くしびと~part Ⅰ~ 4
学校の生徒達の志朗君に対する心証が垣間見えます
二月十六日 水曜日 廊下
「――わっ」
「……っと、あぶねぇなっ!」
それは、一年生の教室が並ぶ廊下に差し掛かった時だった。
角を曲がろうとした所で一人の男子生徒が、無作法にもナツさんのすぐ横を掠めるように、勢いよく駆け抜けていったのだ。よろめくナツさんに、その男子は謝るどころか、威喝してそのまま走り去っていった。
「ひゃっ」
「うわっ」
ドシンッ
バランスを崩したのか、ナツさんは床に尻餅をついてしまう。
しかも、彼女はその際に、俺が袈裟懸けにしているスポーツバッグのショルダーベルトを掴んだらしく、突如として掛かった重みに対応できなかった俺は、ナツさんの上に被さるように倒れ込んでしまった。
咄嗟に床に手を付いたので、彼女に圧し掛かるといった事態だけは避ける事が出来た。ただ……
「わ、わわ……ちょ、因幡……」
……俺達二人は、互いの吐息が感じられるほどの大接近を果たしていた。ナツさんの顔が赤くなっていくのが判る。かく言う俺も、顔に熱さを感じた。
「す、すまないっ」
急激に心拍数を上げた心臓に急き立てられるように、わたわたと立ち上がろうとする俺。ところが……
ツルッ
「のあっ!? ……んぶ」
「……ふぇ?」
……どうやら倒れ拍子にスリッパが脱げていたようで、くつ下で床を踏みしめる形となった俺の右足は、見事に滑ってしまった。お蔭で、せっかく避ける事の出来た“ナツさんに圧し掛かるといった事態”を、結局引き起こす運びとなる。
「…………」
「…………」
刹那の沈黙。
「きゃああああああああああーーーーーーーーーっ!?」
そしてんナツさんの絶叫。
「ちょっ、ちょっ、アンタ、どこに顔を……!?」
敢えて詳しい説明は省くが、俺の顔はやわらかな感触に包まれていた。
「むあっ、あ、ゴ、ゴメン……! わざとじゃないんだ……!」
慌てて顔を上げ、即座に言い訳を始める。
「いいからっ、とりあえずどいて……!」
俺の顎に手を当て、押し返そうとするナツさん。
それは実に滑稽な構図だった事だろう。
ちょっとしたハプニングで女子を押し倒してしまった男子。なんだかんだと大騒ぎしつつも、二人は頬を赤く染め、そのシチュエーションにドキドキしてしまう。そして、それをきっかけに二人の心は急接近――。
ラブコメもののドラマなら、そんなありがちな展開を期待するのもありだと思う。しかし、そうならないのが現実。俺なんかの場合は特に。
――ガゴンッ!
「ッ!?」
それは正に不意だった。
ナツさんから離れようと片膝を立てた瞬間、目の前にあったナツさんの顔が、突然横にスライドしたのだ。そして、そのまま彼女は俺の視界から消えてしまった。そして気が付けば、俺の視界の大部分は廊下の床に覆われていた。
ナツさんが動いたんじゃない。
俺が床に倒れたんだ。
そう認識すると同時に、側頭部に鈍い痛みを覚える。――何かで殴り倒された。俺はそう判断した。
「イ……ツ……なにが……?」
痛む頭に手を当てながら、僅かに顔を起こして、状況の把握に努める。
最初に、すぐ傍で倒れているゴミ箱が目に入った。
「――うわああああああああ……!」
「……え?」
自分の現状とゴミ箱の関連性についての考察を始めたところで、咆哮のような女の叫び声が耳に入った。
バチィンッ!
「ひぎっ!?」
その叫びが何なのかを確認する前に、俺の鼻っ面に鋭い痛みが走った。
一気に視界がぼやける。どうやら涙が噴き出したらしい。反射的に手で鼻を押さえると、ぬるりとした感触。鼻血だった。
「ハァ……! ハァ……!」
鼻を押さえてうずくまる俺のすぐ側で、誰かが息を荒げていた。もしかして、俺はこの人物に顔を蹴られたのではないだろうか。
「ハァ……! ッ、千夏、平気っ!? ほらっ、行こ? 早く、早くっ!」
「え、の、希? ちょっと、待って待って。え? なんで因幡を……?」
ナツさんの戸惑うような声が聴こえてくる。一方の俺もさっぱり状況が掴めていない。
「――どうした、どうした。これって何事?」
「――なに? 喧嘩?」
「――おおっ、流血してね?」
「――ねえ、あの男子って……そうだよね?」
周りがにわかにざわめき出した。
「こいつが千夏を……この子を襲ってた! 誰か、早く先生呼んできて!」
「ッ!」
その言葉で疑問は一気に氷解した。これは、誤解によって生み出された状況だったのだ。
「ええっ!? の、希! 違うっ、それ違うから!」
「えっ……違うって……」
ナツさんも事態を把握したようで、時を移さず誤解を解きにかかってくれた。しかし……
「――この変態サイコ野郎っ!」
バスンッ!
「うごっ!」
「きゃあっ! 因幡っ!?」
……正義感に駆られたであろう男子が、ナツさんの説明を待たずして裁断を下した。俺は脇腹を酷く蹴り込まれ、痛みに身悶える。
「あ……ぐぐ……」
「よしっ、みんな押さえろ!」
「なっ……ちょっ……よ、よせ……ぐあっ」
床にうつ伏せに押さえ付けられ、腕を捻り上げられ、背中に乗り掛かられた。
「い、痛い……! 止めてくれ……!」
「因幡っ! みんな、やめ……!」
「ちょっと千夏!? 何する気なのっ、近付いちゃ危ないってば!」
「わっ、バカ、放してっ!」
息が詰まり、身体が軋む。
複数の男子達の重量にかつてない苦痛を覚え、動かせる両脚をバタバタと暴れさせた。
「こいつ、大人しくしろ!」
「おい、そっち押さえとけ!」
「手ぇ放すなよ!?」
「大丈夫、これなら動かせない!」
もう、何人の人間が俺の上に居るのか判らない。身体を完全に固定され、もがく事さえ難しい。痛みと苦しみで、もはや言葉を発する事も出来なかった。
「あーーー……! あーーー……!」
「『あー』だってさ、ウケる……」
「おい、先生はまだ来ないのかよ」
「つーか、誰か呼びに行った奴いんの?」
俺がもう動けないと確信したのか、男子達には余裕が窺えた。
(苦しい……! 痛い……! 誰か……誰か助けてくれ……!)
そう叫んだつもりだったが、俺の口からは呻き声しか出なかった。
「おねがい、もうやめて! ホントにやめてってば! これ、みんなの勘違いなんだって!」
ナツさんと思しき懇願する声が聴こえるが、意識が朦朧としてきていた為、どういう状態なのかは定かでない……
「こら、引っ張るなよ。こいつに逃げられちまうだろ」
「いいんだって! 因幡は何もしてないの! 早くみんなどけて!」
「おいおい、こいつは女子を襲ってたんだぞ?」
「襲ってないから! 誰も襲われてないから!」
「え? 彼、女子を押し倒してたよ? 僕は見てた」
「それ絶対に嘘! アンタ、その女子がアタシだって気付いてないじゃん!」
「んだぁ? オメェが襲われてたんかぁ?」
「だから誰も襲われてないって言ってんだぁぁぁっ!」
「……ぁ……ぅ……」
「ッ! 因幡!? ちょっと、因幡の様子がおかしい……! アンタ達降りてっ、早く降りてってばっ!」
「おかしいって、どんな感じなんだ?」
「つか、演技じゃね?」
「あ、でもほんとにヤバいかも?」
「いいからどけぇぇぇぇぇーーーーーっ!」
「あだだだだっ、お、おい、やめろって」
「――ハァ。……ったく、ほら、さっさとどいてやれ」
「え? 誰……って、わっ!?」
ドサッ
「な、なんだよお前……うおっ!?」
ドシンッ
「はい、そっちも降りる」
「あ? ってコラ、何しやがっ……ぬあいてててて!」
ドタンッ
……ふと、苦痛が和らいだ。腕が解放され、身体に掛かっていた重みも消えていく。それと共に、悶絶しかかっていた意識が回復を始めた。
「ッ! プハァッ……! ハァ……ハァ……、ああ……ふぅ……うう……ふうぅぅぅ……」
どうやら九死に一生を得たらしい。自由を取り戻した俺は、楽な姿勢をとり、大きく呼吸をして自愛に努めた。
「因幡! 大丈夫!? 因幡っ! わ、わ、血が……ハンカチ、ハンカチ」
すぐ傍からナツさんの声が聴こえた。バタバタと慌てている様子だ。
確認しようと、声のする方に顔を向けると、鼻に何かを押し当てられた。どうやらハンカチのようだ。鼻血を止めようとしてくれているらしい。
「因幡、しっかり」
「あ……うう、ナ、ナツさん……」
「あ、なに? どうした?」
「ご、ごめん……ハンカチ汚して」
「んな事気にしてる場合!?」
そう言ってナツさんは俺の頭を持ち上げた。
「……え? ナツさん……?」
「いいからっ」
まさかの膝枕だった。憶えている限り、初めての経験だ。
「そいつ、平気か?」
一人の男子が声を掛けてきた。誰なのかは知らないが、意外にも、心配そうな声色だったように思えた。
「あ、吉原……うん、大丈夫みたい。サンキュ、アンタのお蔭で助かったわ」
ナツさんの知り合いらしい。聞く限り、俺を助けてくれた人のようだ。……余談だが、あんまり大丈夫ではなかったり。
「おい、てめぇ!」
今度は、また別の男子が声を荒げながら近寄ってきた。
「ん、俺か?」
ナツさんの知り合いの男子に用があるようだ。
「いきなり出てきて何なんだよ! なんでそんな奴をかばうんだ!」
「阿呆。ヘタしたら死んでた。ほっとけるか」
「ああ? ざけんなっ! 押さえてただけで死ぬわけねぇだろ!?」
「男が四人も五人も乗っかったら、どんだけの重さになると思ってんだ。お前みたいなモヤシで五十キロ以上はあるだろう?」
「だ、誰がモヤシだコラァ!?」
「あー、わるいわるい。別にモヤシって感じでもないか。あっちはシャキッとしてるが、お前はヘニャッとしてそうだ」
「テメェ……!」
俺とは別口で揉め事が起こり始めていた。二人は何故か喧嘩腰だ。こんな所でやり合ったら停学は免れないだろうに。
――なあ、あいつって四組の吉原じゃね?
――えっ、彼が例の……?
どこからともなく、そんな会話が聴こえてきた。
ナツさんも口にしたその名前。
俺を助けてくれた男子は「吉原」というらしい。
それにしても、なんだか様子がおかしい。彼の名前が出た途端、周りが気まずい空気に包まれ出した。それは、いつも俺がもたらす雰囲気とよく似ている。
「ふーん、へへ、テメェが吉原か。なるほどな」
その吉原と対峙している男子が、突如として立てていた気を鎮めた。相手が誰かを知って、何故か余裕を取り戻してたようだ。
「だったらなんだ」
「ふっ、べつにぃ? さすが“人殺しの弟”は、犯罪者に寛容だなってな。くくく……」
「…………」
ザワザワ……ザワザワ……
周りが軒並みざわめき出した。そして、俺も心がざわついていた。
今の話は相当衝撃的だ。もちろん俺を犯罪者扱いな事にもショックを受けたが、それよりも何よりも……
(……人殺しの弟、だって?)
「……まあ、好きに言ってくれ。どうだっていい事さ」
当の吉原には意に介した様子がない。その反応からは、今の話の正誤を窺い知る事は出来なかった。
「すかしてんじゃねぇよ。テメェらみたいのが学校に居ると迷惑なんだよ。マジ辞めてくんねぇ?」
「はいはい、そうだな」
「このっ……ナメやがって……!」
「お前、さっきから威勢はいいが口ばっかだな。こっちはいつでも殴りっこに付き合うつもりなんだけど?」
「……ッ」
吉原の言に空気が張り詰める。明らかに喧嘩を吹っ掛けていた。こんな大勢の目の前でそんな宣言、言い訳は利かない。これで本当に手を出そうものなら、退学だって有り得る。止めなければ。
「何なら、こっちから行っていいか?」
「くっ……」
「ま、待て、ストップ……痛っ」
「わっ、因幡?」
半身を起こしてナツさんの膝を離れ、吉原のズボンを右手で掴んだ。背中に痛みが走ったが大したものではない。幸いにも、骨などに異常は無かったようだ。
「ん? なんだ」
「なんだ、って……ぼ、暴力は駄目だ。やめるんだ」
「お前、さっきあいつ等から暴力を振るわれてたろうに」
「か、彼等は勘違いしただけで、悪意があった訳じゃない」
「そうか? 口元、笑ってた奴も居たが」
「……え? あ、で、でも、そもそも……き、君が喧嘩しなきゃいけない理由は無いだろ?」
「うーん、でも、まあ、アイツ、ムカつくし」
「そ、そんな理由の暴力なんて、絶対に看過できない!」
「……変わった奴だな、こりゃ」
「普通だろ!?」
「ふぅ、わかった。一発で我慢する」
「何発でも同じだから!? ……いいか、よく考えてくれ、ここは学校なんだ。暴力事件なんて起こしたら、停学どころか退学になってしまうぞ?」
「心配するな。俺は気にしない」
「何この人っ!?」
ここは徳英学院。
県内でも名だたる名門の一つ。
その名に恥じぬようにと風紀には一層厳しい。よって、いわゆるヤンキーやチンピラといった存在とは縁遠い学校だ。そんな学校で、まさかこんなにも好戦的な生徒と遭遇するなんて思いも寄らない。この喧嘩っ早さで、よく今日まで在学できたものだ。
「……どうせ、この学校に居られるのもあと少しだろうしな」
「え……?」
「――みなさん、何やってるんですかー! チャイムが鳴ったの聴こえなかったんですかー!」
廊下に女性の声が響いた。
「先生だ!」という誰かの言葉で、やじ馬たちは蜘蛛の子を散らすようにその場から立ち去った。見れば、俺を押さえ付けていたと思われる生徒達も居なくなっていた。俺が言うのもなんだが、俺を先生に引き渡すつもりじゃなかったのだろうか。
「ほら、貴方達も早く教室に戻りなさい……え? ちょ、ちょっと」
残った俺達――今この場に居るのは俺とナツさん、そして吉原という男子に、それと確か希と呼ばれていた女子の合計四人――を見て、その先生は驚いた顔をした。
「鳴海君と……た、確か、因幡君……だったかしら」
鳴海?
「いったいどうしたの? 因幡君、貴方鼻から血が……ま、まさか、鳴海君がやったの?」
そう問いかけた相手は吉原だった。
この先生、誰かと勘違いをしているのか?
「ん? いや、まあ……」
しかし、吉原は訂正を求めない。どういう事だ?
「どうして……鳴海君、これって問題よ?」
「はあ、そっすね」
「――栗原先生? どうかなさいました?」
「あ、わ、和田先生。じ、実はちょっと問題が発生しまして……」
「って、おい君、血が出てるじゃないか」
あとからやって来た男性教師が、俺の血を見てやはり驚いた顔をした。
「あ、えっとこれは……」
「栗原先生、まさかこっちの子が?」
「ええ……みたいなんです」
「えーと、すんません」
……いつの間にか吉原の所為になっていた。
「ちょっ、違いますよ! 彼は関係ないです! これはその……」
そう言いながら、俺の視線はあの希と呼ばれていた生徒に向かう。
「ッ!」
彼女は俺と目が合うと、ビクッと肩を震わせて目を逸らした。
「……転んだんです」
だから、そう答えた。察するに、彼女はナツさんの為を思ってやった筈だから。
「大体、君はなんで否定しないんだよ! しかも謝っちゃってるし!」
「ん? まあ、どうでもいいかなと」
「よくないだろ!?」
あーもー、この人、疲れる。
「あの……因幡君? とりあえず保健室に行ったらどうかしら。その……血が、飛び散ってるから」
そう指摘され、慌てて鼻を押さえた。今気付いたのだが、この先生、朝に校門で谷垣先生と一緒に居た先生だ。
「あぐ、そ、そうします」
「あっ、アタシが連れて行きます! 保健委員だし!」
ナツさんが挙手してそう言った。
「ちょ、ちょっと千夏?」
「希、先生に言っといてね」
「アンタ、なんで……ワケ分かんない」
「後で説明するから。……因幡、行こ?」
「え、一人で大丈夫だけど」
ガシッ
「はい、行くわよ~」
「うわ! ひ、引っ張るな!」
バッグのショルダーベルトを掴まれて、引っ張られた。袈裟懸けにしていた為、脱出は難しい。
「待ってくれ! 俺も次の授業の先生に言ってこないと……!」
「そんなの、誰かが気ぃ利かせてくれるわよ」
「うん、それはナイです」
「いいから、手当てが先。実は身体、痛いんでしょ?」
「……まあ」
「さあ、ひーちゃん、腕の見せ所よー」
そうして俺達は、保健室へと舞い戻ったのだった。
次回、保健室に戻ります。
何やら保健室のシーンが多くなりそうな予感が……