ひろいもの
冬野目百草は自転車を漕いでいた。特に急ぐでもなく、悠然と、そしてのんびりと。それは他人から見ればぼんやりとしているように見えるだろう。
事実、彼はただじっとライトに照らされた道を見つめていた。
アルバイト先である個人経営の古本屋は、なぜ経営が成り立っているのかがわからないほどの来客数しかない。それにも関わらず歴史は長く、たまに様子を見に来る経営者は付近の大学に数多くの顔見知りがいる。それは主に哲学系の教授達で、彼らが不要だと判断した専門書を下取りして販売し始めたのが店の始まりだと、ベテランの先輩店員から聞いていた。しかし今、冬野目が働いている店舗には専門書の類は一切置いていない。あるのはコミックや雑誌など比較的柔らかい読み物で、プラトンやソクラテスの著作を置いてはいない。その代わりに棚の大半を占めるのは所謂同人誌で、これに詳しい店員が数多く在籍しているのが店の強みになっている。しかし冬野目自身はその方面に暗く、何が売れて何が売れないのか、見当もつかない。なので、単純な本好きだからという理由でアルバイトの面接を受けて、初出勤を終えた日の夜の彼は大層不安になった。ここでこれからやっていけるのか、他の店員と問題なく働けるのか。しかし冬野目以外の店員は基本的に他人との関わりを持ちたがらず、同人書籍の類についても、その知識がないのであれば他の仕事をしてくれればいいということで落ち着いた。
働き出して三か月が経った。
その今日も数えきれないほどの本に値付けをして、紐で括られた本の荷解きをしているだけで一日が終わった。レジは数回しか打っていない。これでは自分の人件費だけで赤字になるのではないかと心配になるほどだった。
季節は初夏。心地よい風が頬を撫でて、快適なサイクリングだ。
冬野目の本業は大学生なので、早く帰って翌日の準備をしようと考えた。
「11時半か……思ったよりも遅くなったな」
腕時計を確認し、閉店作業がスムーズにいかなかったことを悔やむ。店の設備が古いので、たまに上手く動いてくれないことがある。今回はそれが原因で、帰りが遅くなった。
下宿まではもう少し。途中のコンビニでなにか食料でも買っていこうかと思い、自転車のスピードを緩めた。
「夜も遅いし、なにか軽いもので……」
駐輪場に自転車をとめて、明るい店内へと入る。すかさず明るい声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ……あれ、冬野目君じゃない」
名前を呼ばれてそちらを向くと、青いストライプ柄の制服に身を包んだ若い女性が彼を見ていた。
「あぁ、壬生さん。今日も夜勤?」
「そう。君は、今帰り?」
「うん。いつもより遅くなっちゃったけど」
女性の名前は壬生夏吉。冬野目と同い年で、同じ大学に通っている。同じサークルに所属していて、あまり交友関係が広くない冬野目にとって唯一の女性の友達だ。
「さっきお客さんに聞いたんだけどね、最近この辺にでるらしいよ」
目をきらきらとさせて壬生が言った。それに少々圧倒されて、相槌を打つ。
「へ、へえ……。でも出るって、なにが?」
「やだ、決まってるじゃない。タヌキよ、タヌキ」
「あぁ……この辺は山が多いからなぁ」
「何でそんなに冷静なの?タヌキだよ?あんなに可愛い生き物が近くでぽてぽて歩いているかもしれないのに、私はこうしてレジの見張り役なんて……ついてない」
「でもほら、野生の動物は危ないし、それにそんなにうまいこと見つかるわけないよ。向こうだって人間を警戒しているだろうしさ」
「それがいいんじゃない。あのくりくりのお目めに疑惑の色を浮かべて見つめられたら、私もう……」
変な人。冬野目は単純にそう思った。いや、それは出会ったときの自己紹介からもうわかっていたことだった。
サークルの顔合わせで初めて壬生をみたとき、この人とは絶対に仲良くなれないという直感があった。自分の自己紹介の順番を待っているときの壬生は、どこかの御令嬢かと周囲に思わせるような雰囲気があった。艶やかな黒髪を肩のあたりで切り揃え、形のいい唇に、上品でありながら魅惑的な瞳。それらを当たり前の装備のように備えながら、彼女は凛とした態度でそこに立っていた。先輩や同級生の男たちの視線はすべて彼女に集まっていたけれど、それもまた慣れているのか、気にした様子はない。
こんな美人と仲良くなれるはずがない。
幾分の卑屈的な感情も含めて、冬野目はそう思った。彼は男子校の出身だし、中学時代も女子との交流は必要最低限しかなかった。それでも大学に進学するにあたって、これで少しは女性と知り会える機会が増えると期待はしていたものの、いきなりこんな強敵が出てくるとは。
戦力に差がありすぎる。
顔合わせの場は、すっかり壬生夏吉の鑑賞会となっていた。それでも自分の順番が回ってきたので、冬野目は誰も聞いていないのを承知で口を開いた。
「冬野目、百草です。もぐさは、数字の百に雑草とかの草と書きます。ええと……僕の田舎はすごいところで、こうして都会の大学に出てきて緊張しています」
そこまで話したところで、先輩の一人が口を挟んだ。壬生にばかり視線が集まっているのが面白くなかったのか、少しムキになったような口調だった。
「ねぇ、冬野目くん。すごい田舎って、どれくらい田舎なの?」
その先輩は女性で、よく通る声でだった。
「そうですね……実家のすぐ裏手が山で、タヌキやカモシカなんかをよく見かけるくらいです」
恥ずかしそうに頭をかくと、質問をした女性は面白そうな顔になって言葉を続けた。
「タヌキ?すごいね。それって……」
しかし、女性は何かを言い切る前に場の空気の異変に気が付いた。明らかに何かがおかしい。
慌ててみんなの視線を追うと、その先には子供のように顔をほころばせている壬生夏吉がいた。それまで澄ました態度で佇んでいた彼女が、今では身を乗り出して冬野目の方を見ている。いや、見つめている。両手を握り、口を半分ほど開き、全身から好奇心の煙を立ち昇らせるようにして。
「あの……壬生さん?どうかしたの?」
男性の先輩が声をかけたけれど、彼女は身動き一つせずに見つめている。
「あの……壬生さん」
何度か声をかけて、やっと反応があった。しかしそれはそれまでのイメージを全てひっくり返すような一言だった。
「冬野目君のお嫁さんになったら、その御実家に行けるのですか!?」
その場にいた全員が言葉を無くした。この深窓の美少女はいきなり何を言い出すのだろう。戸惑う周囲に気が付いたのか、やっと御令嬢は姿勢を正した。そしてぺこりと可憐に頭を下げて、鈴が鳴るような声でこう言った。
「私、タヌキが大好きなのです!」
一瞬、その場にいた誰もが言葉を無くした。この御令嬢は一体何を言っているのだろう。
その空気を感じたのか、壬生は形の良い眉を下げて下を向いた。頬は紅色に染まっている。
「あの……壬生さん、自分の順番でなら、いくらでも話していいからね」
そう声を掛けたのは、男性陣の中で一番彼女に熱い視線を送っていた先輩だった。すらりと背が高く、誰が見ても見惚れるほどの美男子だ。彼がその場をなんとかまとめ、壬生の順番まで各自の自己紹介はつつがなく進んだ。そしてとうとう、場の中注目を一身に浴びて壬生の自己紹介が始まった。
彼女は一歩前に出て、涼しげにあたりを見回した。先ほどの赤面は既にどこかに引っ込み、そこには最初と同じ凛とした美少女の姿があった。
「壬生、夏吉だす」
噛んだ。しかしまるで何の問題もないように、咳払いをひとつだけして佇まいを改めた。
「失礼。壬生、夏吉です。生れは京都で実家は旅館を営んでいます。大学ではたくさんの友達をつくり、勉学に社会勉強にと広く学べれば幸いです。これからよろしくお願いします」
頭を下げ、一歩下がる。まるで嵐の後のような沈黙が場を包み、一番気になる情報が開示されていないことについて、聴衆がにわかにその知的好奇心を働かせ出した。
「あの……壬生さん。さっきのタヌキの話、してくれないの?」
切り出したのは先の美男子だ。彼はなんとも爽やかな笑顔を彼女に向けて、普通の女性であれば一瞬で警戒心を緩めるであろう、卑怯な程の素敵な声色で言った。しかし、言われた本人は何食わぬ顔で小さな顔を傾げている。それはまるで小さな子供が新しい知識を親から授かるときのようにも見える。そして下唇を少し突き出してこう言った。
「はて……?」
現実世界で、はて?なんて言葉を聞くことになるとは思わなかった学生たちは、もしかしたら先ほど自分たちが見た光景は何かの間違いなのではないだろうかと思い始めた。この美少女が、名前が少々変わっていることしか取り柄がなさそうな、恐らくは初対面であろう冴えない男子学生のお嫁さんになればどうとか……いやいや、そんなことはあり得ない。あり得て良い道理が無い。それならば、その後に聞いたあの人を化かすことで有名な動物のことについても、きっと何かの間違いなのだろう。きっと自分は勉強のしすぎで疲れているのだと、大して勉強をした記憶がない学生たちは自分に言い聞かせた。
さすがの美男子もそれから先を追及する勇気はなかった様子で、その場はなし崩し的に解散になった。彼は最後に、次の日程について連絡をしたいので連絡先だけ教えてくださいと言った。新入り達は各々の個人情報を彼に託した。
それぞれがアルバイトや下宿に向けて移動を始めた。冬野目は一刻でも早く帰って録画したアニメを脳裏に焼き付けるために、ほぼ唯一の特技である、他人を寄せ付けない早足で駅へと向かった。
ぐんぐんと人を追い抜き、そろそろ改札なので定期を用意しようとポケットに手を入れたところで、何者かにその手を掴まれた。
不意の他人との接触にどうしていいかわからない冬野目。思えば、他人に触れた記憶と言えばやけに馴れ馴れしいコンビニ店員が小銭を渡すときに手を包み込んでくるときくらいである。ちなみにそれは下山さんという中年の女性だ。
自分の手を掴むその主を確認しようと視線を動かすと、その顔を確認する前に女性物のバッグが目に入った。テレビや雑誌でしか見たことがない、なんともガーリーで機能性に乏しそうなそのデザイン。果たして自分の人生の中で、こんなオンナノコアイテムに接近する機会があるなんて思わなかった。
となると、このバッグの持ち主は女性であろう。それもデザインから察するに、おそらく若い女性だ。下山さんとは違う。
そう考えると、自然と視線が下がった。その理由は簡単である。冬野目は若い女性への接し方がわからないのだ。今までで一番関わりがあった女性が母親と下山さんだけとなると、それも無理はない。しかし期せずして、視線が下がったので彼の視界には相手の細くてきれいな脚が飛び込んできた。こうなるともう、本格的にどうしていいのかわからない。こうしているうちにも警察を呼ばれ、(若い女性のナマ足を見た)という罪で逮捕されるのだろうか。しかしそれでは実家の両親に申し訳がない。合わせる顔が無い。そう思い、せめて視線だけでも上げようと頭を上げると、次は妙なものが見えた。
小さなタヌキのストラップだ。
タヌキ……。どこかでそれについて何か聞いたような記憶がある。いや、聞いたのではなく、一方的な宣言を聞かされたような。いつだろう。
「冬野目君?」
腑抜けた顔で彼が考え込んでいると、しびれを切らしたのか、横に立つ女性が口を開いた。
「あ……」
勇気を出して相手を直視した冬野目の目の前にいたのは、深窓の令嬢でありトリッキーな美少女であり、そしてファッショナブルな女性用のバッグに奇妙なタヌキのストラップをくくりつける女子大生、壬生夏吉だった。
この後、冬野目は壬生に喫茶店へと連れ込まれた。連れ込まれたという表現は非常に正確で、その細い身体のどこにそんな力を隠しているのだろうと思うような怪力で、掴んだままの冬野目の腕を引っ張って歩いたのだ。そこでたっぷり二時間半、冬野目の実家の近くに出没するタヌキのことを聞かれた。大きさ、色、出没の頻度、性別、可愛さ、どうして写真は無いのか、なぜ動画を撮っていないのか、撮らないという君の判断基準には疑問点を持たざるを得ない、等々。
すべてを話し終えた後、彼女はおもむろに冬野目に自分の携帯電話のメールアドレスを渡した。そして帰り際に「これから仲良くしましょうね」と言って、颯爽と帰って行った。
後に残された冬野目は、今の時間は一体なんだったのだろうという思いと、彼女が一人で平らげたコーヒーとケーキ二つ分の代金を自分が払うことになるなんて、東京はやっぱり怖いところだという思いが混じり合い、大層複雑な気分になった。
これが、冬野目百草に人生で初めてできた、そして今現在唯一の、所謂女友達との出会いである。
勝手にうっとりとしている壬生を横目に、冬野目は店内で適当に食料を物色してカゴに入れた。時計を確認すると、既に時刻は深夜に迫ろうとしている。このままでは、明日の一コマ目に遅れてしまう。
急いでレジへと向かい、すっかりトランス状態の壬生をこちら側に呼び戻して会計を済ます。何か言われる前に素早く店の外へと避難して、自分の自転車を停めたあたりまで歩いた。
施錠を解除して、サドルにまたがり下宿に向けて走り出そうとしたとき、暗闇でうごめくなにかを感じた。犬だろうか、それとも猫だろうかと思い目を凝らすも、闇が深すぎてよく見えない。気になって仕方がないので一旦自転車から降りて、気配を感じた方向へと歩いてみる。すると、そこには怪我をして動けないでいる動物がいた。
風に揺れる体毛、小さな瞳。体力が無くて不安なのか、身体は小刻みに震えている。
それはどう見ても、実家の近くで見慣れた生き物だ。
さてどうしたものかと顎に手を当てていると、冬野目の肩に誰かが触れた。そしてその誰かはこう言った。
「保護しましょう」
冬野目は何かを覚悟した顔で、目の前のタヌキと後ろの壬生を交互に見つめた。