くしびと~part Ⅰ~ 6
今回は……というか今回も、長々とした会話シーンのみです。
そして、ちょっとだけ『くしびと』の謎が解明されます。
まあ、謎ってほどの深い意味は籠ってませんが。
二月十六日 水曜日 五時限時
「――因幡っ! アンタ、学校のみんなからレイプ魔だと思われてるっ!」
「…………」
――……………………
その時、保健室に静寂が降りた。
「……って、ええええええええええーーーーーっっっ!?」
その静寂を破るのは、当然俺だった……とか言ってる場合じゃないっ!
「な、な、な、なに? え、い、今、なんて言った? レ、レ、レイ……?」
「残念ながら、そういう事になっちゃってんのよね……」
「嘘だろっ!? 俺、そんな事、絶対にしてないっ! つか出来るかっ! まだキスの経験すら……」
……なんだ、この激しいデジャヴ。
「――ハッ。そういえば広瀬川先生っ!?」
前にそんな勘違いをしていた!
「い、因幡君、落ち着いて……。私がそんな話を広める訳がありません」
「じゃあ小池先生っ!?」
「『じゃあ』って何!? 私だってそんな事しないよ!」
「よく思い出して下さい! 誰かにうっかり話してませんか!?」
「どうして私には食い下がるの!?」
「だって先生口軽めっ!」
「口軽めっ!?」
「はい、因幡、そこまでっ! ほら、ちゃんと説明するから」
「ナ、ナツさん……でも」
「まだ話は途中なのっ。いいから聞くっ!」
「……はい」
少し取り乱してしまった。
しかし、まさか何時ぞやの危惧が現実のものになろうとは。
「早い話がね? 因幡。アンタとひかるの一件が、歪んで広まっちゃってるわけよ」
「やっぱりそれか……」
水沢ひかる。
伊波千夏の親友にして、俺の友人でもある……筈。
水沢と知り合ったのはつい先月。自惚れさせてもらえるならば、俺が救ったと言える少女だ。だから当然レイプなどという真似は、言うまでもなくしていない。
していないのだ。
しかしながら、そう誤解される要因は見当たってしまう。
水沢ひかるは、亡き母親への妄執に囚われ、ひどく不安定な精神状態に陥っていた。そんな彼女の前に現われたのが、非常識にも彼女の亡くなった母親と出逢ったとされる男。つまり、この俺だ。水沢と関わりを持った俺は、ある時、ある場所で、ある失言により彼女を逆上させてしまい、首を絞められるというドラマでしか見た事のないような暴力行為によって剣ヶ峰に立たされた。幸い大事には至らなかったが、学校と双方の保護者が、話し合いの場を設ける程度には問題化された。その後は紆余曲折を経て、水沢から母親への妄執を取り払う事に成功し、彼女は心の安定を取り戻すに至った。結果、俺と水沢との関係も十二分に改善される事となる。そして現在、水沢は病気療養という形で休学し、春からの復帰を目指してメンタルケアに努めているのだ。
これが俺と水沢ひかるの真実。
だが、ナツさんの話によると、この事がかなり歪んだ形で学校中に知れ渡っているらしい。何でも、俺は水沢のストーカーで、彼女に付きまとった挙げ句に学校で乱暴し、それを警官である父親に揉み消させた事になっているのだそうだ。
「――それでひかるは、ショックで学校を辞める事になって、今は心の傷を癒すために精神病院に通ってるんだってさ。性犯罪者ってサイテー。めいっぱい苦しんでから死んで欲しいわよね」
「あの……まさか俺に言ってる?」
「嗚呼、可哀相なひかる。どうして因幡はのうのうと生きてるわけ?」
「ちょっと!?」
「……とまあ、学校のみんなはそんな風に思ってるってわけよ」
「あ、う……そうですか」
理解した。
クラスメイト達が俺へと向けていたのは、やはり敵意だったのだ。
俺は制服のポケットに手を突っ込み、そこにあった紙をクシャッと握り潰した。
(『犯罪者は学校に来るな』っていうのは、こういう事だったんだな。このメッセージは、俺に精神的な苦痛を与える事が目的なのではなく、文字通り、俺にこの学校を去って欲しいという切実な訴えだった訳か……。もはやこれが誰の仕業かなんてどうでもいい。誰であってもおかしくないんだ。ある意味、悪意あるイタズラの方がマシだった)
「でもね、因幡。さっきも言ったけど、この件に関してはそれほど深刻じゃないって思ってんのよ、アタシ」
「……え?」
「これってさ、ひかるが否定すれば済む話じゃん?」
「それは……そうだな」
水沢はきっと否定してくれるだろう。問題は、彼女が只今絶賛休学中だという事。今すぐの解決は難しいようだ。今学期はあと一カ月ほど。その間、俺は濡れ衣を着たまま生活しなければならない。
「はぁ……」
「何よその溜め息は。ひかるなら絶対に否定するに決まってんでしょ」
「そこに不安があるんじゃないよ。ただ、暫くは針の筵だなぁってね」
「なんで? ひかるが暇な時に来てもらって、みんなの誤解を解いて貰えばいいじゃない」
「今の水沢には余計な気苦労を負わせたくないんだ。彼女も俺と同じくらい……いや、それ以上に大変な状況だと思うし」
心のケアをしているのだから、というのも当然ある。
だが、それとは別に憂慮すべき事情があった。
水沢は、今ワイドショーで特集を組まれる程の事件の関係者。今世間を騒がす、『献体すり替え事件』の被害者の娘なのだ。未成年である為、マスコミによる露出は控えられているが、その事に勘付いている人間が居るかも知れない。だから、事件発覚前のタイミングで休学に入れた事は、彼女にとって僥倖だったと言える。報道の熱が冷めるまでは、あまり人前に出ない方がいい筈だ。
よって、今、水沢に頼るのは避けたかった。
「そもそも、俺と水沢の件は内分に済ませてる。色々デリケートな問題でもあるし、蒸し返して水沢のプライバシーを詮索されたり、また別の風評が派生してしまったりするのは困るよ」
「アンタ、随分とひかるに気ぃ遣うのね……。でもそんな事になる? ひかるがただ『私はレイプされてない』って言えばいいだけなんじゃ?」
「そ、そんな科白を言わせられるわけないだろう。その誤解は、水沢が復学して俺と普通に接している所を見せれば、自然と解けるさ。『ああ、あの話は間違いだったんだ』ってね。けど、今、突然水沢が学校に現われて、ナツさんの言ったような事を彼女が言い出したら、あれやこれやと想像を掻き立ててしまいかねないんじゃないか? 例えば……俺に脅されて言わされた、とか」
「うーん、かなぁ……?」
「人の噂も七十五日。事実誤認なんだから、それできっちり消えてくれるさ」
「二ヵ月半って長くない?」
「いや、慣用句だし。……ただ、ちょっと気になるのが」
「ん?」
「その噂、ちょこちょこ事実が混じってるよな? 俺達のいざこざは表沙汰になってない筈なのにさ」
そう、そこがずっと気になっていた。
水沢が俺に危害を加えたあの一件は、言い方は悪いが、隠ぺいが為されている。しかし、そんな噂が流れているという事は、隠ぺいに失敗したという事だ。となると、どこからその話が漏れたのかが問題になってくる。
「えっと、広瀬川先生? あの事って教員の皆さんは、全員知ってるんですか?」
「……やっぱりそう考えますよね。詳細を知っているのは私達を含めたごく一部だけですが、概要は職員会議でほとんど全ての先生方に伝えられています」
「そうなんですか……。あの、箝口令とかは布かれたりしてます?」
「因幡君、そんな命令が出されなくても、私達教師は職業倫理に従って生徒のプライバシーは守ります。信じてはもらえないかしら」
「す、すいません。本気で疑ってる訳ではないんですが、その……俺と水沢が学校で起こした揉め事が、噂になって広まるのはまだ理解できるんです。現場を目撃した生徒もいるみたいですしね。けど、水沢がメンタルケアを受けているって話は、学校とは関係ない所での話です。この学校でその事を知っているのは、俺とナツさんを除くと、後は先生方だけの筈。意図的ではないにしろ、そちらから漏れた可能性はあるんじゃないかと」
「そう、ですね。それは否定出来ませんね。人の口に戸は立てられませんから。ですが……伊波さん、その噂の出所に心当たりはないかしら? 貴方達以外に水沢さんの事をよく知っている友人とか」
広瀬川先生は、学校側から漏れた可能性をオミットしたいらしく、他の可能性をナツさんに求めた。
「…………」
「伊波さん?」
しかしナツさんは、腕を組んで難しいか顔をするだけで、一向に答えない。
「ナツさん、もしかして心当たりが?」
俺がそう問いかけると、彼女はおもむろに小池先生のデスクの前まで移動した。
「ん? 伊波さん、なぁに?」
「ひーちゃ……小池先生、パソコン借りるね?」
「え、ちょっと?」
小池先生の承諾を待たずに、ナツさんはデスクに在ったノートPCを弄りだす。
「噂の発信者は判んないけど、その噂が広まっちゃった理由は知ってる。……因幡、前に言った事あったよね? アンタのことがネット上に書き込まれてるって」
「あっ」
その言にはっとなった。
確か、前にナツさんは、それを見た所為で俺に偏見を持ったと言っていた。
「アタシの友達、ネットでアンタの間違った情報を仕入れて、それを鵜呑みにしてるのよ。だからアンタにあんな事したってわけ。たぶん、他のみんなも同じだと思う。アンタがひかるを襲ったって内容の書き込みがあったのって昨日なのよ。それを見てたから、お昼の男子達も容赦なかったんじゃないかな」
「それでか……」
クラスメイト達の態度が急変したのも、それで納得がいく。情報社会の弊害にまさか自分が曝される事になろうとは。こういった事態はニュースの中だけの他人事だと思っていた。
「い、伊波さん、待って。まさか因幡君の前であのページを開く気? っていうか、あのBBSはもう閉鎖された筈だよ?」
小池先生が少し慌てたようにそう言った。
「え、ちょっと待って下さい。小池先生はこの事を知ってたんですか?」
「あ、その、うん……。ちょっと前に伊波さんからの指摘があって確認したのよ。……確かに、そこには因幡君に関する悪意ある書き込みがあった」
「そ、それで……」
「因幡君、その事は心配しないで」
そう言ってきたのは広瀬川先生。
「実は、小池先生の建議で職員会議でも問題に挙がったんです。そしてすぐに教頭先生の名前で悪意ある書き込みの削除を依頼して、そのあと学校が正式に、運営側を通して管理者に抗議文を送ったんです。そうしたら、殊の外あっさりと閉鎖してくれました」
「え、じゃあ」
「はい、もうありません。ですから因幡君に伝える必要はないと思ったの。……もうほとんど、荒れた学校裏サイトのようになってましたからね。因幡君の目に付く前で本当に良かったわ」
安心したようにそう言う広瀬川先生に、俺も安堵を覚えた。ところが……。
「因幡、まだあんのよ。閉鎖されたトコよりもさらに酷いのが」
「え?」
「何ですって?」
「ど、どういう事? 伊波さん」
俺も広瀬川先生も小池先生も、一斉にナツさんへと目を向けた。
「アタシ、こっちは知らなかった。朝、友達に聞かされて、午前の授業ちゅ……ご、午前中にケータイで確認してみたんだけど、そこ、もう好き勝手放題だったわ」
「もう一つあったって事か? ナツさん」
「もう一つって言うか、そっちがメインだったみたい。……ほら、見て」
そのサイトに繋いだらしく、ナツさんはディスプレイを見るよう俺達に促した。
「あっ、待って。そんな酷い事が書かれてるんなら、因幡君には見せない方がいいんじゃ……」
「そうですね。私達だけで確認しましょう」
先生方は俺に気を遣ってくれているようだが、ここまできて確認しないだなんて生殺しもいいとこだ。
「大丈夫、覚悟は出来てます」
そう言って、俺もディスプレイを覗き込んだ。
「……って、ナツさん? ここ?」
「そうよ」
「でもこれ、『徳報プレス』……」
徳報プレス――生徒会、及び新聞部が共同で運営しているホームページで、徳英附属高校の学生向け公式学内広報サイトである。
「ねえ、伊波さん。ここはちゃんと先生達の監修が入ってる筈だから、おかしな事は書き込めないと思うよ?」
小池先生の言う通りだ。ここは荒れようがない。
「生徒達が自由に意見を書き込めるスレッドがあるんだけど……」
「伊波さん。そこもちゃんとチェックしていますよ? 因幡君に関するものは無いと思います」
広瀬川先生がそう言うのならそうなのだろう。
「満スレの178」
ナツさんは、書き込みが1000件に達しているスレッドを開き、178番目の書き込みにジャンプした。そして、そこに書き込まれていたのは、どこかのURL。
「ナツさん、もしかしてそのURLのサイトが?」
「このアドレスをクリックしてもエラーってなるだけなんだけど……見て、アドレスの最後にドットがあるでしょ? これ、リンクになってんのよ」
確かに、URLにカーソルを当てても最後のドットだけ反転していない。ナツさんは、そのドットにカーソルを当てクリックした。
そして表示されたのは、閲覧パスワード入力画面。
「て、手が込んでるんですね。先生達もさすがにここまでは確認していませんでした」
広瀬川先生はややバツが悪そうだった。
「ナツさん、パスワードは知ってるのか?」
「午前中に確認したって言ったでしょ。え~と、kushibitoっと……」
――ドクン
……今……なんて……?
「はい、入力完了。……あー、先生達? ここ見る前に言っておきたい事があるんですけど」
「何かな?」
「何ですか?」
「その~……アタシがこのサイトのことチクったのは黙ってて貰えます? ここって、言ってみれば生徒達の娯楽の場みたいな感じで、無くなると本気でキレちゃいそうなヤツも居るみたいなんですよ……あはは」
「心配しなくてもそんな事は口外しません」
「うん、秘密にしとくから」
「あと~……ヘタに画像とか開くのはナシで。ヘタにリンク先にジャンプするのもナシで。ここ、エログロ有りっす……」
「そ、それは気を付けないといけませんね……」
「気になるけど我慢するよ」
「んじゃ、どうぞ。……因幡? 見ないの?」
「……ッ、あ、ああ、何?」
「だから見ないのかって。アンタ大丈夫? やっぱ見ない方がいい?」
「い、いや……」
ナツさんが口にしたまさかの言葉の衝撃に、少し放心してしまっていたようだ。……あの言葉、聞き直して確認すべきだろうか。
「あの……ナツさん?」
少しだけ逡巡したが、確認する事にした。
「なによ?」
「さっき、パスワード、なんて入力したの?」
「はい? ローマ字で『くしびと』だけど?」
「ッ、そ、そうか……」
間違い無かった。
徳英でもそれを耳にするとは。
偶然……と考えるのは不自然か?
「アンタ……知ってんのね? この言葉」
「…………」
「『くしびと』。これって、アンタの事を指す言葉らしいわよ? このサイト、アンタの名前は伏せられて、代わりにこの『くしびと』って言葉が当てられてるみたいなの。ねえ、この『くしびと』ってどういう意味? アンタ解る?」
「それは……」
『くしびと』。
それは、俺が通っていた月成中学校で一時流行した言葉だ。言葉それ自体の意味は知らないし、誰が言い出した言葉なのかも判らない。月成中学校の生徒達のあいだ限定で使われていた、何らかの隠語だ。今にして思えば、その正確な意味を把握していた者なんて、殆んど居なかったのではないだろうか。大抵の生徒は、意味も解らずに使っていたのだ。
この言葉、使うと何故か周りに笑いが起こっていた。言った方も聞いた方も、訳も解らずにノリだけで笑っていた感じだ。例えば、何か自分の居に添わない事が起こった時に、冗談めかして「くしびとの所為だ」と言えば、「そうだそうだ、アイツの所為だ、あははは」と笑いが起こった。何か言葉では言い表せないような事があった時に「くしびとっぽくない?」と言えば、「それっぽいそれっぽい、あははは」と笑いが起こった。何か世間を賑わすような事件・事故が発生した際に「あれはくしびとがやった」と言えば、「やっぱりそうだったのか、あははは」と笑いが起こった。
つまり、『くしびと』という言葉を付加すれば、どんな事でも笑い事になるというある種のお約束が、月成中学校では成立していたのだ。
「――みんな、無意味に使っていたりもしてたよ。挨拶みたく『くしびと!』って叫んでは笑いを取っていた奴も居た。何が面白いのかなんて解らずにね。いや、解らずに笑うのが面白かったのかも」
「ナンセンスギャグみたいなもんね。アタシも経験あるわ」
「生徒間のコミュニケーションツールと化してたから、俺もご多分に漏れず使った事があったよ。笑いを取れた事はなかったけどね」
「あー、アンタにそーゆーのは似合わなそう」
「まあ、ね。……それで、これは後になって判った事なんだけど」
「ん?」
「実は『くしびと』って――俺のあだ名、だったんだ」
「――ッ!」
言葉それ自体の意味は知らないし、誰が言い出した言葉なのかも判らない。月成中学校の生徒の間でのみ通じ、その誰もが使っていた言葉。――それが俺のあだ名だと知っていた人間はどれほど居ただろうか。
「……因幡、もしかして中学ん時も、その……今みたいな感じだったわけ?」
「いや、今のようなあからさまなものはなかった。振り返ってみると、裏では色々言われてたのかもって思うけど」
それに、こんな言い方は不本意だが、当時はトラが後ろ盾みたいな存在になっていた。地元で有名な札付きと親しくしていた俺と揉めるような事態を、誰もが避けていたのだ。お蔭でいじめられるような事はなかったが、代わりに友達が全くできなかった。認め難いが、やはり孤立はしていたと言わざるを得ない。
そういう訳で、高校という新しい環境での生活に期待を寄せていたのだが、結果は見ての通り苦心惨憺儘ならず。
「……なるほどね」
ナツさんが何やら小さく呟いた。
「ん? ナツさん?」
「今、因幡に必要なのは、どうにもこうにも“仲間”ってわけね。噂に惑わされないで本当のアンタを見てくれる誰か。思ったんだけどさ、別に学校みんなの誤解を解く必要なんてないんじゃない? てゆーか無理。それよりも、一握りでいいから、アンタの事を解ってくれる奴を探すべきよ。アタシやひかるみたいなね」
「ナツさん……」
「噂なんてどーでもいいわ。いっそほっとこ? 先入観で因幡を切り捨てるような奴は、こっちから切り捨ててやればいいのよ。大丈夫、こんだけ人の居る空間なんだから、話せばわかってくれる奴が必ず居る。……まあ、アタシ等の他に二、三人居れば充分でしょ。友達が数より質よ、絶対」
「そう、だな……」
ナツさんの言い分には一理ある。
だが、やや反論の余地も多い。
強めの反論としては、ナツさんの算段には俺の本望が加味されていないという事が一つ。高望みかも知れないが、正直に言って俺は、クラスや学校に打ち解けたいと考えている。だから、できる事ならば、学校みんなの誤解を解きたい。解ってくれないなら要らない、なんて傲慢な考え方は俺には無理だ。そもそも、そんなスタンスでは一握りの仲間すらできやしないだろう。
弱い反論としては――ISKAのKって啓蒙のKじゃなかったの? ……まあ、こちらはどうでもいいが。
「よしっ。因幡、この方針で行くわよ」
「あ、ああ……」
とは言え、俺の為を思っての無償の厚意に反駁できる筈もなし。
「因幡君、伊波さんと随分仲良くなったのですね。ちょっとだけ意外です」
との言は広瀬川先生。
「だ、だから因幡とはただの友達! 別に付き合ってませんてば!」
そして、ナツさんの的外れな反論。昼休みの小池先生とのやり取りが、まだ尾を引いているらしい。
「え? あ、いえ、そんな事は言ってませんが?」
「……あ。ん、んんっ! あー、いや、なんでもないっす……。そ、それより、サイト、どうです?」
ナツさんは一つ咳払いをして話を変えた。もとい、話を戻した。
「う~ん、これは何と言いますか……」
広瀬川先生は困惑したような表情だ。
「もう一つの方とは毛色が違うね。……ある意味ファンサイト?」
「ファ、ファンサイト?」
小池先生のあまりに意外な感想に、俺も再びディスプレイを覗き込んだ。
とりあえず、今表示されている書き込みを黙読してみる。
《くしびとの死体隠滅方法は基本的に硫酸。桶に硫酸を満たして死体を溶かすんだ。死体が溶けきると、その硫酸を阿神山まで捨てに行くらしい。ほら、あそこには温泉で変色した岩肌があるだろう? 実はあれ、温泉のせいじゃなくて、くしびとが捨てた硫酸のせいなんだ》
「……何? これ」
荒唐無稽。
他に言葉が浮かばない。
「ええ。ざっと見た感じ、ここは『くしびと』という“怪人”の、様々な所業を書き込むBBSのようなんです。もう殆んどが都市伝説レベルですね。信憑性なんてものは皆無。はっきり言ってくだらないわ」
広瀬川先生はそう吐き捨てた。
「殺人鬼だったり、通り魔だったり、放火犯だったり、強姦魔だったり……世紀の大犯罪者だね、『くしびと』さん。あ、見て、今マスコミを賑わせてる献体すり替え事件も『くしびと』の仕業なんだって。へぇ~、八歳の時の犯行なんだぁ、すごぉい」
小池先生は……まさか楽しんでる?
「なあ、ナツさん。君の友達、これを鵜呑みにしてるって?」
「ち、違う違う。さすがにこんなバカげた話まで鵜呑みにしてないって。悪ノリして好き勝手書き込んでるだけだってみんな解ってる。因幡がここに書いてあるような事をしてるって、本気で思ってる奴なんていないわよ。広瀬川先生も言ってたけど、都市伝説を楽しむノリなの。『くしびと』っていう都市伝説をね。それが本当かどうかなんて二の次なわけ」
「『くしびと』の伝説、か……」
小池先生の「ファンサイト」という表現は言い得て妙だった訳だ。
ここは『くしびと』のファンサイト。
非日常的なスリルとサスペンスを求める者たちの為の娯楽の場なのだろう。
「たださ……」
「うん?」
「ここに書かれてるのって、なんつーか……基本、確かめるまでもなく嘘だと判る話か、本当っぽくても確かめようがない話かの、二通りに分けられる感じだと思うんだけどさ……」
「そんな感じだな」
「……ひかるの件に関しては、アンタの言うように事実が混じってるってのが問題なのよ。事件が起こった場所が学校で、アンタとひかるが揉めてるところを目撃した人も居て、今ひかるは本当に学校から居なくなっちゃってる。だから、この話だけは、信じてる人がかなり居るみたいなの。その所為でさ、過去の書き込みの内容にも、中には本当の話があるんじゃないかって、みんな考えるようになったらしいわ」
今まで何の根拠もない噂ばかりだった所に、事実との符合点を擁する噂が登場した事により、それ自体が過去の噂に根拠を設けてしまった訳か。
クラスメイト達は、先月の俺の異常な言動を目の当たりにした事も相俟って、すでに張り詰めた風船のような状態だった。そこに水沢との噂が針となって破裂をもたらした。そうして彼等は、これまでの“不干渉”から“排除”へと方針を変えたという事なのだろう。
水沢との事はキッカケに過ぎない。
元々クラスメイト達の不信感は募っていた。
水沢の一件の誤解を解いたとしても、事態の解決にはならない――そう心に留めておかねばならない。
「ね、伊波さん。うちの生徒達はみんな、この『くしびと』を因幡君の事だと思っているの?」
「大体の人は」
「でも、ここを読んだだけじゃ、これが因幡君の事だなんて判らないよね? 閉鎖された方のとは違って、こっちには個人が特定出来そうな情報は書き込まれてないし」
「ひーちゃ……小池先生、何言ってるんですか。この『くしびと』ってゆーのが因幡の事でしょ?」
小池先生の疑問に呆れたような目で答えるナツさん。しかし、俺には先生の言いたい事が解った。
「だからぁ、その『くしびと』ってゆーのが因幡君の事だって、なんでみんな知ってるの?」
「え? そりゃあ……因幡と同じ中学の出身だったら知ってる事なんだから、その誰かから聞いて……あっ」
「うん、やっぱりそう考えるよね」
つまりはそういう事。こんな愚にも付かない噂を流している大元は、俺と同じ月成中学校の出身者である可能性が高い。もちろん、『くしびと』の話を聞き付けたそれ以外の誰か、という可能性も除外できないが、その『くしびと』が因幡志朗だと知らしめることが出来るのは、結局月成中学校の出身者しかいない。
「ねえ、因幡。アンタと同じ中学の奴って、この学校に何人くらい居んの?」
「え? ……え~と、一年には俺を除いて六人だけど、上級生はちょっと把握してない」
「まあ、それは調べればすぐに判る事よね。とりあえず、その六人の中に怪しいのが居ないか考えてみてよ」
「その中で? う~ん……」
……別に誰でもおかしくない。
「じゃなくてっ。ナツさん、犯人捜しみたいな事はしたくないんだが」
「は? なんでよ」
「誰か個人を論ってもあんまり意味はないと思うんだ。いや、もちろんおかしな噂を元から払拭出来ればそれに越した事はないけど、抜本しなきゃいけない問題はそこじゃない」
「よく分かんないんだけど……。噂の元を絶てば、アンタに向けられてる不信感も消せるんじゃないの?」
「ナツさん、噂は飽くまでも噂だ。助長には繋がってると思うけど、噂自体が俺の立場を悪くしてる訳じゃない。一番の問題はさ、やっぱり俺自身にあるんだよ」
「それって?」
「ナツさんが言うところの……俺の“病気”」
「…………」
やはりそこに尽きると思う。
昨年の五月、先月、そして今朝と、俺の常軌を逸するような言動があったからこそのこの現状なのだ。まずは俺がそれを改めなければ、いくら噂を消したところで元の木阿弥である。
だが、どうすれば改めることが出来るのか。
見えているものを見えていない事にしたり、聴こえているものを聴こえていない事にするのは、ひどく難しかった。頭でそうしようと思っても、心の方がなかなか折り合ってくれないのだ。
「アンタさ、今朝みたいな事ってどーにできないわけ?」
「どーにかしたいんだけどね……」
「今朝? 今朝も何かあったの?」
「あ、いや、小池先生。別に大した事では……」
この話はそうそう理解が得られるとも思えない。話題を変えよう。
「因幡の不思議ちゃんモードの話」
しかしナツさんは普通に続けてしまう。
「え? なに? 不思議ちゃん?」
当然ながら小池先生は首を傾げた。
「ちょっとナツさんっ、その話は――」
「コイツ、なんかゆーれーが……」
「――待ってくれってば!?」
ガシッ
「わっ」
俺は慌ててナツさんの腕を掴み、彼女を部屋の隅へと連れていった。
「因幡く~ん? どうした~?」
「すんませんっ、ちょっと時間下さい!」
先生方の顔には明らかにクエスチョンマークが浮かんでいたが、この話に関しては説明するつもりはない。
「ナツさん……! あっさりゲロしないで俺のトップシークレット……!」
先生方からある程度距離を取った所で猛然と囁いた。ナツさんはハトが豆鉄砲……といった様子だ。
「あれ? この話って秘密なわけ?」
「当然だろ……!」
ただでさえ非常識な噂が出回っているというのに、そんな噂に輪を掛けて非常識なこの事実。理解ある先生方と言えど、さすがにこれは受け入れ難いだろう。噂として伝わるのならまだしも、俺本人がそう主張するとあっては話が変わってくる。“自称”霊能者。今の世、これほど信用ならない肩書はそういくつもないだろう。俺ですら聞いた瞬間に眉に唾を付けたくなる。この事が知れ渡るのは百害あって一利なしだ。――と、俺は噛んで含めるようにナツさんに説明した。
「うん、まあアタシもひかるの事がなかったらまともに取り合わなかったろうし、今だってよく解ってないしね。オッケ、この話は黙っとくわ」
「そうしてくれ」
「よく解ってない」の行は気になったが、とにかく黙っていてはくれるようだ。
「……アタシらだけの秘密……か」
「ん、ナツさん? 何て?」
「あ、なんでもない、なんでもない」
「――お~い、内緒のお話は終わったぁ?」
「ほら、ひーちゃんが呼んでる。戻ろ?」
「あ、ああ」
その後、今朝の事は軽い幻覚症状が出たという形にして先生方に伝えた。先月の事もあって、二人にはかなり心配されたが、本当に軽い症状だったと言い張って、どうにか父さんへの連絡だけは見送って貰った。
因みに、ナツさんとどんな口裏を合わせたかは追及されなかった。どうやら空気を読んで下さったようだ。
「因幡君、近々お宅に伺いたいのですが」
今朝の話が一段落すると、広瀬川先生がそんな事を言い出した。
「ウチに……ですか?」
「ええ、家庭訪問です」
「家庭訪問!? 高校でもそういうのあるんですか!?」
「いえ、通常はありません。学区のある小中学校と違って、うちには県外からの生徒も沢山居ますからね」
徳英に通う生徒の四割近くが県外からの生徒だ。そういった生徒は、学生寮で生活を送っている。
「てことは、父に何か話が?」
「はい。もちろん因幡君にもお話はあります。何の話かは察しがつきますね?」
本格的に俺の問題への対処を始めるようだ。
「このサイトはすぐに何とか出来ます。リンクを消せばいいだけですから、もう一方の時よりもずっと簡単に済むでしょう。ですが、だとしても因幡君への中傷はしばらく消えないと思うんです。とても残念ですが、今すぐ貴方の辛い環境を改善してあげるのは、実質困難と言えます。だから、貴方と貴方のお父様に一つ提案を」
「提案?」
「ええ。……これは飽くまで一つの手段であって、積極的に勧めるものではないのだけれど……一時的に、保健室登校をしてみてはいかがでしょう」
「ほ、保健室……登校……」
登校しても教室ではなく保健室で過ごす方法。
何らかの事情で教室に行けなくなってしまった生徒の為の救済措置。
それは、不登校の生徒を授業に復帰させる際のリハビリとして有効……な場合もあるが、実際はそこから不登校に繋がるケースの方が多いと聞く。保健室登校は不登校の前段階。そして、義務教育ではない高校生における不登校は、学校中退の前段階と言えよう。
つまりそれは、俺にとって受け入れ難い提案だった。
「ちょっとちょっと、それってひどくないっすか!? ほとんど因幡を厄介払いしてるようなもんじゃん!」
悄然としてしまった俺になり替わる様に、ナツさんが広瀬川先生へと噛み付いた。
「決してそんなつもりではありません。さっきも言った通り、一つの手段であって、因幡君と因幡君のお父様両方の心組みが前提のお話です。お二人の了解無しに事を進めたりはしないわ」
「そんなの当たり前でしょ! アタシは、担任がそんな事を言い出してる時点でおかしいと思います! 職務放棄も同然よ!」
「返す言葉もありませんね……」
「伊波さん、ちょっと落ち着いて。これは難しい問題なの、広瀬川先生だって本当にそうしたい訳じゃないんだよ。……だけどね、伊波さん。私はそれもありだと思う」
「ひーちゃんまで!? なんでよっ! 保健室登校なんてしたら、もう絶対、学校に馴染めなくなるわ! 中学ん時そういう子居たから知ってる!」
「リスクがあるのは解ってるよ。でも、今まさに中傷に晒されてる因幡君の精神的な負担を考えると、いったん噂の渦中から出た方がいいと思うの。教室に居ても辛い思いするだけなら、ここで噂の熱が冷めるのを待つのも手だよ」
「今のタイミングで因幡が教室から居なくなったら、噂がホントっぽくなるじゃん!」
「『くしびと』のサイトは見れなくなるし、春からは水沢さんも登校してくる事になってる。遅くても来年度が始まる頃には噂も沈静化してる筈よ。だから、今年度の残り一カ月余りを、保健室で過ごすのも悪くないんじゃないかな?」
「結局問題の先送り!?」
「そうじゃなくてっ。まずは因幡君が酷い目に遭わないようにするのが先決って事だよっ。今日みたいな事がまたあるかも知れないからっ」
「そうならないようにするのも先生の仕事でしょっ!?」
「そうならないようにするから、それまで保健室登校しててって言ってるのっ!」
「アタシはひーちゃんと一日中一緒なんて嫌っ!」
「なんで嫌なのっ!? てゆーか伊波さんに言ってるんじゃないんだけどっ!?」
「あっ! 分かった! アンタ因幡を狙ってるんでしょっ!?」
「なっ、何言っちゃってるかなこの子はっ。しかも先生に向かってアンタって……!」
「この機に乗じて因幡を手籠めにする気ねっ!?」
「ちょーーーーーっ!?」
「この淫行教師ぃぃぃぃぃーーーーー!」
「はったおすぞこんガキャーーーーー!」
――バシッ! バシッ!
「あたっ!?」
「きゃん!?」
「お二人とも、そういう言い合いはよそでやって下さい」
当人そっちのけで論争……と言うよりは口論を繰り広げていたナツさんと小池先生を、広瀬川先生が――どこから持ってきたのかB5サイズのバインダーで――二人の頭を叩くという教育的指導を行使して止めた。体罰を是とするつもりはないが、二人の論点は明らかに明後日へと向かい始めていたので、この場合は致し方ないと言えよう。というか広瀬川先生グッジョブ。
「伊波さん」
「は、はい」
「もう少し言葉に気を付けた方がいいわ。因幡君を慮っての事でしょうから強くは言えませんが」
「? おもん、ばか?」
「貴女の言い分は正鵠を射ていると思います。でもこれは因幡君の問題なので」
「……せ、せーこく?」
「どうするかは因幡君が決める事。伊波さんはクラスも違うのだし、容喙は控えて貰えませんか?」
「は、はあ、すいませんでした。(……う、う~ん? よーかい? ……妖怪? 溶解? なに?)」
先程の剣幕のわりには、思いの外あっさりと矛を収めるナツさん。しかし、眉間の皺や首の傾げ具合を見る限り、納得しているようには到底見えない。俺の為にこんなにも心を痛めてくれるだなんて、有り難いやら申し訳ないやら。
「そして、小池先生?」
「あ、あう……ひ、広瀬川先生? 今のは私に非は無いのではないかと愚考致す次第でして……」
「……『はったおすぞこんガキャ』」
「ひぐっ」
「理由はどうあれ、教育者としてその発言は如何なものでしょう。いえ、それ以前に大人の女性としましても」
「うう、ついヒートアップしちゃいまして……面目ありません」
以前にも小池先生が壊れたところを見た事がある。その時も結構な暴言を吐いていたっけ。
「まあ、伊波さんの方にも問題がありましたしね。ですがっ」
「は、はい?」
広瀬川先生は、小池先生の耳元へと顔を寄せた。
「……教え子に手を出したら懲戒免職……ですよ?」
そして何やらぼそりと呟く。
「や、や、やだなぁ、ももももちろんわかってますって~、あははは~」
何を言われたのか、小池先生の顔は青い。
「ふぅ……。さて、因幡君?」
広瀬川先生は一つ息を吐いた後、仕切り直しとばかりに、スーツの襟を正しながらこちらに向き直った。
「あ、はい」
「やはり保健室登校には抵抗がありますか?」
「……できれば避けたいです」
「それが普通でしょうね。分かりました、この話は一旦置いておきましょう。ただ、頭の隅には留めておいてください。そういう方法もあるんだと」
「はい」
「このサイトに関しては、先生達が責任を持って処理しておきますから安心してください。少なくとも、徳報プレスからここに跳べないようにはします。今日中に」
「すみません。お手数をかけします」
それから程なくして、五時限目の終了を報せるチャイムが鳴った為、話はひとまず打ち切られた。
俺が抱えている問題の解決の糸口は見い出せなかったが、例のサイトを先生方がなんとかしてくれれば、これ以上の噂の錯綜は防げるだろう。……行くところまで行きついている感は否めないが。
どうであれ、問題解決に一歩ぐらいは前進した筈だ。
実を言うと、俺はこの事で教師に介入されるのは不本意だった。自尊心だったり、逆に引け目だったりと諸々事情はあるが、一番の理由は父さんの耳に届いてしまうからだ。父さんは、先生方に密な連絡を望んでいるとの事。今回の事もきっと伝わるのだろう。子供がいじめ紛いの目に遭っていると知った時の親の気持ちは想像する事しか出来ないが、心労に繋がるのはまず間違いない。こうなった以上、知られてしまうのは諦めるとしても、保健室登校なんて事態は何としても避けたい。
だから俺は「それじゃあ教室に戻ります」と言って、なんでもない事のように六時限目参加の意欲を先生方に見せた。案の定、心配げな反応を示す女性陣に「午前中は問題なかったんだから大丈夫」と言葉を重ね、保健室登校なんて必要ないとアピールするように、軽い足取りで保健室を後にした。
「……はぁ」
と、保健室を出た途端に溜め息を吐いたのは内緒だ。
「溜め息ついてんじゃん。やっぱ平気なフリだったわけね」
「ッ!? ナ、ナツさん……?」
すぐ後ろにナツさんが付いていた。
考えてみれば彼女が一緒に出て来るのは当然だ。俺の付き添いで保健室に来ていたのだから。
「……さっきはああ言ったけどさ、アンタがそんな辛いんだったら、保健室登校ってのもありなのかもね。でもアタシ、中学ん時に保健室登校して、そのまま卒業式にすら顔出さなかった子知ってるからさぁ」
「へえ。その子、今は?」
「高校は通えてる」
「もう大丈夫なんだ?」
「うん、多分。あれってさ、一度抜けた輪に戻るのが難しいみたいなの。特に女子は派閥とかあるしね。教室に戻れてたとしても、自分が属してた派閥から拒絶されちゃうとさ、それはもう孤立してるのと同じ事なのよ。クラスメイトの大部分にそんな気はなくても、本人は教室に居場所が無いって思っちゃうわけ」
「高校に上がって、上手い具合に新しいコミュニティを獲得できたんだな、その子」
「かもね。……その子は高校進学で心機一転する機会があったけど、アンタはそうもいかないじゃん? アタシが一番心配なのは、保健室登校からそのまま学校を辞めちゃうって結末なのよ。よくあるパターンらしいしさ」
「学校は絶対に辞めないよ。学費を払ってくれてる親に申し訳なさ過ぎる」
「……また優等生な返答ね」
「あと……友達が出来たから辞めたくない」
「ッ……ア、アタシのこと?」
「恥ずかしながら、現在この学校に友達は君しかいません」
「あ、う、も、もぉ~、しょうがないわねっ。そこまで頼られちゃ、応えてやんなきゃ女が廃るわ。オーケオーケ、アンタはアタシが護ってあげるわよ」
気風よく姉御肌を晒すナツさん。心強い限りだ。
ただ、「護る」という言葉が少しだけ気になった。
男としてそれは……などと言いたい訳ではなく、その言葉にある光景を思い出したのだ。
――ひかるはアタシが護らなきゃ。
以前、行方をくらませた水沢ひかるを探している際に、ナツさんはそう言った。その時の彼女は、いっそ悲愴と言える表情だった。まるで、水沢に何かあれば自分の責任だと言わんばかりに。
水沢ひかるはナツさんを指して「律儀」と評していたが、俺もここ数日でそれを実感していた。責任感が強いというか庇護欲が強いというか、とにかくそれは時として、己を顧みない程に発揮されかねないという事を、俺は知っている。そこがやや心配だった。俺の事で気負わせて無茶な行動を取らせてしまわぬよう、気を付けて行かねばならないだろう。
「……あっ」
「ん? なに因幡」
昼休みに一悶着あった場所に差し掛かった時、ナツさんに訊かなければならない事があったのを思い出した。
「ナツさん、昼休みに俺を助けてくれた男子って知り合い?」
「吉原の事? 同じクラスだけど」
「てことは四組の生徒か。えっと、吉原……何君?」
「鳴海よ。女の子っぽい名前よね」
「吉原……鳴海君、ね」
なるほど、あの栗原という先生は、彼を下の名前で呼んでったって訳か。
「なになに? あのイケメン君がどうかした?」
「イ、イケメン君?」
嫌いな類の単語だった。
だが、言われて思い返してみると、確かに吉原は端整な顔立ちだったように思う。
「学校屈指のイケメンだって女子の間じゃ有名よ? その上、空手部期待の星だとか。更には、非公認でファンクラブなんてのもあったりしてさ。知らなかった?」
「マジですか……知らなかったよ。もしかして特待生?」
「そうよ」
徳英は進学校なだけあって、部活動はあまり盛んな方ではない。文化部系はその限りではないが、運動部系は実質レクリエーション状態になっている。高校総体などにも当然参加はするが、「参加する事に意義がある」が基本姿勢だ。結果は求められない。
ただ、例外がある。運動部でも武道系に関してのみ、この学校は非常に力を注いでいるのだ。その為、『剣道』『柔道』『弓道』『合気道』『空手道』『薙刀道』、そして珍しい『杖道』と『銃剣道』を合わせた八つの部においては“特待生”枠が設けられていた。その選考基準はとても厳しいようで、かなりの実力者達が全国からこの学校に集まっているそうなのだ。
武道を重んじるのは徳英学院の伝統だ。俺達のような一般の生徒にも必修で武道の授業があり、男子は剣道と柔道から選択、女子は合気道と薙刀から選択、となっている。だが、それも週に一時間程度。飽くまでこの学校の主眼は進学にあると言えるだろう。武道特待生は、その名の通り、この学校では特別な学生なのだ。
「それで? アイツがなんなのよ」
「いや、助けて貰ったお礼をしようと思って」
「あー、なるほどね。でも、別にいいんじゃない? お礼なんて」
「そんな訳にはいかないって。結構ヤバい状態だったんだ、彼が助けてくれてなかったらどうなってた事か」
「でもアイツはなぁ……。多分、ウザがるだけだと思うわよ?」
「そうなのか?」
「吉原って、人と関わるのが嫌いみたいなのよ。話し掛けても『別に』とか『どうでもいい』とかしか返って来ないし。それに、いつもかったるそうにしてて態度も悪いし。アタシ、アイツと話してるとイライラしてくんのよね。会話が噛み合わないっつーかさ」
「……ちょっと言葉を交わしただけだけど、何となくその気持ちは解かるかも」
何と言うか、独特な雰囲気を持った奴だった。
「ファンの子なんかはそこがイイとか言ってるけど、アタシには理解不能。まあ、顔がイイのは認めるとしても、あの性格は無理。アイツさ、女子にはモテモテだけど、男子からは嫌われまくりなのよ?」
ナツさん、貴女は男性視点なのか。
「でもなんか……水沢の男版、て感じ?」
水沢は男子には人気が高いが、女子には敬遠されがちだとナツさんは言っていた。
「ちょっとちょっと、一緒にしないでよ……って言いたいところだけど、アタシもそう思った事あるわ。でもひかるは性格が悪いって訳じゃないわよ? 気分屋なだけ」
「解ってるよ。水沢はいい子さ」
「む……そうよっ」
そして吉原もいい奴なのではないかと思っている。あれだけ人が居た中で、俺を助けようとしてくれたのは、ナツさんを除けば彼だけだったのだから。
「因幡がお礼言いたいってんなら呼んできてあげるわよ? 来るかは判んないけどね」
「ああ、頼める?」
「オッケー」
ナツさんは、吉原を呼び出すべく、四組の教室へと入っていった。
廊下に取り残された俺は、周りからの視線に居心地の悪さを覚えながら、彼女が戻ってくるのを待つ。
(早くしてくれ~)
などと、つい身勝手な言葉が口を突いて出そうになった。居た堪れなさの所為だ。これが漫画なら、今の俺の背景は「チラチラ」と「ヒソヒソ」のオノマトペで埋め尽くされている事だろう。
「――因幡、吉原、居ないわ」
そう言いながらナツさんは戻ってきてくれた。俺は心の中でホッと息を吐く。
「そうか」
「どうする? 待つ?」
「んー、いや、次の機会にするよ」
「……考えてみたら、吉原っていつも教室に居ない気する。因幡みたいに」
「え?」
それはつまり、休み時間になると教室を抜け出しているという事か?
「アタシ、あんま親しくないから確信ないけどね。でも、そうね……改めて思い返してみると、吉原も孤立してるって言えるかも。アイツの場合はアンタと違って、自分から周りと距離取ってる感じだけど」
「自分から……」
人付き合いが苦手だとか、独りで居るのが好きだとか、そういう人間は少なくないだろう。人恋しい病の俺には理解出来ない事だ。いや、あるいは……。
「ナツさん、吉原が――」
――人殺しの弟っていうのはどういう意味? そんな疑問を口にしそうになって慌てて呑み込んだ。風評で痛い目に遭っているが風評に乗る訳にはいかない。第三者からの不確実な情報で人となりを判断される辛さを、俺は誰より知っている。
「ん?」
「あ、いや、何でもない」
「……ひょっとして、人殺しがどーのってやつ?」
「心が読めるのかっ!?」
「顔見てたら何となくよ。アンタって色々分かり易いから」
「うぐ」
俺って、顔から情報ダダ漏れなのだろうか……。
「アタシも詳しくは知らないんだけどさ、なんかアイツのアニキが交通事故起こしたって話よ。多分その事だと思う」
「……なるほど」
恐らくは、相手が亡くなっているのだろう。
それで“人殺し”の弟、か……。
遺族の側に立ってみれば、それは至極真っ当な連体修飾語だと思う。しかしながら、吉原自身には何の罪も無い事を思うと、彼に同情を禁じ得ない。
ひどく難しい問題だった。
「でもさ、その事故って先週の事なのよ。その前から吉原はあんな感じだし、アイツが孤立してる事とその事故は関係ないんじゃない?」
「そうなのか? という事はそれとは別に何か……って、いやいやいや」
「は?」
「俺は吉原にお礼を言いたいだけであって、プライバシーを探りたいんじゃなかった」
「あ、ああ、そうね」
「吉原は居ないようだし、俺、教室に戻るよ」
「ん、そう」
「そう言えば、放課後ってどうするの? 保健室、集まるのか?」
「ああ、そっか。……でも、話すことは話したしなぁ。今日はもういいでしょ」
「そうか。じゃ、また」
「バイ」
そうして俺は自分の教室へと足を向け……かけたところではたと気付いた。
「あ、ナツさん」
「へ?」
「考えてみたら君にもお礼を言ってなかった。今日は本当にありがとう」
助けてくれたのはナツさんも同じだ。
「ばっ……いいから早くもどんな!」
ナツさんは明らかに照れていた。日本人は面と向かって礼を言われると、何故か大抵の人は照れる。不思議だ。……まあ、俺も照れるけど。
「んじゃ、今度こそ行くよ」
「はいはいっ」
ナツさんは逃げるように四組の教室に戻った。
その際、四組からこんな会話が聴こえてきた。
「ちょっと伊波っ! 今のって一組の因幡じゃないのっ!?」
「へ? そ、そうだけど……?」
「千夏ちゃん、それって一体どういう事!? 何であの人と一緒に!?」
「ああん、もうっ、詰め寄んないでよ!」
学内にて人気が高いと評判の男子と親しげに話していたナツさんをやっかみも込めて囃し立てる女子生徒達の図……だったらいいのになぁ。
そんな妄想をしながら、三組、二組と教室の前を通り過ぎ、やがて一組の教室前に差し掛かった。そこでいったん足を止める。
「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」
そして、負の感情を体外へと押し出すつもりで大きく息を吐き、空いた体内には気合を込めた。
――キーンコーンカーンコーン……
六時限目開始のチャイムが鳴る。
それをきっかけとして、俺は止めていた足をゆっくりを踏み出した。――廊下に出された一式の机と椅子に向かって……。
『くしびと』って言葉の意味は、徐々に明かしていきます。前書きでも言いましたが、期待される程の意味は込めていません。この言葉が月成中学校で発生した経緯が重要なん……すいません、ネタバレする所でした。