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time to believe now 8

敢えて少しだけネタバレ。ひかるちゃんは良い子(・・・)です。

 一月二十八日 金曜日 放課後




 ――キーンコーンカーンコーン……


 終業のチャイム。

 本日の学生としての使命は果たされた。明日までしばしの休養だ。

 六時限目は、担任の広瀬川先生の現文だったので、チャイムが鳴ってすぐに帰りのSHRが始まった。今日は最速ルートになりそうだ。掃除当番じゃないし、クラス委員の仕事も無い。部活は……行けない状況が続いているしな。


「……こんなところかしら。じゃあ今日はこれで終了です、お疲れ様でした」


 広瀬川先生の解放宣言と共に、生徒たちは三々五々散っていく。

 俺もそれに倣い、急ぎ足で教室を出た。

 急ぐ理由はもちろん待ち合わせの場所へと向かう為だ。

 俺は屋上の昇降口を目指して、階段を駆け上がっ……てはいけないので、歩き上がる(?)。

 屋上へと出る扉前の踊り場が待ち合わせの場所。校舎は三階建てなのですぐに辿り着けた。しかし、水沢ひかるの姿はまだ無い。

 考えてみれば、別に急ぐ必要はなかったのでは?

 俺は何を(はや)っているのだろう。


「…………」


 しばし思案。

 ……そうか、これは嬉しいんだ。水沢に会う事が……と言うよりは、人と関わり合う事が。

 俺は基本的に、狭いコミュニティの中で生きている。

 父さん。

 トラ。

 ミケ。

 美作先生。

 (時々)従姉の瑞穂さん。

 親しい人の名を挙げろと言われて、出てくる名前はこの五人だけ。親類を除外されたら三人。美作先生とプライベートでの付き合いは無いから実質二人。

 ……二人、か。

 改めて凹むな……。

 そんな俺が高校生活に馳せた想いは、もちろん友人を作るという事。しかし、今のところの結果は言わずもがな。要するに、俺はコミュニケーションに飢えていた。だから、どんな形だったとしても、人と関わり合いになれる事が嬉しく感じてしまう。

 だから今回、水沢との関わり方如何によっては、その後に彼女と友人関係を結べるのではないかと、勝手な期待を膨らませてしまっていた。


「……これも、下心……かな?」


「――ちょっとアンタ、変な事考えてるんじゃないでしょうね……?」


「え?」


 いつの間にか水沢がそこに居た。

 そしてその顔は警戒の色。

 ……いきなりしくじったか?


「あの……ね、この際ぶっちゃけるけど、私はアンタの事が少し怖いの」


「う……」


「本当は、こんな人気の無い場所で二人っきりだなんて、嫌でしょうがない」


「そ、そこまで……」


「私は、因幡君の事は何も知らない。知っているのは噂だけなの。もし、アンタが噂通りの人間なら、私は何をされるか判ったもんじゃない」


「な、何もしないって……」


「なんで私がこんなヤバい真似してるかって事」


「…………」


「それでも知りたい事があるの。言ってる意味、解るよね?」


 ――ママは何処に居るの!?


 水沢は、それだけ母親に会いたいって訳か……。さっきまでの考えは却下だ、ここからは則天去私で行こう。


「俺の手……縛っとくか?」


「はあ?」


「俺が怖いなら、そうしとけば安心して話せるだろ……?」


「…………」


 彼女は黙り込む。縛るかどうかを悩んでいるというよりは、バツの悪さを表情で示していた。


「……べつに、いい」


「そうか、ありがとう」


「なんのお礼よ……」


「ま、とにかく本題に入ろう。水沢が訊きたいのは、俺が君のお母さんを知っているかどうか、だろ?」


「そう、ね。アンタは前、知らないって言って逃げた」


「う、ま、まあ、そうだったな」


「今日も同じ答え?」


「もし、『そうだ』って答えたら?」


「ふざけんなって、ひっぱたく」


「…………」


 また?

 いやしかし実際問題として、現時点での俺は、水沢の母親の事を何も知らない。水沢が最終的に求めてくるであろう「母親の居場所」は、どう転んでも俺には提供できない情報だ。


「因幡君は、私のママの事を知っているわ。間違い無くね」


「え?」


 俺をジッと見据える水沢の真剣な瞳には、確信のようなものが窺える。


「なんで、そう思う?」


「……月曜日のあのやり取りの時にさ、因幡君、私のママが夜の仕事をしているかって訊いたでしょ?」


「あ、ああ、あれは言い方を間違えたんだ、すまなかった」


「それはいいから。……私が否定したら、アンタは、なら自分は関係ないって返した」


「……だったかな」


 細部は違えど、そんなやり取りではあった。


「それってつまり……その……私の……」


 水沢が急に口籠りだす。言い難い事を言おうとしている感じだ。こういう時は急かさずに待った方がいい。


「つまり、私の……ママが……」


「…………」


「……ッ、私のママが夜の仕事してたら、アンタに関係あるって事でしょ!?」


「……それって」


「そうよ! してたのよ! だからアンタはママの事を知ってるって思ったの! さあっ、知ってる事を教えなさいっ!」


「み、水沢、声が大きい、あんまり人には聞かれたくない事なんだろ? 少し落ち着いてくれ」


「んぐ……わ、解ってる……」


「水沢、お母さんの写真とか見れないかな?」


「ッ! あ、あるよっ、いつも持ち歩いてる。み、見てっ……」


 彼女は焦ったように、トートバッグからポーチを取り出した。ポーチを開けようとする手は震えており、なかなか中身を取り出せないでいる。想像するに、母親の手掛かりが得られるかもしれないという、期待と不安によるものだろう。


「こ、これっ……どう、知ってる? 知ってるんでしょ? ねえ!?」


「だから落ち着いてくれ。今確認するから……」


 ラミネートが施されたブロマイドのような写真。

 そこに映っているのは一組の母娘だった。

 幼い頃の水沢と思しき少女を、後ろから抱きしめている女性。

 それが水沢の母親。

 そしてそれは――俺が先週の土曜日に商店街で目にした女性だった。


「…………」


「ねえ! どうなのっ!」


 可能性は高いと思っていた。しかし、違っている事を望んでいた。


「ああもうっ、だからどうなのよ!?」


 水沢の顔を見ると、そこには明らかな期待。俺が「知っている」と言い出すのを、心から待ち侘びているようだ。

 ……ああ、知っている。

 俺は水沢の母親を知っている。

 けど、そこに希望は無いんだ。

 水沢は――もう母親には会えない。


「何よ……え? うそでしょ? 違ったの?」


 水沢は俺の顔色で判断をしたようだ。違ってはいないが、それをそのまま伝えない。この場合の答え方は考えてきた。


「水沢は、俺が精神科に掛かってる理由は知ってる?」


「ちょっと、なんで身の上話を始めちゃってるのよっ」


「いいから聞いてくれ。それはな? 幻覚を起こすからなんだ」


「だ、だから何……?」


「それは、例えば過去にあった事のフラッシュバックだったりする」


「…………」


「俺は憶えていないけど、たぶん俺は小さい頃に水沢のお母さんに会っているんだと思う。想像だけど、そのときに君の話が出たんじゃないかな。俺はその時の出来事をフラッシュバックした。そこをたまたま水沢が見かけて、そこでたまたま『カルチョ』と『ミスミソウ』って言葉を俺は口にした。そういう事なんだと思う」


「……だから、因幡君は、ママの居場所を、知らない?」


「ごめん、やっぱり力にはなれない」


「…………。ふぅぅぅ……」


 水沢は力無く床へと座り込んだ。期待が大きかっただけに、失望も大きいのだろう。

 かく言う俺の方もそれなりにダメージがある。もし結果が違っていれば、他力本願だが、父さんの力を借りて探すという手段も、講じる事が出来ただろう。

 しかし、水沢の母親はもうすでに亡くなって……いるのか? 

 ちょっと待てよ? 

 今気づいたが、亡くなっているのに訃報が無い、というのはどういう事だ?

 この国ならば、ほぼ間違いなく遺族に訃報が届く筈。届いていないという事は、人知れず亡くなって、未だに発見されていないという事になる。いや、もっと根本的に、そもそも死んでいないから訃報が無い、と考えるのが自然。

 だったら、俺が遭遇したあの女性はやっぱり幻覚? 

 ……判らなくなってきた。


「むむむ……」


 水沢は八年前だと言っていた。この水沢母娘が映った写真が、最も新しいものだとするなら、俺が見た水沢の母親の姿は八年前のものだ。もし、彼女が葉山ことりと同じ存在なのだったら、亡くなったのは八年前だと考えられる。

 という事は、だ。

 水沢の母親は失踪直後にはもう……? 

 いや、逆か? 

 それこそが失踪の理由なのか?

 つまり、水沢の母親は――殺されて隠ぺいされて……?


「……ぇ、ねぇっ。ねえってばっ!」


「――ハッ、あ、すまん、何だ?」


「なんでアンタがボーッとしてるのよ。……いい? この話、言いふらすんじゃないわよ?」


「あ、ああ……大丈夫だ、俺にそんなネットワークは無い。この学校で、俺の話をまともに受け止めてくれる奴なんていないさ」


「……そっか、因幡君て避けられてるんだっけ……そっか」


 そうだけど、そんな納得されるのも辛いぞ。


「じゃあ……いっそ、話を聞いて貰おっかな……」


「え?」


「ママの話、してもいい? もう長い事、ママの事を話題になんてしなかったから……さ」


 意外な展開だ。……いや、そうでもないか。これまで母親についての話をしていたんだから、その間に恋しさが募ってしまったのだろう。

 聞き手に俺を選んだのも、この先関わるつもりのない赤の他人だからと思われる。


「聞かせてくれ」


「……いいの? わりと長いかも……」


「いいよ。忘れてしまいそうで怖いんだろ?」


「えっ……?」


「話したい事があるのに我慢するのは、とても心の負担になるんだそうだよ。思いの丈を言葉に変えるという行為は、精神に安定をもたらす。その理由は様々で、水沢の場合は、薄れてしまいそうな母親との思い出を、言葉にする事で明瞭化し、『母親が居ない』という現状の淋しさに抗おうとしているんだと……あっ」


「…………」


「う、す、すまない、俺は何を偉そうに……。そ、その……今のは、主治医の受け売りで……つい……」


「主治医って、精神科の?」


「あ、ああ……」


「ふーん……。精神科って、そういう話されるんだ?」


「ホントごめん。話すのはそっちで、俺は聞く側だった」


「まあ、いいけど……それなりに当たってるし……」


「ん?」


「確かにそう。誰ともママの話をしないから、忘れてしまいそうなのよ、ママとの思い出」


 気持ちは解る。俺も、この十年で、母さんに関するほとんどの事を忘れてしまっていた。


「私の記憶では、ママはとても明るくて、今にして思えば、とても子供っぽい人だったと思う」


 確かに。俺もそんな印象だった。


「もう言っちゃったから話すけど、ママは昔、いわゆるキャバクラで働いてたみたい。そこへ客で来たパパに見初められて、ゴールインしたらしいの」


 まあ、ありがちと言えば、ありがちな話だ。


「でもね? 私の歳から逆算するとさ、ママ、その時どう考えても十代なのよ。……キャバクラってお酒飲むトコだよね?」


 それもまあ、ありがちと言えなくはない。……トラも十六でホストやったし。


「結婚もデキちゃった婚だったみたいだし、破天荒な人なのね」


 なんか随分ぶっちゃけるなぁ、水沢。あと、その破天荒の使い方、実は違うの知ってる?


「周りの評価はどうだか知らないけど、私にとっては世界最高のママだった。……ママは私にくっつくのが大好きでね、『カルチョ~抱っこさせて~』って、すぐに抱き付いて来るんだ。だから私、抱っこをねだった記憶が無いの」


 そう言われて写真へと目を戻す。そこには、満面の笑顔で娘を抱きしめる母の姿があった。


「そうそう、ママは私の事を『カルチョ』って呼ぶのよ。『ひかるちゃん』の進化形なんだって。後にも先にも、私をそう呼ぶのはママだけ。パパはひかるって呼ぶし」


 ひかるちゃんの進化形がカルチョ。どうやら水沢の母親は、独特の世界観を持っているようだ。


「そんなママが好きだった花が、例の三角草ってわけ。ママは草花に詳しくてさ、ハイキングなんかに行くとあっちこっちに道を逸れて、私にいろんな花を見せようとするの。だから私、『ママの一番好きな花が見たい』って言ったのよ。そうして見せられた花は、とっても地味な花だったわ。知ってる? 三角草って日陰に咲くような花なのよ。なんでこんなのがいいのか聞いたらさ、雪の下でもしっかりと葉を緑にする健気さが好きなんだって。三角草は雪割草とも呼ばれているの」


 雪割草、か。そっちのが聞き覚えがあるな。


「ママは居なくなる前に、故郷の三角草を私に見せてくれるって約束したわ」


 ――三角草が咲く前に!


 あの水沢の母親だと思われる女性の言葉が、俺の頭を過った。


「その約束は……まだ果たされてないけどね……」


「…………」


「まさか、前触れもなく居なくなるなんて……」


 それまで穏やかに話をしていた水沢が、張り詰めた表情を表す。

 美作先生に倣って聞く事に徹してきたが、雰囲気が変わったのをきっかけに、口を挿んでみる事にした。


「警察には?」


「もちろんパパがすぐに届けたわ。でも、今まで何も情報は無し。パパも、最初の頃こそあちこち探しまわってたけど、今はもう諦めたみたい。……しかも、再婚とか言い出してるし。信じらんないよ……」


「再婚? 水沢のお父さん、再婚するの?」


「……さあね、私はそんなの許す気無いし」


「…………」


「なによ、何か文句ある?」


「そ、そうじゃなくって。……お父さんは、その……お母さんの事は、もう亡くなっているものと?」


「なっ!? ちがっ、違う! 探すのを諦めたの! ママは死んでなんかないっ!」


「だ、だが……」


「なによっ! アンタは死んだと思ってるの!? ふざけたこと言わないで!」


「あ、いや、俺は……」


 ……そう思っていた。

 水沢の父親が再婚すると言うのなら、水沢の母親との婚姻が解消されていなければならない。という事は認定死亡を……いや、八年経っての再婚だから失踪宣告の方かもしれない。そのどちらかを請求した筈だ。ならば水沢の母親は、すでに法的に亡くなっているのではないだろうか。

 水沢はそれを伝えられていないのか?

 いや、再婚を切り出すくらいだから、父親から説明されていて然るべきだ。しかし水沢は……


「ママは絶対に生きてる! 私が必ず見つけるわ!」


 ……この剣幕。

 必死に現実を拒絶しているのか、それとも心から生存を信じているのか。

 俺はどうするべきだろう。

 彼女に同意して希望を持たせる?

 だが俺は、彼女の母親の死を確信してしまっている。ありもしない希望を抱かせるような真似なんて、俺には出来ない。

 ならば水沢を諭すか?

 どんな奇跡が起きようとも、君の元に母親は戻らない、と。

 ……果たしてそれは、俺のやるべき事なのだろうか。出会って間もない俺がやっていい事なのだろうか。


「俺は……水沢のお母さんはもう亡くなっていると思う……」


「!? な……な……」


 気が付けば俺はそう口にしていた。どうやら、頭よりも先に心が行動を起こしたようだ。


「ご家族は……お父さんは、もうそれを受け入れているんじゃないかな」


「ッ! そ、それはっ……!」


 水沢の反応からして、やはり父親は話しているようだ。という事は「現実を拒絶している」が正解か……。


「水沢、現実を受け入れるべきだ。そうしないと、いつまで経っても前に進めな……」


「うるさあああいっ!」


 パァァンッ!


 彼女は俺へと一気に詰め寄り、強烈な平手を浴びせてきた。これで二度目になるが、一度目の時よりもずっと強い衝撃だ。


「いつっ……」


 かなり効いた。

 左の頬が一瞬で熱を帯びる。

 俺は思わず後ずさったが、それでも何とか体勢を整えて水沢と視線を絡めた。彼女は、目に涙を溜めて、こちらを睨んでいる。一方の俺の方も左目に涙が滲み、僅かに視界がぼやけていた。


「証拠は!? ママが死んだって証拠があるの!?」


 証拠は……提示出来ない。

 俺の中にある確信と確証は、俺の中でしか意味を成さない。


「無いよね!? 無いんでしょ!? だったら決めつけないでよっ!」


 もどかしい。俺が水沢を想って投げかけた言葉は、ただ彼女を傷付けただけ。やはり、俺なんかが口を出すべきじゃなかった。似た境遇で共感出来るつもりでいたが、俺はそもそも、偉そうに説教できる立場では無い。俺自身が誰よりも、『母親』という存在に囚われているのだから。


「……水沢も本当は解っているんじゃないか?」


 それでも俺の口は止まらなかった。そんなに彼女を傷付たいのだろうか。


「何がよっ!?」


「今、自分の傍にお母さんが居ない事、それ自体が答えだ、って」


「――!?」


「自分の事を大好きなお母さんが、今の今まで、音沙汰がないなんて事は有り得ない、って」


「や、やめ……」


「もし、お母さんが無事なら、何に代えても、まず自分に会いに来る筈だ、って」


「やめて……やめて……!」


「それをしないって事は、お母さんはもう……!」


「だまれえええええっっっ!」


「うわっ!?」


 ドスンッ!


 水沢が再び俺へと迫る。また平手打ちかと思いきや、なんと彼女は、体勢を低くして体当たりをしてきた。


 バタンッ!


「ぐっ」


 俺は情けないほど簡単に倒されてしまう。しかもそれだけでは終わらなかった。水沢が仰向けに倒れた俺の腹の上へと跨ったのだ。つまり、マウントポジションを取られた形となる。


「ちょ、水沢っ……むぐ!?」


 水沢の攻勢はさらに続く。彼女が両手で俺の頸部を絞めてきたのだ。


「ああああああああああ……!」


「……み……わ……、くる…し……」


「だまれぇっ! だまれぇぇぇっ!」


 彼女は完全に自分を見失っていた。首を絞めるその力は驚くほど強く、俺の心に恐怖が芽生え始める。


「や……め、みず……いき……が……」


「うるさあああああいっっっ!」


 まずい。

 本格的にまずい。

 彼女の目、そこに慈悲が見つけられない。

 俺は馬鹿だ。

 あまりにも馬鹿だ。

 俺は彼女の心を深く抉ってしまった。

 十年来、美作先生と言葉を交わしてきて何も学ばなかったのか?

 不安定な精神の持ち主には、言葉をぶつけるんじゃなくて、言葉を受け止める事こそが肝要。

 ずっと……ずっとそうして貰ってきたじゃないか!


「……うう……ぐ、……あっ?」


「このおおおおお……!」


 彼女が前方へと体重を掛けてきた所為か、喉仏の辺りの圧迫感が急激に上昇する。

 やばい。

 そこを圧迫されてはものの数秒で落ちる(・・・)。頚動脈洞反射というやつだ。こんな状態で気を失ってしまったら、そのまま殺されてしまう。なんとか抵抗を……。


「あ……」


 そう思った時にはもう遅かった。

 俺の視界は、幕が下りるように黒く染まっていく――


「――お、お前達!? 何をやってる!」


「貴方……水沢さん!? 何をやってるの! 放してっ、放しなさいっ!」


「うああああああああああ……!」


「お、落ち着けっ! 彼を放すんだっ!」


「水沢さん! このままじゃ死んでしまうわ!」




 ――ねえ、志朗。


 ――え?


 ――志朗はお母さんのこと好き?


 ――う、うん。


 ――お母さんとずっと一緒に居たい?


 ――うん。


 ――そっか。あのね志朗、お母さん、これから遠い所に出掛けなくちゃいけないの。


 ――どこいくの?


 ――志朗の知らない所よ。


 ――ぼくもいきたい。


 ――うーん……ほんとはお母さん一人で行かなきゃダメなんだけどなぁ。でも、志朗はお母さんと一緒がいいんだよね?


 ――そう。あと、おとうさんも。


 ――志朗、お父さんは忙しいから、一緒にはいけないのよ。


 ――ええ~、じゃあ、ぼくとおかあさんだけなの?


 ――そうねぇ、どうしようかしら。ほんとはダメなんだけど、志朗がどうしてもって言うなら、連れてっちゃおうかな?


 ――うん、いく。ぼくもいく。


 ――よーし、じゃあ志朗、一緒に行こうね~。


 ――うんっ。




「――行っちゃ駄目だっ!」


「きゃっ」


「…………。……あれ?」


「い、因幡君……?」


「ええと……? 広瀬川……先生?」


「え、ええ……。ふぅ……よかったわ、目を覚ましてくれて。身体は大丈夫ですか?」


「身体……」


 現状の確認が必要だ。


(まずは場所……うん、保健室だな。次に時間は……五時過ぎ、と。次、人……ここに居るのは俺と広瀬川先生だけ。じゃあ状況は……俺はベッドに横になっていて、すぐ傍で広瀬川先生が椅子に座っている。最後に、今聞かれた体調……ほっぺた熱っ。首筋もヒリヒリするし)


「いちち……」


「ほっぺた腫れてますよ。ほら、このタオル濡らしてあるから」


「あ、すいません、助かります」


 先生から濡れタオルを受け取り、頬へと当てる。……ああ、冷たくて気持ちいい。タオルを当てたまま、俺は上半身を起こした。


「平気……? お願いですから、無理だけはしないで下さいね?」


「ええ、もちろん。それより、どんな状況なんですか?」


「そうですねぇ……かなりヘビーな状況……ですね」


「ヘ、ヘビーっすか」


 だんだんと思考が定まってきた。

 そう、俺は水沢に……まあ、気絶させられた、でいいか。

 あの時、誰かが来たような気がしたが、それは当たっているのだろう。おそらく教師だと思われる。そこでどんなやり取りが行われたかは、気絶していたので判らないが、その後に俺を保健室へと運んだのは間違いない。現にここに居るしな。

 ……そうか、あの場面を見られたのか。先生方の頭の中では、どんな光景として認識されているのだろう。


「あの、水沢は?」


「今は応接室で、小池先生と谷垣先生が対応しています」


 谷垣先生……あっ、四組の担任か。


「彼女の様子はどうなんですか?」


「さあ、ちょっと判りませんねぇ。先生は因幡君の担当ですから」


「そうなんですか……。ん? てことは、広瀬川先生は、事情をほとんど知らないんですか?」


「ええ。だから、説明して貰えると助かります」


「あ、ああ……ええと、ですね……因みにですが、先生ご自身はどんな認識でらっしゃるんです?」


「ヘビー、です」


「……それはさっきも聞きましたが」


 いつも通り、穏やかで丁寧な口調だったので気付かなかったが、広瀬川先生は、結構深刻な顔つきをしていた。


「そうですね……まず、現場に駆け付けたのは教頭先生と春日先生です。お二人の話によれば、『屋上の昇降口でケンカをしている生徒が居るという報せにより駆け付けたところ、水沢さんが因幡君へと馬乗りになって首を絞めている場面に出くわした』との事です。水沢さんは、その……錯乱状態で、因幡君に至っては昏倒」


「あ、はは……」


 思わず苦笑が漏れた。客観的に聞くと、かなりの異常事態だ。


「笑い事ではないわ、因幡君」


「あ、ごめんなさい」


 先生の厳しい声色に、反射的に謝罪の言葉が出る。広瀬川先生に師事して一年近くとなるが、こんな厳しい顔を見るのは初めてだった。


「いいですか、因幡君。あと一歩遅かったら、貴方は死んでいてもおかしくない状況だったんですよ? いえ、敢えてこう言いましょう。殺されていてもおかしくはなかった、と」


「う……」


「教頭先生の話では、因幡君から水沢さんを引き離すのに、とても苦労したそうです。それだけ強く、水沢さんは首を絞めていたという事になります。さあ、因幡君、話して下さい。何がどうなってそんな事になったのかを」


 これは……どう答えるべきだ?

 事は水沢のプライバシーに関わる。俺がここで曝していい話じゃない筈だ。

 ……そうだな、ここは概要を話すにとどめた方がいい。


「俺が……悪いんです」


「……え?」


「俺が水沢を傷付けたから……。だから水沢は、逆上してあんな事をし……」


「えええええーーーっ!?」


「わっ」


 ガシャンッと、椅子を後ろへと弾き飛ばしながら立ち上がる広瀬川先生。

 ちょっと反応が大袈裟じゃないか?


「そ、そ、それはつまりっ! 水沢さんが被害者、という事っ!?」


「そ、そうなります……ね」


 水沢があんな状態になってしまったのは、俺が追い詰めた所為だ。彼女の内における、母親という存在のプライオリティは、俺よりもずっと重かった。境遇が近いから共感を得られるなんて考えは、俺の一方的なエゴだったのだろう。


「そんな……まさか……。想定していた中でも、最悪の事態、です」


「ええ……。えっ?」


 ――コンコン…… ガララ


 突然、ノックと共に保健室の扉が開かれる。

 そして現われたのは、養護教諭の小池瞳先生。


「広瀬川先生、因幡君は……あ、起きたんですね。ふぅ、よかったぁ」


「こ、小池先生……」


「はい? どうかなさいましたか、広瀬川先生」


 小池先生が保健室へと戻ってきた。という事は、水沢の方の話は終わったのか。

 ところで、何か広瀬川先生の様子がおかしい。


「因幡君のお話は聞けたんですか?」


「ええ……。スーパーヘビー級でした……」


「は?」


 小池先生が困惑した顔を俺へと向けてきた。いや、そこで俺を見られても……。


「どうやら水沢さんは、因幡君の強姦を阻止すべく、あのような行動を取ったようなのです」


「…………」


「…………」


 あれあれ?

 広瀬川先生の言ってる事が解らないぞ?

 これは一体どうした事だ?


「つまり、正当防衛……だったようなのです」


「……え~と、因幡君?」


 小池先生が俺に何かを求めているようだ。

 でもちょっと待っていて下さい。

 こちらは今、広瀬川先生の言葉を翻訳するのに手いっぱいで……


「……って、ええええええええええーーーーーっっっ!?」


 その解釈はヤバい!

 筋が通っててヤバい!


「ちがっ、違いますっ! 広瀬川先生、それ違いますっ! 俺はそんな事してませんっ!」


「え……? でも、水沢さんが被害者って……」


「だからってなんで強姦と直結っ!? キスもした事ないのにいきなりそんな恐いマネ出来るかぁぁぁっ!」


「あ……そ、そうなんです……か?」


「――ハッ」


「ふ~ん。因幡君て、キスまだなんだねぇ~」


「ぐはっ……」


 後ろへと倒れる俺を、バスンッと、枕が頭を受け止めてくれた。そしてそのまま天井へと目を向けながら、俺は最低音のキーで呟く。


「えー……とにかく俺は、天地神明に誓って、そんな事はしていません」


「ふふ、分かってるよ」


「えっ!?」


 小池先生の言葉で、俺はガバッと起き上がった。


「水沢さん、そんな事は言ってなかったもの」


「そういう事はすぐに言って下さいっ!」


「ありゃ、ごめんちゃい」


 謝罪軽っ。


「わ、私の早とちりだったみたいですね……。因幡君、申し訳ありませんでした」


 広瀬川先生はすげー丁寧だし。


「い、いえ、解って頂けたならそれで」


 それにしても危ない所だった。俺にその手の流言蜚語は致命的だ。この学校の生徒ならば、なんの疑問も持たずに信じてしまうだろう。


「それより小池先生。水沢の様子はどうだったんですか?」


「うん?……そうねぇ、落ち着いてる……というよりは落ち込んでいる、かな? 水沢さん、途中から憶えていないみたいで、何があったかを説明したら、ひどく動揺してたよ」


「憶えてないって、どこからですか?」


「因幡君をひっぱたいたのは憶えているみたいよ。その後の事は、気付いたら先生に押さえ付けられていたって感じなんだって」


 あの時、水沢は間違いなく自分を見失っていた。その間の記憶が無いと言われても、納得が出来る程に。またも美作先生の受け売りとなるが、「防衛機制」というのが働いたのだろう。


「ん~、だけどね~、なんて言うか……不思議なのよ」


「はい? 何がですか?」


「うん……普通、『知らない間に他人の首を絞めていた』なんて聞かされたら、取り乱すものじゃないかしら」


「まあ、そうでしょうね」


「水沢さん、ショックは受けていたけど、それはそれで受け入れていたの」


「え?」


「……確かに不思議ですね。自分の記憶に無いのなら、そんな話、私だったらそもそも信じません」


 広瀬川先生の言うとおりだ。身に覚えのない罪なんて受け入れられる筈がない。先程の俺がいい例だ。

 では、水沢は嘘をついているのか? 

 本当は俺の首を絞めた事を憶えていて、免罪の為にしらばっくれていると?

 ……違う気がする。

 あの時の水沢は、忠言が耳に逆らったというレベルを明らか超えていた。「怒りに任せて」というよりは「我を忘れて」といった印象だった。俺が憎くてあんな真似をしたのではなく、受け入れ難い現実に対する恐怖心によるものだと思う。恐怖で我を忘れた事が、度々ある俺が言うんだから間違いない。その間の記憶はやはりあやふやになった。

 とは言えど、やはり人を殺しそうになるほど激昂するのは、過剰反応と言わざるを得ない。水沢にとって、母親の死というものは、誰かを殺してでも認めたくない事だとでもいうのだろうか。それは――果たして健常な精神と言えるのだろうか。


「小池先生、水沢は今日の事、どういう風に話していましたか?」


「え? あっ……と、それは……」


 小池先生が、チラッと視線を広瀬川先生へと向けた。それを受けてか、広瀬川先生が代わって話し出す。


「あのね、因幡君。こういう場合は、公平性の為にも、個別に話を聞くのが常套なんです。言い分が偏らないよう、水沢さんの事を訊く前に、まずは私に因幡君の話を聞かせて下さい」


「あ、それなら、水沢の言い分に要証事実は無いって事でいいです。俺から訂正を求めたりもしません」


「え?」


「ちょっと因幡君?」


 何度も言うが、水沢があんな真似をした原因は俺にある。今回の事で、彼女に何らかの(とが)が行くのは望ましくない。何より、初めから水沢には則天去私のスタンスを取ってきた。……つもりだ。


「因幡君、私は担任として、貴方を擁護する立場を執れるんですよ? 今回の様な場合は、私は本意ではありませんが、女子である水沢さんの側に重点を置いた対応が為されるでしょう。言ってしまえば、因幡君は軽んじられる可能性があるんです。ね? だから話して下さい。先生は因幡君の力になるわ」


「……いえ、お気持ちは嬉しいんですが、すいません。今回の事を説明するには、どうしても水沢のプライバシーが関わって来るんですよ。俺の口からどこまで話せたものか、判断が付かないんです。それに、最初にも言いましたが、水沢の凶行の原因は、俺の言葉が彼女を傷付けたからなんです。だから、水沢に重点を置いた対応というのは、俺の本意とも言えます」


「因幡君……」


「もし水沢さんが、強姦されたって言い張ったら?」


「ングッ……」


 小池先生がぼそりと痛い所を突く。

 それは嫌だ。

 とっても嫌だ。

 その(そし)りだけは、何としても避けたい。

 だが、そんな彼女自身にも及びが行くような嘘を、果たして吐くだろうか。


「水沢は……そんな事、言って無いんですよね……?」


「今はね」


「今はっ!?」

 

 ……た、確かに、彼女には過去、俺をチカン扱いしたという実績がある。

 可能性が無いとは言い切れないか?


「……言い出しそうな雰囲気……なんですか?」


「それは多分無いかな」


「…………」


 じゃあ言うなよっ!? ……と、怒鳴りつけたくなったが、相手は仮にも先生だ。抑えろ抑えろ……。


「ふふ」


 ふふ、じゃねえっ! ……抑えろ抑えろ……。


「広瀬川先生、ここは因幡君の言うとおりにしてはいかがでしょうか」


「え? ですが……」


「いえ、おそらく、広瀬川先生が仰る様な事には、ならないと思うんですよ」


「どういう事ですか?」


 それは俺も聞きたい、小池先生はどういう意味で言っているんだ。


「水沢さんはですね、今回の事、自分が悪いと言っているんですよ」


「そうなんですか?」


「……水沢が?」


 意外だ。いっそ憎しみを向けられていたとしても不思議ではないのに。


「こうなるとですね、因幡君の申し出は、非常に有難いんですよ」


「あ……そうなります、か……」


「え? え?」


 先生方は二人だけで何かを納得していた。俺の申し出が有り難い、とはどういう事だろう。


「因幡君、実はね……」


「あ、小池先生、待って下さい、それは私が。……担任、ですから」


 広瀬川先生が小池先生を遮って前へと出た。理由は分らないが、随分と沈痛な面持ちだ。


「因幡君、貴方があまりにも普通だから忘れそうになったけど、今回の事は、非常に深刻な事態なんです」


「それは理解しているつもりですが?」


「いえ、解っていません。私は……私達教師は、貴方にあまりにも酷い対応をしてしまっているのです」


「へ?」


 俺、何かされた?

 酷い目に遭った覚えは(水沢の事は置いといて)無いんだが。

 だが、何故か二人の先生は申し訳なさそうな顔をしている。


「教師として不甲斐無いというか……なんとも尾籠な話で恥じ入るばかりです」


 belowな話で恥ずかしい……?

 あっ、下ネタの事か!

 ……んな訳無い。


「あの、ちょっとなんの話かいまいち……」


 びろうの意味が解りません。


「実は、まだ因幡君のお父様に、ご連絡をしていないんですよ」


「父さん?」


 それは別に……寧ろ助かる、こないだ迷惑掛けたばかりだし。


「そもそもっ!」


「わっ」


「何よりもまずは、救急車を呼んで然るべきだった! 首を絞められて昏倒していたんですよ? それが常識の筈です! なのに私達学校側は、世間体を優先してしまった!」


「ひ、広瀬川先生?」


「ちょ、ちょっと広瀬川先生、落ち着いて下さい、因幡君が困ってますよっ」


「……ほんと、ヘビー……です」


 何なんだ?

 広瀬川先生は、急に興奮したかと思ったら、途端に(しぼ)んでしまった。さっぱり事態が呑み込めない。


「ふぅ……あのね、因幡君。こう考えてみて」


 すかさず小池先生が後を引き継いだ。


「学校内で、殺人未遂事件が起きた、って」


「――!」


「ぶっちゃけるとね、学校側は内々での解決を望んだんだよ。だから、君のお父さんにはまだ連絡してないの」


「……父さんが、警官だから?」


「そう、なるね。ねえ、因幡君? 君は、自分がもう少しで殺されるところだったって事は、認識出来てる?」


「それは……」


 ……出来てなかったかも知れない。実質、自身が無事なものだから、大した問題だとは捉えていなかった。

 だが、主観と客観の間には大きな隔たりがあったようだ。

 俺としてはケンカの延長のように思っていたが、世間的に見れば、「学校で女子生徒が男子生徒を殺しかけた」と映る。それは実にセンセーショナルだ。間違いなく、ニュースや新聞が取り上げるだろう。


「そして、言ってみれば、水沢さんは罪を認めてるって訳。だからね? 君側の対応如何よっては……」


 なるほど、それで俺の申し出に懸ってくる訳か。

 確かに、最悪、家裁送致には至りそうな事案だ。きっと学校側は、水沢寄りの対応をしたいのだろう。つまりは隠ぺい。


「すでに水沢さんには、自宅謹慎が言い渡されてるの」


「えっ? て、停学なんですか?」


「ううん、正式な処分が決まるまでの暫定処置。通常の欠席扱いにはなるけど、まだ停学の記録は付かない。でも最終的には、停学はもちろん退学だって有り得る状況よ」


「そ、それは俺次第という解釈で合ってます?」


「うん、そうね。学校側は、君を被害者と捉えているから」


「隠ぺいでよろしくお願いしますっ!」


「早っ、判ってたけど」


 それはそうだ。考えるまでもなく、そんな事態は誰の得にもならない。ここは可及的速やかに事を収めるに越した事はないだろう。

 何度でも言うが、原因は俺なのだから。


「……小池先生、そう言い包めるように言われてきたのですか?」


「なっ、広瀬川先生!? 言い包めるって……私はただ、『事態を大きくすべきではない』って事に賛成なだけですよっ」


「……だって、因幡君の優しさに付け込んで収拾させた感が強くて……」


「た、確かに因幡君ならこうなるだろうとは思ってましたけど、付け込んだ訳じゃあ……」


「だいたい、事件の直後に話す内容でしょうか。まずは因幡君を慮って、後日、ご父兄同席の下で切り出すべきだったのでは?」


「むぐ……だ、だってだって、私もそう思ったけど、教頭が急かすから……」


「それはつまり、生徒の身よりも学校の信望が優先という事ですか? 主客転倒にも程があります!」


「わ、私に言われても……『事が広まる前になんとかしろ』って教頭が言うんだもん……」


「貴女は教頭の味方をするんですか!?」


「そ、そうじゃないけど……。み、水沢さんの事を考えたら、話が広まる前に何とか出来た方が……」


「それは結果論です! 全ては因幡君が無事だったから言える事だわ!」


「あう……そ、それは……」


「もし、病院に搬送しなかった事で、因幡君の容態が急変していたら、貴女は一体どうするつもりだったのですかっ!?」


「ご、ごめんなさーい!」


 どうも広瀬川先生は、忸怩たる思いに感情が爆発しているようだ。思っていたよりもずっと熱い先生だったんだな。

 でも、これは小池先生がちょっと不憫かも。

 どちらの言い分も、正しいと言えば正しいので、好みの問題になってくる。俺としては、広瀬川先生の気持ちは嬉しく思うが、やはり事が大きくなるのは勘弁だ。結果だけ見れば、これで最善と思える。「隠ぺい」と言えば聞こえは悪いが、俺と水沢の問題を秘密にしてくれるという事なのだから。


「大体貴女は隙が多いんです! だから生徒達に付け込まれるんですよ!?」


「話変わってるぅぅぅ!?」


 何やら、妹を叱る姉といった様相を呈してきたぞ。これならほっといても大丈夫かな?

 それよりも、今は水沢の事だ。

 ずっと気になっていた事がある。

 記憶に無い罪を認めているという事に関してだ。

 それは一体どういう事だろうか。

 憶えていないというのは、恐らくは本当の事だ。水沢にとって、母親の死を認めるという事は、何よりも耐え難いものであると推測できる。さらに推測するならば、俺の言葉は、彼女に母親の死を認めさせるに至ったのではないだろうか。

 そこで防衛機制が働いた。つまり、母親の死という事実に耐えられなかった水沢は、俺とのやり取りを無かったものとし、自分が母親の死を認めたという事実も無かったものとしたのだ。よって、水沢は憶えていない。

 確か、防衛機制の分類の内の『抑圧』というものだったと思う。道聴塗説かもしれないけど、そうと考えれば水沢が俺の首を絞めたのも、その分類の『攻撃』に当てはまっているのではないのだろうか。……今度もう一度、美作先生に教えて貰おう。

 とまあ、そんな理由で水沢の記憶が無いのは本当の事だと思っている。

 では、なぜ記憶に無い罪を認めたのか。

 広瀬川先生が言っていた通り、「人を殺しかけた」なんて事、人に言われたからといってホイホイ信じられる事では無い筈だ。

 だが、水沢は信じた。

 それは何故? 

 一つだけ思いついた事がある。それは、『経験則』だ。つまり、彼女は今回のような事態を度々経験している為、取り乱すこと無く受け入れる事が出来たのだと、俺は考えている。

 言うなれば、『母親の死というキーワードに反応して起きる発作』。そういうものを、水沢は有しているのではないだろうか。

 この説が正しいとするならば、俺と同じ経験を間違い無くしたであろう人物が一人。それは、水沢の父親だ。きっと、娘に母の死を説明した際に、この『発作』が起きた筈。一度、その父親と話を……


「……いや、待て俺」


 まだ懲りないのか俺は。

 俺なんかにどうにかなる問題ではないと、もう十分身に染みただろう。

 水沢に必要なのは俺のお節介などではなく、そう、美作先生のような専門家なのだ。俺は、自分の範疇を(わきま)えて、出来る事だけをしっかりとやればいい。そして、水沢の問題は俺の範疇外。

 今の俺に出来る事はきっと……


「え~ん、助けて因幡くぅぅぅん……」


「生徒に助けを請うなんて、なんて情けない。そんなだから貴女は……」


 ……この場の収拾、かな?

主人公は、理屈で自分の心を護るタイプです。こういう人間は、感情的になった時、弱さが出ますよね。

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