表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/32

remisson phase:シロの憂鬱な休日

 remission phaseとは、病気の症状が寛解期にあるという意味です。という訳で、シロ君のチカラやら幻覚やらが出て来ないエピソードに、これを付けようと思います。まあ、長編エピソードのこぼれ話と捉えて下さい。ようするに、『おまけ』です。

 今回は、ミケちゃん地獄です。彼女のキャラが苦手な方には苦行なお話です。

―シロの憂鬱な休日―




 唐突だが、「金縛り」について考察してみようと思う。

 金縛りという言葉は、もともと仏教用語なのだそうだ。なんでも、不動明王が持っている力の一つで、捕縛用の縄で敵の自由を奪う「金縛法(きんばくほう)」という技が、由来らしい。

 だが、仏法から遠ざかりつつある現代日本人に、そんな事を知る機会は少ないだろう。おそらく殆んどの場合、子供の頃に見たテレビ、漫画、小説などで、まず「金縛りの術」という忍法から、その言葉を知るのではないだろうか。そんな子供達がやがて成長し、それが創作である事を知ると、金縛りという概念を、二種類の形に分類して捉えるようになる。

 「心霊現象」と「生理現象」だ。

 古来より日本では、金縛りに遭うと、とりあえず幽霊の仕業とされてきた。外国でも、悪魔だったり妖精だったり魔女だったりと、大抵は不吉な存在に原因を求めるのが通例だ。金縛りというものは、得てして恐怖を伴う。身体の硬直、息苦しさや圧迫感、その際に感じる何者かの気配。理解不能なこの恐怖を、昔の人達は、幽霊や悪魔の仕業と考えて、理解しようと試みたのだろう。

 しかし、現代においては、そのメカニズムも解明されつつある。

 金縛りというのは、基本的に睡眠時に起こる。そしてそれは、深い眠りにありながら脳が覚醒している状態の、いわゆる「レム睡眠」時である事が判っている。人間が夢を見るのはこのレム睡眠時だという事は、今や広く知れ渡っている事だが、金縛りもこのレム睡眠で、ほぼ説明がついてしまうのだ。

 レム睡眠時は、骨格筋が弛緩する為、身体が動かせなくなる。また、呼吸器官を休止させる事もあり、息苦しさを覚える。これだけで、すでに金縛りの状態と合致するだろう。しかし、それらは全て、睡眠中に起こる事であり、通常、人はそれを「金縛りに遭った」と認識しない。ここに、ある要因が加わると、人は「金縛りに遭った」と認識するのだ。

 その要因とは「夢」。

 レム睡眠時というのは、脳が活動状態で、眼球が高速で動いてはいるが、目蓋は決して開かれてはいない。よって、金縛りの時に目にした風景は、夢だという事になる。

 つまり、「目を覚ました夢」を見ている状態が、金縛りなのだ。

 夢というのは、記憶の整理なのだから、最も新しい記憶である「眠る直前の風景」が、鮮明な夢となって表れるのは、至極当然と言える。この事を踏まえると、「眠る前に見ていた風景」、「夢の中で見た風景」、「目覚めて目にした風景」が、全く同じだった場合、人は「夢を見ていた」と、認識出来ないのではないだろうか。

 また、夢であるのならば、その風景の中に「大切な存在」や「恐れている存在」が現れても、不思議な事では無い。それこそが幽霊であり、悪魔である訳だ。

 更に、レム睡眠時に目覚めると、夢で見たものを、明瞭に覚えている事が多い。

 すなわち、金縛りとは――

 レム睡眠に伴う、身体の硬直。

 その際に見る、目を覚ます夢。

 その夢に現われる、非現実的存在。

 そして、レム睡眠時からの覚醒。

 これらが重なった時に、起こる現象なのだ。

 金縛りという現象が、心霊現象である可能性は、極めて低いと言えよう。

 金縛りという現象が、生理現象である可能性は、極めて高いと言えよう。

 尚、脳の酸素飽和度が高いと、脳の活動も活発化する為、有酸素運動は金縛りを引き起こす要因となり得るらしい。


「…………」


 さて、俺が持ち得る、金縛りに関する知識は、どうやらこれで全てのようだ。

 無念。

 そう、無念だった。

 俺には、一番大事な知識が欠けている。

 そこには、今、最も必要な情報が無かったのだ。

 俺の現状に、先程並び立てた知識など無意味。そんな事を知っていたって、なんの役にも立たない。俺が何に代えても追い求めるべきだった知識、それは……


「く……う、動け……ない……」


 金縛りの解き方、だった。


「ハァ……ハァ……くそっ……」


 就寝中に、息苦しさと圧迫感を覚えて目が覚めた。すると、身体が動かせなくなっていたのだ。寝起きのぼやけた思考は、それを「金縛り」と判断した。

 理性的に現状を捉えるならば、これは睡眠麻痺。

 レム睡眠時における、筋弛緩と脳の覚醒。

 俺の目に映っている自室の天井は、実は夢であり、実際は目蓋が閉じられている状態。つまり俺は、目を覚ましたと勘違いをしている、という事だろう。

 しかしながら、こと俺に関しては、別の可能性も疑わねばなるまい。何しろ俺は、“幽霊”などという存在に関わる事が出来てしまう人間。「金縛りは心霊現象なんかじゃない」とは、断言出来なくなってしまった人間なのだ。

 この金縛りは、夢か現実か。

 願わくば、夢であってほしい。

 こんな現実は嫌だ。

 怖い。

 怖くて仕方がない。

 何が怖いって、俺の腹の上に居るこの人影……!


「……だ、誰……なんだ……!」


 部屋は真っ暗だが、何者かのシルエットだけは確認できた。

 そう、シルエットだけ、だ。

 この中途半端な情報が、寧ろ俺の恐怖心を煽る。

 それに加えて、この圧倒的な存在感。俺の腹に掛かる重みは、明らかに人のそれ。間違いなく、誰かが俺の上に乗っかっていた。

 これはきっと夢じゃない。

 夢とは思えない。

 またしても、死せる者が、俺へと、接触を、図ってきて……ん?


「――なっ!?」


 そして、気付いてしまった。――俺は馬鹿だ。なんて馬鹿なんだ。どうして、金縛りの原因が二通りしか無い、だなんて思っていたんだろう。

 心霊現象?

 生理現象?

 視野狭窄にも程がある。なんでもっと早く気付かなかったんだ。

 これがあるだろう。

 これがあっただろう。俺が金縛りになっている理由、それは――


「あ、シロ、おっはー」


 物理現象。


「……ミケ……何を……やっている?」


「うゆ? ……さあ」


「さあって……」


「キモチ良さそうに眠ってるシロを見てたら、なんでか、ベッドに縛り付けたくなったの」


「どーゆー感性っ!?」


「ちょっと待って、今、お腹のトコ縛り終わるから」


「当然のように続行するなっ!」


「……つまんない」


 死者もレム睡眠も関係無い。人間、縛られたら、そりゃ動けなくなる。


「はぁ……ミケ、とにかくコレ、(ほど)いてくれ。なんか、色々食い込んでて、痛い」


「気持ちいい?」


「俺、今、痛い、言ったよね?」


「こーゆープレイはペケ、と」


「プレイ言わない」


 ミケは、部屋の照明を点けてから、金縛法の解除シークエンスに入った。

 明るくなってまず驚いたのが、俺が紐でぐるぐる巻き状態だった事。なんでも、新品の麻紐500メートル巻を丸々使ったそうだ。

 500メートルって……半端な労力じゃないだろ。

 試した事は、もちろんある訳がないが、500メートル使って、人間一人をベッドに括り付けるなんて行為、少なくとも、分単位じゃ終わらないと思う。だから、当然、(ほど)くのにもそれなりに時間を要した。途中、ミケはハサミの使用を提案してきたが、俺は断固拒否。切ってしまっては、次に使えなくなってしまうからだ。そんな勿体無い真似、俺には出来ない。こんな無意味な用法ならば尚更だ。

 そんな訳で、ミケは黙々と俺を解いていく。絡まったりなんだりと、遅々として作業が進まなかった事もあり、俺は次第にウトウトしてしまった。


 パシンッ


「あ痛っ」


 突如、おでこに鋭い痛み。


「人が頑張ってる時に寝るとは何事?」


「ご、ごめん」


 どうやらデコピンされたらしい。というか、俺が悪いのか?


「ほい、もう動けるんじゃない?」


「ん? ……ああ、ホントだ」


 見ると、拘束は大方解けていた。漸く起床できる。


「にひぇー、ちかれたー。まったく誰よ、こんなアホな事をしたのは」


「うん、ミケだな」


 どうやら、縛られていた俺よりも、縛ったミケの方にダメージがありそうだ。


「アホと変態は紙一重?」


「正にその通りだけど、なんのフォローも出来てないぞ」


 それを言うなら、馬鹿と天才は紙一重、だ。


「……にしても、床が大変な事になってるな。巻いてあった時は、手に乗るサイズだったのに、今や、足の踏み場も無い程に広がってる。流石500メートル」


「エントロピーの勉強になったね」


「ボルツマン定数はミケの暇さ加減?」


「……フ、フフ」


「ミケ?」


「そうっ、わたしはついに手に入れた!」


「は?」


「暇という名の甘露を!」


「あっ、なるほど」


 つまり、それでテンションが上がっていた所為で、こんな奇抜な発想が出たんだな。

 ……テンションが上がって人を縛りたくなるとか、ミケってヤバくない?

 でも、まあ、とにかく、ここは労いの言葉を掛けるとするか。


「ミケ」


「うゆ?」


「受験、ご苦労様。よく頑張ったな」


「シロ……」


 そう、ミケは昨日を以て、受験戦争を終結させたのだ。これで、俺の肩の荷も……


「このうつけ者っ!」


「あれっ!?」


 なんで怒ってんの!?


「そなた! なにゆえ、わらわをほっぽった!」


「え? え?」


「こほん……え~、これより、審議に入ります」


「し、審議?」


 さっぱり訳が解らない。

 この言動も、受験が終わってテンションが上がっているが故か?


「議題、“シロが家庭教師を気取って今が追い込みだとか煽っておきながら入試一週間前辺りからほぼノータッチでスルーしやがった”件」


「…………」


「落ちてたらシロが悪いって事でヨロシク」


 そう……だった。

 この一年、時間を見つけてはミケの勉強を見てきたというのに、いざ本番という時になって、差し置いてしまった。決して忘れていた訳ではないが、結果的に(ないがし)ろにしてしまった感は否めない。


「……ミケ」


 俺はおもむろに立ち上がり、ミケへと歩み寄る。


「なにさね」


 ミケの目前に迫ったところで、膝を曲げ、腰を曲げ、背中を丸めて、可能な限り身体をコンパクトに折りたたんだ。


「平に御容赦をっ!」


「あや……」


 ようするに、土下座、だ。

 この冬、三度目となる、本気の土下座、だ。

 なんだか、回を重ねる毎に、容易に出来るようになってきた気がする。……土下座癖がついちゃったらどうしよう。


「ふむ、反省はしている、と」


「もちろんだっ。……けど、聞いてくれ。俺にも已むに已まれぬ事情が……」


「いいわけカッコ悪し」


「ムグ」


 そう言われては何も言えなくなってしまう。だが、この事を話さない訳にはいかない。ミケが、一体どんな反応を示すのか、正直怖い部分もあるが、こんな俺に今まで信頼を寄せ続けてくれた彼女に、こんな大事な事を伝えないなんて、あってはいけない事だ。

 ……でも、今はご機嫌斜めみたいだから、機を探ろう。

 ヘタレ?

 何を今更。


「ま、終わった事をグチグチ言っても始まらない」


「許してくれるのか……?」


「ここでシロを倒しても、結果は変わらないさね」


「……俺、倒されるトコだったんだ……。って、え? も、もしかして、結果振るわなかったのか?」


「おかげさまで」


「そ、そんな……。けど、入試一週間前ともなれば、学力を向上させる時期はとうに過ぎてる。もはや、俺が付く付かないで、そう大差は出ないと思うんだけど……」


「ハァ……シロ、解ってない。その時期に必要なのは、学習力じゃなくて精神的支柱。受験生はナイーブなの。いくら勉強したところで、本番に実力出せなかったら意味無い。そんな訳で、シロの罪はちょっち重い」


「あ、う……」


 俺がミケの心の支え。

 そんな風に思ってくれていた彼女に、俺はなんて事をしてしまったのだろう。自分の無責任さ、考えの甘さ、懐の浅さが身に染みる。


「だからシロ、罪滅ぼしなさい」


「ッ! その余地があるのかっ!?」


「モチのロン」


「古っ! じゃなくてっ、俺は何をすればいい!?」


「でいと」


「でいと? ……でいとって、デート?」


「そ」


「今日、これから?」


「そ。問題ないっしょ? 祝日なんだし」


「けど、合否の通知が」


「受かってりゃ受かってるし、落ちてりゃ落ちてる」


「……気になって楽しめなくない?」


「そんなん気合で気にすんな」


「俺、罪悪感でテンションだだ下がりなんですが……」


「貴様、何故そこまで拒否る」


「いや、嫌がってるんじゃなくてさ、ただ、やっぱり結果を待ってからの方が……」


「あれ? もしかして今、破局の危機?」


「なっっっ!?」


「だってシロ、わたしからの最後のチャンス蹴ってるし」


「最後っ!? よし行こうっ! すぐ行こうっ! いや~、久しぶりのデート、楽しみだなぁ……あははー」


「んじゃ、ダッシュで準備」


「り、了解……」


 どうやら本日の予定が確定してしまったようだ。

 もともと、ミケと一緒に、受験の合否通知を待ちながら過ごすつもりだったので、スケジュール的には問題ない。というか、俺の余暇のスケジュールを、ミケ以外が埋めてくれるなんて事はそうそうない。


「……ところでミケ、着替えるから出て行ってくれない?」


「ヤ」


「え、嘘、出て行かないの?」


「目、つむっとくから」


 ミケはそう言って目を閉じた。どうやら、本当に出て行かないらしい。


「…………」


 彼女はしっかりと目を瞑っている。薄目を開けている、というような事はないようだ。

 何故だろう。

 むしろ着替え難い。

 俺は、妙な緊張感に急き立てられながら、いそいそと、そわそわと、わたわたと、あせあせと……だからなんでこんなに着替え難いんだよ!?


「……む……よ……っと……ん~……よし、OKだ、ミケ」


「ふー、楽しかった」


「何がっ!?」


「んー、妄想?」


「どんなっ!?」


「もー、シロのエッチ」


「何故っ!?」


「えー、だってシロってば……」


「皆まで言うなっ!」


 よく解らないが、聞いてはいけない気がしたので制止した。

 ともかく。

 着替えは終わったので、次は顔を洗いに……あ、カーテンを開けとこう。


「……って、暗っ!?」


 シャッと、カーテンを開けても、部屋に陽射しは入ってこなかった。曇っているとかそういう問題ではなく、単に夜だ。


「え? あれ? 今、何時?」


 ベッドサイドの目覚まし時計に目をやると……


「……三時……?」


「シロ、気付くの遅くね?」


「いやいやいや、だってミケ、お前どーやってウチに入って来た。父さんは朝まで帰って来ない筈だから、こんな時間に来ても、鍵開けてくれる人いないだろ? 俺は寝てたんだし」


「別に、こんな時間に来た訳じゃないから」


「は? 何それ、意味解らん」


「昨日から居ただけ」


「…………」


「…………」


「はいーーーーーっ!?」


 昨日はミケに会えなかった。電話でも話せなかった。試験の事を聞きたかったのに、どこへ行ったのやらと思っていたのだが……


「……俺ん()に居たのかよっ!」


「まね」


「なんで隠れてた!? てか、どこに隠れてた!?」


「さっぷら~い」


「それだけの為にっ!?」


「因みに、隠れてた場所は秘密。また使いたいから」


「もうやめてっ!?」


 どうやら俺は、受験から解放されたミケのテンションを、見誤っていたようだ。今の彼女は、意味の無い事に、全力で心血を注ぎ込んでしまっている。

 この後のデート、覚悟を決めて臨まねばなるまいか?


「ほら、シロ、時間押してるんだから、とっとと支度して」


「こんなド早朝なのに、もう時間押してるのか……?」


「ちょっぱやで巻き(・・)よ。やっぱ、縛るのに手間取ったのが痛かったわ」


「アレを手間取らない奴なんかいない。……で、何があるんだ? デートじゃないの?」


「デートの定番と言えば?」


「え? ……映画とか、遊園地とか」


「そ、前者が正解。これから映画行くの」


「いや、レイトショーでもこの時間はさすがにやらないだろ」


「上映は九時半から。それまで、並んで待つの」


「は? 今から並ばないと見れない映画なのか? そんな超話題沸騰な映画、この時期にあったっけ?」


「デルグラ」


「え?」


「だから、デルグラ」


「……ええと」


「これを見よっ」


 ミケは、何処からとも無く雑誌を取り出し、とあるページを開いて、俺に突き付けてきた。


「んと、特集ページ? 『劇場版デルタグラデーション 恍然たる愛奴隷(カーマドール)』……」


 なるほど。

 確かに今日が公開初日になっている。

 それにしても、このいかがわしげな副題はどうにかならないか。


「……なあ、ミケ? これなら、今から並ばなくても普通に観れると思うぞ?」


「このたわけっ!」


「俺たわけた!?」


「大事なのはここっ」


 ミケが、特集ページの、ある一か所を指差す。


「なになに……全国シネマイティにて、先着100名様に限定オリジナルストラップを……」


「YES! BINGO! ホントは前日から並びたかったけど、補導されたら元も子もないから、断腸の思いで早朝にしたの。……ああ、どうしよう、もう100人超えちゃってるかな?」


「今の時間でも、見つかれば補導されると思うけど……?」


「いやっ、されないっ、わたしが決めたっ。いいから早くしろーーーっ!」


「は、はいぃぃっ!」


 こんなミケを見たのは初めてかも知れなかった。

 もしかして、本日の意味不明な行動は、デルグラが原因なのでは?

 待ちきれなくてソワソワしてたから、隠れたり縛ったりして気を紛らわせた?

 ……ちょっと待て。

 という事は、昨日はその精神状態で、受験に臨んだって事じゃないか。ふ、不安過ぎる。まさか本当に落ちてしまっているんじゃ……う、胃が痛い。




~それから三十分後~


 さあ、やって参りました、月成(つきなり)シネマイティ。ここは比較的新しいシネコンで、俺達の住む月成町に(ただ)一つの映画館だ。

 本日は、ここで開場と共に配布される、デルグラの限定ストラップを手に入れるべく、俺とミケは長蛇の列へと挑むのだった。

 さて、俺達は何番目くらいかな~?


「……ミケ、誰も並んでなくない?」


「あや……?」


 人っ子一人居ませんでした。

 休日前夜に催されるレイトショーは五時間も前に終了。

 照明の類はオールオフ。

 駐車場に車はゼロ。

 人気(ひとけ)が無いにも程がある。こんな時間のこんな場所に佇む、高校生と中学生の男女。もう、いつ補導されてもおかしくない。


「ラッキー、わたしら一番乗りじゃん」


「ラッキーなんだ……」


 時刻は午前三時半過ぎ、一日で最も冷え込む時間帯に突入している。この寒空の下で、あと六時間は待たなくてはならないというのに、ミケにそれを意に介した様子は無い。


「……ミ、ミケ、一旦帰んない? きっと、こんなに早く並ばなくたって、平気だよ」


「はあ? 何言ってるの、その油断が命取りよ」


「けど、このまま六時間はキツ過ぎだろ。風邪ひくかもしれないぞ?」


「受験を終えた今、そんなん関係無し」


「ほ、ほら、俺、父さんの朝御飯を用意しないと。仕事で夜を明かして、疲れて帰って来たところに、朝食無しだなんて、可哀相過ぎるだろ?」


「…………」


「な? 俺達だって朝食摂ってないし、一旦帰って仕切り直そう」


「…………」


「ミ、ミケ?」


「……そう、分かった」


「! そ、そか。よし、じゃあ……」


「さよならシロ、貴方の事は忘れない」


「ここで待ちますっ! いつまでだって待ちますっ! ええ、待ちますともっ!」


「それでこそシロね」


 父さん、ごめんなさい、戸棚にカップ麺がある事をどうか思い出して。


「ん~、でも確かにお腹は減ったなぁ。シロ、おでんをゲットだぜっ」


「は?」


「ん」


 ミケが指を差した先にはコンビニ。暗闇の中、そこだけ強烈なカンデラを放っていた。


「きんちゃくはデフォで。あと、アチチなレモネードも忘れずに」


「俺一人で?」


「わたしは並んでなきゃだし」


 「並んでいる」という表現が適切かは謎だが、ミケは一番乗りというポジションを死守したいようだ。

 う~ん、これもデルグラ愛?

 でもまあ、コンビニにパシる事は吝かでない。受験を終えたミケを労う意味でも、今日はイエスマンに徹する事にしよう。ほっぽった責任もあるしな。

 俺はコンビニへと赴き、ミケの言いつけ通りの物を購入して、再び月成シネマイティへ舞い戻る。

 だがその時、俺は痛恨のミスを犯してしまっていたのだ。


「――あっ!」


 しまった。

 迂闊だった。

 この可能性を失念していた。

 こんな時間に女の子を一人にしてしまうだなんて、俺は一体何をやっているんだっ!


「くそ、ミケ!」


 俺の目に映ったもの。

 それは男三人に囲まれているミケの姿。

 俺は、背筋にそら寒いものを感じつつ、ミケの元に向かって駆け出した。何に代えても、まずはミケの身の安全が最優先。とにかくミケを逃がす、俺は男達を足止め、後はどうとでもなれっ。


「ミ――!」


「あそこでリーエンが現れるとか狙い過ぎ。けどそこにシビれるアコガれるっ」


「いやは~、ホタル殿はよく解ってらっしゃる~」


「まったくもってその通りだぁっ!」


「萌え燃えっすよ!」


「――ケ?」


 はて……何やら歓談しているように見えるのは俺の気のせい?


「およ? シロ、おかえんなさい」


「ええと……」


 ミケに切迫した様子は一切無かった。

 絡まれてた訳と違う?


「おや、ホタル殿のお連れですかな?」


「そ」


「それはそれは、朝早くからお勤めご苦労様です」


「あ、こ、これはご丁寧に……」


 男の一人が頭を下げてきたので、俺もそれ相応の対応を返した。……今、ミケの事を「ホタル」って呼んだな。それはミケのハンドルネーム。となると、彼等はミケの知り合いか?


「ええと、失礼ですが、皆さんはどういった方々なんですか?」


「おっと、これは申し遅れました。わたくし、ホタル殿が主催する『でるぐLOVE』に名を連ねる、青keyと申します」


「青木さん?」


「いえ、青key、です」


「そ、そうですか……」


「おれっちは(ビーダッシュ)だ。よろしくぅっ!」


「あ、はい、どうもです……」


「自分、六年生っす。お見知りおきを」


「え、君、六年生なの? こんな時間に平気?」


「ああ、六年生はハンネっす。実際は大学生っす」


「そ、それは大変失礼致しました……」


「それで、そちらは?」


「あ、すいません、俺は因……」


「彼はピレネー。デルグラは初心者だから色々教えたげて」


「ちょっと、ミ……」


「ホタル。わたしはホタル」


「……ホタルさん、ちょっとこちらに宜しいでしょうか?」


「何?」


 俺はミケを呼び寄せ、三人から少し距離を取って、小声で状況確認をする。


「……あの三人は知り合い……なんだよな?」


「うん、わたしのコミュの住人」


「待ち合わせてたの?」


「んーん。来るとは思ってたけどね」


「つまり、彼等もミケと同じで、デルグラの熱狂的ファンて事か?」


「そ。主が一番とれて、なんとか面目は保たれたわ」


 なるほど、それがあったからこんな時間から並んだんだな。


「えっと、じゃあ名前はハンネで呼んだ方がいい?」


「もち」


「……さっきのピレネーって、もしかして俺の事?」


「今後、ネットではそう名乗ってね」


「勝手に決めてるし。大体、ピレネーってどっから来た?」


「え? ピレネー犬て白いじゃん」


「俺、白いからシロって呼ばれてる訳じゃないんだけど……」


 あと、「白」と聞いて、まずピレネー犬が出て来るミケの感性が凄い。


「それよりピレネー、おでん、冷める前に食べたい」


「へ? ……あ、ああ、はい」


 俺は買って来た物をミケ……もとい、ホタルに渡した。うーん、ピレネーもホタルも慣れないぞ。


「食べ終わったら講義に入ります。いい機会だから、ピレネーもデルグラに染めませう」


「え……いや、俺もそれなりにデルグラ観てるぞ?」


「原作は? ノベライズは? ODAは? ネット配信版は? ドラマCDは? 同人誌は?」


「すんませんっ、自分勉強不足でしたっ」


「よし」


 こうして俺は、上映開始の午前九時半まで、がっつりデルグラ講座を受ける事になる。……本当は、この機にあの話をミケに伝えたかったのだが、そんな余地は微塵も無かった……。




~それから九時間後~


「はふ~、心地良き疲労感~」


「な、長かったな……二時間超とは……」


「ホント、邦アニってばかなりリキ入ってたよね~。そんな長いのに、作画手ぇ抜いてなかったし、ゲストキャラのキャスティングもごーかごーか。わらわは満足じゃ~」


 映画鑑賞を終え、月成シネマイティより退出を果たした、俺とミケ。

 映画は実に面白かった。いかがわしげな副題とは裏腹に、内容は至って健全なもので、クライマックスには思わずほろっと来るものがあった。

 ミケも満足出来たようで、限定ストラップを二つ手に入れられた事も相俟って、これでもかという程のホクホク顔だ。

 一方の俺はというと……正直、疲労を隠せない。予定外の早起きで睡眠時間が不足している事と、上映時間直前まで初対面の人達と六時間デルグラについて喋り倒した事により、早くも体力と精神力にアラートが出始めている。

 確かに、映画自体は面白かった。

 しかし、あれだけの長編を観るコンディションではなかった。

 度々、舟を漕ぎそうになるのを必死に我慢していた為、いまいち楽しめた感が薄い。


「むふー、入試の直後にこんなごほーび。神様もなかなか粋ね。やばっ、テンション下がんね」


 俺と似たようなコンディションである筈の……いや、或いはそれ以上に消耗している筈のミケに、疲労の影は全く見られなかった。やはりこれも、デルグラへの愛ゆえか。


「ミケも満足できたみたいだし、帰ろうか。そろそろ、合否の通知が来てるかも知れ……」


「テンション下げんなやゴルァァァッ!」


「ごめんなさいっ!?」


 中学生の女の子に凄まれて、間髪入れずに頭を下げる男子高校生。情けない男もいたものだ。……はいはい、指差さなくても分かってます。

 それはともかく、入試の合否の話は、ミケのテンションを下げるらしい。益々以って雲行きが怪しくなってきている。……ううう、胃が痛い。


「話は変わるんだけど、わたしお腹へっちった」


「話よりもキャラが変わり過ぎ。……丁度お昼だし、何か食べようか。何がいい?」


「んーとね……」


 ミケが辺りを見渡す。どうやらこの界隈で済ますつもりらしい。ここは、一応、アミューズメントスポットなので、周りには集客を見込んだ飲食店が軒を連ねていた。


「およ? シロシロシロシロシロ……」


「ミケって滑舌いいよな。じゃなくてっ、一回呼べば分かるから」


「アレ見て、アレ」


「どれ?」


「もんじゃもんじゃなんじゃもんじゃ」


 ミケのテンション本気で高いな。……現実逃避でない事を祈るばかりだ。


「シロ、聞いてる? もんじゃよもんじゃ。わたし初めて、これは行くしかっ」


「お、おい、ミケ……!?」


 俺の意思を確認する事なく、駆け出すミケ。

 彼女が向かった店は、俺も過去に何度か利用した事のあるお好み焼き屋さんだった。だが、前に来た時には見かけなかった(のぼり)が、そこには立てられている。


「へえ、ここ、もんじゃ焼きをやりだしたんだ。……『本場大阪風』の看板、降ろした方が良くない?」


 関西のお好み焼き屋だったら、絶対もんじゃ焼きなんて出さないし。


「――いらっしゃいませー」


 脇目も振らずとはこの事、ミケはとっとと中に入って行ってしまった。

 俺もやや遅れて中へと入る。昼時なだけあって、店内は賑わいを見せていたが、待たされる事はなく、すぐに席へと通された。


「ミケはもんじゃ焼き初めてなんだ?」


「まね。シロは?」


「随分前に一度だけ。ほら、中学の修学旅行で」


「ああ、シロは下町回ったんだ。わたし、秋葉直行だったから」


「納得」


「――ご注文はお決まりですか?」


 席について間もなく、年配の女性店員が注文を取りに来た。ここは、初めてなミケの好みのトッピングで……


「わたし、うどんモダン」


「……って、もんじゃ焼きじゃないのかよっ!?」


「なんかこっちのがおいしそう。シロがもんじゃ頼んで」


「いや、どっちが頼んでも……って、もんじゃも注文するのか?」


 そう言われてふと思う。このテーブルの一つ一つに据え付けられた鉄板、果たしてモダン焼きともんじゃ焼きを同時に調理出来るのだろうか。いまいちスペースに不安のあるサイズだ。それに、店員さんも“忙しい時に面倒臭い事すんな”的オーラを放っている気がする。あんまり煩わせない為にも、モダン焼きだけで……


「最初はうどんモダン。終わったらチーズもんじゃで」


「かしこまりました」


「……あ」


 俺が逡巡している間に、ミケが注文を通していた。……なるほど、そう頼めばいいのか。店員さんも、さも当然の様に注文を受けて行ったし、オーラ云々は、俺の勝手な思い込みだったようだ。

 あれ? 今の俺って恥ずかしい?


「シロって将来、絶対胃かいようになるよね」


「つ、だ、な、なんの話……?」


「もっと気楽に生きなって話」


「…………」


 いろいろと見透かされているようだった。

 彼女の言う通り、俺はちょっとした事がいちいち気に掛かる。その上、長々と引き摺ってしまいがち。性分と言ってしまえばそれまでなのだが、このままではミケの懸念通りになってしまいそうだ。そんな自覚はあるのだが、どうにも直す事が出来ない。周りの顔色を窺うのは、もはや癖になっていると言える。


「ま、良いところでもあるんだけどね。気遣いが出来るって事だし」


 ミケはそうフォローしてくれるが、良いところ“でも”あるという事は、悪いところでもあるという事だ。


「お待たせしましたー」


「来た来た。あ、焼きはこっちでやるんで。シロ、できるっしょ?」


「ん? ああ……」


 ややネガティブな思考に陥りそうになったところで、注文したモダン焼きがやって来た。

 ミケの申し出により、店員さんは具材一式をテーブルへ置くと、鉄板に火だけ入れてすぐに戻って行った。

 返事をしておいて何だが、俺はモダン焼きを作った事はない。まあ、基本お好み焼きだから問題ないか。


「ねえ、モダン焼きってなぁに?」


「はいいいっ!?」


 ミケから有り得ない質問が飛ぶ。


「さっきおいしそうって言ってたじゃんっ。それで知らない訳ないだろっ」


「名前がおいしそう」


「名前だけで判断したのか……?」


「うどんに惹かれた」


「……ふぅ、まあ、今から作るから見てな」


 まずは生地と具をざっくり混ぜ合わせ、それを八割ほど鉄板に流し込む。


「なんで残すの?」


「後からかける分だ」


「ふーん?」


 生地を焼いている間に、隣のスペースでうどんを炒め、ソースと醤油で軽く味付け。


「おお、焼うどん」


「焼きそばでもOKだ。そっちの方が主流かな?」


 そのうどんを、焼いている生地の上に載せ、更にその上から残していた生地をかける。


「ここでかっ、ここできたかっ」


「……派手目のリアクションありがとう」


 ここで裏返すのだが、うどんが載っている分、普通のお好み焼きよりやや難しい。二つのヘラで慎重に、且つ大胆にひっくり返した。


「YES! お見事!」


「よ、喜んで貰えて幸いです……」


 上手く裏返せた事に安堵を覚えながら、卵を手に取り、鉄板の上に割り落とす。


「こ、これは……目玉焼き……だと? ……いや違う、黄身をくずした……!」


「ねえ、何そのテンション……」


 くずした黄身が固まりきらない程度まで焼いたら、その上に焼いていたお好み焼きを載せ、最後のひと返し。


「マンマミーアッ!」


「ミ、ミケ、みんな見てるから……」


 あとは、ソース、マヨネーズ、青のり、かつお節をトッピングすれば完成。


「……よし。ミケ、これがモダン焼きだぁっ!」


「…………」


「……あ、あれ?」


 ちょっとだけ照れつつミケのテンションに合わせたというのに、彼女はノーリアクション。非常に恥ずかしいです。


「……広島風のパクリじゃん」


「なっ!? ち、違うぞ! これは飽くまで関西風お好み焼きだ! 関西の人達に謝れぇっ!」


「いただき~」


「……あの、謝ってくれないと色々怖いんですが……」


「むぐ? ひおほはえはは? んぐんぐ……」


 ミケはすでに口いっぱい頬張っていた。

 ……ん? 口いっぱい?


「お前熱くないのっ!?」


「ほ? ふぇふいはふふふぁいふぇほ? ははふはえはは?」


 何を言っているのか判らないが、とりあえず熱くないらしい。ビックリ人間か……。


「へえ、ひほ、ほろあふぉはふぃひへあほふぉっは?」


「口の中が無くなってから喋りなさい。さっぱり判らん」


「ゴックン。……ねえ、シロ、コロラド旅して遊ぼっか?」


「なんだその壮大な遊びは」


「あ、ゴメン、噛んだ。このあと何して遊ぼっか?」


「それは噛んだとは言わない。……遊ぶって言っても、今日はもう映画も見たし、充分じゃない? それより、帰って合否の結果を……」


「シロしつこい。なんで当事者より気にするかな」


「それは……」


 ……ミケと一緒に徳英に通えるかが懸かっているから。

 俺のこれからの学校生活、ミケが居るのと居ないのとでは、雲泥の差がある。

 つまり……俺は……自分の事しか……。


「すまない、ミケ」


「は?」


「俺、ミケと徳英に通いたい一心で、ミケ本人の事を、あまり顧みていなかったかも知れない。こんなの、負担なだけだよな……」


「あや……ネガティブフェイズに突入?」


「茶化すのナシで。……中学の時もミケには随分迷惑掛けたし、徳英で一緒になったら、きっとまた迷惑を掛けると思う。それが解ってるのに、俺はミケが徳英に来る事を望んでて……ホント、自分本位な奴だよ。ミケ、ごめん。プレッシャーだったよな? 今更だけど、どうか許して欲しい。そしてこれからは、俺なんかの事よりも自分の事を……」


「すやすや……」


「なんか寝てるしっ!?」


「もちろん寝てるフリ」


「茶・化・す・の・ナ・シ・でっ!」


「シロの話つまんない」


「詰まる詰まらないの問題じゃなくてっ、大切な話だろ!?」


「わたしは、たとえ徳英に行けなかったとしても、別に大した事じゃないって思ってる」


「ッ!? ……そ、そうか……。だ、だったら……よ、よ、良かっ……た、よ……」


 ……胸が重苦しいのも、目頭が熱いのも、全部体感幻覚です……。


「シロにとってはね」


「……え?」


「きっとシロは、わたしが居なくてもやってける」


「そんな事……!」


「けどわたしの方は、シロが居ないと駄目っぽい」


「……ミ、ミケ?」


「だから、シロの居る高校を受験したのは、100パー自分の為さね。落ちてたら、これまで以上にシロんち入り浸るかも」


「あっ……、ああ……ああ! こっちはいつでもOKだ!」


 この胸の暖かみも、目から溢れる熱いものも、全部現実だ!


「ところでシロ」


「な、なんだっ?」


「コゲたモダン焼きはシロが処理してね」


「…………」


 しまった。




~それから三時間後~


 昼食の後、俺とミケは、月成町にあるショッピングモールで、テナントを冷かして回った。そしてその後は、カラオケでミケの歌を堪能(ミケは歌が上手い)。更にその後は、ゲーセンでメダルゲーム(俺はこの手のものに強い)。比較的、いつも通りなデートコースではあったが、その頃にはもう、俺はミケの受験結果を気にする事も無く、それなりに楽しむ事が出来た。

 そして現在。

 日も傾き出した頃、俺達はとある公園のベンチに座っている。


「――それで、大事な話って何?」


「あ、ああ……」


 ついにこの時が来た。俺は今から、ミケが言うところの「いいわけ」をしなければならない。

 受験で大変だったミケをほっぽってしまった理由。

 俺の内で起こったパラダイムシフト。

 今日はずっと、この話をするタイミングを計っていた。――ミケならきっと俺の事を信じてくれる。と、信じているが、やはりここまで突拍子もない話ともなると、少なからず躊躇してしまう。正直、俺自身がまだ受け入れ切れていないのだ。


「ええと……その……」


「シロ、なんかホントに大事な話っぽいからじっくり聞いてあげたいけど、ゴメン、寒い」


「うっ」


 二人だけで大切な話が出来る雰囲気の場所を考えて、人気(ひとけ)の無い公園をチョイスした訳だが、完全に時期を間違えたようだ。

 しかし忘れてはいけない。

 これよりも過酷な状況で、およそ六時間も、映画館の前に並んだという事を。


「……だからこれくらい我慢しろと?」


「俺、声に出してたっ!?」


「んーん、なんとなく。でも、当たってたみたいね」


「…………」


 刑事や精神科医でなくとも、心を読める人間は居るらしい。


「あー……んんっ、すまないミケ、雰囲気の力でも借りないとなかなか切り出せなくて。どうか我慢して聞いて欲しい」


「そんなに言い難い事なの?」


「ああ」


「プロポーズ?」


「ぶふっ!? ちちちち違うっ!」


「……じゃあ別れ話しかないじゃん」


「かはっ!? ちがっゲホゲホッ……!」


 むせるほど取り乱す俺。

 あーもー話が進まないっ。


「ゴホッ……フゥ。あの、今回はホントのホントに茶化すのナシでお願いします」


「りょーかい、憂いは無くなったからちゃんと聞く」


「憂い?」


「そこは流せ」


「?」


 よく解らんが、仕切り直しだ。


「ミケ、色々と言いたい事が出で来るだろうけど、まずは最後まで俺の話を聞いて欲しい」


「ん、分かった」


「実は……」


「――よう、ご両人! 奇遇だねぇ!」


「……ぐ」


 大事なところで、嫌になるほど覚えのある声。……なんて間の悪いヤツなんだ。


「じゃあな、トラ!」


 とりあえず別れを告げてみる。


「あ? ああ、じゃあな……」


 驚いた事に、ヤツは踵を返してくれた。ラッキー。


「……ってコラ、シロ、テメェ何しやがるっ!? 危なく帰っちまうトコだったじゃねぇかっ!」


「チッ」


 どうやらそこまでは馬鹿じゃなかったようだ。いや、それでも充分に馬鹿だが。


「……ったくよぉ、ツンデレも行き過ぎるとムカつくだけだっつの……」


 何やらブチブチ言いながら、ヤツは俺達との距離を詰めて来た。残念ながら、接触は避けられないようだ。


「ハァ……やあ、トラ。元気そうで何よりだ……」


「おぉい、んだよそのシケたツラァ。オレに逢えたのが嬉しくねぇってのかぁ?」


「かなり」


「んだとぉ!?」


 俺とミケの大事な話に割り込んで来た間の悪い男・トラ。

 統計的に見て、会いたくない時ほど遭遇してしまうという特徴を持つ。「こうげきりょく」は高いが、「かしこさ」は低い。「うんのよさ」のパラメーターにはバグを有する。「ならずもの」としては高位だが、「あくとう」としては下位に分類される。特有スキルは「こすぷれ」……と、俺は勝手に決め付けている。

 という訳で今日のトラ。

 ……ライダースーツ?

 しかも真っ赤。

 女物じゃないの?


「……トラ、お前ってバイク乗るんだっけ?」


「うんにゃ。免許はあっけどな」


「てことは、それって普段着なの?」


「ん? ああ、これか。ふふん、下ろしたてだぜ。どだ、似合うか?」


「趣味が悪くてトラにピッタリだ」


「おお、あんがとよ」


 俺、「悪くて」って言ったよな?

 まあ、喜んでるんだからいいか。


「それで、俺達になんか用? 無いならすぐさま立ち去ってくれ」


「無いけど立ち去んねぇ」


「ウザいです」


「ウザいゆーなや。……まあ、あれだ、たまたまオメェらを見かけたんでな、ちょっくら報告しとこうかと思った訳よ」


「報告?」


「おうよ。この春先から本格的に立ち上がる事になった。これで俺も一国一城の主だぜ」


「主部が無いからワケわからん」


「しゅぶ?」


「マジウザいです」


「マジウザいゆーなや」


 うん、馬鹿との会話は疲れるね。


「ところでシロ。今日のミケ、なんか静かじゃね? 毒受けんの覚悟で声掛けたんだが」


「毒って……」


 けど、確かにトラの言う通りだ。ミケはいつも、トラに会えば、すかさず口撃(・・)を喰らわせてきたというのに、今日はまだ一言も発していない。


「ミケ? なんかあった?」


「…………、……シロ」


「ん?」


「落ち着いてシロ、それは幻覚よ」


「はい?」


 幻覚? 何が? どれが?


「かわいそうに、いつもの発作が起きたんだね。でも、安心して、わたしが傍に付いてる。何も怖い事なんて無いから」


「ええと、ミケさん?」


「なあシロ、ミケは何言ってんの?」


「あ、いや、俺にもよく……」


「ッ、ほらシロ、そこには誰も居ない。それは幻覚なの、ここには私達二人だけなの」


「え? え? え?」


「大丈夫、大丈夫だから。はい、手を握ったげる、これで平気でしょ? 今日はもう帰った方がいいね」


「…………」


 俺、今、幻覚を起こしているのか?

 だとしたらどんな症状だ?

 幻視?

 幻聴?

 ……判らない。

 もしかしたら、かなり重度の症状なのかも知れない。ほんの僅かにも、違和感を覚える事が出来なかった。


「シロ、オメェ例の発作起こしてんのか?」


「う、い、いや……ちょっと自分では……。トラからはどう見えた?」


「あん? 別におかしな感じは……」


「シロ、ここにトラは居ないっ。それは幻覚なの。お願い、自分をしっかり持って」


「なっ!?」


「はあ?」


 こ、このトラは幻覚……!? う、嘘だろ……。


「ミ、ミケ? ミケにはトラが見えないの……?」


「シロ、よく聞いて。いい? ここにトラは居ないの、シロが見てるのは幻覚なの」


「そ、そんな……」


「ちょ、ま、待てやコラァァァァァッ!」


「この叫び声もミケには聴こえないのか!?」


「シロ、落ち着いて! ……分かった、わたしが病院に連れてったげる。あのオバハンを頼りましょう」


「……ッ!」


 美作先生の力を借りねばならない程の症状が……?


「……分かった、そうするよ。ミケ……ゴメン、また迷惑を」


「いいの」


 そして俺とミケは、公園の出口に向かって歩き出した。


「おい!? マジで行っちまうのか!? ミケ、テメェ何考えてやがるっ!」


 トラの声の幻聴はまだ続いていた。

 俺は、意味の無い事だと解っていても、つい手で耳を塞いでしまう。


「あ、わかった、ミケテメェ、シカトだなっ!? これ、盛大なシカトなんだなっ!?」


 意外にも、幻聴の音量が下がった。もしかしたら、耳を塞ぐという行為が、ある程度、精神に安定をもたらしたのかも知れない。気の持ちようとはこの事だ。俺は指で耳の穴を密閉してみる。


「つか問題あんだろっ!? シロにこの手のジョークは問題あんだろっ!?」


 そうして漸く、トラの声の幻聴は聴こえなくなってきた。何やら声の様な音が聴こえる、と言った具合だ。俺は、このまま聴こえなくなる事を願いながら、更に強く耳を塞ぐ。


「くっ……こうなったら。……おいミケ、こないだな――ラブホで女連れのシロと会った」


 ――ピタリ


「あれ、ミケ?」


 寄り添うように隣を歩いていたミケが、急に足を止めた。俺もそれにつられて足を止める。


 クルリ


 そしてミケは、その場で180度のターンを……


 タッタッタッタッタッタッ……


 ……したかと思ったら、即座に駆け出し……


 バッ……ドスゥッッッ!


「うごおっ!?」


 ……その勢いのまま、幻覚のトラへと飛び蹴りをかました。……って、幻覚に飛び蹴り!?


「うぐぐ……やってくれるなぁ、ミケさんよぉ……」


 蹴られた鳩尾を押さえながら膝を付くトラ。……幻覚じゃないじゃん。


「……言って良い冗談と悪い冗談の区別も付かない奴は倒すに限る」


「オメェがそれを言うか……」


 トラと会話するミケ。……もう絶対幻覚じゃない。

 俺は状況を把握すべく、二人の元へと駆け寄った。


「お、おいミケ? なんでこんな事を?」


「シロ、ゴメンね? なかなかトラとの話を切り上げてくれないから、つい」


「あっ、その為に……そうだよな、大切な話をするところだったんだもんな。けど、なんでトラに蹴りを?」


「この馬鹿が、『ラブホで女連れのシロと会った』とかほざいてたから……」


「ぶっ!? トラ! お前、ナツさんとのこと喋ったのかっ!?」


「……ナツ……さん……?」


「――ハッ」


「はいシロ自爆」


 自爆、だった。

 トラの言う通り、見紛う事無き、自爆、だった。


「いやいやいやいやいやっ、ミケ! 聞いてくれ! 弁解させてくれ! その余地が多分にあるんだっ!」


 その事はちゃんと話すつもりだった。

 順を追って隠さず伝えるつもりだった。

 しかし、最悪の部分が最悪の形で伝わってしまった。


「ミ、ミケ……!」


「さよならシロ、貴方の事は忘れた」


「早くも過去形!? 違うんだっ、何もやましい事なんて無いっ、説明をっ、説明をさせてくれーーーーーっ!」




~それから一時間後~


 夕日の射し込む人気(ひとけ)の無い公園。そこには、一人の男子高校生、一人の女子中学生、そして一人のチンピラが居た。

 因みに、男子高校生とチンピラは、地べたに正座している。言うまでもなく、俺とトラの事だ。


「――これで話は全部だ。……分かって貰えた?」


「…………」


 俺はミケに、この冬に起こった一連の出来事を、余す事無く伝えた。話を聞いた彼女は、何も言葉を発する事なく、正座している俺をジッと見下ろしている。その様子からは、話を信じてくれたかどうかを窺い知る事が出来ない。彼女に信じて貰えなかった場合、俺は多くのものを失う事となるだろう。


「話は……わかった」


「ッ! そ、それで……」


「一つだけ確認させて」


「え? な、なんだ?」


「シロはまだ童貞よね?」


「ぶーーーーーーーーーーっっっっっ!?」


 なんちゅう事を訊きますか!?


「どうなの? ちゃんと童貞? それとも、その千夏って人に……」


「皆まで言うなっっっ! ないないないないっ! 何もないっ! 本当にホテルでは何もなかったっ! これっぽっちもやましい事なんてしてないっ! 俺は清廉潔白だーーーーーっ!」


「私は童貞かどうかを訊いてるの。誤魔化さないでちゃんと答えなさい」


「ご、ごまかっ……て、だって、そんな、えっと、俺は、そりゃ、そうでしょ……」


「はっきり答える」


「……ど……童……貞……です」


「ホントね? ……嘘だったら千切るから」


「ちぎっ!? か、か、完全無欠で童貞ですっっっ!」


「そ。なら良し」


 何故俺はこんな恥ずかしい宣言を大声で……泣きそう。


「……あー、ミケよぉ、話し終わったんなら、この体勢やめてーんだが」


「トラ、まだ生きてたの?」


「んだとテメェッ!?」


「間違えた。トラ、まだ居たの?」


「ミケが正座させたんだろうがっ!」


「そだっけ?」


「……こんガキャ……」


 話を聞くにあたって、ミケは俺に正座を要求してきた。誠意を見せる為にも、俺は甘んじてその要求を呑んだのだが、その際、ミケは、何故かトラにまで正座を強要したのだ。その理由は、今の反応を見る限り、単に勢いだったのだろう。


「……チッ、たくよぉ。スジモンにフクロにされた時だって土下座しなかったオレが、なんでチューボーのガキの前で正座させられてんだ。プライドズタズタだぜ……」


「そう思うんなら、なんで律儀に正座してたんだ?」


「バーカ、オメェの為だよ。オレがヘタにゴネてたら、話がコジれたかもしんねぇだろ? ミケを逆撫でしねぇよう気ぃ遣ってやったんだ」


「トラ、お前……。サンキュな」


「なぁに」


「でも、そもそもお前の所為だから帳消しって事で」


「んなっ!? シロが勝手に自爆したんだろがっ!」


「俺はちゃんと話すつもりだったのに、トラが歪めて伝えるからこーなったんだ」


「だったら、ミケがオレの事シカトしよーとしたのが悪い」


「大事な話してる時に現われたトラが悪い」


「んなの知るかよっ。大事な話してんなら『大事な話してます』って看板掲げとけや」


「これから俺達の前に現われる時は『これから現れます』ってメールを事前に寄越せ」


「ケッ」


「フンッ」


「男同士の口喧嘩って見ててタルい。バトれば?」


「…………」


「…………」


 顔を合わせる俺とトラ。


「……シロ、今日のところはこれくらいにしてやらぁ」


「……トラ、この決着はいつか必ず」


「シロもトラもつまんない」


 普通に考えて、俺がトラにバトルで勝てる筈がない。トラの方は、俺に暴力的な部分を見られる事を嫌っている節がある。


「……あーっと、話が逸れまくってるんだけど、戻してもいいでしょうか?」


 話が有耶無耶になりそうな気配を感じたので、軌道修正を図ろうと、俺はミケに伺いを立てた。


「ん? 戻すって、どこまで?」


「だから、俺のさっきの話の事だよ。その、ミケは、俺の話、信じてくれた……のか?」


「もちろん信じたけど?」


「え、本当に?」


「うん、シロはちゃんと童貞」


「そこじゃねーーーーーーーーーーっっっっっ!?」


「うゆ? 違った?」


「そんな事よりも大事な話をしたでしょっ!?」


「そんな事とは何? はっきり言って、シロが童貞かどうかは何よりも重要」


「俺が童貞かどうかなんてどーでもいいわっ!」


「じゃあシロは……わたしが処女かどうかなんてどーでもいいと?」


「はうあっっっっっ!?」


 ――只今、

 わたくしの脳内で、

 惨劇が、

 行われました。

 ――わたくし、

 ミケの初めてを、

 奪った相手を、

 蜂の巣にしました。


「……ミケ、さん……」


「ん?」


「……この上なく、重要、です……」


「でしょ?」


 ミケが他の男と……だなんて、想像しただけで泣きそうになる。


「わたしのさっきの気持ち、解って貰えたみたいね」


「……はい」


 俺は思慮に欠けていた。

 彼女が受けたショックを軽んじていた。

 自分と置き換えてみれば解る事だというのに。

 俺がもし、「ミケが他の男とラブホテルに居た」なんて話を聞いたら、心中穏やかではない――では済まされない。

 本当に軽率だった。

 ナツさんとラブホテルに居た経緯は、自分が気まずいからといって、話を疎かにしては、絶対にいけなかったのだ。


「ミケ、本当にごめん。もっとしっかりと説明させてくれ。きっとお前の不安を消して見せる」


「必要なっしんぐ」


「え?」


「言ったっしょ? 『もちろん信じた』って。大丈夫、これでもシロの事は理解してるの。シロは嘘を言ってない」


「ミケ……」


 これも自分の置き換えて考えてみる。

 果たして、俺ならば信じる事が出来るだろうか、今のこのミケの様に。……正直、僅かな棘を胸に残しかねない。それを思えば、ミケの宥恕を鵜呑みにすべきじゃないな。何らかの影を落としてしまったと捉え、この先、彼女への顧慮を怠らないようにしなければならないだろう。


「俺、ミケの信頼を裏切らないよう頑張るよ」


「んーん、シロは今のままでいいの」


「ミケ……」


「シロ……」


「う~ん、初々しいねぇ、青春だねぇ、ケツの穴がむず痒いねぇ」


「トラ、いつまで生きてる気?」


「んだとテメェッ!?」


「間違えた。トラ、いつまで居る気?」


「ミケが長ぇこと正座させっからシビれて動けねぇんだよっ!」


「そなの?」


「あ、トラもか」


「あん? シロもか」


「正座で一時間は初体験だ」


「オレは、どっちかっつーと正座させる方が得意だ」


「……性質(たち)の悪い特技だな」


「もう終わったからくずしていーよ」


 ミケの許可が下りたので、膝下を圧迫から解放させる。だが、立ち上がる事が出来るようになるまで、時間が掛かりそうだ。


「ちちち……ふぅ。なあ、ミケ」


「なにさね」


「話、終わったのか? というか終わっていいのか?」


 想像していたのとは遥かに違った形ではあったが、ミケに全てを伝える事は出来た。しかし、理解を得られたのかどうかが、いまいち不明だ。


「んだよシロ、まだ正座し足りねぇってのか?」


「そうじゃなくて、俺の話、結局信じて貰えたのかなって。いや、童貞云々の事じゃないぞ?」


「んー、まあ、オメェが嘘言ってるとは思わねぇが、さすがに幽霊っつーのは……」


「あ、トラは別にどうでもいいから」


「んでだよっ!?」


 というか、ミケと話してるんだから、割り込んでくんな。


「それで、ミケは……」


「ねえ、シロ」


「……って、え?」


「今までのシロと、これまでのシロは、どこか違うの?」


「へ? ……えっと、今まで幻覚だと思ってたものが……」


「そうじゃない。シロ自身の話。因幡志朗という人間に、何か変わりがあるの?」


 俺という人間?

 俺のひととなりに変化が生じたか、という事か?


「……俺は……うん、俺のままだと思う。だからって何も変わらない。俺は俺だ」


「貴方がシロなら、何がどうでもいい」


「ミケ……ありがとう」


 本当に得難いパートナーを得たものと思う。俺には勿体無いくらいだ。


「チッ、誰かオレのケツの穴、掻いてくんねぇかなぁ……」


「オケ」


 ズゴンッ!


「ふごおっ!?」


 ミケのトウキックがトラの……を、直撃したかも?

 足の痺れが治まるのを、腰を浮かせて待っていたのが災いしたようだ。


「ギ……ギ……ミ、ミケ……テンメェ……」


「とどめ」


 ムギュ……


「フォオオオオオオオオオオ!?」


 一時間の正座で痺れ切ったトラの足を、容赦無く踏み付けるミケなのであった。嗚呼、無情。




~それから一時間後~


 ここはオークハイツ月成。

 つまり自宅マンション。

 本日のデートを終え、俺達は帰って来たのだ。しかし、まだ重要なイベントが残されていた。

 そう、ミケの入試の合否通知、だ。


「――ミケ」


「ん、分かってる」


 ミケを促し、マンションのエントランスにある郵便受けの前へと、一緒に足を進めた。ミケの表情は冴えない気がする。彼女にも、さすがに不安と緊張はあるようだ。一方の俺も、今朝ほどの気負いは抱いていないが、合格を願っている事に変わりはない。やはり緊張は免れないようだ。


「フゥ……」


 ミケが、505号室の郵便受けを前にして、一つ溜め息を吐いた。そうして、郵便受けの鍵穴へと、おもむろにキーを差し込み、尚もおもむろにキーをまわ……


「ちょっち心の準備」


 ……さなかった。こんなに気後れしているミケは珍しい。


「やっぱ緊張する?」


「悔しながら。シロも去年はこうだった?」


「いや……俺、推薦だったから……」


「チッ、インテリゲンチャめ」


「す、すんません」


「明日にしない?」


「へ? 何を?」


「結果見るの」


「……それに何の意味が?」


「これはあれね、シュレディンガー」


「は?」


「わたしは今、50パーセント受かってて50パーセント落ちてる」


「あの論理の眼目はそこじゃないんだが……」


「いきはよいよいかえりはこわい~」


「……急にどうした?」


「今のわたしの心境」


「出しなはよかったけど、帰ってきたら怖くなったわけだ」


「――オメェら、ゴチャゴチャ言ってねぇでとっとと開けろや」


「…………」


「…………」


 実は、トラが公園から付いて来ていた。暇な奴め。


「トラ、なんで生きてるの?」


「んだとテメェッ!?」


「間違えた。トラ、どうして生きてるの?」


「言い直すトコ間違ってんぞっ!」


「間違えてない。わたしはトラが生きてる事に疑問を抱いてる」


「そんなに生きてちゃ悪いかっ!?」


「良いと思ってるの?」


「辛辣過ぎんだろっ!?」


 今度はミケとトラでゴチャゴチャ始まった。

 郵便受けを開けるだけなのに、やたらめったら手間取ってしまっている。ある意味、生殺し状態。合否の結果は目の前だというのに、なかなかそれを確認できずにいた。


「ミケ、もう覚悟を決めないか? こうやっていつまでもモヤモヤしてる訳にもいかないだろ? もう、結果は出てるんだ。スパっと確認してしまおう」


「ほらミケよ、シロもこー言ってんだ。男見せな」


 バチンッ!


「ぶっ!?」


 ミケの平手がトラに炸裂。


「わたしは女。……でも、分かった。覚悟決める」


 こうしてミケを見ていて思ったが、彼女は、俺が考えているよりもずっと、合否の事を気にしていたのではないだろうか。


 カチャ……キィ


 遂に開かれた郵便受け。中には幾つかの郵便物があったが、その一番上に『徳英学院』の文字が記された封筒があった。

 宛名はもちろんミケ。

 あの中に、合否の通知が収められている筈だ。


 ……ガサ


 その封筒を手に取るミケ。


「…………」


 ビリビリビリビリ……


 少しだけ逡巡する様子を見せたが、彼女は一気に封を切った。


「…………」


 ミケが無言で一枚の書類を見据えている。合否は判明した筈だが、彼女にリアクションはない。


「ミ、ミケ……?」


「なんだぁ? 結果はどーなんだよぉ」


「…………」


 俺とトラが声を掛けても、やっぱりミケは無反応。……非常に胃に悪いぞ。


「だ、駄目……だったのか?」


 恐る恐る、再度声を掛けてみる。


「…………、……ぐす」


「涙っ!?」


「おおう……ミケが泣くトコ初めて見たぜぇ……」


「ミ、ミ、ミケ、まだ早い、まだ諦めるのは早いっ。ほ、ほら、補欠枠補欠枠っ。まだ望みはあるって!」


「徳英を滑り止めに出来る奴なんて、そう何人も居ねぇだろ。そっちはあんま期待しねぇ方がいいんじゃね?」


「黙れこの馬鹿っ!?」


 ホントになんでコイツは生きてるんだ!


「……シロ」


「あ、な、なんだミケ。この馬鹿の言う事なんて気にするな。だって馬鹿だし、馬鹿な事しか言えないんだ。馬鹿の馬鹿な話を聞いても馬鹿になるだけ。な? 馬鹿はほっとこ?」


「……テメェ、人をバカバカと……」


「五月蝿いこの馬鹿っっっ! ミケ、だから、その……」


 ――ガバッ


 突然、ミケが俺へと抱き着き、胸に顔を(うず)めてきた。


「ミ、ミ、ミ、ミ、ミ……」


「……った」


「……え?」


 ミケが何かを言ったが、俺の胸に顔を押し付けている為、くぐもっていてよく聞き取れなかった。俺が聞き返すと、彼女は顔を離し、上を見上げて、はっきりとこう言った。


「受かっちった」


「――ッ!」


 今度は聞き取れた。

 聞き取ってやった。

 ミケは間違いなくこう言ったのだ。


「受かった?」


「そ」


「ホントに?」


「もち」


「…………、……った……」


「ん?」


「ッ、やったぁぁぁぁぁーーーーー!」


「イエーーーーーイ!」


 多くを語る必要は無い。

 この一言で事足りる。

 嬉しい、と。


「ふぅ~~~……。ミケ、おめでとう。今日までよく頑張ったな」


「ん、これでまた、シロと一緒ね」


「超、嬉しい」


「わたしも。……シロ、春からはもう辛い事なんてないからね。わたしが護ったげる」


「……ッ、ミケ、知って……」


「シロも、この一年、よく頑張りました」


「ミ、ミケ……くっ……」


「えらいえらい」


 背伸びをしながら俺の頭を撫でてくれるミケに、これ以上ない程、胸が熱くなった。俺はこの先、幾らでも頑張る事が出来そうだ。


「ミケ……」


「シロ……」


「……あ~あ、痒い痒い、こりゃ痒み止め買わねーとダメだわ」


「…………」


「…………」


「あん?」


「……ミケ、祝砲だ。二十一発な?」


「オケ。……せーのっ」


「は?」


 ズバンッズバンッズバンッズバンッ……!


「だっ!? ちょ、いでっ! オメェら、あだっ! いだだだ……!」


 そして、俺とミケは、二人で祝砲(トラ)を打って、今日という日の締め括りとしたのだった。




―シロの憂鬱な休日―

END

 今年の投稿は、これにて終了です。

 次の投稿は……来月中には……(汗)。

 なにぶん、伏線を増やしてしまった為、つじつま合わせに手間取っております。

 一カ月以上は空かないようにしたいですね。

 では、よいお年を。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ