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村雨

 冬野目と吠木は坂を下っている。この坂は傾斜もさること乍ら、その距離のせいで歩き切った後には多大な疲労感を二本の足に与える。普段は専ら自転車移動が多い冬野目は、坂の中腹辺りで早くも足に蓄積されてゆく乳酸菌の存在に悩まされていた。しかし横を歩く吠木は涼しい顔をしているので、自分だけが情けない顔をするわけにはいかないと、その木の枝のような足を懸命に動かした。

 壬生たちとの約束の時間までには、まだ余裕がある。

 冬野目は何とか疲労感から目を逸らそうと、横を歩く小柄な吠木に話しかけた。

「い、一条さんて、いつも人間の姿になるときはスーツを着るの?」

 息が上がった冬野目とは裏腹に、吠木は淡々と返事をした。

「いえ、その時々で違います。今回はたまたまあれを盗んだだけですね」

「ぬ、盗んだ?あれは盗んだものなの?」

「そうですよ。服一着を用意するのにもそんなんですから、僕が後から追いついて様々なフォローをする必要があったんです」

「へぇ、世話焼きなんだね」

「まぁ……他の連中は一条さんの例の性癖にすっかり引いてますから……僕くらいしか動いても良いという者がいなかったというのが、実際のところですけれど」

「そう言えば今日は服を買うんだよね?お金はどうするの?」

 冬野目の胸中には嫌な予感が渦巻いていた。相手は一条と壬生だ、自分を財布役として同行させるつもりではないかと心配している。

「お金は用意しました。一条さんに現金を渡すと何に使うかわかったものではないので、僕が全て管理しています」

「へぇ……料理も上手いし、吠木君はしっかり者なんだねぇ」

 会話をし乍らだと気が紛れ、いつの間にか坂は終わり道は平坦なものになっていた。

「そ、そんなことないです。い、一条さんがガサツなので、総体的にそう見えるだけです……」

 顔を伏せて言葉を詰まらせる吠木を見て、冬野目は妙な気分になった。そう言えば、朝食のことを褒めたときも同じような反応だった。普段からしっかりとしていて、何でもソツなくこなす吠木は、あまり褒められたことが無いのではないだろうか?周囲からは、何でもできるのが当たり前だと思われているのではないのだろうか?もしそうなのだとしたら、それはけっこう辛いことだろう、と冬野目は思う。何をするにしても可も無く不可も無くと言った冬野目とは違い、吠木は出来が良い。朝食にしても、朝早くに起きてきちんと手の込んだ食事を用意してくれるというのは有難い。しかし、それも慣れてしまえば何とも思わなくなるのだろう。

 彼のことはちゃんと褒めて、そして労ってやろうと冬野目は思った。辺りを見回すと丁度良く自動販売機が見えたので、立ち止まって財布を出した。

「ねぇ吠木君、何か飲み物でも飲もう。何が飲みたい?」

「僕は大丈夫です。お気になさらず」

「まぁそう言わずに。いつも美味しいごはんをつくってくれるから、そのお返しだと思ってよ」

 そう言われた吠木はしばし目を伏せ、それから控えめな動作で指差した。

「……で、では、これがいいです」

「リンゴミルクセーキ?都会にもあるんだなあ」

 それはしつこいほどの甘ったるさが特徴の乳飲料だ。製造元は冬野目の地元にある会社で、彼の実家周辺の自動販売機には確実にこの飲み物があった。地元でのみ流通しているものだと思っていたので、こうして東京で見かけるのは意外であり、そして少し嬉しかった。

「これ、僕の地元でつくっているんだよ。よく飲んだなぁ。どの自販機にも絶対これがあった」

 冬野目は、飲み物の缶を取り出し乍ら言った。吠木はそれを受け取ってから「僕、これが好きなんです」と言って嬉しそうに蓋を開けた。

「男の子でそれが好きな子は珍しいなぁ。基本的に、僕の周りでそれが好きだったのは女の子だったから」

 こくこくと液体を喉に滑らせ乍ら、吠木は眉根を寄せた。そして飲み口から唇を離して言った。

「お、おかしいですか?僕、甘いものが好きなんですよ」

 それを聞いた冬野目は、手をひらひらとさせて否定する。

「いやいや、おかしくはないよ。僕も小さいころはたまにだけど飲んだしさ。それに吠木君ってなんだかこう、女の子みたいだし、違和感ないよ」

「なっ……!」

 吠木は顔を赤く染めて、酷く狼狽えた様子で言葉を続けた。

「お、女の子みたいって、ど、どういうことですか……」

 リンゴセーキの缶を握りしめ乍ら動揺を隠せないその様子に、冬野目は不安を覚えた。

 もしかして、怒らせてしまっただろうか。吠木は見た目とは違ってかなりの年上だ。たまたま人間に成ったときの見た目が可愛らしいからって、女の子みたいと言われたのでは気分は悪いかもしれない。

 なんとかフォローをしなければと思い、冬野目は口を開く。 

「き、気分を悪くしたなら謝るよ。でも決して悪い意味じゃないんだ。吠木君は料理も美味いし、しっかりしてるし、そしてとても可愛らしいから、女の子みたいだなって思って」

 言われた吠木はいよいよ顔を真っ赤に染めて、言葉を無くしている。

「い、良いお嫁さんになるよ。うん」

 それがトドメだった。吠木は手に持っていた缶を一気に傾け中身を飲み干した。空になった缶をゴミ箱に押し込んで、何も言わずに一人で歩き出してしまった。

「あ……吠木君!……まいったなぁ、怒ったかなぁ……」

 それから目的地につくまで、冬野目は大いに気まずい時間を過ごした。隣の吠木は何も喋らないし、何かを話しかけても顔を逸らされてしまう。そうかと思えば横顔をじっと見つめられているような気配がして、横を向くとまた顔を逸らされる。それの繰り返しだった。

「あ……壬生さんたちだ」

 壬生と一条と砧を見つけたとき、冬野目は素直に安堵した。これで、この気まずい雰囲気も紛れるだろう。

「おぉ、冬野目にはじめくん。……あれ、どしたん?」

 二人を見つけて顔を綻ばせた一条は、妙な雰囲気に気が付いた様子で言った。ぽかんとした顔で冬野目と吠木の顔を交互に見て、それから小首を傾げた。

「何や、二人ケンカでもしたん?」


 一行が向かったのは駅ビルの中、レディースファッションを取り扱うフロアだ。何処を見ても女性物の服ばかりで、冬野目はどこにいればいいのかわからない。

「一条さん、これ」

 吠木は一条に封筒を渡し、その中身を確認した一条は唇を尖らせて抗議の言葉を口にした。

「えっ、こんだけ?少ないわぁ、はじめくん!女子の買い物やで、アイ○ル活用してでも欲しいモン揃えなあかんのにぃ」

「駄目です。資金は限られてますので無駄遣いは厳禁です」

「オカン!非道や!」

「非道じゃないですし、僕はオカンじゃありません!」

「うぅ……」

 周りにはお洒落にうるさそうな若い女性ばかりで、冬野目は居場所に困り、早々に疲れてしまった。壬生たちはそれぞれが好みの服を選び、これが似合うこれは派手すぎるなどと、買い物は大いに盛り上がっているようだった。

「……これって完全にただの買い物だよ」

 盛り上がる壬生や一条、次々に服を当てられてはしゃいでいる砧を眺め乍ら冬野目は呟いた。本来ならば、これは壬生のストーカーをあぶりだすための潜入捜査で着る服を選ぶ買い物だったはずだ。しかし、今目の前で繰り広げられている光景は『休日を満喫する女の子たち』にしか見えない。

「ま、いっか」

 ベンチに座りぼんやりと辺りを眺めて、冬野目は思った。そういえば壬生がこうして誰かと一緒に楽しそうにしているところを、大学では見たことがない。見かけるときの彼女はいつも一人だし、噂ではサークルの自己紹介の話が口コミで広がり、他の学生たちからは「壬生さんは美人だけど、変人」と認識されているらしい。それは決して外れているわけではないけれど、本来ならば壬生だってこうして休日には友達と買い物をしたり、お茶でもし乍らゆっくりと話をしたりしたいのではないだろうか。

 以前に壬生から聞いた子供時代の出来事が原因で、彼女は今でも友達がつくれないのかもしれない。同性の友達はもちろん、既に心に決めた男性がいる壬生はその性格上、男友達だって容易にはつくらないだろう。それに、「今でも男性は苦手」だと言っていた。

 そう考えると、壬生がこうして普通の女子大生の楽しみを満喫できているのは幸せなのではないか。もちろん冬野目には壬生の本心はわからないが、みんなと服を選び乍ら弾ける笑顔を見て、ぼんやりとそう思った。

「壬生さん、楽しそうだな」

 微笑ましく思っていると、ようやく買い物を終えたのか、大きな紙袋を持った一条達が戻ってきた。みんな満足そうな顔をしていて、来るときには気まずい雰囲気が流れていた吠木までも、なんだかんだで楽しんだようだった。

 そこで、冬野目はあることに気が付いた。

「あれ……吠木君も服買ったの?」

 まだ売り場に未練があるのか、あれも可愛かったこれも欲しかったと話が弾むところ向かって尋ねた。

「せやで。はじめくんはいらん言うとったけど、いくらなんでもあのジャージ一着だけやと可哀想すぎるやろ」

「え……でも、ここってレディースフロアですよね……?吠木君の服、あるんですか?」

 それを聞いた一条は、怪訝そうな顔で言う。

「冬野目、何か勘違いしてへんか?」

「え?何がですか?」

「はじめくん、女の子やで」

 冬野目以外の三人は、それを当たり前のことのように聞いている。冬野目一人だけが、阿保のような顔をして驚愕を隠せないでいる。  

「え……えぇっ!?」

 女性陣は非難の色を帯びた視線を彼に突き刺した。

「お前、はじめくんのこと、男やと思ってたやろ?失礼な奴やなぁ」

「だってそれは……一条さんが、はじめ『くん』って呼ぶからですよ!」

「何と呼ぼうがウチの勝手やろが。それにホレ、砧も壬生はんも別に説明しなくてもわかってたワケやし。気付かんかったのはあんただけやで」

 冬野目は思わず視線を吠木に向ける。

 吠木は顔を赤く染めて両目を伏せ、所在なさそうに手を組んでいる。

「あ、あの……吠木君、その……」

 吠木は何も言わない。代わりに、一条が口を開く。

「はじめくんは自分が女っちゅうことに抵抗があるからな」

「そ、そうなんだ……」

 会話が途切れたところで、それまで俯いていた吠木が顔を上げた。

「ぼ、僕や一条さんの仕事は護衛です。なので女の子らしくしていては務まりません。なので、髪も短くしていつも動きやすい服を着て……」

 語尾が徐々に小さくなり、最後には再び俯いて黙り込んでしまった。それを見て、再び一条が口を開く。

「でも、今日は良い機会やし可愛い服も買ったで。くくくっ、あれは楽しみやなぁ」

 上機嫌で、手に持った紙袋を持ち上げる。壬生や砧もそれを微笑み乍ら見ている。

「ええ、試着したのを見たけれど、とても似合っていたわ」

 壬生は砧に向かって視線を送る。同意を求めるような、共有している事柄を確かめるような、優しい視線だ。

「うん、はじめちゃん、可愛かった。ああいう服をいっぱい着ればいいのに」

 砧がにっこりと笑って答えた。

「まぁ、冬野目が勘違いしてるのは薄々気付いとったけど」

 言われた冬野目はだらしない顔で苦笑いを浮かべ、改めて吠木を見た。

 常に事態を客観視し、しっかりとした適確な言動。印象的な、一条よりも短い髪。これまで周囲に自分を男として認識させるために、あえて女の子らしさを遠ざけてきたのだろう。

「まぁ最初は嫌がってたけど、はじめくんも最後の方はけっこう楽しそうやったからなぁ。本当は可愛い格好もしたいんやろ?」

 悪戯っぽい顔で尋ねる一条の言葉に、吠木はしどろもどろになる。

「そ、それは一条さんや壬生さん、それに砧さんまでが僕に何でも着せようとするから……それなら着てみようかなって……」

「くっくっく。それでええやん。せっかく人間の格好してんねんから、それなりの楽しみ方もあるで」

「し、しかし……」

「でも、ホレ。もう買ってもうたから。返品はでけへんで。これからはもう少し、したいようにしようや」

 買った服で膨らんだ紙袋を指差して、一条は嬉しそうだ。一条自身、吠木の性格のことについては何か思うことがあったのだろう。だからこそ、あんなに張り切ってみんなで服を買いに行こうと言い出したのかもしれない。

 みんなで行く、というのが大切だったのだろう。

「わ、わかりましたよ……でも僕は別に女の子らしくしたいわけでは……」

 そこまで言って、冬野目に視線を向ける吠木。目と目が合って、慌てた様子で視線を逸らす。

「えぇ、嘘やろぉ。最後に試着した服、鏡で見たときめっちゃ嬉しそうやったやん」

「そ、そんなこと無いです!」

「へぇ……ま、そういうことにしといたろっ」

 不服そうにする吠木を横目で見乍ら、一条は冬野目に向かって両手を差し出した。

「ほな、そろそろ帰ろか」

 差し出られた一条の手を見て、冬野目は首を傾げる。これは、どんな意味があるのだろう。まさか、手をつなごう、ということか。

 なんて大胆な、ここには皆もいるのに。それとも、そんな状況なんて気にならないほどに彼女は自分と手をつなぎたいのだろうか。正直言って一条は、自分の好みの真ん中に位置するわけではない。しかし見た目だけならば確かにきれいなお姉さんだし、それに何といっても貴重な痴女属性の持ち主だ。となるとこの状況は簡単に処理できるものではない。冬野目は自他ともに認めるオメデタイ脳味噌で考え、悩んだ。しかし次の瞬間、一条が言った言葉で今の状況を正確に把握した。

「ホレ、荷物全部持って。男の仕事やで、冬野目」


 買い物を終えた後みんなで食事を摂り、今は帰り道である。文字通り両手に抱えきれないほどの荷物を何とか抱え、冬野目は長い長い坂を上っていた。本当に、これではただの荷物持ちだ。

 満足に視界も確保できずに、危うい足取りの冬野目の周りでは壬生や砧が楽しそうに話し込んでいる。気付けば、いつもはあまり会話の中に入らない吠木も輪の中にいる。

「まぁ、これはこれで良かったのかな」そう呟いた冬野目の横に一条が並んで歩いた。

「なぁ、待ち合わせの前にはじめくんと何かあったん?」

「え……どうしてですか?」

「どうしてって……雰囲気が明らかに変やったもん」

「あぁ……」

 一条が壬生と砧と一緒に下宿を出たあとの出来事を、掻い摘んで一条に説明した。といっても、冬野目自身には吠木との雰囲気が悪くなった原因の心当たりは無い。なので、どれが悪かったのか見当もつかない。

 全てを聞き終えた一条は、ゆっくりと口角を上げた。

「な、なんですか。何か怒らせることでも言いましたかねぇ……」

 困惑する冬野目を、一条はなにやら訳知り顔で見た。

「ふぅん……。これは、おもろいことになりそやね」

「な、何ですか?何なんですか?」

「なぁんでもないわ。ふふふ」

「気持ち悪いですよ一条さん……」

「あんたに言われたないわ、この多角的変態」

 

 一行は賑やかに坂を上った。そのせいか、不思議と坂を上りきっても冬野目はあまり乳酸菌の存在を感じなかった。  

 


 

 

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