迷ったら月に聞け・外伝~維心
龍族の王・維心は、その強大な力で一族のみならず神の王達に君臨する唯一の存在として恐れられていた。
非情で知られるその王は、1500年前、己の父親をその牙でもって廃し王座に就いた。後、その王は、若いにも関わらず数多の戦をその強大なる気でもって制圧、終結させ、神の世をほぼ手中に治めた。
龍の宮では、王に逆らうこと、すなわち死を意味し、回りに侍る勇気のあるものなど、居なかった…。
維心は、目を覚まして傍らを見た。唯一の妃の維月が、自分に寄り添って眠っている。思わず微笑んでその額に口付けると、また眠りに落ちて行った…。
維心は、北の社で生まれた。
龍族の王であった父、張維と、人であった母、心女の間に生まれた。
生まれ出る時、人であった母は神の、しかも気の強かった子に全ての気を食らい尽くされて命を落とした。
その後、史上稀なるその力ゆえ、乳母も命を落とし掛けて乳をやること叶わず、侍女達も抱こうとして気を失い、ことごとく世話を出来ないという事態になってしまった。
生まれてしばらくは命の気を取ることも出来ない赤子の為に、軍神や父王が、代わる代わる気を補充するという形で子を育てるという、変わった育て方になってしまった。
ゆえに、維心には母も乳母も居なかった。
いつも維心を抱き上げるのは、父王か、気の一番強かった軍神、義明、臣下の洪であった。これ以外の神は、決して維心に触れられなかった。赤子ゆえに、力の調節が出来なかったからだ。相手の命を奪いかねないことが分かっていたので、父王はそれを禁じていたのだった。
維心が10歳になった頃、気の調節も出来、命の気の補充もとっくに自分で出来るようになっていたが、皆はまだ、維心に近付くのを怖がった。
小さな体からは、押さえてもなお溢れ出る気が湧き上り、それ自体にはなんの攻撃性もないのに、皆は寄って来ようとはしなかった。
ある日、維心は庭へ出て鳥を見ていた。
鳥は唯一龍と敵対している種族なのだという。しかし、維心の見ている鳥は、そんな闘気など感じさせずに空を飛んでいる。案外、龍も鳥も同じなのではないか、と維心は思っていた。
「おお、皇子よ、こちらでしたか!」
振り返ると、義明が歩いて来る。維心は笑って迎えた。
「義明!」
義明は、維心の背の高さに合わせて膝を付いた。
「何をご覧になっておられましたか?」
維心は空を指した。
「我は鳥を見ておった」と空へ目を向けた。「あれが龍と敵対しておるとは思えぬ。」
義明は見上げた。そこには、巣へ帰ろうとしているのか、群れになって飛んでいる鳥が見える。義明は言った。
「ああ、皇子、あれはただの鳥でございまするな。」と綺麗な深い青い瞳を見た。「我らの敵対しておるのは、神の鳥でございまする。我らのように人型を取り、大きさはもっと大きく、何より気が全く違いまする。きっと、一目ご覧になればわかりまするぞ。」
「ふーん」維心は言って考え込んだ。「我のように?」
義明は気の毒になった。きっと、皇子は自分のこの、隠し切れない気のことを言っておられるのだ。
「皇子、皇子は王になるべくして、その気をお持ちになったもの。鳥などと比較してはなりませぬ。あれらは、絶対に皇子に敵うことはありませぬゆえ。」
維心は真っ直ぐに義明を見た。
「我は、もっと強くならねばならぬ。主らを守らねば。」
義明は思わず微笑した。これほどまでに素直な子がおろうか。であるのに、なぜに皆は皇子をあれほどまでに怖がって遠ざけるのだろう…。今は、気の制御も、こんなに幼いのに頑張られて出来るようになったというのに…。
「そうでございまするな。我ら、皇子が王になられたら、必ずやお役に立ちまするぞ。なんなりとお命じくだされい。」
維心はこっくりと頷いた。
「では、我を抱いて訓練場へ連れてまいれ。」と維心は義明の首につかまった。「我はこれより、戦う訓練を始めるゆえに。」
義明は笑った。そして維心を抱き上げると、訓練場へと歩き出した。
「では、皇子。本日は何をなさいまするか?」
「気で倒す方法を教えてほしい」と維心は言った。「我はまだしたことがない。」
「ほほう、では、やってみましょう。」
父王、張維が居間の指定席で、肘を付き、そこに顎を乗せて報告を聞いている。
「…で?なぜにあのようなことになったのだ。」
義明は恐縮して張維の前に片膝を付いて頭を下げていた。
「はい、王よ。維心様が気を使ったことがないと申され、我は的を用意し、お手本にとそれを軽く砕いてお見せ致しました。その後、維心様にもと申したところ、本当に軽く気を出されただけであったのですが…何分、初めての事であられて、どこまで破壊されるのか我にも維心様にも分かり申さず…。」
張維はため息をついた。
「山二つ向こうまで貫いたという訳であるな。」と維心を見た。「維心よ、主はまだ気を放出するのは止めた方が良い。今度やる時は、父が同席するゆえ、申せ。良いな。」
維心は頷いた。
「はい、父上。」
しゅんとしている。張維はかわいそう思ったが、仕方がなかった。何しろ臣下達は、それで迷惑を掛けた神々への謝罪に走り回り、対応に追われている。山二つ向こうというと、あと一息で鳥の宮の管轄であった。危うかった…。今鳥と戦争はしたくない。
多分、もう維心の力は軍神達では手に負えまい。張維は、自ら力の制御を教えることを決意したのだった。
それから、維心は格段に父と共に居る時間が増えた。
父が自ら気の制御を教えるようになったからだ。父王から見ても、その気は計り知れなく、とても全開になどさせることは出来なかった。
本気で自分と対峙しようとした時の維心からは、幼いながら、大きな闘気が湧き上り、それは王の張維にも匹敵し、その闘気の一部が出ているだけで宮はびりびりと震えた。これが全開になどなったら、どうなるであろう。張維は、今更ながら、息子の気の強さに驚いた。
維心が生まれて、100年ほど立った頃だった。
まだ幼い龍でしかない維心だが、他に傍に居ることが出来る者が居ないため、いつも父の臣下達と共にいた。そこには父も居た。
酒は飲まなかったが、酒の席にも同席することがあった。その日、維心は父に挨拶をして先に部屋へ戻り、その後寝る前の挨拶をしに戻った時、父の話し声が聞こえた。
それは、自分のことのようだった。
思わず維心は耳をそばだてると、臣下の一人の声が言った。
「…しかし王よ、皇子の気はあまりにも強過ぎて、我らは恐ろしゅうてなりませぬ。」
酒の入っている父は、答えた。
「ふん、あれは予定通りよ。主らが誰よりも強い跡継ぎをと申したのではないか。」
「そ、そうではありまするが…。」
臣下達は戸惑って顔を見合わせた。
「あれは望み通りであろう。ふん、苦労したのだぞ。人の女というのは、神の子を生めば死ぬ。知っておる者も多いゆえ、生ませるのは大変であったわ。あの女は知らずにあれを生んだ。そして死んだのよ。だが、望み通り、最強の龍が誕生した。これ以上のことはあるまいて。我はこれで、主達に跡継ぎをと追い掛け回されずに済むわと、心底ホッとしたものよ。」
そう言うと、また酒を煽り、高らかに笑った。それを見た義明や洪は顔を見合わせている。維心は、あまりのことに我を忘れ、その場へ飛び出した。
「皇子!」
義明が叫ぶ。父はチラッとそちらを見たが、フンと横を向いた。それを見た維心は、一目散に駆け出した。
母は…母は我を生んで死んだ。我が殺した。そして父は、それを知っていて、ただ我という跡継ぎが欲しいだけで、母に我を生ませた。見殺しにしたんだ。そして…そして臣下達や侍女達は、我がそんな子だと知っていたから、あのように傍に寄りつかなかったのだ。我が、母を殺したような皇子であるから!
維心は、庭の奥にある池の傍に身を投げ出して泣いた。母がなぜ死んだのか、誰も教えてくれなかった。ただ、我がまだ幼い頃に亡くなったのだとだけ聞いていた。でも…そうではなかった。我は、生まれ出た時にこの気で母を殺したのだ。
父が、憎かった。分かっていながら、母に何も知らせずに、我を生ませて死なせたなんて。ただ、自分が臣下にうるさく言われたくないがために。我は…我は何も知らなかった。母上…。
義明が、維心を探して庭先にやって来た。
「皇子…。」
維心は顔を上げなかった。義明が我に優しかったのは、ただ父の機嫌を取りたかっただけなのか…。
「皇子」義明はもう一度言った。「王は酔っておられるのです。普段はあのようなことをおっしゃるかたではありませぬ。皇子がこうして傷つかれるなど、きっと思ってもおられないのでしょう。」
維心は、ゆっくりと起き上がった。
「…でも、あれは真実であるな。」
義明は言葉に詰まった。維心はさらに言った。
「答えよ、義明!」維心の目は、青く光っていた。「主は知っておるはずぞ!」
義明は鳥肌が立つのを感じた。戦場でも、これほどの畏怖を感じたことはない。これほど幼い龍に問い詰められ、この軍神筆頭の我が恐れるとは…やはりこのかたは最強の龍であるのだ。
義明は頭を下げた。
「…恐れながら、皇子よ。真実でございまする。」
維心は、それを聞いて、しばらく義明の目を見て小さく震えていた。しかし、次の瞬間、維心の表情が変わった。義明はそれを見てゾッとした。
ー殺意が、感じ取れたのだ。
この龍に狙われたら、間違いなく生きてはいられない。義明の本能はそう告げていた。維心は、義明にふいに背を向けると、一言、言った。
「…戻る。」
義明は頭を下げた。
そして、いつか来るだろう時を、その背中の決意に感じ取っていた。
維心は、200歳に成長していた。
龍は人より成長が遅く、見た目の年齢は人の20歳ぐらいのそれであった。
ここに至るまで、数々の戦に出てその力を見せつけ、近隣の宮で龍に刃向うものは、鳥以外に居なくなった。
その、決定的な出来事となったのが、数年前の暗殺未遂事件であった。
父の結界を難なく抜け出て来たその軍神の一団は、最強の龍を暗殺しようと、維心の対へ近付いていた。
しかし、維心は自分の結界を自分の対に張っていた。その結界を破ることの出来なかった軍神は、そこで立ち往生した。
「なんと…これはどうしたこと。内部にも結界があるとは聞いておらぬ。」
「気付かれたか…退くか?」
月の光に、フッと影が差した。軍神達は慌てて振り向いた。
「ほう、帰れるつもりでおるのか。」目が青く光っている。寝間着姿の龍が、刀を一本担いだ状態で浮いていた。「我を殺したいのだろう?試してみよ。」
宮の軍神達が異変に気付いて駆けつけた時、侵入した軍神達は一太刀も振り上げられぬまま、ただ逃げまどい、許しを乞う姿がそこにあった。が、しかし、維心は一人残らず惨殺した。返り血は一滴も受けて居なかった…それを考えて斬っていたのだ。
宮の軍神達は、その姿にだた震えるばかりでそれを見ていた。維心はこちらを振り返ると、言った。
「…役に立たぬ者どもよ。これの始末をしておけ。我は休む。」
冷たいその目は、とても抗えない力を思わせ、軍神達はただ膝間付いた。これが次の王となるとは…。しかし、王と頂けば、これほど心強い者はないのも確かであった。
その日は、晴れ渡っていた。
父は、近隣に並ぶ者のない龍族の王であった。誰一人父を討つことは出来ず、それは維心が参戦せずとも同じであった。
維心は、力が満ちるのを待っていた。100歳のあの時は、確かに力はあったが、制御する能力に欠けているのはわかっていた。
だから、満ちるのを待ったのだ。今の自分は、間違いなくこの宮最強だ。それは、誰が見ても明らかだった。皆は父の言うことより、今は自分の言うことを聞く。力社会の神の世で、それは至極当然のことであった。
庭へ出ていた父より呼び出され、維心はそこへ行った。
「来たか。主、かねてより我に話したい事があると申しておったの。今、聞こうぞ。」
維心はついに来たと思った。100年前のあの日より、ずっと聞きたいと思っていた。だが、まだ時は早いと先送りにしていた。今こそ、聞かねばならぬ。
「…我の母のことです。」維心は言った。「父上は、覚えておられるのか。」
張維は顔をしかめた。
「はて」と横を向いた。「200年も前に1年ほど共に居たきりであるからの。」
維心は怒りが沸き上がって来るのを感じた。もしかして、と思っていた。もしかして父が、本当は母を愛していたのなら…。力の強い跡継ぎを、生ませる道具として扱っていたのではないのだと、知る事が出来たなら…。そう、まるで使い捨てのように、我を誕生させるためだけに、生ませたのでなければ、維心はこの父を、これ以上恨まずにおけるのかも知れぬのに。
「…では、やはり我を生ませるために、死するのがわかっておられて、妃にされたのか。」
張維はこちらを向いた。
「王とはそういうもの。一族のために、人の女一人が何であろうか。そのような考えで、主は本当に我の跡を継げると思うておるのか、維心よ。」
維心は我慢がならなかった。
そう、もうずっと我慢して来た。この父を恨むあまり、どれほど訓練を積んだであろう。母は…我を生んだ。どんどんと気が失われ、その時どれほどに恐ろしかったであろう。まさか苦労して生んだ我が子に殺されるなど、思ってもいなかったのだ。
維心は龍身を取った。父を殺して、母の仇を討つ。
父はまるで太陽を見るかのような顔をして、龍身の自分を見たが、すぐに自分も龍身を取った。
維心の気で、大きく宮が揺れ、バリバリと外壁が剥がれ、飛ばされて行った。回りの木々もなぎ倒され、渦を巻いて空中へ飛ばされて行く。維心は早く済まさなければと思った。自分の闘気は、回りを巻き込んでしまう。
父も抗っていたが、所詮維心の敵ではなかった。維心は易々とその懐に入り牙を突き立てた。
義明の声が叫ぶのが聞こえる。
「皇子よ!なりませぬ!」
ー聞けぬわ!
維心はそのまま、父の喉元を食い破った。激しく血が吹き出し、気も一気に失われて行く。何をやっても、もう助からぬ。
父は人型に戻り、地に落下した。
振り返ると、宮は自分の闘気で上半分が吹き飛んでいた。維心は人型に戻り、父の血で真っ赤に染まったまま、無表情に父を見下ろした。
慌てた臣下達が次々に宮から飛び出して来る。そして、口々に叫んだ。
「王!王よ!」
張維は、既に息はなかった。洪も、義明も維心を見上げた。維心はただ、黙ってそこに立っていた。
義明が、前に進み出て、頭を下げた。
「…我が王よ。ご命令を。」
維心は、ハッとして顔を上げた。他の臣下達も、皆それに倣って維心に額付いた。
「…葬儀の準備を。」
全員が一斉に頭を下げた。
「ははっ!」
維心は、部屋に戻って血を洗い流した。これで我は、母を殺し、父を殺した大罪人だ。そして我は、これからこの一族を守らねばならぬ。何もかも、独りでやり抜かねばならぬ!
父の葬儀は、宮の破壊もあり、内々でひっそりと行なった。宮の再建を命じながら、あれによって亡くなった龍たちも弔い、維心には何の引き継ぎもなくいきなり政務は始まった。
義明も洪も、維心がなぜそんなことをしたのかわかっていた。
軍神筆頭の義明が従うことで、臣下達に異論は出ず、ただ恐ろしい王と頭を下げるばかりで、宮に混乱は出なかった。
洪は根気強く政務を教えるつもりでいたが、思いの外維心は覚えが良くまた勘も良く、すぐに手は掛からなくなった。
そして、初めて神の会合へ赴く日が来たのだった。
「神の名と領地は、お渡ししたものに書いてございます。」
洪が出発する維心に言った。
「昨日のあれであるな。あんなもの、我は昨日覚えた。」
洪は驚いた。小さな神も入れれば、会合に出るのは300以上ある。だが、維心は虚勢は張らない。本当に覚えたのであろう。
「後は顔を覚えるのみでありまする。特徴は義明に聞かれましたね。」
維心はうるさそうに手を振った。
「全て覚えたと申すに。行って参る。」
洪は、軍神達に供をされて飛び立って行く維心を、気遣わしげに見送った。
会合の地は、今回は鳥の宮であった。
維心がここへ来るのはこれで二度目で、前は父と共に来た。
維心がそこへ降り立つと、回りの神々が色めき立った。
これが、父を食い殺して王座に就いた龍ー。
維心にはその囁きが聞こえたが、元よりそれは覚悟していたこと。それに、それは真実だった。義明が回りを睨み付け、その囁きは止まったが、会合の間へは一人で向かう決まりになっている。維心は義明を振り返った。
「ここからは供は要らぬ。」
義明はためらった。
「ですがせめて、戸の前まで…」
維心は遮った。
「良い。我は子供ではない。王よ。」
義明はそれ以上は言わず、頭を下げて見送った。
会合の間に入ると、そこには維心の席もあった。が、常父王が座っていた上座ではなく、下の神達が座るまとまった席に、用意されていた。
維心は振り返り、上座に座る鳥の王、炎真を振り返った。
「我をここへとは、随分と思いきったことをしたものよ、炎真殿。」
炎真はフンと笑った。
「父を討つような王、そこで充分よ。それが許されたら、皆我も我もと神の世は大混乱に陥ってしまうわ。そんなこともわからぬのか。」
炎真が声を立てて笑ったので、他の神もそれに続いた。維心はフッと笑った。炎真はムッとした顔をした。
「何がおかしい。」
維心はそちらへゆっくりと歩きながら、言った。
「王とは、一族の頂点ではないのか。子に討たれるのを恐れるとは、鳥も大したことのないものよな。」
炎真は憤った。
「たわけ!主など父の油断で王位に就いた童。所詮ここにおる神の名も分からぬであろう。」
維心は炎真の回り、一人ずつを見て、名を呼び始めた。
「…そして、西の虎、蓮殿。主、確か我の父と競うほどの腕前であるよの。」
蓮は真っ赤な顔をして立ち上がった。
「…それがどうした!」と腕を振り上げた。「痛い目を見なければ分からぬようであるの!」
維心はそこに立ったまま、飛び掛かって来る蓮の胸を軽く手の先で突いた。
「ぐ…っ!」
蓮はそこへくずおれ、動かなくなった。
「蓮殿…!」
隣に居た神が慌てて駆け寄る。維心は言った。
「心配は要らぬ。死んではおらぬわ。殺しては会合も出来ぬであろうが。」と、振り返った。「席が空いたの。」
そこへ座ろうとする維心を、炎真が怒鳴って止めた。
「そのようなこと、許されると思っておるのか!」
維心は炎真を振り返った。
「許す?」その目は青く光を帯びていた。「主などに許しを乞う必要などない。我は龍族の王よ。何者にも指図は受けぬ。異論ある者が居ると言うなら、ここで全て消してしもうたら良いゆえに!」
ドンッという音と共に、維心から闘気が沸き上がった。その勢いで、その部屋の天井は一瞬のうちに無に帰した。
それでも、それが充分に抑えられた気であることは、そこに居る誰もがわかった。部屋の壁もびりびりと震え、剥がれ始めている。炎真は悟った。これは、化け物よ。
そこに居合わせた神の王達全てが、その力に遠く及ばないことを思い知った。普段決して頭を下げない王達が、一人、また一人とひれ伏して行く中、炎真は決して頭を下げぬと歯を食いしばった。これは我一人の命のことではない…一族皆の命運が掛かっている。我に続く王の、立ち位置が変わってしまう…。
維心はフッと笑うと、闘気を消し、蓮の席へ座った。
「騒がせたの。会合を始めようぞ、炎真殿。」
炎真は頷いた。そしてその横顔に思った…化け物を遺しおったか、張維よ。
会合が終わって戸が開かれると、前で待ち構えた各王の臣下達が、一斉に振り返った。中で何事かが起こっているのは分かっていたが、そこへは王以外何人も踏み込んではならぬ決まりになっているのだ。
上座の王から順に退席する習わしになっている。皆は固唾を飲んで見守った。
戸が開いて真っ先にそこへ現れたのは、龍族の王、維心であった。張維が亡くなった後、筆頭で出て来るのは炎真だと誰もが思っていたにも関わらず、維心は一人、先頭に立って歩いて来た。その後を、炎真が他と目を合わさず歩いて来る。
それを見た義明が、慌てて王を出迎えに走った。
「王、お待ちしておりました。」
膝を付く義明に、維心は頷いた。
「帰るぞ、義明。」そして炎真を振り返った。「では、我はこれで、炎真殿。」
炎真は無言で頷いた。維心はくるりと踵を返すと、義明を連れて、そこを後にした。
会合の間は、まるで激しい戦闘の跡のような惨状になっていたが、不思議と怪我人は出ていなかった。虎の王、蓮も、気を失っていただけであった。
回廊を歩く中、義明に、維心は言った。
「龍族の位置は守ったぞ、義明。」
義明は、その背中に、王としての決意を見たのだった。
それからというもの、誰も維心に逆らうことはなくなった。
鳥もなりを潜め、炎真も全く突っかかって来ることがなかった。お互いに諍いを避けるため、あれだけ続いた鳥との戦は、維心の代でまったく無くなっていた。
たまに力を知らない神の小さな民族が戦いを挑んでは来たものの、維心には、一人で全て討ち果たしてしまうだけの力があった。その力を目の当たりにした者は、全てひれ伏して逆らうことがなくなってしまう。
そのため、軍神達もめっきり戦う機会が減ってしまっていた。しかし、平和な世というのは、臣下達にも良い影響を与え、安定した為所帯を持つものが増え、家族も増え、一族の数は増え、繁栄して行った。
維心は、政務のことばかり考えていた。
なので、臣下が維心に婚姻の話を持って来た時は、面倒だと感じた。しかし、それもまた王の責務かと思うと、受けねばならぬのかと思った。父王には、7人の臣下が決めた妃がいた。しかし子を生んだのは、維心の母と、もう一人だけであった。
臣下が相手の姫の話をする間も、維心は心ここにあらずの状態で聞いていた。誰でも同じだ。妃など、所詮飾りに置いておき、子を生ませるだけのものであろう。
維心があまりにも乗り気でないので、婚約の前に対面をということになった。それもまた、面倒であった。
「王よ、曲がりなりにも妃になられるかたでございまする。お迎えに当たりましては、何卒お相手がお心安くありまするように、ご配慮くださいませ。」
維心は面倒そうに手を振った。
「わかっておるわ。」
現れた女は、大層に見目の良い女であった。こちらを恥ずかしそうに見ているが、維心にはピンと来なかった。これが妃の一人になるのか。臣下が愛想良く迎えている。
「遠路はるばるようこそお越しくだされました。こちらが我が王、維心様でございまする。」
その姫は、頭を下げた。
「玉蘭と申しまする。」
維心は軽く返礼した。これが自分の回りをうろうろするのかと思うと、うっとうしく感じる。部屋は我から離れた所へ設えさせるか。
維心が何も言わないので、臣下はやきもきした。
「…王よ。一度お庭にでも出られたらいかがですか?」
維心は眉を上げた。何を言っている。
「庭になど、今はこの間の後始末に庭師が掘り返している最中ではないか。」
この間とは、維心が臣下にキレて爆破した岩のことだ。あれは撤去するよりないと、工事中であったのだ。臣下はしまったという顔をした。
「いえ、ですから中庭ではいかがでしょう。」
維心は仕方なく立ち上がった。
「…参る。」
相手はどうしたものかと臣下を振り返り振り返り、こちらを振り返りもしない維心に付いて歩いて行った。
臣下はため息をついた。王は、大丈夫なのであろうか…。
黙って歩いている維心に、玉蘭は話し掛けた。
「維心様は、こちらへよく出られるのですか?」
維心は振り返った。
「いや。我は庭になど出ぬ。政務が忙しくて、暇がないゆえ。」
そして、また歩き出した。玉蘭は取りつく島のない様子に困り果てた。このかたは、本当に妃に迎えて下さるおつもりなのだろうか。
「あの…我は、こちらの中庭が気に入りましてございます。」
維心は驚いたような顔をした。
「…それは何よりだ。」
維心には、それ以上なんと言っていいかわからなかった。相手が何を言いたいのかもわからない。女とは、なんと面倒なことよ。政務が山積しておるというのに。
「お子様の頃は、乳母などに連れられてこられたのではないですか?」
維心は首を振った。
「いや。我には乳母はおらなんだ。気が強過ぎて…」
維心は顔色を変えた。そうだ。我は気が強い。どうして今まで、それに気付かなかったのだろう。我は、触れただけで乳母を、侍女を殺し掛けたのだという。間違いなく、気の拡散が起こる婚姻に、普通の女が耐えうるはずはないではないか。殺すか廃人になるか…とにかく、良い結果にはならない。
維心は、玉蘭を見た。
「この婚姻は、受けられぬ。」
相手はびっくりしたような顔をして涙ぐんだ。
「…何かお気に召しませんでしたでしょうか…?」
維心は頭を振った。
「…主は、死にたくはないであろう。我は気が強い。乳母も侍女も、赤子の我に触れただけで死にかけたほどよ。我を育てたのは父王と軍神筆頭であった。よう考えたら、主など一溜りもないわ。」
玉蘭は袖で口を押えて声を上げた。
「ひっ!」
維心は、くるりと踵を返した。
「手間を取らせた。臣下には重々申しておくゆえに。」
自分の居間へと戻りながら、維心はなぜかホッとしていた。そうだ、自分は尋常ではなく気が強い。これであんな面倒なものを抱え込まずに済むではないか。とりあえず、臣下は、何の配慮もなくこんな話を持って来たとして罰しておこう。
それからも臣下達は性懲りもなく気の強いと思われる候補を見つけて来ては、維心は庭を歩いたが、維心が見た所、そう、見ただけでもわかるほど、気に耐えうるものなど居なかった。考えてみても、王や軍神筆頭しか耐えられなかったような気を、か弱い女が耐えられるはずはないのだ。
臣下には言わなかったが、中には確かに自分の気に耐えうるかもしれぬと思われる女も居たには居た。だが、それを傍に置くということがまずピンと来なかった。なので、やっぱりこれでも無理だと突っぱねていた。
維心は、もう無駄な時間を取られたくなかった。ので、これ以上候補を連れて来たら無条件で罰すると触れを出した。
それでも、その頃にはもう、代の変わっていた臣下達は懲りもせず、部屋に女を忍ばせていたり、侍女にとうそぶいて見目の良い女に寄り添わせたり、ありとあらゆる手を尽くして、跡継ぎを作れと圧力をかけて来たが、維心はかえってその気が失せた。
我は最後まで、独り身でおる!
なぜか頑なに、維心はそう思っていた。それほどに臣下達がうるさかったのだった。
維心は、地を広く見渡した。
王座に就いて1500年、誰も自分に抗えなくなった。唯一文句を言う炎嘉も、煩わしくはない。こうして安泰の世を作ったが、自分はいつまでこれを守ればいいのだろう。
なんだか退屈な…と思っていたある日、おもしろいものが自分の結界にかかった。
「…ほほう、珍しいの。」
維心は久しぶりに興味がわいた。そして、滝の方へと出て行った。
そこには、人型の月とその当主が居た。噂には聞いていたが、見るのは初めてだ。よし、こやつらに若月の事を何とかさせようぞ。維心はいつもとは違う人型にわざと扮して、月と当主に向き合って話を付けた。
その後ろ姿を見送って、思った。当主は素直だが月は愛想のないことよ。まあ、我も人の事は言えぬがな。
そして、動向を見守った。
それからというもの、月と接する事が増えた。
思ったより月は何も知らぬ上に、当主と同じように素直であった。何かあるたびに自分に聞いて来るので、退屈しのぎにはなった。そして、なぜか自分は月を、その眷族を、捨て置くことが出来なかった。気になって仕方がなかったのだ。
…そして、ある日飛んで来た、月の妃である維月の、助けを求める念を受け取って、維心の心は大きく変わって行く事になる…。
愛するということを知った。
その苦しみと、受け入れられる喜びと、慈しむ幸せ、子をなす喜び…。
そして、恐怖を知った。
あれほどうっとうしいと思っていた、常回りに女が居るということが、逆に維月が居らねば何も手が付かぬほどになった。
そして、五人の子をもうけ、今に至る。
王座に就いた時には思いもしなかった幸福が、今自分の手の中にある。
目が覚めた維心は、手を差し伸べた。
「維月…。」
維月は振り返って微笑んで、こちらへ来た。
「維心様?珍しくよくお休みのようでしたから、お起こししませんでしたの。」
「夢を、見ておった。」
維心は維月を、寝台の上へと抱き寄せながら言った。維月は素直にそれに従いながら問うた。
「まあ。何の夢でございますか?」
維心は微笑んだ。
「子供の頃からの夢よ。」と維月に口付けた。「もう遠い夢であるな。今は、主が居ればそれでいい。愛している。」
維月はびっくりしたように目を見開いたが、微笑んだ。
「まあ、眠る前もそのように言っておられたのに。」と首に手を回した。「私も愛しておりますわ。」
「知っておる。」
維心は維月を抱き締めて、愛し合う今を幸せに、心に刻んだ。