時雨
その日の一条は珍しく早起きをして、そそくさと壬生と砧を起こした。砧以外の二人はすぐに身支度を整え、まだ夢の中にいる冬野目に向かって時間と場所を伝える。心許ない返事をする冬野目に何度も念を押し、瞼をこする砧の手を引いて三人は下宿を出た。
残された冬野目はまだ半分夢の中で、今しがた見ていた夢の続きをなんとか手繰り寄せようと必死だった。それというもの、眠りに落ちる直前に吠木から聞いた話が衝撃的で、それが夢となって現れたのだ。
前日のことである。
「一条さん、変態なんですか……」
蕩け顔で砧を抱きしめ乍ら何かしらの妄想に全精神を捧げる金髪を眺めて、冬野目は言った。
「そうなんです」
さも当たり前のように吠木は答え、話を続ける。
「しかし、のべつ幕無しの通り魔的変態、というわけではありません。一条さんは砧さんに関してのみ、あぁなってしまうのです。例えば……昔、タヌキ姿の砧さんが季節の変わり目で、毛の生え変わりを迎えた時のことです。その時期は僕らのようなお付きの者が、日々抜けてゆく毛を抜ける端から片付けていきます。本来ならば自分で処理することなのですが、砧さんは姫様なのでそんなことをさせるわけにもいきませんから。それで、ようやくすべての毛が回収できたと思っていたら、どうも量が少ない。不審に思った僕が見ると、一条さんの懐がふっくらと膨らんでいるのです。怪しいので問い詰めたら、彼女は砧さんの抜け毛を集めて、自宅に持ち帰ろうとしていました」
冬野目は表情を変えない。のっぺらぼうのような顔のまま、話の続きを促した。
「当然、なぜそのような暴挙に出ようと思ったのかも問い詰めました。すると彼女は一言、『だって、欲しいんやもん』と……どうやら持ち帰った後、クッションの中身に使うつもりだったようです。そうすると砧さんの匂いに包まれて、毎日を幸せに暮らせる、と」
「……変態じゃないか」
「そうです。既に手遅れなのです。それに、話はこれだけではありません」
「え……まだあるの?」
「もちろんです。砧の本家では一条さんの癖は有名なのです。同性同士なのでまだ許容されていますが、そうでないなら即刻打ち首です」
「……でも、そんなことされたら砧ちゃんも嫌がる……というか気持ち悪がると思うなぁ」
「それが、そうでも無いのです。前にも言いましたが僕と一条さんは護衛役で、砧さんは姫様です。なので本来は口をきくことすら容易ではないのですが、姫様はとても気さくで優しい方です。なので僕らのような付き人にも、普通の友人と同じように接して下さいました。子供の頃から一緒に遊んでいた一条さんが付き人になってからも、それまでと同じように、お友達として接されたとききます。なので一条さんが何をしても、砧さんは怒りもしなければ嫌がりもしません。大抵は笑って許してくださいます。まぁ、それが一条さんの奇行を加速させる要因でもあったのですが……」
「あぁ、逆効果だね。一条さんのためにも、一度叱ったほうがいいのに」
「そうですね。しかし、一条さんは砧さん以外の方には普通ですから」
「でも、なんでそんなにも砧ちゃんのことが好きなのかなぁ。まぁ……確かにあの子は優しいし、それに一緒にいるとなんだか楽しくなるから、好きになる気持ちはわかるんだけど……その」
「なぜ抜け毛を収集するほどに好意を寄せるのか、ですね?」
「そうそう」
「それはですね、砧さんは一条さんの命の恩人だからなのです」
「恩人?」
「そうです。これは昔、まだ一条さんが護衛として働き出す前のことです。その時の砧一派は、別の一派と争い……冬野目さん風に言うなれば、『抗争』をしていました。それで、後継者候補筆頭である砧さんも、それに参加されたのです」
「え……女の子で、しかもそんな大事な身分の砧ちゃんが?」
「妖、特にタヌキの一派では、戦闘に性別はあまり関係ありません。腕力にものを言わせるわけでも無いですし。それに、砧さんが後継者候補の筆頭たる理由は、単純に頭取の娘だからというだけでは無いのです」
「え、世襲制じゃないの?」
冬野目には、当然だがタヌキ界のことはよくわからない。しかし跡取りや後継者というのは、大抵はトップの親族、特に子供が務めるものだと思っていた。
「もちろん頭取の親族だからという理由もありますが、それよりも砧さんの力そのもが一番大きな理由です」
「力……?あの子にそんな力が?」
「砧さんの力は、人を化かすことで有名なタヌキの中でも、特に抜きん出ています。その証拠が、今の姿です」
「今のって……人間の姿のこと?でもそれなら一条さんも吠木君もできてるじゃないか」
「それが、違うのです。一条さんの頭の上に耳がありますよね?」
「あぁ、あるね」
黄金の、三角に輝くふさふさの耳。それが無ければ、キツネが化けている一条も普通の人間と見分けはつかないだろう。
「我々が人間や、他の何かに化けるとき、完全にはその姿をコピーできません。普通は、身体の一部に元の獣の部分を残してしまうのです」
「じゃあ一条さんの場合はあの耳がそうなんだね。となると、同じようなものが吠木君にもあるの?」
「もちろん、僕にもあります。もちろん個体差はありますけれど。ともかく、本来僕たちは完全な人間の姿にはなれないのです。でも、砧さんは違う。初めて砧さんに会ったときのことを思い出してみて下さい」
冬野目は回想する。
もぞもぞと動く布団。そこから飛び出してきた一人の少女。彼女は衣服の類を何も身に付けておらず、唯一の例外といえば、右足に巻かれた白い包帯だけだ。
「一条さんの耳のようなものが、ありましたか?」
「……いや」
無かった。確かに、それを確かめるのには一番適した状況だった。当時は混乱して何も考えられなかったが、思い出してみるとよくわかる。彼女は、彼女の身体は、完全に人間そのものだった。特に変わったところも無く、健康的な人間の少女だった。
滑らかな肌。垂れがちな瞳。そして胸部に搭載した二両の新幹線。
「それが、砧さんが特別である証なのです。彼女は完璧な変化ができる。今のまま順調に人間の知識を吸収していけば、これからも人間として暮らすことも十分可能でしょう」
「そ、そうだったのか……。でも、人間の姿に完璧に化けられることが、抗争の中でどう有利に働くの?」
「我々が他のイヌやキツネと違って、こうして変化できたりするのは、ひとえに胆力と呼ばれるものがあるからなのです。砧さんはその胆力の量も質も桁違いなのです。そして、妖同士の抗争と言うのは、胆力がものを言います。胆力は、人間で言うところの武力とも言えますし、科学力でもあります」
「なるほど……桁外れな胆力を持っている砧ちゃんは、桁外れな戦力でもあるわけだ」
「そうです。そして妖の世界も、野生動物の世界と同じ弱肉強食です。違いがあるとすれば、力があるものが頭取を務め、その力を背景にして、他の一派を牽制して安定を保つということ。そしてその役目を、今は砧さんのお父様がされています」
「そうか……だから砧ちゃんの本家は砧ちゃんが必要だし、烏丸一派は砧ちゃんが邪魔なんだ」
「そうです。しかし……いくら力を持っていてもその使い方を忘れていては意味が無い。それに、今の砧さんがほぼ胆力を使えないということが烏丸に知れたら、攻め時と見て一気に攻勢をしかけてくるでしょう」
「た、大変じゃないか」
「大変なのです。しかし当の砧さんが記憶喪失では……うかつに帰って抗争に巻き込まれる可能性もありますし、それならこうして戦火が広がっていない東京にいた方が安全ではないのか、というのが本家の考えです」
「疎開、みたいなものか」
「そうですね……。あ、話が逸れましたね。それで、前線に出ていた砧さんなんですが、戦場で怪我をして動けなくなっているお友達を発見されたのです」
「その友達が……一条さん?」
「そうです。砧さんは一条さんの前で存分に胆力を使って彼女を守りました。そして、その後一条さんは砧さんの護衛隊に入り、砧さんに近づくと共に奇行が増え始めたのです」
「つまり、命を助けてもらったから恩義を感じている、と」
「まあ、初めはそうでしたが、いつからかその気持ちが昂りすぎたんでしょうね。今や一匹の変態です。一条さんの今の夢は砧さんと一緒にお風呂に入って、あの豊かなおムネを洗ってあげることだそうです」
「……ほう」
一連の話を聞いてから目を閉じて、全身の細胞を使って脳に働きかけた。垂れ目の巨乳ろりっこと、金髪スレンダー京美人との入浴シーン。初めはお互い大人しく湯船に浸かっているが、やがて身体を洗わねばならぬ気がくる。さきに砧が浴槽から出て鏡の前に座り、おもむろにボディソープを手に取り泡立てる。左手から順番に洗い、脇やおへそへと進んでいき、ついにその時がくる。
機は熟したとばかりに一条は声をかける。「背中流したろか?」だ。無邪気な砧はそれを何の疑いも持たずに受け入れ、無防備な背中を変態に預けてしまう。
そして行われるのはまさしく、『行為』としか言いようがないだろう。
徐々に胸元に伸びてゆく、一条の細い指。砧は少し不安になるも、他人を疑うということを知らない彼女は身を任せるばかりだ。
弾力。弾力。
その弾力の何たることか。まるでバケツを容器にしてこしらえたプリンであり、水の代わりに優しさが注がれた水風船である。まだ何人の侵攻も許していないその実り豊かな山に、関西弁を自在に操る金髪美人の魔の手が忍び寄る。
不安そうな表情の砧。
もはや止まらぬ一条。
やがて洗う部位は下へ下へと下がってゆき……。
「……さん」
僅かばかりの抵抗をする砧を優しく諭して……。
「ふゆ……さん」
そしてついに秘境へと足を、いや指先を……
「冬野目さん。起きてください」
外的要因によって夢の中の夢を霧散された冬野目は、親の仇でも見るかのような目で吠木を見た。すると声の主は花柄のエプロンをたくしあげ、お玉を持ってキッチンに立っている。
「……何用か」
武士のような口調の冬野目である。
「もう起きた方が良い時間です。それに、何だか表情が一条さんと同じでしたから」
「あの変態と同じとは……遺憾」
「どのような夢を見られていたのです?」
冬野目は無言で食卓について、何も言わずに朝食をとった。
「壬生さんたちはもう出られましたよ。時間に間に合うように僕たちも用意しましょう」
吠木は大根おろしに醤油を垂らしながら言った。
「時間?」
「あれ……やっぱり覚えてなかったんですか。今朝、一条さんが言ってたじゃないですか。大学に潜入するために普通の服を買うから、待ち合わせをしようって。ひとまず、一条さんと砧さんは今日着る分の服を借りるために、壬生さんのご自宅に向かったのです」
「そう言えばそんなことを言っていたような気も……吠木君も、そのジャージが嫌なら何か借りていく?まあ、僕の持ち服なんてたかが知れているけれど」
「いえ、結構です。僕はこのジャージが一番動きやすいですし」
「そっか。吠木君らしいね」
「護衛ですから」
会話しながら食べる朝食はいつもより美味しく感じ、吠木だけならこのまま住み着いてくれればいいなぁ、と冬野目は思った。出汁巻き卵の味加減は絶妙だし、ごはんの炊き加減もいい塩梅だ。そしてなにより、エプロンをたくしあげて台所に立つ後ろ姿を眺めるうちに、自分の中に芽吹いた何かが成長していくのを感じる冬野目。それは果たして口に出して良いものなのか、いくら日本が比較的自由に生きやすい先進国とはいえ、相手の性別、そして年齢を考えると迂闊には動けない。
下手をすると厄介な国家権力の世話になる。
なにやら最近は国家権力に怯えてはかりだと思った冬野目は、頭の中を渦巻く煩悩を消し去るために話題を変えようと試みた。
「そういえば……吠木君や一条さんていくつくらいなの?」
「いくつとは、年齢のことですか?」
「そうそう。見た目的には年下だけど……」
「あぁ、そう見えても無理はないですね。でも、実際は冬野目さんや壬生さんよりも大分年上ですよ。なにせ妖ですから。長生きです。まだ京都が古都と呼ばれる前、東京が帝都と呼ばれていた頃。それくらいからいます」
「え……そじゃあ……八十年以上前?うは、これは大先輩だ。敬語を使わなきゃ」
言われた吠木は少し俯き、苦笑いを浮かべて否定した。
「やめてくださいよ。それに僕らと人間じゃ時間の流れは違います。今まで通りで問題ないですよ」
しかし、そう言われると余計に気になるものだ。冬野目は吠木を改めて観察してみたが、白く張りのある肌やさらさらと軽やかな髪、そしてなによりも自分が遥か向いにどこかへ忘れてきてしまったイノセンス。それらを兼ね備えた吠木を、どうしても自分の祖母以上の年齢だとは思えない。小学生か、せいぜい中学に入りたての男の子にしか見えないのだ。
しかし、家事能力を見ると納得する。流れるような作業。一つの動作で複数の仕事を進める手際の良さと準備の周到さ。これは才能や器用さというよりも、途方もない経験を積み重ねた者にだけ体得しうる秘儀ではないのか。こうして横に座る純潔の化身のような少年は、いったい今までに何枚の皿を洗い、何尾の魚をさばき、何グラムの味噌を解かしてきた結果、この極上の朝食にたどりついたのだろう。滅多に他人に正の感情を持たない根暗で陰湿な冬野目が、吠木に感じては手放しで感服している。
そして、なによりも気になるのは最近自分の中に目覚めた『何か』だ。もし、この『何か』の矛先が普通の人間の子供に向いていたら、まだ話は簡単だ。国家権力の魔の手を逃れながら、純粋無垢な男の子をさらい、そして自分に欲望に忠実に行為を行えばいい。そこにいかなるモラル的・法的逸脱があったとしても、筋書や心情的には極めててシンプルだ。
しかし、今目の前にいる男はいくら可愛らしい顔をしていていも、舐めたくなっちゃうくらい滑らかな肩をしていても、そして潜り込みたくなるくらい魅力的な脇をもっていても、推定年齢八十歳以上なのだ。実家の近所のコンビニで働くベテラン店員の下山さんよりも年配だ。
「これは、一体何属性なのだろう」
顎に手を当てて、冬野目は悩む。
「え?何か言いましたか?」
食器を手際よくキッチンへと運び、そのまま無駄のない動作で洗い物をしていた吠木は振り返った。
「いや、何でもないよ。それより、今日も美味しかったよ。ありがとう」
務めて冷静に、そして誤魔化すように言った。
しかし、言われた吠木は冬野目を見たまま動かない。良く見ると顔をほんのりと染めて、食器を洗うためのスポンジを握りしめている。
「はい……なら、よかったです」
ようやく顔を上げてそう言った吠木の笑顔は、親に褒められて喜ぶ子供のようだった。それは後光が差すほどに輝いて見え、何だかよくわからない物質で構成されている冬野目自身を浄化し、焼き尽くのではないかとにわかに不安になる。そして、不安の種はもうひとつ露見した。
「危ない……あの笑顔に劣情を抱くところだった……」
脂汗をたらりと流しながら、冬野目は必死にネットでグラビアアイドルの画像を見ている。このまま取り返しのつかない所へと飛んでしまう前に、比較的まともな趣向で自分の中の毒を浄化しようと思ったのだ。
しかし不可解だと、クリックしながら彼は思った。いくら自分が、他人の目を気にしない徹頭徹尾に於いて初志貫徹型の侍だとしても、なぜ小学生くらいの男の子のビジュアルを持つ推定年齢八十歳以上のお犬様に劣情を抱かなければならないのか。自分の趣味趣向が世間一般とは少し違うことは承知済みではあるが、いつの間にこれほどまで端っこに来てしまったのか。このままではもしかしたら、ガードレールにしか欲情しないだとかリスとしか結婚できないだとか、完全に手遅れな状態になることも心配される。
自分に何が起きているというのか。
それは少し考えればわかることだった。ここ最近は一条や吠木や壬生や砧が立て続けに訪れて来るので、一人になる時間がない。それまでが一人で過ごすことを半ば強制されてきたようなものなので、こうして誰かとずっと一緒にいるのには慣れていない。それはそれで悪くもないのだが、問題が一つだけある。
自由に自給自足ができないのだ。
世の中のハンサム達は、自分に商品価値があるのを良いことに自分の畑を耕してくれる存在を確保している。それは時に彼女と呼ばれたり嫁と呼ばれたり様々だが、総じてそれは、持つものの特権だ。冬野目のように商品価値が下落したまま上昇の兆しが無い物は、どうしても自分の畑を自分で耕し、水を与え、肥料をやらなければならない。そうしなければ畑はおろか、土地そのものすら荒れ果ててしまう。
嘆かわしい、嘆かわしいと呟きながら、冬野目は自給自足の代わりのグラビア画像う食い入るように眺めた。しかしその行為は悪戯に自給自足への思いを加速させるだけで、逆に負担として彼の身体、特に股間を圧迫する。
「神は地に落ちたのかな」
やがて洗い物を全て終えた吠木が、手を拭きながら冬野目の横にやってきて、時間を確認した。
「冬野目さんそろそろ出ましょう。時間に遅れたら何をされるかわかりませんよ」
「そっ、そうだね。気分転換もになるし、出かけよう」
「何か……気分でも悪いのですか?」
「大丈夫だよ。問題ない」
冬野目は素早く着替え、なるべく吠木を見ないようにして玄関に向かった。
「もう暑いですね……蒸し蒸します」
顔をしかめ乍ら、吠木はジャージのファスナーを開けてシャツの胸元部分をつかみ、ぱたぱたと動かして空気を流した。
瞬きもせずにその様子を凝視する冬野目。
「……何ですか、冬野目さん」
気温と湿度が上がって蒸し暑い中、吠木は背中がぞくりと冷えるのを感じた。




