くしびと~part Ⅰ~ 2
このエピソードは比較的、学校でのお話が多いです。ようやく「学園もの」といえる小説になりそうです。
おかしなチカラ、または病気の所為で学校生活に四苦八苦する主人公が、楽しい青春時代を手にすべく奮闘するお話……的な物語……にしたい? 願望? ……一応そういうコンセプトがあるんですよこれが。
ですので、オカルト方面のシーンは抑え気味にしたいと思っております。それだとファンタジーになりそうなので。
ともあれ、新エピソードです。暇つぶしの際にでも、どうか御一読下さいませ。
二月十六日 水曜日 校門前
――おはよ!
――あ、おはよ~、今日も寒いね~。
季節は冬。
月にして二月。
今日も、今日とて、寒い日が続いていた。
朝の挨拶を交わす学生達の息は白い。それを眺める俺の息も白い。言葉と共に放たれる学生達の白い息は、当然口からだが、口を閉じている俺の白い息は、鼻から放たれていた。何が言いたいのかというと……独りきりの登校が、ちょっとだけ淋しい。
ここは、私立徳英学院大学附属高等学校の校門前。
俺の目の前に広がっているのは、どこにでもある朝の登校風景。
俺も一学生として、その風景を彩る役目を担っている。が、一役買うには役不足のようだ。見れば友達同士、歓談しながら校門をくぐる学生達。俺もこれから校門をくぐる訳だが、彼等のような明るい雰囲気は醸し出せそうもない。
「……はぁ」
目の前が白く霞んだ。吐いた溜め息が白さを帯びて、俺の顔を覆ったのだ。まるで自分の中にある悩み事が可視化されたかのようで、煩わしかった。
俺の抱える悩み事。
その悩みの種が、あの校門をくぐった先にある。
「――せんせー、おはよーございまーす」
「おう、おはよう!」
その校門の前には、教職員と思しき二人の男女が立っており、登校してきた生徒達の挨拶に、朗らかに応えている。
徳英では、毎朝必ず二人以上の職員が、この様に校門前で生徒を迎える。今朝立っているのは、中年の男性と若い女性。俺は一年生の為、知らない先生がまだ比較的多い。よって、女性の方は誰だかちょっと判らなかった。だが、男性の方は知っている。一年四組の担任で政治経済の教科担当、谷垣登先生だ。
クラスの違う俺は、授業以外で谷垣先生との交流はほとんど無かったのだが、ここの所はよく声を掛けて貰うようになっていた。そのキッカケは、四組のとある生徒といざこざを起こした事にある。そのいざこざはすでに解決してるのだが、谷垣先生はアフターケアだと云わんばかりに、俺の事を気に掛けるようになった。
そんな先生に、ここで挨拶しないという選択肢は有り得ないだろう。俺は、今日の学校での第一声を彼に奉げる事にした。
「谷垣先生、おは……」
「ぶえっくしょんっ!」
「…………」
盛大なくしゃみにより、俺の挨拶は中断を余儀なくされた。こういうタイミングの悪さって、なんだか恥ずかしいぞ。
「ズズ……ん? おお、なんだ因幡か。おはよう」
「お、おはようございます……」
最近判った事だが、この先生はマイペースだ。
「伊波に聞いたぞ。お前達、仲良くなったんだって?」
「え?」
「水沢とも、もう友達なんだってな」
「ナツ……伊波さんがそう言ってたんですか?」
「ああ。雨降って地固まるってやつだなぁ、うん、よかったよかった」
「あ、はい、良かったです」
腕を組んで満足そうにうなずく谷垣先生。
今、彼が口にした「水沢」という生徒が、いざこざの相手だった。一時は、警察沙汰になりそうなほどトラブった俺と水沢が、まさか友人関係を結べるまでになるとは、谷垣先生どころか俺自身が思ってもみない事だった。だが、それは嬉しい形での予想外。俺は現状を心から歓迎している。
「それで、どっちにするんだ?」
「はい? どっちって?」
谷垣先生からの意味不明な問い掛け。一体なんの話だろう。
「水沢ひかると伊波千夏、どっちと付き合うんだよ」
「う~ん、どちらも捨てがたいですねぇ……って、なんでやねんっ!?」
危うく本気で選びかけてしまった。
「お前、ノリツッコミとか出来る奴だったんだな」
「いやいやいや、んんっ。……先生、彼女達とは友達になっただけですってば」
「ん? あいつ等じゃ不満なのか?」
「そうじゃなくて!? だ、大体、俺達は先月知り合ったばかりです!」
「おお、そうなのか。ま、節度ある付き合い方してくれな」
「……もしかして、会話出来てない?」
どことなく噛み合っていなかった。適当に扱われている気がしてきたぞ。
「クスクス……」
谷垣先生と共に校門前に立っていた女性に、笑われてしまった。先生なのだろうとは思うが、やはり名前が判らない。見覚えはあるんだが。
「あ、どうも、おはようございます」
遅ればせながら挨拶をした。
「はい、おはようございます」
今ここで名前を訊ねるのも不自然な気がしたので、それ以上は特に会話を交わさず、二人に軽く会釈しながら校門をくぐった。
「――先生、おはようございます」
「うん、おはよう」
後ろでは、また別の生徒が先生方に挨拶をしていた。それを背中越しに聴きながら、俺は校舎に向かって歩く。
「……ん?」
ふと、何やら視線を感じた。ざっと周りを見回すと、数人の生徒達が顔を逸らすような仕草をした。
この所、こんな事が続いている。みんながチラチラと俺の事を盗み見ているようなのだ。単に自意識過剰なだけという可能性もあるが、実はそうされる理由に心当たりがあったりもする。
俺はこの学校の生徒達から、距離を取られていた。去年、この学校に入学して間もなく、俺が精神科に掛かっている事が知れ渡ってしまい、それ以来、周りから避けられるようになったのだ。そんな状況の中で先月末に起こした出来事――授業中にやらかしてしまった奇行も相俟って、どうやらこの学校の生徒の大多数が、俺を異常者と認識してしまったらしい。
察するに、今俺が周りから注がれている視線は“警戒の目”なのだろう。
「はぁ……」
再び目の前が霞む。徳英に入学してもうすぐ一年。その間、どれだけこんな溜め息を吐いてきた事だろう。もう吐き飽きているくらいだ。
が、しかし、たった今の溜め息に限っては、そんな学校生活に対する嘆息ではなかった。
学校内で孤立している事は、謂わば慢性的な悩み。それとは別に、速やかに対処したい急性的な悩み事を、俺は今抱えており、先の溜め息はそちらを原因とするものだった。
「今日も、か」
ビイイイイイィィィィィ……
頭の中で微かに響く、小さな音。
この冬から頻繁に起こるようになった現象。
便宜上、それを「耳鳴り」と呼んではいるが、本当に耳鳴りなのかどうかは定かでない。
音が鳴る原因は不確定だが、鳴る条件に関しては何となく把握している。
「ええと……」
俺は足を止めて、学校のグラウンドへと目を向けた。そこでは、この寒い中、運動に興じる生徒達がちらほらと居る。部活の朝練なのだろう。トラックを走る者、サッカーボールを蹴る者、バットを振る者……等々。スポーツにそれほど力を入れていない進学校であるところの徳英において、彼らは特異な存在と言えるだろう。だが、別にそんな彼等を眺める為に足を止めた訳ではない。
俺は探していた。
彼等よりも遥かに特異と言える存在を。
「……あれ? 見当たらないな」
ここ数日の事なのだが、校門をくぐって校舎に向かうまでの間、必ずと言っていいほど例の耳鳴りが起こっていた。そして、その時は決まって、とある男性と遭遇する。
その男性が一体誰なのかは分からない。朝の登校時、もしくは帰りの下校時、耳鳴りと共に現われては、グラウンドの隅からジッとこちらを見つめてくるのだ。
むこうからこちらに近づいて来るというような事はなく、只々視線を飛ばしてくるだけ。一度、試しにこちらから近付いてみたのだが、そうすると男性は、校舎を見上げながらブツブツと意味不明な事を呟きだし、結局最後まで俺の問い掛けには無反応だった。虚ろな表情でブツブツ言う様が実に不気味だったので、それ以降は近付くのを止めたのだが、近付かなかったら近付かなかったで、何か言いたげな目で遠くから俺を見つめてくるのだ。はっきり言って、精神衛生上非常に良くない。というか、普通に怖い。お蔭で、校門から校舎までの間を歩くのが億劫だった。
早急にどうにかしたいのだが、一体何をどうすればよいのやら。とりあえずできる事と言えば、「我慢する」という事だけだった。
「んんー、やっぱ居ないか……」
いつもなら現われる筈の彼は見当たらない。俺はその男性を探すのを止めて、再び足を動かした。
それにしても、何故見当たらないのだろうか。彼は毎日、この耳鳴りと共に必ず出現していた。もちろん、現れないのは有り難いのだが、これはこれで気持ち悪い。何しろ、耳鳴りはまだ止んでいないのだから。
「ッ!?」
俺はまたも足を止めた。
止めざるを得なかった。
居たのだ、あの男性が。
「あ……あ、あ……」
さすがに驚いた。正に、驚いて声も出ない状態。
今まで、遠くから見つめてくるだけだったあの男性が、俺の正面すぐ目の前に立っているのだ。
髪の毛は金色に染められており、ペンキのようなもので汚れたツナギを着ている。かなり特徴的な様相なので、人違いという可能性はまず無いだろう。彼は、ここ毎日目にしてきた男性だ。
一体何故、いきなり俺の目の前に現われたのだろう。何か伝えたい事があるのだろうか。
「ゴク……あ、あの?」
生唾を飲みつつ問い掛けてみる。以前はブツブツ言うばかりで、何も答えてはくれなかったのだが……
「……そんな、筈はねぇ……けど、それしか……いや、違う……」
……どうやら今回も同じようだ。しかし、前の時とは違って、今日は彼の方から接近してきた。あるいはコミュニケートが図れる可能性も……
「……くそっ、だめだ……思い出せねぇ。憶えてねぇんだ……でもよ、他に何が……」
……無いかな、これは。正面に居はするものの、彼の目は俺を見ていない。これは俺へと向けられた言葉ではないのだろう。ただ独り言を呟いているだけ。
このままこうして相対していても何の意味も無い。そんな事よりも、俺の横を通り過ぎていく生徒達の訝しげな視線が痛い。立ち止まって皆の通行を妨げている俺は、迷惑以外の何ものでもないだろう。ひょっとしたら、挙動不審に映っているかも知れない。この男性には申し訳ないが、ここは無視させて貰う事にしよう。……問題の先送りにしかなっていない気もするが。
「なあ、お前なのか……? 違うよな……? けど、俺に憶えはねぇ……一体何があったんだ……」
「え?」
一瞬、自分に問い掛けられたのかと思い、男性の目を見た。しかし、どうやら違ったようだ。顔はこちらに向けられているが、視線の行き先は俺ではない。
「……訊きたい……でも、訊くのが怖い……知りたい……でも、知るのが怖い……」
男性は相変わらず訳の解らない事を口走っている。
……後ろ、か?
俺の後ろに向かって語りかけているのか?
そう見えたので、俺は振り返ってみる事にした。
しかしその刹那。
「うああああああああああ……!」
「えっ!?」
突如として男性は叫び声を上げた。反射的にそちらへと目を戻すと、男性が燃えていた。
……って、燃えてる!?
「ええええええええええーーーーーっ!?」
なんだこれ!?
なんだこの超展開!?
有り得ない!
有り得ないって!
「……ああああ……! ああああああ……っ!」
「あ、あ、け、消さないと……!」
とにかく、火だるまになっている男性を傍観するなんて出来ない。俺はコートを脱ぎ、それを男性に叩き付けるように振るい、消火を試みた。
「ああああああああああ……っ!」
「ああくそっ! 消えろっ! 消えろぉぉぉっ!」
俺は必死になってコートを叩き付ける。だが駄目だ、こんなんじゃ消せない。それどころか、火の手は強まる一方。
「誰かっ! 消火器をーーーっ!」
「――因幡!?」
「誰でもいいっ、消火器を持って来てくれっ! 早くしないとこの人がっ!」
「因幡っ! 因幡ってばっ!」
「うわあああ……! 早く、頼むから早くして……っ!」
「因幡ーーーーーっっっ!」
ズバンッ!
「うぐおっ!?」
突然、後頭部を衝撃が襲った。ズシリと重みのあるそれは、俺に膝を付かせるには充分なものだった。
「イツツ……い、一体何が……」
「目、覚めた? それとも、もう一発いっとく?」
「へ?」
不意に背後から声を掛けられ、膝を付いたまま振り返る。するとそこには……
「……ナ、ナツさん?」
スポーツバッグを上段に構え、今にも振り下ろさんとする、伊波千夏が居た。
「因幡……何やってるわけ?」
ナツさんが、呆れ声でそう訊いてきた。
「な、何って……あっ!」
状況を思い出し、慌てて男性へと目を向けた。しかし、そこには誰も居ない。
「…………」
男性がいた筈の場所には俺のコートが落ちているだけ。何かが燃えたような形跡は……ある筈も無かった。
「…………」
顔を上げて周りを見てみれば、幾人もの生徒達が遠巻きに俺を見ていた。
――なんだよアレ、ヤバくねぇか……?
――アイツだよ、アイツ。ほら、一年の……
――ちょっと、あの女子、誰か助けた方がよくない……?
――なあ、行こうぜ。あいつに関わっちゃダメだ……
静まり返る中、ひそひそとしたそんな声が聴こえてきた。
「また……やってしまったのか……」
心が沈んでいくのが分かる。
ついこの間犯した過ちを、俺は再び繰り返してしまったのだ。
「因幡……」
ナツさんの声色にも憐れみが窺える……と感じるのは、今の俺が卑屈になっているからだろうか。
「――おい、お前達!」
ナツさんの後方から誰かが駆け寄ってきた。どうやら、校門前に立っていた教員二人のようだ。今の騒ぎに気付き、駆け付けて来たのだろう。
「伊波? ……と、因幡、お前か。なんだ、一体何があった」
先程挨拶を交わした時とは違って、谷垣先生はややシリアスな表情をしていた。女性教員の方も心配そうな顔だ。
「谷垣先生……えっと」
当然説明せねばならないのだが、その説明がなんとも難しい。この学校の先生なら、俺の事情をある程度は知っている筈なのだから、どうにか察しては貰えないものだろうか。
「おい、因幡、ちゃんと説明せんか。何を騒いでいたんだ?」
無理か……この衆人環視の中、こんな正気を疑われそうな話をしたくないんだが。
「まあ、その、例の……病気、と言いますか……」
「んん?」
「う……」
俺が精神科に掛かっているという事はすでに周知の事実とはいえ、人前で自分の病気の事を曝すのは気が引けた。あんな事の後ならば尚更、だ。
「あ、大丈夫大丈夫、ちょっとフザけてただけだから。さ、先生は校門に戻った戻った」
俺が言いあぐねていると、ナツさんがまるで先生方を追い返すかのような言動を取った。
「お、おい伊波、俺は教師として事情をだなぁ……」
「事情は今言ったでしょ? ちょっとフザけてただけってさ。いいから仕事に戻れ」
今度は完全に追い返していた。
しかし、ナツさん。担任とはいえ、先生に対する態度が悪くないか?
「あのなぁ、これだって立派な仕事だろ? 大体、先生に向かって何つー言い草だ」
確かに。
「あーはいはい、どうもすみませんでした。そっちが行かないならこっちが行くわよ。……ほら因幡、立ちなよ」
「え? あ、ああ」
なんだかんだでナツさんに乗じる俺だった。
「おい、因幡……」
「す、すいません、谷垣先生。悪ふざけが過ぎました。以後、気を付けますので……」
「と言ってもだなぁ」
「まあまあ、谷垣先生。特に大きな問題があるとは思えませんし、校門に戻りましょう?」
「むう、栗原先生がそうおっしゃるなら」
女性教員……栗原先生というらしいが、彼女に促され、谷垣先生は渋々ながらも引いてくれた。
「あー、因幡」
「あ、はい」
「何かあったら、ちゃんと誰かに相談するんだぞ?」
「あ……。はい、ありがとうございます、谷垣先生」
先生方は校門に向かい、足を止めてこちらの様子を窺っていた生徒達も歩き出し、辺りはいつもの朝の風景を取り戻した。
「ふぅ……なんだかちょっと罪悪感」
「罪悪感って……なんでよ?」
「え? いや、せっかく気遣って貰ってたのに、あしらうような真似しちゃったからさ……」
「そんなの気にする必要ないって。空気の読めない谷垣が悪いのよ」
「…………」
「あ、今『お前がゆーな』って思ったでしょ」
「え!? いや、違う違う! 先生を呼び捨てにするのはどうかと思ってただけ!」
「ホントにぃ~?」
「も、もちろん! だ、大体、さっきのナツさん、バッチリ空気を読んでくれてたじゃないか。お蔭で助かったよ、ありがとな」
「でしょでしょ!? さっきのアタシ、気が利いてたでしょ!? にゅふふ、アタシだって本気出せばこんくらいヨユーよ」
「あはは……」
ナツさんは得意満面といった様子だ。――本気を出すって事は余裕が無いんじゃ? などという揶揄は控えておこう。
「因幡、行こうか」
「あ、ちょい待ち」
俺は地面に落ちている自分のコートを拾い上げた。……裏地がかなり汚れている。とりあえずはたいてみたが、汚れは落ちない。これをこのまま着たら制服に汚れが移りそうなので、丸めて脇に抱える事にした。
「着れないの?」
「ああ。後でハンカチ濡らして拭いてみるよ」
そして俺達は連れだって歩き出す。
「んで? さっきのって、例の病気?」
「……まあ」
「何事かと思ったわよ。……何事だったわけ?」
「ええっと……因みに、ナツさんから見て、俺どう見えた?」
「ドン引き」
「うぐっ。ス、ストレートっすね」
「だってさ、アンタってば超必死な感じでコートを何度も地面に叩き付けてたのよ? 意味不明にも程があるっつの」
やはり、男性は見えていなかったようだ。
「声掛けても全然気付かないくらい一心不乱だったし。なんだかヤバそうな感じだったから、荒療治に出たってわけ」
「荒療治って……バッグで殴打?」
「き、緊急措置よ」
「…………」
錯乱状態の人間を暴力で以て強制的に黙らせる。よい子は絶対に真似しないで下さい。
「もうっ、それはいーから。結局、因幡は何してたのよ」
「ああ、その……火を、消そうと」
「火?」
「火」
「ふ~ん。あ、それで『消火器』とか喚いてたんだ。……ねぇ、火なんか無かったって事、ちゃんと分かってる?」
「……ああ、分かってる。何も燃えてなんていなかった」
「そう、分かってんのね。ならいいわ……なんて言えないわよねぇ」
「…………」
「因幡、さっきのはマズイわよ。結構な数の人達がアンタのこと見てた。今頃はきっとこの話題で持ちきりね」
「だよなぁ……」
「アタシさ、因幡と知り合ってまだ間がないけど、それでも他の人よりはアンタに理解を持ってると思う」
「えっと?」
「ちょっと聞いてて。……でさ、そんなアタシでもさ、さっきのアンタのこと、ちょっと怖いって思った」
「あ……うん」
「もちろん因幡が危険なヤツだなんて思ってないわよ? アンタは絶対いいヤツだって思うし、アタシはアンタのことを信用してる。これは本当に本当。……けどさ、どんなにそうだとしても、自分の理解の範疇を超えちゃってる事には、どうしても恐怖を感じんのよね」
「それは……」
当然だ思う。
先の俺の言動は常軌を逸していた。この際、俺の主観は関係ない。客観的に見れば、ナツさんの言うように、俺は意味も無くコートを地面に叩き付けていた、という事になるだろう。きっと人の目には、癇癪を起して物に当たっていた様にしか見えなかったのではないだろうか。そんな人間、俺だって危険を覚える。――近付いたら何をされるか分からない、と。
「因幡、覚悟しといた方がいいかもよ。アタシでさえこうなんだから、他の人はかなりキツい反応すると思う」
ナツさんは、俺を取り巻く環境の更なる悪化を示唆した。それはきっと、俺のこれからの学校生活を憂いてくれているが故。
「……ありがとう、ナツさん」
「は? 何がよ」
「色々と心配してくれて」
「う、べ、別に……。あ、あれよ、アタシはISKAの会長としての責任を全うしてるだけよ」
「……いま、会長って言った?」
「文句ある? アタシが言いだしっぺなんだから、アタシがやるのが当然でしょ?」
「いや、そういう事じゃなくて……」
恥ずかしくないのか? と、問いたかったり。
「やれやれよ。さっきの事は、これからのISKAの行く先に暗雲をもたらしたわ」
「も、もしかして、その言葉って常用決定?」
Inaba Shiroh 啓蒙 Association、頭文字を取ってISKAでイスカ。因幡志朗に関する正しい認識を広めんとする有志達の為の協会である……らしい。決して怪しげなカルト集団ではない……と思う。それは俺にとってこの上なく有り難い存在……の筈なのに、何故こんなにも受け入れ難いのだろう。
「な、なあ、ナツさん。別に言いだしっぺとか気にしなくていいからな? 負担になるようなら、その……ISKA? とかも無理にやる必要は……」
「ちょっとちょっと、アンタがそんなでどーすんのよ。楽しい学校生活を送りたくないわけ?」
「いや、まあ……送りたいです」
「だったら余計な気は遣わない。それよりも、今後の事を考えなよ」
「今後か……」
今後、なんとかして失った信用を取り戻さなければ、楽しい学校生活なんて夢のまた夢。だが実際問題、それは非常に厳しいと言わざるを得ない。何せ、俺がこの学校で信用を失ったのは去年の五月の事であり、それから今日に至るまで全く改善する事が出来なかった。それどころか、ここ最近はより悪化してしまった感すらある。
そこにきて先程の醜態。
あれは止めになったのではないだろうか。
「ま、地道にやっていきましょ。因幡がメゲなければ、きっとどうにかなるわよ」
希望があるとするならば彼女。
『ナツさん』こと、伊波千夏。
長く綺麗な髪が印象的な女の子だ。
とある事件をきっかけに、高校生活一年目も終わりに差し掛かったこの時期に、ようやく得る事のできた徳英で初めての友人。初見の時こそは、お互いに良い印象ではなかったが、結果的に彼女は俺の事情を汲み、俺に理解を示し、俺を友達と呼んでくれるまでになった。
ミケ以来、久方ぶりに現われた味方だ。彼女という存在は、俺に可能性を見せてくれる。信用を得るのは決して不可能な事ではない、と。
「あ、そうそう、今日の昼休みなんだけどさ」
校舎の正面玄関を入り、下駄箱の前まで来たところで、ナツさんがそう切り出した。
「昼休み?」
「うん。ひかるから聞いたんだけど、アンタって……」
「――千夏ーーーっ!」
ナツさんの言葉を遮って、誰かの呼び声が響き渡った。声のした方に顔を向けると、二人に女子生徒が物凄い勢いでこちらに駆け寄ってくるのが目に入った。
「へ? あ、おはよ……わっ、ちょっ、アンタ達!?」
その二人は一直線にナツさんへと向かい、各自彼女の両脇へと陣取ると、そのままガシッと腕を取って抱え上げた。
「もうっ、千夏ってば遅い! ほら急いで!」
「は? きょ、今日ってなんかあったっけ?」
「いいから早く歩くっ!」
そう云うや否や、二人は強引にナツさんを引っ張っていってしまう。
「なに!? なんなの!? ていうか靴っ! アタシまだ履き替えてないっての!」
「はいっ、ちなっちゃんの上履き確保ぉ!」
新たに一人の女子が出現。その手には、ナツさんの物と思われる上履き。
「よし、てったーーーーーい!」
「だから一体なんなわけえええええぇぇぇぇぇ……!?」
こうしてナツさんは、俺の視界からフェードアウトしたのであった。
「……えっと、あれ?」
取れ残された俺は、急な事の成り行きに呆気にとられてしまっていた。まだ話の途中だったのだが……まあ、行ってしまったものは仕方がない。俺はなんとなく淋しさを覚えつつ、自分の下駄箱へと向かった。
だが、その足取りは重い。正直、このまま踵を返して帰ってしまいたかった。
多分、俺のクラスにも、さっきの出来事は伝わっている筈。教室に入った時、クラスメイト達にどんな反応をされるか、想像しただけで気が滅入る。
いや、あるいは昨日までと何ら変わりないかも知れないな。何故なら、今日を経るまでもなく、俺が居る時のクラスの雰囲気は、すでに最悪と言える状態に達していたからだ。さっきの事が伝わったところで、今更そう変わりはしないだろう。
俺は先月にも、今日と同じような騒動を起こしていた。
授業中の教室での事だ。俺はある一人の少女と遭遇した。そして、その少女に起こった異変に驚愕してパニック状態に陥り、クラスメイト達を震撼させた。それは、先程のツナギを着た男性の時と非常によく似た状況だった。それらの際の俺の言動は、周りの目に異常なものとして映った事だろう。
だが、しかし、だ。
あんな場面に出くわせば、誰だって俺と同じような状態になるに決まっている。
少女の首から噴き出した鮮血が自分の身体に降り注がれれば、誰だってそれを拭おうとする筈。
目の前の男が突然炎に包まれてもがき苦しみだしたら、誰だって必死にそれを消そうとする筈。
俺は何も異常な行動などはしていない。
それは人として至極当然の行動だ。
ただ、問題があるとすれば、その少女とその男性。
伏し目がちなおかっぱ頭の女子生徒も、汚れた作業服を着た金髪の男性も、俺以外には見えていなかった。
他のみんなにはその二人を見ることが出来ないのだ。
そう、その二人は――俺が正常な精神を持った人間である事が前提だが――“幽霊”なのだ。
「ふぅ……」
自分の下駄箱の前で一つ息を吐いた。そして、靴を履き替える前に腕時計で時間を確認。チャイムが鳴るまでまだ十五分以上ある。今すぐ教室に行っても気まずさに苛まれること請け合いだ。いつものように、どこかで時間を潰して時間ギリギリに行く事にしよう。
どうであれ上履きに履き替えないと。そう思って下駄箱の扉に手を掛けたのだが……
……ギシ
「……ん? なんだ?」
何故か開かなかった。よく見ると、スチール製の扉は僅かに歪んでいる。何かがぶつかったのだろうか。
「よっ……ほっ……」
ギシ……ギシ……
力を込めて取っ手を引いてみたが、やはり開かない。
「んぎぎぎぎ……」
ミシミシミシ……
「ッ……なんで開かないんだよ!」
全体重を掛けて引っ張ったが、それでも開かなかった。
これ、歪みが原因じゃないのでは?
――ヒソヒソ……ヒソヒソ……
「ぐぁ……」
またもや、生徒達から遠巻きに眺められていた。「またおかしな真似をしている」と思われてるのかも知れない。マズイマズイ。ここはちょっと落ち着いて対処しよう。
とにかく自分では開けられないようだったので、用務員さんに相談する事にした。
事情を話すと不思議そうな顔をされたが、とりあえずバールでこじ開けてくれるとの事。壊れてしまわないかと心配したら、「開かないのなら壊れているも同然」と言われた。後で業者に頼むそうだ。
「――せー……の!」
バギッ!
「お、開いた」
用務員さんの気合いと共に、下駄箱の扉は開かれた。しかし、バールを引っ掛けた場所がひどく傷付き、歪みも増していた。
「あちゃー、こりゃこの辺丸ご取り替えないと……」
「す、すみません、俺の所為で」
この下駄箱は二十四個で一つのユニット。一か所だけを交換する事は出来ない。
「うん、まあ、君の所為ではないだろうし、仕方ないんじゃない? それより靴履き替えたら?」
「はい、ありがとうございます」
用務員さんに促され、俺は開きかけた扉に手を掛ける。扉は歪みの所為で重く、ギシギシと音を鳴らした。
「……えっ?」
下駄箱の中を見て、サーっと血の気が引いたような感覚を覚えた。
無いのだ。
何がって俺の上履きが。
「う、うそぉ」
「ん? どうした……って、なんだ、上履き無いのか?」
「み、みたいです」
「おいおい、これ、ひょっとして誰かのイタズラなんじゃないか?」
「…………」
誰かのイタズラ。誰かが扉を開けられなくし、誰かが上履きを隠した。
それってつまり、誰かが俺に悪意を?
「あ、そ、そうだ! うっかりしてました。そういえば昨日、汚してしまったんでした。そ、それで、洗おうと思って持って帰って……し、しかも今日、忘れて来ちゃいましたよ。あは、あはは……」
俺に悪意が向けられたと決まった訳ではない。衝動的、且つ突発的にイタズラした相手が、たまたま俺だったというだけかも知れない。だからひとまず穏便に済ませようと思った。
「そうなのか? ……うーん、なら来客用のスリッパを貸してあげよう。取って来てやるからここで待ってるといい」
「た、度々ご迷惑おかけします……」
「なぁに」
そう言って用務員さんは歩いて行った。
俺はというと、少し呆然としながら、変わり果てた自分の下駄箱に目をやる。何度見たところで、そこに俺の上履きは無い。
「……ん?」
ふと、ある事に気付いた。俺の下駄箱の縁に、何か白いものが付着しているのだ。見れば扉側の縁にも同じものが付いていた。
「これって……まさか接着剤?」
擦ってみるとポロポロと落ちた。確証は無いが、接着剤とみて間違いないんじゃないだろうか。
「……あれ?」
そして更に気付いた。何も入っていないと思われた下駄箱の奥の方に、一枚の紙切れ。
「なんだろう……」
手に取って確認してみる。ハガキぐらいの大きさの白い紙。そこにはゴシック体のフォントでこう書かれていた。
《犯罪者ハ学校ニ来ルナ》
ドクン
「――おおい、ほれ、持ってきたぞ。今日はそれを履いてな」
「……ッ、あっ、はい、どうもありがとうございます」
俺は咄嗟に紙をポケットへとねじ込み、何食わぬ顔で用務員さんからスリッパを受け取る。……伸ばした手は少しだけ震えていた。
「じゃあな」
「はい、本当に助かりました」
役目を果たした用務員さんは去って行った。
俺は今受け取ったスリッパに履き替え、脱いだ革靴を下駄箱に収め……ようとした所で一つ思案。考えた末、最近持ち歩くようになった買い物用のエコバッグを取り出し、それに革靴を入れ、更にそれをスポーツバッグの中に仕舞った。
「……よっ」
右肩から袈裟懸けにスポーツバッグを下げ、右手に丸めたコートを持ち、スリッパをパタパタと鳴らしながら自分の教室へ向かう。
胸がひどく重苦しかった。トクトクと、自分の鼓動が耳に付く。俺は今、ちゃんと平常を装えているだろうか。
「ん?」
自分のクラスの前まで来ると、妙な物が目の端に留まった。一瞬、不思議には思ったが、今は他の事に気をやる余裕は無かったので、それはそのままにして教室の中へ入った。
ガラガラ……
ドアを開けると、何人かのクラスメイトがこちらに顔を向けた。そしてそのまま、各自ヒソヒソと何やら会話を始めた。
(……なにか、変だ)
昨日まではみんな無関心を決め込んで、俺なんて居ないかのように振る舞っていた。だが今日は、まるであからさまに、まるで当て付けるように、まるで此見よがしに、俺へ意識を向けてヒソヒソ話をしているように感じる。明らかに、誰もが俺を見ているのだ。これはやはり、先程の外での一件が伝わった所為なのだろうか。なんだか、かつてない程の居心地の悪さを覚える。間違いなく、昨日までの教室の雰囲気ではない。
そんな雰囲気に呑まれてしまった俺は、クラスメイトの視線を避けるように、小さくなってそそくさと自分の席へと急いだ。が……
「……ッ!?」
無い。
俺の席が無い。
俺の机と椅子があった筈の場所には、ぽっかりと空間が空いていた。
「――! 廊下……!」
教室に入る前に目の端に留まった物の事を思い出した。俺はすぐさま廊下へと出て、それが何だったのかを再確認する。
「……この机と椅子、俺の……だったのか」
廊下にぽつんと置かれた、一組の机と椅子。
何故こんな所に置いてあるのかと不思議だったが、まさかこれが自分の物だったとは思いも寄らなかった。
何かの間違いでここにある訳ではないだろう。明確な意思と意図を以て、ここに運び出されたのだ。これが一体何を意味するか、それが解らないほど楽天的な脳は持ち合わせていない。
「マジ……かよ。くそっ」
失意に思わず悪態をついてしまった。受け入れ難い現実に動揺を隠せない。けど、心の隅では、いつかこうなるのではないかと恐れを抱いてもいた。ひょっとしたら遅過ぎるくらいなのかもしれない。
それにしても、一年近く耐えた末にこの展開とは。心が折れてしまいそうだった。
――因幡がメゲなければ、きっとどうにかなるわよ。
「…………」
頭の中で、ナツさんの言葉がリフレインした。――そうだ、俺にはまだ味方がいる。まだ絶望する段階には至っていない。これが一過性のものである可能性は残っているし、この先、改善とまではいかないとしても、緩和する可能性だって残っている。きっと、今こそが耐え忍ぶ時なんだ。
「すぅぅぅ……はぁぁぁ……。よしっ、戻るぞ」
深呼吸で心を落ち着けて、気持ちを切り替えてから、机と椅子を持ち上げた。俺は教科書やら何やらを机に入れっ放しにするような不届きものではないので、それらは楽に持ち運べる。切り替えた気持ちが萎えてしまう前に、一気に教室へ運び込んでしまおう。
ガタガタと音を鳴らしながら教室内に戻ってくると、やはりクラスメイト達から注目を浴びた。こういった場合は、気まずい空気が流れるものと思っていたが、クラスメイト達は俺の様子を意に介した風でもなく、只々冷ややかな視線を寄越してくる。
「……あの、悪いんだけど、通してくれる?」
自分の席へと机を運ぼうとした際、数人の男子が一つの机に集っていて通れなかったので、道を開けてくれるよう頼んだ。その男子達はごねたりする事もなく、すぐに道を開けてくれた。決して快くではなかったが、嫌々な感じでもなかった。
彼等のそんな態度に困惑しながらも、俺は自分の席を目指す。その時……。
「あっ!?」
ガッシャーーーン!
机と椅子諸共、俺は派手に転んでしまった。
いや、転ばされた。
誰かに足を引っ掛けられたのだ。
「あ……ぐぐ」
転んだ拍子に机の縁でわき腹を打ち、痛みに悶えた。
「危ないなぁ、気を付けてくれ」
誰かにそう言われたが、それが誰かを確認する余裕はなかった。
「す、すま……ない……」
だから俺は、しゃがみ込んだまま誰とはなしにそう謝罪する。そして、痛みに耐えながら机を起こし、四苦八苦しながらも、どうにか自分の席へ机と椅子を戻す事が出来た。
「ふぅー……イチチ」
ようやっと席に着けて、思わず息が漏れた。脇腹はまだ少し痛むが、とりあえず今は頭の整理が必要だ。
ナツさんの懸念通り、俺を取り巻く環境は悪化してしまったようだった。にしても、さっきの今でここまで悪化するとは。
今も周りから視線を感じている。これまでに感じた事のない冷ややかな視線だ。警戒や好奇の目にはよく晒されてきたが、こんなのは初めてだと思う。例えば、クラスメイト達に俺を揶揄している様子はなく、転ばされた時も嘲笑や失笑の類は起こらなかった。
どうも、みんなで俺を的にして愉楽を覚えているというような雰囲気ではない。
何だろう、悪意を向けられているというよりは……
「……ッ!」
俺はある考えに至り、ポケットからそれ取り出す。
「犯罪者は学校に来るな、か……」
敢えて口に出して読んだ。
もしかしたら、クラスメイト達の中にあるのは悪意や害意ではないのかも知れない。
そう、これは――みんなが俺に向けているものは“敵意”なんだ。
しばらくは、主人公が学校でどんな状態なのかという話が続きます。