わたしは都市である。
わたしは都市である。政府はまだない。
いつ生まれたかとんとわからぬ。
なんでも気づいたら河辺の暗くじめじめした所にいつのまにか人間が住み着いていたのを記憶している。わたしはその時初めて人間というものをみた。しかも後で聞くとそれはバルバロイという人間中で一番獰悪な種族だったそうだ。
このバルバロイというのは時折互いの都市を襲撃しあうという話だったがそのときのわたしはそんなこととは知らないから、別段恐ろしいとも思わなかった。
はじめ人間は河のほとりに集うだけだったので、幼いわたしもそこに在った。その頃の人間は他の動物と一緒だった。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。
まばらだった人間たちは、次第に数が増し密になる。増えた口を賄うために獣を狩るだけでなく飼い慣らし、他所へ採りに行っていた草や果実のために土を耕した。穀物のためにはご苦労にも水路までひいた。
畑地 畑地 畑地 畑地
わたし わたしは都市 しびらぜーしょん
畑地 畑地だけなの? そうでしょ?
わたし わたしは都市の しびらぜーしょん!
無論、都市であるわたしは畑地ばかりではない。宅地もある。
この頃はわたしも河辺の別の集落や離れた洞窟の人間たちをも受け入れて、ひとかどの大きさに膨れていた。種々雑多な人びとがさまざまの顔でお互いを見回し合う。皆ひしめきあう中で、同胞であるという連帯と、けれど出自の異なる他所者だという分け隔ての両方を心に抱えていた。
それが人々にわたしが生まれた瞬間であり、わたしというものの不思議なところで、つまり、しびらぜーしょんなのである。
人間というのは近くに他の都市があると知るや襲わずにはいられぬ習性でできていると見える。わたしも手ひどくやられたのも一度や二度ではない。他所から別の人間たちが襲撃に来るなどは珍しくもなく、いまになって思い返せばなるほどこれこそバルバロイの見始めであった。
やられてばかりというのは悔しいもので、わたしの人間たちもしばしば出かけてはたくさんの食い物を持ち帰り、たくさんの雌を連れて帰った。そのたびにわたしは大きく豊かになった。
人間はわたしに壁を作った。立派な城壁だ。無論バルバロイの襲撃に備えてである。
それは彼らが土を線で囲い、柵をめぐらし、家を建てたのと何も変わらない。彼らにとってわたしは大きな家なのだった。
城壁などと威張ってみたところでそれほど偉大なものでもあるまいが、わたしにしてみれば新しい一張羅のあつらえが誇らしくないはずもなく、ありがたく頂戴した次第である。
しかしとかく人間というものは先祖譲りの無鉄砲で未開の時分から無茶ばかりしている。あるとき敵を都市内に招じて攻め落とされたことがある。
なぜそんな無暗をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由もない。新築の城壁から首を出していたら、敵軍の将が、攻められるのが怖いのか。いくら威張ってもその城門を開けることはできまい。弱虫やーいと囃すものだから開門してやったら陥落した。
わが将軍がほうほうの体で命からがら逃げのびると、大きな眼をした王さまが、攻め入られたくらいで陥落するヤツがあるかと怒鳴るから、この次は落とされずに攻め込まれてみせますと答えた。
そんなこんなで戦さは絶えぬ。
けれど奇妙なことに、しばらく互いに会わぬと寂しく感ずるのか使節を遣って仲良くなったりする。仲良くなればまた戦さをやらかしても、もう一度仲良くしようという力が働く。仲良くしているうちにくっついて一緒になってしまうこともある。
離れればいくら親しくってもそれぎりになる代わりに、一緒にいさえすれば敵同士でもどうにかなるものだ。つまりそれが人間なのだろう。
人間同士が仲良くするとき、わたしたちも睦まじくなる。
都市として動かれぬわたしが他の都市とやり取りする方法は少ない。
人と、物と、文化だ。まず人が行き来する。人は物を運ぶ。人と物にのって文化が運ばれてくる。ますますわたしの中はさまざまの物と人であふれ返る。
いままでの壁では狭すぎるので、壁の外に壁を建て増しして、わたしは少し大きくなる。
昔は立派な一張羅だと思っていた城壁は、いつのまにやらわたしを形作る大切なものになっている。壁に囲まれた内側がわたしで、外側は得体の知れぬ荒野である。
そしてその荒野の何処かにまた、壁に囲まれた誰某がいて、壁に囲まれたわたしたちは、わたしたちをつなぐ道と、往き来する人々と物の流れでもって互いの城壁の中身を動かし、交換し合い、互いを知り己を知る。
時に、どうしてももっと欲しくなり、想わずにはいられぬ都市もある。
わたしも、恋をするのです。
けれど、恋は罪悪ですよ。
わかっていますか。
―――ああ、だから。
記憶してください。わたしはこんな風にして生きてきたのです。
わたしが想いを寄せたのは近隣の小都市だった。
まだ生まれて間もない新興の若い都市で、人口も生産力も城壁も小柄でチャーミングだったが、それだけに活力にあふれており、建築物も人間たちもみずみずしい、美しい都市だった。
新興ゆえに他に負けぬ技術や文化を育てようという気概も感じられた。
わたしたちは頻繁に人と物のやりとりをした。都市は、自分が困らない程度内で、なるべくひとに親切にしてみたいものだ。わたしから与えられるものは多かったし、あちらからわたしが受ける刺激も貴重なものだった。わたしたちの関係はきわめて良好だった。
わたしが欲目を出して、あちらのもつ技術や文化をもっと知りたいと思ったのがいけなかった。小都市は秘密を持っていたがった。
最初は焦らされることにさえ浮かれていたわたしだが、いつまで経っても教えようとせぬことに次第に腹が立ってきた。わたしは少々力づくで迫った。技術を開示し、技能者を寄越せという要求は、しかしすげなくはねつけられ、そして小都市の門戸は永遠に閉ざされてしまった。
裏切りだ。あいつはわたしを裏切ったのだ。
わたしは激怒した。必ずやかの傲岸不遜の小都市を開門させねばならぬと決意した。
わたしの人間たちは軍隊を組織して一気に門前へと押しかけた。固く閉ざされた門を突撃用の図太い杭で打ちつけた。何度も何度も打ちつけ、錠を無理やりこじ開けると、門を左右にぐいと広げ、小都市の内部に押し入った。泣き叫ぶ小都市を押さえつけて蹂躙し、破壊し、味わい、あっという間に陥落させた。隅から隅まで小都市はもはやわたしのものだった。これほど昂揚した戦さは初めてだった。小都市をすっかり征服し尽くしてしまって、辺りを見回し、そうしてわたしはようやく気がついた。
あの若く活気にあふれたみずみずしい小都市は、もうどこにもない。
取り返しのつかないことをした。わたしが征服してしまったのだ。征服してしまった以上、そこはかの小都市ではなく、最早ひとつのわたしである。元来のわたしからは遠く切り裂かれた、もうひとつのわたしがそこに生まれたに過ぎない。
気が狂いそうだった。あの小都市はもういない。わたしがそうしたのだ。無惨に打ち砕かれた門と城壁が、吹きすさぶ炎と塵にその残骸をさらしていた。
なぜわたしはあいつをあいつのままにしておいてやれなかったのだ。なぜあいつをあいつのまま大切にしてやれなかったのだろう。
わたしは自らの城壁を砕かんばかりに懊悩し、また実際砕いてしまおうとも思った。こんなものがあるから行き違いが起きるのだ。
壁など、門などなければ、人と物と文化とがもっと好き勝手に行き来できれば、こんな非道いことにはならずに済んだのに。
古い都市を破壊することは、新しい都市を建立するときにだけ許される。では、その逆は?
わたしの苦悶とは裏腹に、わたしの人々はますます栄えていった。
そうやって、わたしは大きくなったり小さくなったりを繰り返し、人間たちは生まれたり死んだりを繰り返した。わたしに住む人々も、わたしに張り付けられた名前も、わたしの使い方も、その時代々々でまったく変わる。時には栄え、時には荒れ果て、数十年と廃墟を味わったこともある。しかし全体で見ればわたしは少しずつ大きくなっていたし、人間たちは爆発的に人口を増していった。
世界はどんどん密に、複雑になっていく。
なのに、治める術は追いつかない。
都市として発展しながら、こう考えた。
独裁に働けば角が立つ。衆愚に棹させば流される。官庁を通せば窮屈だ。とかくに人間の都市は治めにくい。治めにくさが高じると、安い政治へ引き越したくなる。どこへ越しても治めにくいと悟った時ナショナリズムが生まれ、リベラリズムができる。
わたしにはさまざまの人々が住む。さまざまの人々はさまざまの生き方をしておる道理だから、無論まとまりなどあるべくもない。それを無理矢理にまとめ上げて治めようとするから歪みが生ずる。
わたしの内にも貴賤が生じ、貧富が生まれ、強者と弱者の相争うようになり、一方で詩画や美食のごとき文明文化が花開くなか、他方では飢餓と不潔と公害に苛まれる人々が増えつづけている。
わたしのなかでバタバタと人死にがでた。人間はもはや未開の頃とは違って、難儀にも衣食住のみならず希望がないと生きてゆけぬようになったから、希望をどうしても作らねばならぬ。
まとまりがないとはいえ同じ都市に住む者同士、無関係ではいられまい。まとまりがないのを無理矢理まとまりたい人々はナショナリズムをつくり、無関係ではないのに無理矢理に無関係を貫きぬこうとする人々はリベラリズムをつくる由縁でもあろう。
壁がなくなった日のことを思い出す。
もう随分以前から、壁は旧い世界の残りかす、時代遅れの遺産だと考えられるようになっていた。バルバロイが地上から滅び去り、都市を襲撃するようなものがなくなって、城壁などというものはもはや歴史的な価値しか持っていなかった。
ずっと昔の一張羅をいつまでも着続けるわけにはいかない。壁の存在はわたしにあの小都市のことを思い出させる。忌まわしく、忌々しい。無くなってしまえばいいとずっと願いつづけていた。
けれど、ふと本当に無くなってしまうことを考えて、わたしは言いようのない恐怖に取りつかれた。はじめは着物でしかなかったつもりが、いつのまにかわたしを象る大切なものになっていたのだ。
壁の内側と外側がわたしとそれ以外を隔てていたのだ。わたしが悲劇の原因だと考えているこの壁は、しかしわたしを小都市を別々の都市として隔ててくれてもいたのだから。
壁がなくなると、わたしはどうなるのだ。
わたしはもはや壁が無かった時代のことを思い出せない。
わたしは壁によって生まれたしびらぜーしょんだったのではなかったか。
違う。
わたしは壁より以前に在ったはずだ。働いていたはずだ。わたしは決して壁によって生まれたのではない。わたしは壁によって凝り固っていたに過ぎない。
壁は崩れた。
つくったはずの人間たちの手によって壊された。
人々は壁のあちらとこちらを自由に行き来できるようになり、人も物も文化も、好き勝手に動き回った。
人間は行き交い、物流は激しさをきわめ、文化はときに細切れにときに大胆に混淆しあい、変化の目まぐるしさはかつてないほどであったが、壁を失ったわたしは裾野を薄く広く伸ばし、無際限に世界へと広がりながらも、わたしは存在しつづけた。
結局わたしという都市は失われなかった。
ところで、わたしの名前はなんであるか。
わたしという一つの都市は、その名の下に失われないのだろうか。
けれど名前はその時代々々で変わるのだし、名付ける人間が現れたと思ったらすぐにまた消えてしまうので、名前を持ち去られたり奪い取られたりするのにすっかり慣れてしまって、どれもこれもわたしと言う気がしない。
名前が変わってもわたしは変わらずわたしなのだろうか。それとも名前が変わるとわたしも変わってしまうのだろうか。次々と名前が変わってもわたしが失われないのならば、名前とは何なのだろう。
どうやらわたしのうちに蠢く人々のほうは、昔からさほど変わらない。
生活様式はまったく文明的で、技術から風俗からなんでも進歩的になったが、人間たちの生きていく様はさほどには変化がないようだ。バルバロイの頃のようには攻めてこなくなったかもしれぬと思い出すばかりである。
人間はまだこれだという名前をつけてくれないが、欲を言っても仕方ないから、生涯この人間たちと、幾多の名を持つ無名の都市として終わるつもりでいる。
けれど寂しくはない。
わたしは、いまやひとりではない。わたしは土地に根づいておってここより他に動くことはできぬ。それゆえにかつてわたしと他の都市を繋いでいたのは道とその上を行き交う物流と人間たちであり、それらの動きがわたしを変化豊かな都市として彩っていた。
今では世界中に張り巡らされた電子情報網がわたしたちをひとつの私として結ぶ。個々のわたし以上に大きな私の時代になった。大きな家は今では世界そのものといっても良いくらいに大きくなったのだ。
電子情報網は、物を運ばぬが世界そのものを運ぶ。どこにでも世界全部があらわれる。すべての世界がつねにどこにでも現れるということは、世界中のどこでもが等しく均されていくことに他ならない。
各地の都市が同じような光景を持ち、同じような機能を備えつつある。
わたし以外の都市もわたしと同じ機能を持ち、わたしもまたわたし以外の都市の機能を分けもつようになった。ある都市はその都市を代表していると同時に、都市全体を代表している。かつてのように都市ごとに大きな彩りの違いを持たなくなったかもしれない。
けれど都市は都市らしく働けばそれで結構である。人と物と文化が行き交う結節点として都市は在った。わたしは、さまざまのものを少しづつ持っていた。その差が技術的に埋められるようになっただけのことである。
土地にもとづかざるをえない都市は、決してその土地の事情から逃れられない。住む人々も異なるだろう。たとえ電子情報網が優秀であろうと、人と物の流れには偏りが生まれる。
そうして人々が都市で生きていく限り、すべての都市が均され、同じになってしまうことはない。ある程度は均されながらも、それぞれの土地土地で、都市としてのわたしは消え去ることなく働いていくだろう。
けれどそれは都市がどうこうしようとしてどうにかなるものでもあるまい。
せいぜい天に則って、行方をゆだねるのみである。
古代からさまざまのわたしがさまざまの人間たちを抱えてきた。嵐にまかれ、地震で砕け、噴火で灰に沈み、津波で泥にまみれ、戦火に逢って滅びてなお、人々は都市をつくって生きつづける。雑多に、また整然と、大きな道を残しながらも少しづつ手を加えて、おなじ都市で、ちがう都市で。
わたしはわたしの上に次のわたしを重ねる。
幾つもの災いが襲うとも、わたしは幾重にもわたし自身をかさねてゆく。その層のひとつひとつにその時代のわたしがおり、わたしのうちに生きた人々の痕跡が残っていることだろう。
わたしは都市である。
人々が集い暮らすところにわたしは在った。いつでも在り、どこにでも在った。土地を囲う線に、めぐらした柵に、家屋に、城壁に、人々の暮らすどんなところにでも現れる、わたしは都市というしびらぜーしょんだ。わたしは死ぬまで進歩しつづけるつもりだ。
わたしは都市である。
わたし、とは、都市である。
都市をかさねるのがわたしなのだ。
〔了〕