time to believe now 3
かったるい話が入ります。
一月二十二日 土曜日 夕刻前
「――それで、お巡りさんに声を掛けられてからは見えなくなったのね?」
「はい」
「咄嗟に逃げた可能性は?」
「お巡りさんは、俺が一人で騒いでいたから声をかけた、って言ってました」
「あらら、決定的ね」
「ここのところ落ち着いていたんですけどね……」
「落ち込まなくても平気よ。少なくとも悪化している訳じゃないもの」
一つの部屋に、二人の男女。
一人は俺。
もう一人は年配の女性。
二人はリビングテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。
「はぁ……」
俺は溜め息を一つ吐き、ソファに深く座り直す。
「あらあら、ひどくお疲れね。そんな顔、久々に見たわ」
「どんな顔です?」
「そうね……何かに後悔してる顔、かな」
「…………」
この人には敵わない。
確かに俺は少しだけ後悔していた。
水沢ひかるの事だ。
――ママはどこに居るの!?
あの時の彼女の必死の形相が頭から離れない。俺は、彼女から逃げたのは失敗だったのではないかと思い始めていた。
「幻覚の事よりも悩ましい事案を抱えてるみたいね」
「美作先生、鋭過ぎなのは嫌です」
「あら、ごめんなさい」
美作先生。
美作奈緒子医師。
俺の主治医で、ここ、児の手柏医院の開業医。
俺が六歳の時からお世話になっている精神科医だ。
付き合いはかれこれ十年近くになる。年齢は未だに知らないが、少なくとも俺の父さんよりは上の筈。しかし、見た目は出会った時から全く変わっていない。髪型もずっとショート、体型もほぼ維持され、しわも増えてる様子はない。この人だけ時間が止まっているかのようだった。ただ、最近は手元を見る時に、眼鏡を掛けるようになった。きっと老眼が……。
「ん、んんっ。志朗君? 今、何を、考えたのかな~?」
「い!? いやいやいや……な、何も、そんな、別に……」
「んん~?」
「うっ」
余計な事は考えない方がいいな。この人は本当に鋭過ぎる。
「まあいいわ。それで? どんな事で悩んでるのかしら。ひょっとして青い悩みかな~?」
「違いますっ。ここでお悩み相談するつもりはありません。カウンセリングをお願いします」
「あら? 私、カウンセリングってお悩み相談だと思ってたわ」
「え、あれ……?」
「ふふ、カウンセリングって言葉は広義に使われるからね。正確には『相談援助』。悩みを抱えている人が、自らその悩みへと立ち向かえるように導くのが、カウンセリング」
「何かややこしい言い回しですね」
「その人に、解決方法を提示してあげるのは、アドバイス。その人を、自分で解決できる人にしてあげるのが、カウンセリング」
「主体性の有り無し?」
「そんな感じね」
「じゃ、先生が俺にしているのは……」
「心理的カウンセリングよ。一番多くやっているのは来談者中心療法ね」
「それって話を聞くだけですよね?」
「ただ聞くだけ~」
「……もしかして、精神科医ってぼろ儲け?」
「うちの医業収益対人件費比率は70パーセントに迫ってるの。火の車。明日をも知れない状態よ」
「そんな事、患者に話しちゃっていいんですか?」
いつも通り、話は脱線していく。
そう、これはいつも通りなのだ。
本題が四に対して雑談が六で、雑談の勝ち。
「話が逸れてるわ」
「いつも逸れます」
「いけないいけない、お仕事しなくっちゃ」
別にいい加減な先生という訳ではなく、こういうテクニックなんだと思う。その証拠に、ここに来る前までの不安感は薄れ、今は普段の自分を取り戻せているように思える。
「さて、と……あら、何だったかしら?」
……テクニックの筈だ。
「今日の事は分かったわ。水辺じゃないのに随分と明晰だったみたいね。水辺で見る幻覚の方は相変わらず?」
「……はい、それは相変わらずです」
幻覚症状。
それこそが、長年ここへと通う理由。
そもそもの始まりは、六歳の時に遭った水難事故。
それをきっかけに、俺は水辺において幻覚を起こすようになった。
海で。
川で。
プールで。
水溜りで。
表れる症状は基本的に幻視。見えるのは女の人。水の中から女の人が現れるのだ。それはとても恐怖を誘う幻覚だった。だから俺は水辺に近付かない。いや、近付けない。
美作先生は、水難事故を原因とするPTSDと診断した。すなわち、幻覚は心因性のものだという事だ。
「今は季節的に雨が少ないんで助かってます。……まあ、雪が溶けたら水溜りになりますけど。でも、子供の頃ほどの恐怖は感じなくなりましたし、前も言ったように、前兆みたいなのを感じるようになったので、パニックにはもうならないと思いますよ」
「前兆って、例の背中のざわざわ?」
「いえ、背中のぞわぞわです」
「……違いが判らないわ」
「ええと、感覚的な事なんで、口で説明するのは難しいんですよね……」
「通常、幻視の前駆症状として挙げられるのは、意識障害とかなのだけど」
「そういうのは無いと思います。失神とかした事はないですし。大抵は、不意にこう……あ、ぞわぞわしてきた、これはくるかも……みたいな感じです」
「因みに今日のは?」
「前兆ですか? 全く無かったですね。というか、幻覚って気付けなかったですし」
「幻視、幻聴、体感幻覚の三拍子だものね」
俺は五感の内、味覚を覗く四つの感覚で幻覚を起こす。複数の感覚で症状が出た場合は、それを幻覚だと認める事が非常に難しい。
まさに今日がそうだった。
俺はあの女性の姿を目にし、声を聴き、身体に触れた。あれを幻覚と気付けた事は、運が良かったと言える。子供の頃なんかは、幻覚なんて概念を持っていなかった為、見たもの聴いたもの触れたもの全部を現実と認識していた。お蔭で俺は、自分の幼少期の記憶に、全く信用が置けない。
「それにしても、また新しい幻覚ね。その女性、いつもの女性じゃないのよね?」
「はい、あれはさすがに見間違いません」
「近頃は寧ろ、水辺以外の幻覚が多いかしら?」
「……かも、知れません」
水難事故によるPTSDが幻覚の原因……であるならば、こうも事故と関係の無い内容の幻覚を起こすのは何故だろうか。俺は、水辺で起こす幻覚を「怖い幻覚」、それ以外は「怖くない幻覚」と、分けて考えている。もっと言えば、前者は「認識し易い幻覚」、後者は「認識し難い幻覚」。さらに言えば、前者は「事故の所為」、後者は「なんで?」。そして、今日の幻覚は後者と言える訳だが、俺が水辺に近付かない事もあり、最近はこの手の幻覚が主となってきた。
そもそも、この幻覚症状が事故後のものなのか、それともそれ以前からあるものなのか、実は未だにそこが確定していなかった。
となれば、俺の症状は本当にPTSDなのか、という疑問が出てくる。
そういった訳で、美作先生は非定型精神病の可能性も視野に入れて診るようになった。すなわち、幻覚は精神病性のものだという事だ。
心因性か、精神病性か、あるいはその両方か。答えはまだ出ていない。
「去年の時と比べるとどうかしら?」
「去年……? ああ、ゴールデンウィーク明けの時の事か。あの時も全く気付けませんでしたよ、今日と同じです」
「この一年間で、現実と区別できなかった幻覚症状は、今日のを合わせて二度?」
「うーん……どうでしょう。その二度は、直後にそれが幻覚である事を示す出来事が起こったんで、気付けたんですよ。ひょっとしたら、幻覚と気付かずにそのまま流してきた事もあるのかも」
「……幻覚と気付かず……ね」
「え?」
「いえ。じゃ、今日を経て、今の志朗君の心境は?」
「あ、ああ……ええと、参ってる……かな?」
「辛い出来事だった?」
「その、まあ、なんて言うか……客観的に見て、衆人環視の中で一人芝居をしてたようなものですからね」
「そうねぇ、周りにはそう映ったかもしれないわねぇ。それを恥じ入っているのかしら?」
「というか、今になって冷静に考えると、あの時間のあの場所、ウチの学校の生徒が沢山居ただろうなぁって。それを思うと、明後日の登校がちょっと億劫に……」
実際、現場を目撃していた女子生徒と、すでに接触を果たしている。
その彼女はなんと言っていたっけ?
いや、しっかりと憶えている。
「キモい」と言われた。
「今、学校に通う事に対して、強いストレスを感じる?」
「……でもないかな。いつもよりは、程度です」
「それは、普段から常にストレスを感じているという事?」
「あ、いえ、我慢出来る範囲です」
「……我慢、しているのね、志朗君」
「…………」
正直に言って、俺は学校生活を謳歌出来ているとは言い難い。
その理由は、去年の五月、ゴールデンウィーク明けに起こった出来事に起因する。
「去年の事……ああいう事が起こる可能性は、考慮していたんですが……」
「学校は、一番多感な時期の人間が集まる場所。一般社会ですら理解を得にくい現状を考えると、高校生くらいの子たちが志朗君の問題を受け入れるには、些か人生経験に欠けるわ」
「うーん……」
その年代であるところの俺としては、きっかけさえあれば、みんな理解を示してくれるのではないかと思っている。多感な時期だからこそ、フレキシブルに物事を受け入れられるのではないだろうか。しかし、今の俺の現状を考えると、美作先生の意見には一理あると認めざるを得ない。
「フフ……気に入らないみたいね。まあ、だからこそ志朗君は、学校に通い続けられるのでしょうね」
「それは……よく分かりませんが」
今でもあの出来事を思い出すと心が沈む。
日にちや曜日は……パッとは出て来ないが、とにかく五月初旬のゴールデンウィーク明けだった。
クラス委員としての仕事を請け負い、放課後の教室に一人残っていた時の事。俺は、突然現れた女子生徒に、愛を打ち明けられた。だが、俺はそれを拒んだ。女の子から告白されたのは、それが生まれて初めての事ではあったが、俺には想っている人が居た為、すぐさま断りの言葉を口にしたのだ。それがいけなかったのか、彼女は取り乱し、泣き出し、喚き出した。感情を剥き出しにする彼女の姿に、「そこまで俺の事が好きなのか」と心を打たれた次の瞬間、その彼女が突然カッターナイフを取り出したのだ。そして、それを自らの首筋へと宛がいながらこう叫んだ。
――死んでやるっ!
あまりの展開に胆が冷えた。本気かどうかなんて考えもしなかった。俺は無我夢中で彼女の腕を掴み、首からカッターナイフを引き離して、そのまま押さえ付けながら説得に当たった。時間にすれば二時間以上は掛かっていたと思う。その説得が功を奏した頃には、すでに日が落ちていた。どうにか落ち着いた彼女は、最後に力無い微笑みを俺に渡して、静かに教室を後にした。
……それが全て、幻覚、だったのだ。
この放課後の出来事は、翌日、俺の奇行という形で学校中に知れ渡る事となる。
曰く、因幡が放課後の教室で独り言を呟いていた。
一人、虚空に語りかけていた。
一人、呼吸を荒げていた。
一人で叫んでいた。
一人で暴れていた。
一人で。
独りで。
独り、放課後の教室で怪しげな行動をする男、因幡志朗。
色々な意味でショックではあったが、俺はそれほど深刻には捉えなかった。こんな事態は十分に有り得た事。ただちょっと最悪気味に起こってしまっただけ。人の噂も七十五日、今を乗り切れば何とかなるさ。……そう思っていたのだ。
だが、悪い事というのは重なる。
その後すぐの事だった。情報のソースは判らないし調べるつもりもないが、誰かによって、俺が精神科に掛かっている事を広められてしまったのだ。
これにより、俺には「異常者」のレッテルが貼らてしまった。
それからは当然の様に孤立している。クラス委員の仕事でもない限り、クラスメイトともまともにコミュニケーションも取れないほどにだ。俺なりに、周りから信用を得ようと奔走してはいるのだが、今に至って状況の改善は見られなかった。
「――いじめられるような事にはなってないのよね?」
「はい。基本的に怯えられているような感じです」
「心の負担を甘く見ちゃだめよ? 『自分は耐えられる』なんて考えてる時点で限界は迫ってるわ」
「負担を軽減してくれる存在は、しっかりと確保しているつもりです。その中には先生も入っています」
「あら~、本当にイイ子ねぇ、志朗君は。なでなで」
「あ、あの……子供扱いされるのはちょっと嫌かも……」
「ま、カワイイ事言うのね」
「あの、だから……」
美作先生が脱線モードに入りかけている。――さては飽きたな。とか考えているのは内緒だ。
まあ本当は、俺のポジティブな発言を聞いて、今回の診療を終わらせるタイミングを見つけたのだろう。俺もそろそろ良い頃合いだと感じていたし。
「……あ」
「ん? なにかしら」
水沢ひかるの事、話すべきだろうか。俺の幻覚に、間接的にだが、干渉してきたあの少女の事を。今までに無かった事なんだし、話した方がいいのだろうけど、まだ、俺の中で上手くまとまっていない。彼女のプライバシーにも関わりそうだし、どうしよう……。
「話したい事を我慢するのだけはやめてね? 話すべきか判断がつかない事なら、話さない方がいいわ」
「…………」
いつも思うんだが、精神科医って言うのは心が読めるんだろうか。
「後者です」
「ならやめときましょ」
そうだな、これでいい。水沢の事は少し一人で考えたい。あの様子だと近いうちに接触してくるだろうし、それまでに心構えも作っておきたかった。
「じゃあ、今日は……今日もありがとうございました」
「い~え~、こちらこそ~」
――こちらこそは変でしょ。そう思いながら、スポーツバッグと買い物袋を手に取る。
「あ、来週の定期診療はどうしましょう」
「予約はそのままにしとくから、来たければ来ればいいわ」
そんなんでいいのだろうか。
他の患者さんの都合とかは?
まあ、今に始まった事ではないか。
「処方箋はいつもの薬局にFAXしとくから、受け取り票はちゃんと受付でもらってってね~」
「あ、はい。御世話様でした」
「はーい」
そうして診療室を出た。すると……。
「――おっと」
「あ、すみませんっ」
「いえ、こちらこそ」
出会い頭に男性と肩がぶつかってしまい、俺は慌てて謝罪した。どうやら部屋の前で待っていたようだ。ふと見ると男性は白衣を着ていた。
ここの先生だろうか。
見覚えは無いのだが。
「あら、京助君」
後ろから美作先生の声。
一緒に出て来たようだ。
別れの挨拶がちょっとだけ恥ずかしく思えた。だってもう一度言わなきゃじゃん。
「あの、院長? 患者さんの前では高井でお願いします」
「あらら、そうだったわね」
なんだか深読み出来そうな会話だ。……邪推か。
「志朗君、紹介するわね。……こちら高井京助先生。今週からうちの常勤になったのよ」
「高井です。よろしくお願いしますね」
「あ、因幡志朗です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「君が因幡君ですか。院長からお話は伺っていますよ」
「へ? 話って……」
「院長の娘婿にって」
「はあっ!?」
なんじゃそりゃあっ!?
「あれ? 違う?」
「当り前ですっ! そもそも、美作先生に娘さんがいる事自体、初耳ですよっ!」
「おや? 僕の勘違いだったのかなぁ……。めでたいと思ったのに、とても残念です」
この先生、何だか(変な意味で)危険なニオイがするぞ。
そして美作先生は何故否定しない。
「クスクス……高井先生はね、私の旦那の妻の姉の夫の子供なのよ」
「いや姉の息子でいいじゃん……って、美作先生の甥っ子さん!?」
「さすが志朗君、頭の回転が速くって素敵よ。そう、私の甥」
「へぇ~……何て言うか、ハンサムな方ですね」
ハンサム。
イケメンとは違う。
その知的でスタイリッシュな風貌は、ハンサムって言葉がしっくりくる。背も高めで顔つきもシャープ。目は細めに見えるが、笑顔を絶やさないからだろう。う~ん、モテそうだ。
「駄目だよ? 僕には妻がいる、君と結婚は出来ません」
「何言ってますかっ!?」
「あはは……。ごめんねー、彼、少し変わってるのよ」
少し、だろうか。
医者だよな?
しかも精神科の。
……大丈夫なんだろうか。
「けど、なんか……美作先生の血筋って感じはする」
「あらま、どういう意味なのかしら。でもそうね、血筋っていえば、私に娘がいるのは本当よ」
「あ、そうだったんですか」
「志朗君、結婚してくれる?」
「貴女も何言ってるのっ!?」
「あらやだ、私とじゃないわよ? 娘とよ、娘と」
「んなこたぁ解ってます! もう結婚ネタはいいですから!」
「ま、ネタだなんてヒドイわ。行き遅れ街道まっしぐらな子だから、早い内に当たりを付けてあげたいのよ」
どんな人なんだ、先生の娘さん。いや、ここで興味を持ってはいけない。
「そもそも、俺はまだ結婚できる年齢じゃありません」
「そんなの平気よ。言ったでしょ? 行き遅れ街道まっしぐら。いくらでも待てるわ」
だからどんな人なんだ、先生の娘さん。くそっ、興味が出て来てしまった。失礼な意味で。
「でも、志朗君がどうしてもって言うなら、私が……」
「本日はありがとうございました。では、また後日」
俺は、脱兎の如く、その場を離脱したのであった――。
「あらら、行っちゃった」
「叔母さん。叔父さんと離婚するんですか?」
「長いこと別居中ですもの、いつそうなってもおかしくはないわね」
「そうですか……。世間の風当たりは強いでしょうけど、僕は因幡君との事を応援しますよ」
「京助君」
「はい」
「志朗君が居ないところで続けてもつまんない」
「はい?」
「……貴方も大概変わってるわね。それより、彼、どんな印象だった?」
「うーん、想像とは大分違っていましたね」
「そうなの?」
「叔母さんから話を聞いた時は、もっとニューロティックなイメージでした。まあ、症状の話がメインでしたから当たり前なんでしょうけど」
「じゃ、実際に会ってどうなったかしら」
「随分と社交的だったので驚きました。初対面なのに物怖じした様子はありませんでしたし、年代の違う相手とのコミュニケーションにも気後れせずに対応が出来てましたね。寧ろ……社交的過ぎやませんか? カルテを見る限り、対人恐怖症に直結しそうなサブジェクトが多々ありました。そこから彼の、あのひととなりは想像できませんよ」
「ええ、尤もね」
「今日の来院は飛び込みだったんですよね? 何か症状が?」
「少し重めの幻覚症状」
「どう見てもその直後とは思えなかったんですが、どういったものだったんです?」
「え~と、幻視は、見たものの特徴を細かい部分まで思い出せるレベル。幻聴は、完全に聞き取れていてレスポンスにレスポンスが返ってくるレベル。体感幻覚は、自分の身体に対して何がどういった作用を及ぼしているのかを明確に把握できるレベル。……なんでも、ネオンに映えそうな艶やかの出で立ちをした妙齢の綺麗な女性が、彼にしがみ付いて『こっち来い』って連呼したんだそうよ」
「…………」
「解ってる。ちゃんと妄想の可能性も考慮はしてるわ」
「ええと、エピソードの一貫性については……」
「基本的には一貫性があるわ。彼は事故以来、『水辺で女性が現れる』と口にし続けてる。でもそれと同じくらいの頻度で、多様な一過性の幻覚を起こしているの」
「事故……PTSDに関しては疑いようもありませんが、叔母さんは非定型精神病と診断したんですか?」
「便利な病名よね」
「……方便なんですか?」
「もちろん根拠はあるわよ。ただ彼の場合、心因性か内因性かの判断が未だ付かないのよね」
「幻覚以外はどういった症状が多いんですか?」
「志朗君はね、幻覚を起こすだけなのよ。それに伴うはずの障害や疾患の症状があまりにも軽微なの。正常と言ってもいいわ」
「……ここ最近の治療手法は?」
「PTSDに関しては、手堅くEMDR。私の分野だからね。あとは、今日みたいなカウンセリングが主よ。薬はクロキサゾラムを中心に処方してる」
「メジャートランキライザーを試したことはあるんでしたっけ?」
「ええ。でもすぐにやめたわ、緩解しなかったからね。薬は幻覚を抑える為じゃなく、幻覚によって引き起こる混乱や不安感を抑えるのが目的になってるわ」
「対症療法の感が否めませんね」
「耳が痛いわね」
「うーん、しかし、なんと言いますか……」
「高井先生はどう判断しますか?」
「いえ、僕はまだ因幡君とまともに接していませんし、なんとも……」
「現時点の意見でいいから、実際に会ってみてどう思ったか聞かせて?」
「フゥ……。では、敢えて言うならばを、前置きとしまして」
「うんうん」
「ミュンヒハウゼン」
「あれま」
「主観ですけどね」
「自傷行為は無かったと断言できるわ。それでもミュンヒハウゼン?」
「今日会った事でパラノイアの線は、僕の中では薄まりました。それで、カルテにあった彼の生い立ちに関する内容を鑑みて、これはしっくりくると思えたんです」
「なんにせよ京助君は、志朗君が幻覚を起こしていないと考えてるのね?」
「例の水難事故の直後はあったんだと思いますよ? PTSDの症状としてね。でも今は違う。きっと彼は、症状の回復と共に、周囲の人達の自分への関心が、薄れてしまったと感じたのでしょう。そこで再び関心を得ようと、精神病的エピソードとして目を付けたもの、それが『幻覚』だった。ただ、今ではエスカレートし過ぎて、幻覚の範疇を超えてしまっている。そこに気が付かせてあげられれば、エピソードは破綻する訳ですので、新しいエピソードを生み出してしまう前に、症状の自覚を促す。……といったところでしょうか」
「うん、なるほどねぇ、いいトコ見てるわ。では、十年来の主治医の意見をば」
「……聞かせて下さい」
「志朗君は、確かに関心を失う事を恐れている。けどそれは、あるたった一人の関心だけ」
「それは?」
「お父さん」
「ふむ……」
「彼の行動理念の根幹には、常にお父さんの存在があるの。お父さんに迷惑をかけたくない、悲しませたくない、失望されたくない。志朗君は常にそんな思いを抱いているわ。それは明らかに過剰なもので、ともすれば異常ともいえる程よ」
「境界例なんですか?」
「いいえ、いわゆるファザコン。エレクトラとは混同しないでね? 俗にいうファザコンよ、重度のね」
「それが本当なら、彼にとって“病気の息子”という立ち位置は……」
「寧ろストレッサー。だから、ミュンヒハウゼンは除外」
「じゃあ叔母さんは、幻覚に関して疑いを持っていないんですね?」
「……それは、どうかしらね……」
「叔母さん?」
「……いろいろ反論はあると思うけど、いえ、反論しか出て来ないでしょうけど、とりあえず聞いてもらえるかしら」
「珍しく自信無さ気ですね……なんですか?」
「志朗君のは幻覚じゃないかもしれない」
「え?」
「彼はね、幻覚に自力で気付けるのよ。状況との整合性を計り、矛盾が見つかればそれを幻覚とみなし、自ら対処法を考える」
「……なんとも、随分と冷静な子ですね。ん……? いや、違う。そもそも、そんな精神状態の時に幻覚症状が出るなんておかしい。無いとは言いませんが、それならいっそ脳器質性の疾患を疑います」
「統合失調症を疑った時に受けさせたfMRIの画像を、知り合いの脳神経科医に診てもらった事があるの。その先生は正常と判断したわ。因みに、灰白質も減ってはいなかった」
「うーん? じゃあやっぱり、虚言か妄想ですか?」
「もう一つあるじゃない」
「もう一つ?」
「幻覚でも虚言でも妄想でもないなら?」
「……まさか、現実だとか言い出す気ですか?」
「私もね、それなりに地位というものを持っているの。だから、こんな事をおいそれと誰かに相談できないのよ。私のなけなしの権威に係わるからね。でも京助君なら遠慮は要らないでしょ?」
「実は早くも降参気味なんですが……。まあ、とりあえず聞く、という話でしたからね。分かりました、聞きましょう。叔母さんの相談相手だなんて、僕では役不足でしょうけど」
「いいえ、貴方は優秀な子よ。そんな優秀な京助君に伝える、私の結論」
「はい」
「彼、因幡志朗君は、通常の人間には知覚し得ない現象を知覚出来てしまう人間――」
「…………」
「――超感覚的知覚能力者、よ」
医者達の会話は、わりと適当です。あんまり真に受けないようにして下さいまし。