一気に広がり、一刻も早くこの場から立ち去りたいという思いに駆られる。

「失礼します」

 壬生は美作に背を向けて、早足で歩き出した。このまま適当に歩いて、店や交番を見かけたら道を聞こう。そう考えていると、後ろから手が回され、ハンカチのような布で口を塞がれた。

 途切れかける意識の中で、美作の声が聞こえた。

「ドライブをしよう。もちろん二人でね」

 それが、壬生の最後の記憶だった。

 思い出しているうちに、冷汗が出て首筋をつたう。汗を拭おうと手を動かして気が付いた。

 縛られている。

 両手が後ろ手で縛られていた。足は自由だが、これでは動きにくくて仕方がない。首だけを動かして辺りを見回してみると、アパートの一室のようだ。

「ここは……どこなの」

 寝かされていたベッドらしきものから降りて、真っ暗な室内を慎重に移動する。すぐ壁にぶつかったので、そんなに広くはないらしい。四隅をまわってだいたいの部屋の大きさを把握した。自分の下宿と同じくらいの広さだ。途中でドアがあったので開けようとしたけれど、鍵がかかっているらしくドアノブは回らなかった。

 とにかく、明かりがほしい。そう思った壬生は明かりのスイッチを探して壁を探った。やがて顎のあたりにそれらしきものが当たったので、そのまま押した。

 初めはちかちかと点滅し、その後明かりがついた。暗闇に慣れていた壬生は思わず目を閉じて、それからゆっくりと瞼を開けた。

「ひゃっ……」

 思わず目を見開いて、室内の光景を凝視する。それは受け入れがたい光景で、壬生は再び気が遠くなりかけた。

 壬生が見たのは、壁一面に貼られた自分の写真だ。食事をしている場面や通学途中の場面、アルバイトでレジ打ちをしているところを映した写真もある。中には大きく引き伸ばされているものもあった。

 どこを向いても、自分の写真だ。そして、その全てが盗撮されたものだった。

「なに……これ……」

 一歩、二歩と後ずさり、ベッドにつまずいて倒れた。見ると、天井にもびっしりと自分の写真が貼られている。

「いや……いやぁあ!」

 思わず目を覆いたくなったが、手が縛られていて自由に使えない。壬生は身体をねじってベッドに顔をうずめ、嗚咽を漏らした。

「なんなの……これ……」

 壬生の声だけが響く室内に、施錠を解く音がした。

 思わず音の方を見る。ドアはゆっりと開かれ、廊下から美作が姿を現した。

「気分はどうかな?」

 にこやかな表情で壬生に問う美作。ゆったりとした動作で部屋に入って、ドアを閉めて再び鍵をかけた。

「ここはね、僕のアトリエなんだ」

 そう言うと両手を広げ、誇らしそうに室内を眺めた。

「気に入ってもらえると嬉しいな。あ、そうそう……」

 美作は壬生が横たわるベッドの方に向かう。壬生は警戒して距離をとったが、美作は壬生自身の方ではなく、ベッドに備え付けられた棚に置かれた箱を持ち上げた。その箱はおよそ三十センチ四方で、美作は大事そうにそれを扱った。

「これ、ようやくできたんだよ」

 そう言いながら、美作は箱を開けた。蓋が外され、中には柔らかそうな梱包材がいくつか見える。それを全て床に捨て、残ったものを大事そうにつかんで壬生の目の前に置いた。

「……!」

 壬生の口からは空気を吸い込む音が少し漏れただけで、言葉が出なかった。

 ただひたすら、目の前にあるものに釘付けだ。

「どうかな? 良い出来だろう? 鎌田君に良い造形師を紹介してもらってね。いやぁ、お金をかけただけあって良い物が出来た」

 美作は満足気にそう言って、置いたものを再び持ち上げた。持ったものをゆっくりと舐め回す様に観察し、最後は壬生に視線を向けた。

「写真に忠実だよね。他にもあるんだよ」

 美作が持っているのは、壬生にそっくりなフィギュアだ。引き伸ばされて壁に貼られた写真のうちの一枚と、全く同じ服装と姿勢をしている。

「いやぁ、感動で声も出ないかな?僕の愛が伝わって嬉しいよ……」

 フィギュアと壬生を交互に見乍ら、美作はベッドに腰を下ろした。そしてゆっくりと壬生に近づく。

「これは本当に良く出来ている。でも、やっぱり本物のなっちゃんには適わないね」

 壬生は震える身体をなんとか動かし、近づいてくる相手から距離を取ろうとした。しかし手が自由に使えないので上手く動けず、ついに美作と密着する形になった。

「やめて……ください。離れてください!」

 美作はその言葉を無視し、壬生の細い肩に手を回した。

「ここまで来てそれはないだろう? 大丈夫、もう邪魔者はいないから」

 壬生の髪を触り、自分の鼻に近づける美作。壬生は身体を縮めて拒否の姿勢を示すものの、恐怖から身体が動かない。

「冬野目君、だっけ? 彼はどうして僕となっちゃんの邪魔をするんだろうねぇ」

 壬生の肩がびくりと跳ねる。

「君が僕の誘いを断って彼と行ってしまった後、何度も考えたんだ。どうして君は彼を選んだのかなって。それで、ようやくわかったんだ。君はタヌキが好きなんだよね。それを知っていた冬野目君は、あの場で『実家の近くでタヌキをよくみかける』なんて嘘をついて、君の気を引いたんだ。全く、よく考えるもんだね」

 くすくすと笑う美作。

「だから冬野目君には大学を辞めてもらうことにしたんだ。君には彼以外、男の知り合いがいないようだったし、彼をどうにかすれば全ては解決。そう思ってね」 

「ふ、冬野目君に……何をしたの?」

 壬生の言葉に、美作はあからさまに嫌そうな顔をした。

「まだ彼のことを気にしているのかい?そんなに気にしなくても大丈夫だよ、彼の言うことは全て嘘なんだから」

 そう言って髪をかき上げてため息を漏らし、「本当はこんなこと、したくなかったんだけどねぇ……」と前置きをしてから話し始めた。

「最近僕には新しい人脈が出来てね。とても不思議な連中なんだけど、なんでも僕の言うことを聞いてくれる。もちろん、荒っぽいこともね。冬野目君は今頃、自発的に退学届を書いている頃じゃないかな」

「そんな……」

 俯いて歯を食いしばる壬生。顔や頭が熱くなり、全身に力を込める度に涙がたまる。やがてそれは自分のふとももに落ちて、服に涙の跡が増えてゆく。

 なんと言えばいいのかわからない。頭の中では美作に対する罵倒の言葉が渦巻いているが、どれを選んでも的外れであるような気がする。

「ひどいよね。でも僕は具体的な指示は出してはいない。冬野目君が骨折しようと失明しようと、それは連中が勝手にやったことだ。僕はただ、『彼が自主退学するように説得してくれ』と言っただけなんだ」

 言葉を無くす壬生に向かって、美作はさらに言葉を続ける。

「それと、なっちゃんが大好きな、あれ。あれのことも、そのうち何とも思わなくなるはずだ」

 壬生は何も言わない。

「なっちゃんは優しいんだね。そんなに悲しむフリをしてあげるなんて……でも彼は君に嘘をついて、君に取り入ったんだ。そうでなければ、君のような素晴らしい女性と彼に接点なんて生まれないんだよ?だから、これが本来あるべき関係なんだよ」

 美作は壬生の肩を強く抱き寄せた。しかし、壬生は力を入れてそれに抵抗する。

「……君はもう、冬野目君と一緒にいてあげる理由はないはずだ。それに、君が大好きなタヌキも、そのうち姿を見なくなる」

 顔を上げて睨む壬生に、背中を向けてベッドから立ち上がった。

「君がもうタヌキなんて生き物に固執しないように、まずは都内のタヌキを全て捕獲する。まぁ、全てってわけにはいかないだろうけど……まぁいいさ。そして捕まえたタヌキを、君の目の前でバラそう」

 美作は手に持っていたフィギュアを大事そうに置き、両手を広げた。

「解体するんだよ。トラウマになるように。何匹くらいで終わるかわからないけれど、君が早く僕のものになれば、タヌキの亡骸は少なくて済む」

 壬生は何も言えない。一体、目の前のこの男は何を考えて、何を言っているのだろう。全く理解できない。それに、何か話しても無駄なのだろうとも感じる。

 既に、話が通じる相手ではないのだ。

 それならば、これ以上冬野目に迷惑をかけないためにも、この男の言いなりになったほうが良いような気がしてきた。そうすれば、全く見当違いであるタヌキの捕獲も止めることができるだろう。

 砧の顔が浮かぶ。駐輪場で怪我をしていた、あの姿。自分の手から食事を食べてくれた時は、どれほど嬉しかったことか。人間の姿で現れたときは驚いたけれど、今では妹のようにかわいく思っている。

 もう、冬野目には会えなくなるのだろうか。そう思うと、鼻につんとくるものがあった。もう何度も涙を流しているのに、今までとは違う涙が込み上げてくる。

 思えば冬野目は自分にとって、初めてできた友達と言ってもいい。何だか不思議な男だ。人付き合いが苦手な自分とも、文句を言いながらも一緒にいてくれる。それがだんだん嬉しくなってきて、一条や吠木が現れたときには友達が増えたような気がした。

 冬野目は『タヌキと食事のために僕と一緒にいるんですよね』と言っていたが、ついにその誤解を解くことはできなかった。それだけではなく、自分のせいで大学を辞めることになり、更に大怪我をしたとなれば、彼に合わせる顔なんて無い。

 いや、単純に嫌われてしまうだろう。

 もう、一緒にはいられない。

「さて、連中からの報告が入るまでもう少し眠っていてくれ。僕は準備をしなければならない」

 そう言うと、美作はベッドに乗りかかってきて壬生の口をつかみ、嫌がる壬生の口内に錠剤を入れた。

 壬生は錠剤を吐き出そうともがいたが、身体が上手く動かないのと口を押さえられているので吐き出すことができない。

 抵抗を続ける壬生の耳元で、美作は囁く。

「大丈夫、少し眠くなるだけのクスリだ。これを飲まないと……」

 壬生は動き疲れて、少し動きが鈍った。それを見逃さずに、美作は口をつかんだままで壬生をベッドに引きずり倒した。

「冬野目君がどうなるか、わかるよね?」

 その言葉を聞いた壬生は完全に抵抗を辞めた。

 錠剤が飲み込まれたことを確認した美作は、壬生から離れてベッドから降り、立ち上がって服の乱れを直した。

「それじゃあ、また後で」

 壬生に手を振って、美作はドアを開けて出ていった。外から鍵をかける音が聞こえて、足音が遠ざかる。

 美作と揉み合っている間にも錠剤は溶け始めていたらしく、壬生の意識は少しづつ遠くなってきた。

 やがて外の音も遠くなり、静寂に包まれた。壬生は朦朧とする意識のなかで、なんとか言葉を探した。

「冬野目君……一緒にいられて、楽しかったわ」

 それだけ言い残し、壬生の意識は完全に途切れた。

 

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