くしびと~part Ⅰ~ 5
ふと過去を振り返ってみました。
う~ん、思い出せない。
保健室のベッドって、どんな時に使えるんでしたっけ?
学生時代に保健室を使った記憶がほとんど無く、今更ながら保健室のシーンの描写が難しい事に気付きました。この先、保健室シーンが多めになるかと思われますが、そこはファンタジー空間になるかも知れません。
二月十六日 水曜日 昼休み後
「――は~い、ちょっと冷たいよ~。ペタッと」
「ひあっ」
脇腹に冷たい感触。
蹴られた箇所に、湿布を張って貰った。
「骨折はしてないと思うけど、時間が経ってから腫れだす事もあるし、念の為に病院行こうか?」
「いえ、もう痛みも引いてきましたし、それには及ばないかと」
「まあ、強要は出来ないけど。じゃあ、鼻は?」
「そっちも大丈夫です。あっ、ほら、血、止まりましたよ」
鼻に押し当てていた脱脂綿を外してみても、血が垂れてくるような事はない。
「それじゃあ、手は?」
「手?」
「ぐっぱぐっぱ出来る? 指先に痺れとかない?」
「はあ、大丈夫ですけど……それって?」
「背中にいっぱい乗っかられたんだよね? 脊椎を傷めてたら大変。変な痛みはない? ダルさとかは?」
「あ、はい。……えっと、うん、大丈夫みたいです」
小池先生の「脊椎」という言葉に不安を覚え、もう一度慎重に自分の身体を確かめたが、やはり問題は見つからなかった。
「そう、よかった。でも、一応しばらくは気を付けててね」
「気を付けてろと言われましても、何に気を付ければいいのか……」
「え? そうね……例えば、おしっこやうんちが出にくかったりとか」
「はい?」
「脊椎損傷には結構ある症状なんだよ。膀胱や腸の機能障害。そういうのがあったら、すぐにお医者様に相談してね?」
「……なるほど、心に留めておきます」
そして手当てを終えた。
昼休みの終了直前に起こったハプニングにより、俺は再び保健室を訪れる破目になった。その際の小池先生の呆気にとられた顔は、とても印象的なものとして心に残っている。ほんの数分前に保健室から送り出した生徒が、身形を汚し、鼻血を流し、女子生徒に寄り添われながら戻ってきたのだから、そうなるのも当然だ。
ただ、その後の小池先生は迅速だった。事情聴取などは後回しに、すぐさま俺の手当てに取り掛かった。鼻の止血に始まり、問診による容態の確認、ベットに寝かせての応急処置と、それらは手際よく進められた。
伊波千夏は彼女に対して「頼りない」という評価を下していたようだが、俺はそうは思わない。総じてみれば、頼り甲斐のある人物といえるのではないのだろうか。普段の奔放な言動は、異なる世代とのコミュニケーションを潤滑にする為の、謂わば方便なのだろう。と、俺は解釈していた。
「さて、と。えっと、因幡君? 立場上、詳しい話を訊かなきゃなんだけど」
「あ、はい、そうですね」
俺は服を整えながらそう答え、ベッドを降りようとした。
「横になりながらで構わないよ?」
「いえ、ナツさんも居ますし、そっちで話します」
「そっち」というのは、ベッドのある空間を仕切るカーテンの向こう側の事。手当てするに当たり、服をはだける必要があった為、カーテンでの目隠しが利くベッドスペースを使用したのだ。俺は男な訳だから、多少見られたところで然したる問題は無い。見る側になったであろうナツさんに向けた配慮である。
「あーそっか、伊波さんが居たんだっけ。というか、伊波さんはいつまで居る気?」
「さあ?」
「――因幡~? 終わった~?」
カーテン越しにナツさんの声が聴こえてきた。
「伊波さん? 因幡君は大丈夫だから、早く授業に戻りなさい」
小池先生はそう言いながら、シャッとカーテンを開けた。
「あ、終わりましたか?」
しかし、そこに居たのは、俺の担任教師――広瀬川早苗先生だった。
「きゃあああっ!? 伊波さんが広瀬川先生になってるぅぅぅうううっ!?」
なる訳ない。
「ッ……驚いたぁ。何をおっしゃってるのですか? 小池先生」
意外と冷静に返す広瀬川先生。
「なになに、何事?」
横合いからひょこんと顔を出したのはナツさん。
「え? あれ? ……なぁんだ、ちゃんと伊波さんも居たんだね。てっきり伊波さんの正体は広瀬川先生だったのかと思っちゃった」
何故そんなアドホック皆無な結論に至るのだろう。
「何を訳の解らない事を。それで、小池先生、因幡君は平気なのですか?」
「あ、はい。とりあえずは心配要りません。……あの、広瀬川先生は何故こちらに?」
「私は、ちょうど受け持ちの無い時間帯だったので、因幡君の話を詳しく伺おうかと思いまして」
広瀬川先生は、こちらに視線を向けながらそう言った。
「え、俺の話? さっきの事、もう先生に伝わってるんですか?」
そう訊ねると、広瀬川先生は隣にいるナツさんに視線を移した。
「あ、いえ、さっきの事は、今こちらの伊波さんから聞きました」
「うん、アタシが話した。いいよね? 別に」
ナツさんから伝わったのであれば、俺が伝えたも同然だろう。寧ろ、俺よりも事の詳細を把握している可能性がある。
「ああ、それはいいけど。……えっと、その話じゃないんですか? じゃあ、なんの話を?」
「貴方のお昼休みの様子についてです。午前中、小池先生から『因幡君は昼休み保健室で過ごさせます』との報告を受けましたので」
「その事、ですか。……ナツさん、朝の内に小池先生と話を付けてたんだ」
「ううん、話したのは昨夜」
時系列をまとめると、昨晩、ナツさんは保健室の使用を思いつき、すぐさま小池先生に連絡したらしい。そしてその旨を、小池先生は今日の午前中に広瀬川先生へと伝えたのだそうだ。
「昨夜って事は、電話で連絡したのか?」
「そりゃそうでしょ。わざわざ会いに行くわけないし」
ナツさんはさも当然のように肯定したが、学校外でも教師と連絡を取り合っているという事実には驚きだった。俺ならば、担任にすら気が引けて、よっぽどの事でもない限り直接電話しようとなんて思わない。それが保健の先生ともなれば尚更だ。用が有る時は、俺だったら出来るだけ学校で済ませる。大体、先生方の電話番号なんて全く把握していない。
「ナツさんて、先生とでもよく電話するのか?」
「ほら、アタシって保健委員じゃん? 保健委員って、みんな小池先生とケータイ番号を交換してんのよ。だから電話し易いだけ。他の先生に電話かけた事なんてないわよ?」
「なるほど……って、ナツさん、本当に保健委員だったんだ」
「言ってなかったっけ」
ナツさんと小池先生が親しくしている事にも、これで合点がいった。
「伊波さんて、他の保健委員と違って、用も無く電話してくるけどね……」
小池先生がぼそりと言った。
「や、やだなぁ、小池センセ。慕われてる証拠じゃないっすか~」
ナツさんは、バツの悪そうな顔をしながら、小池先生にすり寄って太鼓をたたいた。
「いつも、『今暇なんだけど』から入るよね……」
「そ、そんな事ないですよぉ。あ、あはは……」
もしかしなくても友達感覚なのだろう。
ところで、さっきからナツさんは、小池先生に対して(やや)丁寧な言葉遣いになっていた。呼び方も「ひーちゃん」ではない。
ひょっとして広瀬川先生がいる所為か?
「それにしても、ごめんなさいね。因幡君」
なんとなく広瀬川先生に目を向けると、それに合わせたかのように謝罪された。
「何がですか?」
「私としたことが迂闊でした。貴方の現状を鑑みれば、教室に居辛いであろう事は容易に想像できたのに……。ずっとお昼は独りだったのですか? 去年から?」
「え、ええ、まあ……」
「因幡ってあれよね……えーと、なんつったっけ……ナントカ症候群」
「ナントカって、ナツさん……」
世の中に症候群がいくつあると思ってる。
「ランチメイト症候群?」
小池先生の補足が入った。
「あ、それそれ、それっす」
「……あのね、伊波さん。例えそう思っても、そういう事は本人に指摘しちゃダメ。そこは空気読も?」
「え!? 今アタシしまった!? ご、ごめん因幡……」
「いや……」
補足した小池先生はどうなのかと。
「小池先生、それって自分が、『昼食を共に出来る相手が居ない人間』だと思われる事に、強い恐怖を抱く人を指す言葉ですよね?」
「噛みくだくとそんな感じかな」
「だったら俺は当てはまりません。俺が独りで昼食を摂っているという事は、もうとっくにみんなが知っている事ですから」
今でこそ教室を抜け出してはいるが、この間までは教室で弁当を食べていた。当然、一緒に食べる相手は無しで。
「因幡君、貴方が望むのでしたら、先生からクラスのみんなに理解を求めるという方法もあるのですが……」
「あ……と、広瀬川先生、それはちょっと……」
「ええ、ですよね、解ります。そんな対症療法で解決する問題ではありませんね。それに、因幡君の自尊心に配慮の無い手段です。私も貴方が望まない限りそうするつもりはありません。ですが、伊波さんから聞いた昼休みの一件を考えると、もはや様子を見るなどといった段階ではないと思います。早急に対処しなくては」
「さっきの事か、か……」
「本当にごめんなさい、因幡君。言い訳にもなりませんけど、私と接している時の貴方からは明朗な印象しか受けなくて……認識が甘かったと言わざるを得ません」
「い、いえ、そんな……」
そこまで申し訳なさそうにされるとこっちが恐縮してしまう。
俺は広瀬川先生に落ち度があるとは思っていない。明朗に映っていたというのならそれは俺の意図する所であり、また、それが俺の地金であると信じている。
自尊心。
正にそうなのだろう。
人は誰しも、自分を弱い人間だとは思いたくないし、思われたくもない。そんな感情が、いじめ問題なんかでは深刻化に繋がる事がある。いじめに遭っている者が何よりも怖れるのは、自分がいじめられているという事実を、親しい誰かに知られてしまう事。
対等な関係を築いている友人に、惨めな人間と思われるのは耐えられない。
対等な関係で付き合ってる恋人に、憐れみを向けられるのは耐えられない。
家庭では目下に見ている弟妹に、頼りない兄姉だと侮られるのは耐えられない。
期待を寄せてくる両親に、情けない子だと嘆かれるのは耐えられない。
このような強い自尊心を持つ者は、いじめという悩みを誰かに打ち明けるのを躊躇してしまう。そこから親しい人間に伝わってしまう事を恐れるが故に。だから隠す。自分がいじめられている事を。
俺は、果たしてどうなのだろうか。いじめに遭っていると言えるのだろうか。――そう自問した途端、心がざわつき出した。
広瀬川先生は、はっきりとは口にしないが、きっとそれをいじめと認識しているのだろう。――そう考えた途端、強く反論したい衝動に駆られた。
ナツさんは、持ち前の正義感から、いじめられている俺を気に掛けてくれているだけかも知れない。――そう推量した途端、仄暗い感情が胸を取り巻き始めた。
俺の現状を、父さんやトラ、ミケが知ったら、一体どんな感想を抱くだろうか。――それを想像した途端、言葉に言い表せない感情……敢えて言葉にするなら「焦燥」のような感情に苛まれた。
俺自身は決して、自分がいじめに遭っているとは考えてはいない。だが、それは自尊心から必死に否認しているに過ぎない、と指摘してくる別の自分が居るのもまた事実。もはや認めなければならないだろうか……などと考えている時点でもう答えは出ている気もする。
後は、如何に受け入れるか、か。
「因幡君? 平気?」
「あ、すいません、大丈夫です」
少し黙り込んでしまった所為で、小池先生を心配させてしまったようだ。
「因幡君、私も保健室を出た後の事を詳しく聞かせて欲しいんだけど」
「ああ、はい。実は――」
かいつまんで、小池先生に事情を伝えた。
「――思っていた以上に危険な状況だったんじゃない。本当に大丈夫? 無理してない?」
「ええ。助けが入らなかったらと思うとゾッとはしますけどね」
「広瀬川先生、因幡君に暴力を振るった生徒達、特定して指導した方がよくありません?」
「そう……ですね。やはり、ちょっと過剰な行動に思えますし」
「あっ、先生方、それは……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
俺の発言を押し退けるように、ナツさんが口を挿んできた。
「因幡を、その……蹴った子はアタシの友達なんですけど、その子がそんな事をしたのは、それなりに事情があって……」
「ナツさん、大丈夫だ、解ってるよ。俺も指導の必要は無いって言おうと思ってたんだ」
「い、因幡?」
ナツさんが望みと呼んでいた女子生徒は、俺からナツさんを救おうとしただけ。結果的に勘違いではあったが、その行動は寧ろ称賛に値する。何しろ、俺が本当に暴漢だったら自分にまで被害が及んだ可能性もあるのだから。そしてそれは、その後の男子達にも言える事だ。――そう先生方に説いた。
「う~ん、因幡君の言う事も解るけど……」
「因幡君はそれで良いのですか?」
小池先生も広瀬川先生も、諸手を挙げての同意は難しいようだ。
「良いも何も……考えてもみて下さい。今の世の中、厄介事に巻き込まれるのを嫌って見て見ぬふりをする人も多いじゃないですか。それを思えば、彼らは勇気ある行動をしたと言えるんじゃないかなって。今回はたまたま勘違でしたが、本当にナツさんが襲われていたのだったら感謝状ものじゃないですか?」
「何て言うか……因幡君、いい子ね」
小池先生のその声色には、何となく呆れも含まれている気がした。
「因幡君のその寛大さには感服しますけどね、やはりある程度は相手側の話も聞かないと。指導や処分は別の話として、他の生徒達が貴方に対してどんな心証を抱いているのか、一度きっちり確認しなければならないと思います」
「それは……まあ」
俺としては確認するまでもない事なのだが、広瀬川先生は担任という立場上、そうしない訳にはいかないのだろう。
「……あの、ちょっといいですか?」
ナツさんが、おずおずと手を挙げて、発言の許可を求めてきた。
「どうしましたか? というか伊波さん、そろそろ授業に戻った方がいいのでは?」
すでに五時限目も中盤という時間帯に差し掛かっていた。俺も一旦教室に戻って、話は放課後にすべきかもしれない。
「そ、それはそうなんですけどね? えっと……昼休みに話しそびれた事、いっそここで話しちゃおうかと。先生達にも聞いて貰っといた方がいいかもだし」
昼休みに話しそびれた事。
それは放課後に聞く事になっていた筈だが。
「今さっき言い掛けた、アタシの友達の事情ってやつなんですけど……勘違いっていうのはもちろんそうなんだけど、アタシが言いたかったのは、そう勘違いするのも仕方がない事情があるって話。……なんですが」
「そう勘違いするのも仕方がない事情? ナツさん、それって?」
「つまり、それが因幡に話したかった事なわけよ」
ナツさんの表情は真剣味が増していた。それに応じて俺は、襟を正して聞く態勢を整える。
「なんだか重要な話みたいだね。広瀬川先生、ここは聞いた方がいいですよね?」
「そうですね。四組のこの時間の担当教師には、私から話しておきます」
小池先生と広瀬川先生も聞き取り体勢に入った。それを見てナツさんは、軽く咳払いをしてから話し始めた。
「んんっ。その、ゴメン、因幡」
「は?」
話は謝罪から始まった。
「アタシ、こんな事になるとは思ってなくてさ。もっと早く話しとけばよかった。……話してたからってさっきの事が回避できてたかは微妙だけど」
「えっと?」
「アタシさ、あんま深刻に考えってなかったのよ。だって、完全な嘘っぱちだから、どうとでもなると思ってたんだ」
「ナツさん、ごめん、ちょっとよく分からない」
「あーっと、こっちこそゴメン。先にちょっと言い訳しちゃった。……今朝さ、下駄箱の所でアタシ、友達に連れてかれたじゃない?」
「ああ」
「あの時のあの子達って、アタシが因幡に絡まれてるって勘違いしてたわけ。それで、アタシを助ける為に強引に連れて行ったのよ」
「……なるほどね」
「問題なのは、なんで絡まれてるように見えたかって事。アタシ達、ただ二人で歩いてただけじゃん?」
「それは……俺の噂を知ってたからでは?」
「そう、噂。でもきっと、因幡が今想像してる様な噂なんかじゃない。もっと酷め」
「ひどめ?」
「あのね、因幡。その……あの子達から聞いた話によると……あー、えっと……今のアンタって……んと……」
ナツさんが急に口籠りだした。よっぽど言い辛い事のようだ。
「ああっ、もう言っちゃう! 因幡っ! アンタ学校のみんなから“レイプ魔”だと思われてるっ!」
「…………」
その時、俺の大脳皮質の感覚性言語中枢に異常が生じた。……のかと思ったくらい、俺には彼女の言っている事が解らなかった――。
中途半端なところで切ってゴメンナサイ。
話が長くなったので二つに分割したのですが、ここくらいしか切れそうな所がなかったんです。
という訳で次回は、今回の会話シーンの続きが続きます。