time to believe now 4
なかなか学校の話が出てきませんが、学園ものと言い張ります。
一月二十四日 月曜日 早朝
憂うつな月曜日の朝。
休日明けの朝というのは、どうしてこうも辛いのだろう。本来、休日でリフレッシュされた身体は、この時にこそ絶好調であるべきではないだろうか。しかし実際は、月曜日が最も辛く、そこから火曜、水曜と、徐々に調子を上げていき、土曜日の夜に絶好調はやって来る。
要するに、身体の問題ではなく、心の問題。
どうやら俺は、月曜日の朝において、すでに次の日曜日が待ち遠しいらしい。
月曜日の朝が憂鬱なのは、そこが一番休日から遠い場所だからだ。――俺はこれから、六日間の険しい道のりを歩まねばならない。学校という苦難を乗り越えて……。
『穂ノ上ー…… 穂ノ上ー……』
電車のアナウンスが、俺の降りるべき駅に到着した事を報せる。
俺は数多の学生達と共に電車を降りた。
何気なく振り返ると、ラッシュの解消された電車のドアが、丁度閉まるところだった。穂ノ上市には学校機関が集結している為、この時間、学生が降りてしまえば、車両内は着席率100パーセントに達する事が出来る。それを見る度、俺は、もう一度電車に乗り込みたい衝動に駆られるのだ。
こんなところでも、俺の深層心理にある不登校願望が窺えてしまう。
ゆっくりと動き出した電車の中の乗客達は、悠々としていた。穂ノ上から乗り込んだ客は、当たり前のように座れているし、さっきまで学生達に圧倒されていたサラリーマンは、これ見よがしに新聞を広げている。OLは手鏡で身なりを整え、中には化粧を直している輩まで居る。学校のある場所が穂ノ上ではない学生も、もちろん居る訳で、「ここからは自分達のターンだ」とばかりにはしゃいでいる様子が目に入り、持たざる者の羨望を覚えた。
ラッシュの時には手に持っていた荷物を、空いた途端に網棚へと載せるのは何故だろう。込んでいる時にこそ、上に載せるべきではないだろうか。客席は空いたが、網棚は混雑している。よく見れば赤ん坊まで載せて……。
「……て、えっ!?」
思わず電車を追う。だが、加速がつき始めた車両は急速に速度が上がり、あっという間にホームを後にした。
「…………」
……まったく、俺の脳、或いは精神は、何を思ってあんな光景を創り出すのだろうか。仮に、夢と同様、深層意識に伴うものであるとするならば、電車の網棚の上の赤ん坊は何を暗示するというのだ。あんな異状極まりない光景・発想が己の心の内にあるのかと思うと、自分自身に信用が置けない。
そう、俺が何よりも信じられないのは自分なのだ。
「はぁ……」
溜め息を吐いた後、俺は人の波へと合流した。
憂うつの最たる原因が一昨日、土曜日の午後の出来事である事は、言うまでもないだろう。
加えてその夜、父さんが仕事で帰れず、せっかくの八宝菜を食べて貰えなかった。
そしてもう一つ、昨日の日曜日、サツマイモを買う事を失念してしまっていた俺は、ミケにスウィートポテトを振る舞えなかった。お蔭で、「おはよ、機嫌直った?」「つーん」といったように、今朝に至るまでミケの機嫌が麗しくない。
こんな精神コンディションで今日の学校を乗り切れるだろうか。
そんな不安を抱えていたところに先程の幻覚。
言いたい事は一つ。
まいった。
「はぁ……」
溜め息以外の呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ……なんて考えに再び溜め息。そんな無為な行為を繰り返しながら駅を抜け、バスターミナルへと向かう。
「…………」
ふと、駅前商店街の方に、目が向く。
そして、アーケード街を入って最初の横町に、気持ちが向く。
そこは、例の幻覚を起こした場所。
――ママはどこに居るの!?
再び水沢ひかるの言葉が頭を過った。
これは共感なのだろうか。それとも同情なのだろうか。俺も母親が居ないから変に気に掛かってしまう。水沢は、八年間ずっと探していると言っていた。そんな彼女には、お母さんとの再会を果たして欲しい。俺に出来る事があるのなら、協力するのも吝かでない。
だが、しかし、だ。
彼女の母親が、俺の幻視に表れるなんて事、あり得るか?
俺が幻聴で知った事柄が、水沢母娘に関係する事だなんて、あり得るのか?
偶然だ。
そうとしか思えない。
大体、俺が目にした女性はどう見積もっても二十代前半。水沢を生んだのいくつの時だよ。一けた代になるぞ。
……いや、待てよ。忘れてしまってるだけで、俺は過去に水沢の母親と会った事があるのでは?
その時の事が幻覚として現れたから、彼女の年齢は、俺と出会った時の年齢だった……とか?
「…………。時間はまだ八時になってない、か……」
学校指定のコートのポケットから、ケータイを取り出して時間を確認。いつも通り余裕のある時間だ。バスに乗らずとも充分に間に合う。
俺は、試しにもう一度、あの場所へと行ってみる事にした。もしも、俺の記憶が幻覚となって表れたのであれば、あの場所で何か情報を得られる、もしくは思い出す事があるかもしれない。
だが、これは飽くまで、試しに、だ。
「……ん?」
アーケードに向かって歩いていると雪がちらつき出した。今はもう一月も下旬。二十四節季ではではとっくに春だが、通念的には冬真っ盛りだ。この地域では、これから二月に掛けてが降雪量のピーク。でありながら、晴れ間の多い時期でもある為、早朝に降り積もった雪が、午後に一気に溶けてしまう事が多い。その結果生ずる大きな水溜りは、俺の幻覚症状を誘発してしまいがちだ。梅雨や秋雨に比べればもちろんマシだが。
「ん~、走るか……」
バッグに常時入れっぱなしにしている折り畳み傘を出すべきか迷ったが、ちょっと行けばアーケードがある訳なので、俺は走る事を選択した。
駅前商店街を名乗っている以上、駅前にあるのは当たり前、ものの数分で辿り着く。
ガヤガヤ……ガヤガヤ……
早朝といえど、アーケード街はそれなりに喧騒があった。俺の通う学校の通学路みたいなものだし、通勤・通学者をターゲットにしている店もいくつか開いている所為だ。学食に飽きた学生などは、ここで昼食を調達している事だろう。朝食を摂るパターンもある。俺はすでに食べたし、弁当持参なので店に用は無い。
用があるのは、そう、あそこ。
「……昨日の女性は見えない、か」
土曜日にいざこざのあった横町への曲がり角。そこでいったん足を止めて周囲を見回してみるが、特に何も起こらない。
「まあ、こんなもんだよな……」
簡単に諦めをつけて、そこから立ち去ろうとした時だった。
「……? ッ……うわっ!?」
不意に、背筋を駆け上がる悪寒。
これは前兆。
俺特有の前駆症状。
主に水辺で起こしてきた事態。
「う……つ、つよい……ッ」
水辺ではないのにも拘らず、今までに感じた事が無いほどの強烈な怖気に、思わず地面に片膝をついてしまう。
俺はすぐに両腕を交差させて、自分の両肩に両手を載せ、自分で自分を抱きしめる様な姿勢を取った。そうしたら、肩を左右交互にトン、トン、トン、トン……と、優しく叩いていく。「バタフライ・ハグ」と呼ばれるものだ。いつもこうやって心を落ち着かせる。最近では、うまい具合に抑えられるようになってきていたのだが、今日はそうもいかないようだ。
それはあまりにも強い前兆。
自分がどうなってしまうのか、とても怖い。
「あ、あの、大丈夫ですか……?」
不意に聴こえてきた声。しかし今の状態では、それが現実なのか幻聴なのか、全く判断する事が出来ない。
「だ、大丈夫です……! ほっといて……!」
「そ、そう……」
とりあえず、突き放すように応対した。現実ならば、相手に大変失礼な真似をしてしまった事になるが、今は自分の事で手一杯。
「……ん……な、なんだ……? ……うくっ」
ビイイイイイィィィィィ……
幻聴?
いや、耳鳴りか?
やたらと耳に付く、かすかな音。
それに気付いた直後、背中の悪寒がゆっくりと治まり始めた。
「フゥ……フゥ……」
息を整えながら、無意識に音の出所を探した。だが、幻聴なのだとすれば、それは無意味な行為だ。
ガッシャーーーーーンッッッ!
「ッ!?」
小さな音を探して見つけたのは、大きな音だった。どこから聴こえて来たのか、今度は当たりが付いた。それは、土曜日に、あの女性が俺を引き込もうとした路地裏。
「くっ!」
身体が勝手に走り出した。何故だろう、幻覚なんて気にしないのが一番なのに。自分の創り出した幻想に、振り回されるようになってしまってはお終いだ。それは、社会への適応力が欠如した人間。閉鎖病棟へと入れられてしまう可能性すらある。
そんな事を考えながらも足は止まらない。
俺は感じていた。
何よりも信用の置けないこの心で感じていた。
それは強い『予感』。
あそこへ行けば何かが変わる、そんな強い『予感』。
この時の俺は、何かに急き立てられるかのように、路地裏へと足を踏み入れた。……後日、俺はこの行動の正誤に悩まされる事となる。
「ああっ、うっとーしいっ!」
ガッシャーーーーーンッッッ!
路地裏に足を踏み入れると同時に、怒声が耳に入った。そして、間髪入れずに、先程と同じような破壊音が続く。
「な、何だ……?」
恐る恐るそちらを見やる。
そこに居たのは中年の男性。おそらくは声の主だろう。そしてその周りには、缶や瓶、ごみ袋やらポリバケツやらが散乱していた。たぶん、これが先程の音の原因。現状から、この男が暴れたのではないかと推察できる。
そして気付いたのは、再び背中をせりあがり出したぞわぞわとした感覚。
――あの男は危険だ。
直感的にそう感じた。
俺は、一目散に逃げる事を選択する……
「……ん?」
……が、出来なかった。男がこちらに目を向けたのだ。
「あ……ぁ……」
「なんだお前は。もしかして俺を見ているのか?」
見たくて見ているんじゃない。
今すぐにでも顔を背けたい。
でも出来ない。
何故か出来ない。
あの男に目を向けられた瞬間から、俺の身体は全く言う事を聞かない。
「んん? 聴こえてねぇのか?」
男がこちらへと近付いて来る。ついに俺の身体は震え出してしまった。
(いったい何故だ? 何なんだこれは? この男は幻覚か? それとも現実か? 俺はどうしてこんなに怖がっている? 何がそんなに怖い? あの男? あの男が怖いのか? あれは誰だ? あの男は一体誰なんだ?)
「何なんだぁ? このガキは」
男が更に近付いて来る。
今の俺にできる事は男を見る事だけ。本当は今すぐにでも逃げ出したい。でも身体が動かない。俺は、只々男へと視線を向け続けた。
「チッ」
男が忌々しげに舌を鳴らす。機嫌を損ねてしまったようだ。もう何をされるか分からない。悲鳴を上げたい心境だったが、俺の喉は音を発してくれそうもない。男がどんどんと近付いて来るにつれ、俺の心もどんどん追いつめられていく。
卒倒しそうになった時、視界の隅にそれが映り込んだ。
「……あっ」
声が出た。
もう二度と出ないかと思ってた。
それを聴いた男が足を止める。
「なんだ」
「あ……う……」
男の口から発せられる声に、いちいち戦々恐々としながら、今見えたものにもう一度意識を向ける。そして確認したのは、一昨日の女性の姿。まさかこんなタイミングで見る羽目になるとは……。
「ん~?」
男は、俺の目線が自分の後方に向けられている事に気付いたのか、おもむろに振り返った。
「…………」
「…………」
男は無言。
俺も無言。
当り前だ、そこには何もないし、誰もいない。俺がそこに幻覚を見ているだけなのだから。
やがて、何も見つけられなかった男は、ゆっくりと俺の方へと顔を戻す。
「ひっ!?」
俺は男の顔を見て戦慄した。別に何がどうなった訳ではない、男はただ笑っていただけ、俺は男の笑顔に慄いたのだ。
その表情を目にして、俺がこの男を恐れる理由が判明した。
それは――狂気。
この男からは、狂気が滲み出ているのだ。
「小僧、顔色が悪いな」
男はすでに目の前に居る。身長は高めだ。180センチは優に超えているだろう。男は、俺よりやや高い目線から見下ろしてきた。雑なオールバックと無精髭がガラの悪さを強調している。着ているスーツは、よれよれにはなっているが、なんとなく高級品のような気がした。そして、さっきから感じている、この圧倒的な威圧感。ここまで威圧感を覚えるのは生まれて初めてだ。トラの二歩三歩は先を行っている感じ。まるで本格的なヤクザのような……。
「……んん? ん~?」
男はやや腰を落とし、俺をじっくりと観察しだした。目玉をギョロギョロと動かして……ん? 左眼しか動いていない。
この男の右眼、義眼だ。
「おい、俺の言ってる事が判るか?」
「え……?」
「ふむ、お前の名前は?」
「な、なんで……?」
「言え」
「あ……う、い、因幡……です」
「因幡……。下は?」
「えと……志朗」
「因幡志朗、か……」
マズイ。
名前を教えたのはマズイ気がする。
だが恐怖で逆らえない。
なんでこんなに怖いんだよっ。
「……チッ、これかぁ、くだらねぇ。もっと面白いもんかと思ったぜ」
「え……? え……?」
急に男が愚痴り出した。理由は分からない。
「今更なんだってんだ。宿命だってか? くそったれっ」
男の言っている事はさっぱり理解できなかった。誰に対しての、何に対しての悪態だろうか。
「ふん、まあいい、これも一興と捉えてやる。面白くないなら、面白くすればいいだけの話だ」
なんだ?
なんの話だ?
「よう小僧、今日、俺達が出会うって事は判ってたんだろ?」
「は……?」
なんだそれは。判ってた? そんな訳ないだろう。
「俺の方は期待してたのと違って、やや落ち込み気味だ」
だから、なんだそれは。解るように言え。
「小僧の方はどういうつもりでここへ来た?」
どういうつもりも、アンタには関係ないだろ。
「ふん、だんまりか」
「…………」
俺ではこの男と渡り合えない。すでに事は決している。この男が上で俺が下。
「あの女に興味があるのか?」
「えっ!?」
あの女?
あの女ってまさか……。
「あ、あの……! 女……っていうの……は」
「あん? あれだろ?」
男が顎をしゃくる。示したのは、先ほどあの女性が見えた場所。しかし……
「え? ど、どこに……」
……女性の姿は見つけられない。
「んん~?」
男は、俺を値踏みするような目を向けてきた。
「…………。……派手なねーちゃんだな。美人だが化粧が濃い。あんだけ脚出してたら、毛皮着ててもさみーだろ」
「――ッ!?」
……それって、それって! あの女性! なんで!? どうして知ってる!? 俺の幻覚だろっ!?
「あ……あ……」
「なるほどな。つーことは今日のは偶然だったって訳か。いや、俺側の因子か?」
もう駄目だ。
もう限界。
なんとしてでも、ここから逃げなければならない。
「ほら、どこへ行く。会った記念にちょっと助けてやるよ」
腕を掴まれた。
どうする、振りほどくか?
そもそも、振りほどけるか?
「……の義務を果たすってのも悪くないかもしれん」
なんだ?
相変わらず何を言っているのか解らない。
「よっ……」
ガシッ……!
「!? は、離して……!」
後ろから組み付かれてしまった。ものすごい力だ。
「いつまでも見えたり見えなかったりじゃ面倒だろ?」
「え?」
――ビイイイイイィィィィィ……
「……ぁぁぁぁぁあああああああああああ……!?」
さっきの音。
さっき耳鳴りのような小さな音。
その小さな音に、俺の全身は共振を始めた。
「……ああああああああああああああああ……!」
「抵抗するな。よく聴いて慣れろ。そうすりゃコントロール出来るようになる。どうせ、いずれは俺の様になるんだから、早い内に慣れた方がいいだろ?」
慣れる?
コントロール?
そんな事よりもう止めてくれっ。
「……ああぁぁぁ……ぁぁ……」
ガクッと、俺は膝をついた。立っていられなくなったのだ。そうなってようやく男も放してくれた。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」
地面にうずくまりながら呼吸を整える。
身体に異常は無い……と思いたいが、こいつは一体何をした?
俺は一体何をされた?
「じゃあな、小僧。……もう会うつもりは無いが」
男が静かに呟いた。どうやら去るようだ。
「ま、待って……! アンタ……一体……」
一瞬足を止めたが、振り返らずに歩き出す。
「お前の保護者によろしくな~」
軽い口調でそう言って、男は去って行った。
「……保護者? 父さん……か?」
父さんを知ってる?
まさか、あの男は俺を知っていた?
「ふぅ……もう、何が何やら……」
呟きながらゆっくりと立ち上がる。
意外にもすんなり立てた。震えも止まっているし、耳鳴りもしない。身体にも怪我は無いようだ。心身ともに異常は見られない。
不思議だった。
何せあれほどの……。
「あれほどの……何だ?」
冷静になって思い返す。
耳鳴りのような小さな音が聞こえたと思ったら、急に全身が震えだした。……それだけだな。耳鳴りがして身体が震えただけだ。
「…………」
じゃあ、なにか?
俺は痛かった訳でも、苦しかった訳でもなく、ただ単に恐怖でうずくまった?
情けなくない?
「むー……」
思わず両手で顔を覆う。
あの義眼の男……もっと話をするべきだったのではないだろうか。一昨日の水沢ひかるの時と同じだ。怖くなって逃げた。怖くて何も出来なかった。実に情けない。
「――ねえ、そこのお兄さん。ちょっとこっちに来て欲しーんだけど」
「!?」
……立て続けですか?
「ね、いいよね、いいよね? ねえ、いいわよねぇ?」
声を掛けてきたのは、そう、あの女性だ。そういえばさっきチラッと見えたんだった。
「ねえ、おねが~い、こっち来て欲しーのよ~」
「……あ、ああ、え~と、どうする? ……どうしよう。あ、あのですね……その、俺、これから学校が……ハッ!」
学校!?
そう学校!
俺は慌ててケータイを取り出し、時間を確認した。
「わっ、もう十分切ってる!?」
ここから学校までは、一キロメートル強。十分あれば何とかなる。だが、この状況はどうする。そもそもこの為にここへ来た筈だ。
「くぅぅ……か、皆勤優先っ!」
俺は登校を優先し、脇目も振らずに駆け出したのだった。
義眼の男、この後長い事出て来ません。