time to believe now 21
ほんのちょっとだけ、鬱な展開です。シロ君の弱さが露呈します。
二月六日 日曜日 日中午前
「――いらっしゃいませー」
俺は花屋へと足を踏み入れた。若い女性が笑顔で迎えてくれる。普段はまず利用する事のない店なので、少しだけ緊張しつつ、店内を見回した。やはり花屋だけあって華やかだ。いや、ダジャレではなく。色とりどりの草花が、店中に敷き詰められていると言った感じだ。これだけ様々な植物に囲まれていると、今が冬だという事を忘れてしまいそうになる。……どの植物がどの季節のものかなんて事は、さっぱり判らないけれど。
「いらっしゃいませ、どの様なものをお探しですか?」
「あ、え、え~と……。あの、け、献花って、どんな花だといいんでしょう……かね?」
「ご葬儀でいらっしゃいますか?」
「あ、いえ、事け……じゃなくてっ、事故現場に供えようかと」
「それは……ご心痛、お察し致します」
「恐縮です」
「そのような場合ですと、特に制約は無いかと存じます。ただ、棘があったり、色の強いものは避けた方がよろしいかと。無難なものですと、やはり白い百合や菊でしょうね。カーネーションなんかですとお手頃ですよ?」
俺を高校生と見越してか、懐に優しい花を勧めてくれた。カーネーションは良いかもしれない。母親を連想させる花だから。
「じゃ、その白いカーネーションを……」
購入しようかと思ったが、ふと足元にある花に目が留まった。正確にはそのネームプレートにだ。
「雪割草……。あの、すいません、これって三角草の事ですよね?」
俺は、足元にズラッと並んでいる鉢苗を指差して、店員さんに訊ねた。
「え? ああ、はい。正確にはオオミスミソウですね。当店では、開花時期の今だけ、取り扱っております」
これが三角草か……。
赤い……というよりは紫か。こっちのは完全に青い。なるほど、色の濃度で大分雰囲気が変わる。けど、俺はこの白いのが一番好きだな。丸っこい花弁が可愛い。
「お客様?」
「あっ……」
つい見入ってしまった。
「すいません、やっぱりこっちにして下さい」
「こっちって……雪割草ですか? 鉢苗は献花に向かないかと」
「……故人が一番好きだった花なんです」
「まあ、そうでしたか。であれば、それが最良ですわね」
そうして俺は、白い三角草の鉢苗を三つ購入して、店を後にした。
「さてと……」
今日は日曜日。
水沢の自殺騒動から、ちょうど一週間だ。
昨日、父さんとのやり取りで、今回の事に一段落がついたと判断した俺は、気持ちの整理も兼ねて、水沢さとみさんが殺害されたと思われる千杜橋の下に、花を供えようと思い立った。もちろん事件そのものはまだ解決されていないが、今や、俺に出来る事は無くなっている。先週の日曜日以来、さとみさんは俺の前に現われてはいないし、例の耳鳴りすら起こっていない。――俺は役目を終えた。そう思っている。
さとみさんを救えたかどうかは判らない。
彼女の望みに応えられたかどうかも判らない。
しかし、自分にやれる事はやったという自負はある。後は、父さんと警察を信じて、事件の解決を祈る他ないのだ。
「……着いたけど、どうしよう」
花屋を出た後、俺は真っ直ぐに千杜橋へと向かった。そして、辿り着いたはいいが、ちょっとだけ問題が発生する。さとみさんが亡くなったと思われる場所は橋の下。つまり、川の側。今は日中なので、先週の時とは違い、川の様子が鮮明に判る事だろう。
早い話が、川へ降りるのが怖いのだ。……何しに来たんだ俺は。
「えーい、行くだけ行ってみよう」
とにかく川さえ目に入らなければあの女の人は現れない。……筈。……だと思う。うん、ここは前の様に、足元凝視作戦で行こう。
俺は覚悟を決めて、あの螺旋階段を目指し、千杜橋を渡り始めた。
ふと前に目をやると、迷惑にも橋の上で停車している車があった。その側には、橋の下を覗いている男性もいる。一体何をして……っ。
「……え? な、んで……?」
その車、その男性、どちらにも見覚えがあった。
それに気付いた俺は、駆け足で橋を渡る。
「高井さんっ! 何故貴方がここにっ!?」
「おや」
それは、高井京助、だった。
何故この人がここに居る?
警察に捕まった筈だろ?
「ハァ……ハァ……」
「こんにちは、因幡君、昨日振りですね。大丈夫ですか? そんなに息を切らせて」
昨日の時と違って、彼は丁寧な口調で話しかけてきた。表情も非常に穏やかなものだ。
「どうして……! ハァハァ……ッ、ここに居るんですかっ!」
「うーん、それはどっちの意味でしょう。言葉通り、この場所に居る事が疑問なんですか? それとも、警察から解放されている事が不思議なんでしょうか」
しれっとそんな事を訊いてきた。どういう神経の持ち主なんだ。
「両方です!」
「そうですか。はい、答えましょう。ここに居る理由は、街中で彼女達を見つけて、尾行して来たからです」
そう言って高井は再び橋の下を覗き込む。
「か、彼女達って?」
「ほら、見れば判りますよ。あ、そうか、川があるから君には見れませんよね」
「く……」
「ひかるちゃんと、ええと……その友人かな?」
水沢とナツさんが?
「どうやらお花を供えに来たみたいですねぇ、なるほどなるほど、さとみさんはここで死んだのか」
高井の口調は、丁寧ではあるが、癇に障る。何故か一言一言が、俺の感情を逆撫でた。
「警察はどうしたんですかっ!?」
「ん~? いえ、任意でしたからね。昨日の夜中には帰宅させて頂きました」
「任意!? そんな筈……!」
「やれやれですね、警察も何を勘違いしたのやら。聞いて下さいよ、あの人達、僕を詐欺師扱いするんですよ?」
こ、こいつ……。
「アンタは詐欺師だっ! それも最悪のっ!」
「…………」
俺はこれ以上ない程強く、高井を睨みつけた。その高井は、一瞬だけ目を細め、そしてすぐに唇の端を吊り上げる。吐き気がするくらい嫌な笑みだった。
「いやいや~、そう言えば君は、なんでも知っているんでしたね~。何しろ超感覚的知覚能力者。エスパーでミーディアムでサイコメトラーでアストラルな因幡君。……五人目は出てきましたか?」
「馬鹿にするのもいい加減にしろぉっ! 高井ぃっ!」
「おやおや、遂に呼び捨てですか。素直だった頃の君が懐かしいですよ」
「このっ……!」
駄目だっ、落ち着け俺っ。相手の術中に嵌っている。冷静に、冷静にだ……。
「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」
俺は大きく深呼吸をする。平常心を取り戻せたとは言えないが、どうにか思考力は回復できた。
「落ち着きましたか?」
「ぐ……ええ、おかげさまで」
「そうですか。では、少しお話をしませんか?」
「願っても無い事です」
俺は高井へと近付き、渓谷を背にして欄干へと寄りかかる。高井の方も俺と同じ体勢を取った後、懐から煙草を取り出した。
「タバコ、喫うんですね……」
「君もやりますか?」
「罪に問われます。主に貴方が」
「君にとって嬉しい事でしょう?」
「そんなちんまい罪でなければね」
高井は、ふふんと鼻で笑いながら煙草を咥え、ジッポーライターで火を点けた。
「いいでしょう、これ。妻からのプレゼントなんです」
ライターを見せつけながら得意そうな顔をする。正直どうでもいい。
「貴方みたいな人と結婚する女性の気が知れません」
「何にでも噛み付きますねぇ。別におかしな事ではないですよ、妻は僕の本性を知りませんから」
「本性って……詐欺師の貴方の事ですか?」
「詐欺師……僕は詐欺師なんでしょうか。なんだかそのカテゴライズは納得いきませんね。僕はただ、誰かの不幸が好きなだけですから」
「――ッ、認めるんですね!? 今までの行いを!」
「はてさて、どの事を言っているかは判りませんが、まあ概ね認めたという事でいいですよ」
「だったら警察に……!」
「はい? やだなぁ、警察になんか捕まりたくないに決まってるでしょう。因幡君に包み隠さず話しているのは、別に君に知られても、痛くも痒くもないからです」
「俺は証言します!」
「ふむ、まあ、お好きに。証拠が無い限り、今回の繰り返しになるだけだと思いますがね」
「ッ……ッ……!」
ぐうの音も出なかった。
今回、高井が警察から解放されたという事は、証拠が足りなかったという事に他ならない。そもそも、任意同行だったとは思いもしなかった。あれだけの人数を揃えて出向いて来たというのに。……二課の人達はそんなにテンパっているのか?
「僕は警察の方々の気持ち、よく解りますよ。あの人達はずっと、僕にしてやられていましたからね。ちょっとした事にも、つい過剰に反応してしまうといった感じなんでしょう。僕アレルギー……いや、僕中毒かな? ははは……」
まるで、自画自賛しているようで、不愉快極まりない言い草だった。
誰かの不幸がこの人の娯楽……今ならよく解る。
「……貴方は一体、何なんですか……」
「僕は高井京助。君の主治医の甥ですよ?」
「美作先生は、貴方がこんな人間だなんて知っているんですか?」
「もちろん知りません。人を騙すのは僕の得意技です。何せ、あの叔母さんですら見抜けないのですから」
「貴方の本性を知っているのは俺だけ?」
「いえ、僕の従妹には見抜かれているフシがありましたね。あの子は底の知れないところがあるから」
「従妹?」
「ふふ、行き遅れ街道まっしぐらのあの子ですよ」
「あ、美作先生の……」
「君の将来のお嫁さんでしょう?」
「そんな話は微塵もありませんっ!」
まだそのネタ引っ張るか……。
「って、こんな話がしたいんじゃないっ! ……高井さん、貴方の目的は何なんですか? 一体、何がしたいんですか?」
何に付けても、この人に関してはこの疑問に尽きる。
俺には全く理解出来ないその価値観。
どうすればこの人を止められる?
何を以ってすればこの人は行動を止めてくれるんだ?
「僕の目的ね……。因幡君に話しても、いえ、大抵の人には理解して貰えないと思いますねぇ。でも、特別に話してあげましょう。君は僕のお気に入りですから」
「…………」
お気に入り、などと言われても鳥肌が立つだけで、少しも嬉しくはなかったが、どうやら話は聞かせてくれるらしい。しかし、気を付けねばならないだろう、父さんはこの人を「嘘しかない男」と言っていたのだから。
「なあ、因幡君。『他人の不幸は蜜の味』って言うだろ? それって、どういう意味か考えた事はあるか?」
高井の口調が変わっていた。表情も、先程までのような恍けた感じではない。
「……あります」
「それは素晴らしい。君の考え、聞かせてくれない?」
「…………」
正直、訳が解らなかったが、とりあえず高井に合わせる事にした。
「自分よりも不幸な人を見ると、自分の幸せを確認出来る。自分よりも不安がっている人が居ると、自分は安堵を覚える事が出来る。自分よりも劣っている人が居ると、自分は優越感を得る事が出来る。……対比的に自分のアドバンテージを実感したいという欲求だと思います」
「本当に素晴らしい。僕が君ぐらいの時には、そんな事を考えたりはしなかったよ」
「貴方が裕福な家で育ったからでは?」
「ふふ、そうかもな。……では、そこに少しだけ補填しよう」
「補填?」
高井は煙草を靴の裏でもみ消し、吸殻を携帯灰皿に押し込んだ。そして、俺に視線を合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……君が不幸なのを見て、周りの人達は自分の幸せを確認出来た」
「っ!?」
「より具体的に。……君がイジメられているのを見て、周りの子達は安堵を覚えた」
「ちょっと!」
「君が精神異常者だと知って、周りの子達は優越感を覚えた」
「ぐ……やめろぉぉぉっ!」
俺は高井に詰め寄り、両手で胸ぐらを掴んだ。高井は少しだけ驚いていたが、すぐに冷静に話し出す。
「『おれ、こいつじゃなくてよかったぁ』。『わたし、このひとよりはましだわぁ』。そんな声が聴こえてきた事はあるかい?」
「そんなの無いっ!」
「ふふ……。そうだ、そんな声は聴こえてこない。何故なら、それらの言葉は、この言葉へとすり替えられるからな」
「何を言って……!」
「『かわいそう』」
「――ッ!?」
その言葉に、俺は高井から手を離す。
「人が『かわいそう』と口にする時は、自分が優位にある事を実感した時なんだよ。……ふむ、どうやら君は、それをよく解っているようだね」
「…………」
「人が同情を嫌う理由はここにある。平たく言うと、同情というものは常に上から目線なんだよ。……幸福な人でなければ、不幸な人に手を差し伸べられない。安心している人でなければ、不安がっている人を心配出来ない。優越感がなければ、劣等者に施そうなんて気にはなれない。“上に居る者”が“下に居る者”に合わせる事は容易だが、その逆は至難。そして、上に居れば上に居る程、下に合わせるのは容易。下に居れば下に居るほど、上に合わせるのは至難。ややこしいかもしれないが、この、上と下の差こそが、同情の深さとイコールで結ばれる。即ち、下の人間の気持が解らない人間ほど、深い同情をする訳だ」
「……何が言いたいのか、よく解らない……」
「僕は同情する側の人間。僕は常に上に居た。僕はこれからも上に居る。僕より上に居る人間なんて大嫌いだ。僕より下に居る人間の気持ちなんて知る必要はない。皆、僕よりも下に居ればいい。誰かが僕の下に落ちて行く様子を見るのが嬉しくて仕方がない」
「…………」
「僕は上。他は下。そんな泣けてくる程の傲慢さが、僕の中で膨らみ続けているんだよ。止められないし、止める気も起らないんだ」
歪んでいる。
歪みすぎている。
こんなの理解出来る筈がない。
「……貴方は、病気だ……」
「ぷっ……あははは……。……僕は精神科医だ、とっくに自己診断は済ませている。PCRで三十点を超えていたよ、ふふ」
駄目だ。俺にはこの人を止める方法が解らない。この人が何かミスを犯すのを待つしかないのだろうか。でも、その間にも、どんどん被害者が増えていってしまう。
「さて、因幡君。こんな僕でもね、水沢さとみさんの事には非常に驚いた。あれは僕の想定外の事だったのさ。あの時の僕は未熟だったなぁ。まさか三浦に人を殺す度胸があったとは、見抜けなかったよ」
「……嘘だ、貴方なら見抜けたに決まってる」
「言ったろ? 未熟だったって。あんな形で終わるなんて、僕としても消化不良だったんだ。せっかく色々と幕の降ろし方を考えていたのにねぇ。実に悔しいよ、三浦が僕よりも上みたいで。そこで因幡君に確認したい。さとみさんは見つかったのか?」
「…………」
さとみさんはとっくに見つかっている。だが、それを高井に伝えて良いものなのか、判断ができない。この人が、何を企んでいるのか判らないからだ。
「警戒するのも分かるけど、答えてくれないかなぁ。さとみさんの事件が解決するかどうかは、君のその“不思議なチカラ”に懸かっているんだぞ?」
「なんだって? どういう意味ですか」
「この事件は、まず、さとみさんの死亡が確定しなければ話にならない。この八年間、誰にも見つける事の出来なかったさとみさんの遺体を、君ならば見つけられたのではないかと考えてね。そこで、ある賭けをしてみたんだ」
「賭け?」
「八年前に三浦をターゲットにした時、恐喝用にと、さとみさんと三浦が一緒に写っている写真や、二人がやり取りしたメールなどを保存したSDカードを、僕は保持していたんだ」
「何っ!?」
「結局使う事はなかったがね。でも、それがあれば、三浦を、さとみさん殺害の容疑者にできる」
「それは今どこにっ!?」
「おっと……落ち着きなさい。賭けだって言ったろ? 君がさとみさんを見つけているのならば、三浦は破滅する。見つかっていないのであれば、二人を繋ぐ証拠が破滅してしまうかもな、ふふふ」
見つけていたら三浦が破滅で、見つかっていなかったら証拠が破滅?
なんだそれは。
高井は何をしたんだ。
「…………」
「焦らすね。まあ、賭け事はその方が盛り上がるか」
「……っている」
「ん、なんだ?」
「さとみさんはもう見つかっている! そのSDカードどこにあるんだっ!?」
「おおそうか、僕は賭けに勝ったみたいだな。ふふ、払い戻しは無いがね」
「いいから早く教えてくれっ!」
「まあまあ。僕の読み通りならば、そんな証拠はもう必要ない。八年前とは違って、今度は三浦の行動を読み切った自信がある。彼はもう破滅している筈だ。危なかったな、さとみさんが見つかっていなかったら、三浦が証拠を隠滅して、またもお咎め無しだったかも知れない」
「いい加減にしろぉぉぉっ! あんたの戯れ言に付き合っている場合じゃないんだっっっ!」
「SDカードは、三浦の元に送った。『コピーを警察に送った』と書き添えてね」
「……え?」
「さとみさんが見つかっているのなら、それは、さとみさんと三浦を繋ぐ重要証拠。三浦は観念するだろう。さとみさんが見つかっていないのなら、それは警察にとって、意味不明な不倫の証拠。三浦は隠滅を図るだろう。因みにコピーは無い。三浦に行動させる為の嘘だ」
高井は完全に遊んでいる。三浦が破滅するかしないかを楽しんでいるんだ。
「……いまいち言っている意味が解らない。三浦は、自首していると?」
「その結果は面白みに欠けるなぁ……ふふふ」
「!?」
俺は高井の表情に戦慄を覚えた。
今まで、散々この人の本性には辟易してきたつもりだったが、今のこの一瞬が、本当に本当の高井京助なのかも知れない。彼が今見せた表情、それは悪戯にワクワクする子供そのものだった。この人は、物を知らない幼子と同じ、罪悪感が完全に欠如しているんだ。
「貴方は……、……ッ!」
――ビイイイイイィィィィィ……
「ん? どうした因幡君」
実に一週間振りの耳鳴りだった。
俺は反射的に周りを見回す。そして、高井の背の向こうに見知った人の姿。
それは黒髪のボブで伏し目がちな少女。
葉山ことりだった。
「んー?」
俺の目線に気付いた高井が、振り返って確認している。しかし彼には見つけられないだろう。
ことりさんは何故かひどく沈んだ表情をしている。
一体何を伝えたいのか。
俺がことりさんの思いを読み取ろうとしていると、彼女の背後に、初老の男性が近づいて来ている事に気付いた。俺は思わず注意を促そうと声を出しかけたが、彼女がどういう存在なのかを思い出し、慌てて口を噤む。
俺は、その男性が何事もなく通り過ぎるものとばかり思っていた。しかし、予想に反して、その男性はことりさんのすぐ後ろで足を止めたのだった。そして次の瞬間……
ビイイイイイイイイイイ……!
「! ……ぐ、ぐうう……ああああ……!」
……激しい頭痛が俺を襲った。
「お、おい、因幡君?」
この頭痛、覚えがある。先週の日曜日、学校の応接室でも同じ事があった。周りの音を掻き消す程の強い耳鳴りといい、間違いない。
俺は片膝を地面に付きつつ、ことりさんにもう一度目をやった。しかし、そこには誰の姿も無い。
「ッ!?」
誰も居ない?
あの初老の男性はどこへ?
俺は驚きのあまり目を見開いた。……つもりだったのだが、目の前はどんどんと暗くなっていく――
――気付けばそこは、見覚えのないリビングルーム。
とても広い部屋だった。
おそらく、一戸建てのリビングルームだろう。
家財道具は非常に充実しており、それだけで裕福な家である事が窺い知れる。
しかし、俺は何故、こんな見も知らぬ場所の“ビジョン”を見ているのだろうか。前回、水沢と高井のやり取りを目にした“ビジョン”も、それまでのものとはやや違っていたが、今回は更に異彩を放っている。
具体的に挙げるならば、まずは俺の視界。
俺の目に映る近景が、目まぐるしく移り変わるのだ。このビジョンを見始めてからずっと、俺の意思とは関係無く、リビングルームのあちこちへと、忙しなく目を向けているといった状態。自分の目が勝手にキョロキョロしているようで、非常に気持ちが悪い。
そしてもう一つ、この“ビジョン”が始まった時から続いている事がある。それは……
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
……この乱れた息遣い。
俺の、それこそ間近から聴こえてくるが、見える範囲には誰も居ない。いや、誰かの息遣いというよりは、まるで俺自身が発しているかの様な感じだ。もちろん、俺に息を荒げている自覚は全く無い。しかし、その呼吸音は、自分の中から聴こえてきているかの様だった。これも、非常に気持ちが悪い。
「はぁ……はぁ……うう……うううう……」
息遣いに続き、今度は呻き声が聴こえてきた。それもまた、まるで自分の中から聴こえてきているかの様に思えた。俺は一切、声を出したつもりはない。何より、その呻き声が自分の声だとは、どうしても思えなかった。
「うう……く、くそっ……くそっ……!」
どうやら泣きながら悪態をついているようだ。声はやはり俺のものではない。何か、もっと年配の男性の様な声。しわがれている上に、震えた声だ。
なんとなく判った気がする。
これは――どこかの誰かの視点が、そのまま“ビジョン”になっているのではないだろうか。
「あああああ……っ!」
その「どこかの誰か」が強く声を荒げたのと同時に、視界の風景が移り変わった。
移動をしているようだ。
ふらふらと揺れながら、この誰かはキッチンにまでやって来た。そしてそのまま、正面に捉えていた、勝手口らしき扉を開く。
庭の様な場所に出て、そこに在ったプレハブの物置を開けた。
中には様々なものが収納されているようだが、視線はある一点に向けられている。
二つの、赤いポリタンク。
少しの間、そのポリタンクを見つめたまま動きが無かった。すると……
「ッ……くそおおおおおっ!」
と、再び声を荒げながら、物置の中へと足を踏み入れるどこかの誰か。そして、一気にポリタンクへと歩み寄り、二つとも掴み上げた。
その時になって、ある事に気付く。――その手、今ポリタンクを掴んだその手。その手を赤く染めているそれは、一体なんだ?
「ぐっ……ううううう……!」
タプタプと、水音が聴こえてくる。どうやらポリタンクを運んでいるらしい。勝手口に向かっているところを見ると、家の中へと持ち込もうとしているようだ。
扉が目の前に迫った時、俺は、先程見えたものを確認しようと、扉のノブに意識を向けた。そして目にした、ノブを掴む手。
やはり赤い。
やや黒ずんだ赤い何かが、この誰かの手を染めている。
「ああっ……! あああっ……!」
勝手口を上がり、キッチンに戻ってくると、ポリタンクを床へと降ろし、喚きながらキャップを回す。
臭いが……判る。
この臭いは、そう、冬の今ならば馴染みのある臭い。
これは灯油だ。
それをどうする気だ?
まさか……。
「ううう……! ううううう……!」
飛び散る液体。
充満する臭い。
家の中に灯油を撒かなくてはならない理由とはなんだろうか。
そんな事は決まっている。
そんな事は一つしかない。
これは、絶対に止めなければならない事だ。しかし、俺には止める術が無い。俺は、この、どこかの誰かの目を通して、只々その光景を見ている事しか出来ないのだ。
やがて、ポリタンク一つ分の灯油が、キッチンとリビング中に撒かれてしまった。
空になったポリタンクをその場に捨て、もう一つを掴み上げると、リビングから廊下へと移動した。そして、すぐ手前にあった部屋のドアノブへと手を掛ける。しかし、なかなか開けようとはしない。ノブを掴んでいる、赤黒く染まった手は、明らかに震えていた。
この部屋に何かあるのかも知れない。
「……ッ、あああああっ!」
まるで、気合を入れるかのようなシャウト。そして、ようやく扉は開かれた。
……え?
「ひ、ひひ……ひひひ……ううう……」
震える視界。
ぼやける視界。
そんな視界の中央に映っているもの。
それは女性。
うつ伏せに倒れている女性。
赤い、水溜りの中で、ピクリとも動かない女性。
……だった。
「ひあああああっっっ!」
奇声を上げながら、その女性に灯油を振り掛ける。そうされても、女性に動く様子はない。――もう、動けない……。
「ひああっ! ひあああっ!」
誰か……助けてくれ。もう、こんなものは、見たくない。こんな悍ましいものを、俺に見せないでくれ。
「あああああ……!」
願いも虚しく“ビジョン”は続く。
女性に灯油を掛けた後、再び廊下へと戻り、ドタドタと足を踏み鳴らしながら走る。そして、その勢いのまま階段を駆け上がり、二階にあったとある部屋の扉を、蹴破る様に開けた。
勢いは殺さずに、部屋の中へと入り、脇目も振らず、そこに……居た……女性に……。
「うああ! うああ! うあああっ!」
なんという……事だろうか。
この部屋に居た女性にも灯油を掛けている。
ソファに横たわる女性。
着ている服を、赤に、染めた女性。
灯油を振り掛けられた女性は、目を大きく見開いたまま、全くそれに抗う様子はない。――もう、抗えない……。
「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」
もういい、もういい、こんなのはもういい。
早く現実に戻してくれ。
早く現実に戻りたい。
「うう……うう……はぁ……はぁ……うううう」
もはや、視界は涙で滲んで、まともに見えない。俺の涙ではないが、きっと俺自身も涙は流している事だろう。
何故こんな事になったのか。一体何が起こっているのか。そんな事はどうでもいい事だった。今はとにかく、この拷問から逃れたい。
そう、これは拷問だ。
目を逸らしたくても、逸らせない。
ここから逃げ出したくても、逃げ出せない。
こんな凄惨な光景を見続けていたら、俺は本当におかしくなってしまう。
――声しか知らないどこかの誰か、頼むからもう目を瞑ってくれ。そうすれば、俺には何も見えなくなる。それが駄目なら、せめて目の前の、赤に染まった女性から目を逸らしてくれ。その女性の、見開いた目を凝視するのを、今すぐにやめてくれ。
「はぁ……はぁ……」
願いが届いたのか、視界がゆっくりと動き出す。そして、女性は視界の外へと消えてくれた。
しかし、“ビジョン”は終わらない。
いつまで続くんだ、この拷問は。
「はぁ……」
移動していた視点が止まる。そして、そこ……に、在ったものに……俺は……戦慄……
「…………」
……そんな……そんな……駄目だ、駄目だ、それは駄目だ。それは在っちゃいけない。
……やめてくれ。
……それだけはやめてくれ。
……それに近づくのだけはやめてくれ。
「…………」
嫌だ!
それだけは見たくない!
その中だけは覗かないでくれ!
「…………」
その、ベビーベッド、の、中、だ……け……は――
「――ああああああああああ……!」
「……っとぉ、おい因幡君? 僕が判るかい? 大丈夫。もう、大丈夫だ。僕の声を聴きなさい」
「そんな……! そんな……! 赤ん坊までっ!」
「赤ん坊? ……因幡君、僕を見るんだ。ほら、顔を上げてごらん?」
「ハァ……ハァ……ッ、でも、でも!」
「因幡君。大変だったね? でも、もう終わった。安心していい」
「ハァハァ……お、終わった?」
「よしっ。……そうだよ、怖い事はもう終わったんだ。もう大丈夫。ほら、僕が誰か判るね?」
「……高井先生……」
「そうだ。別に怖い事ないだろ?」
「……だって、さっき、あれは」
「うん、何かあったんだね。どんな事があったのかな?」
「ひ……人が、死んで。女の人が……二人も……。そ、そ、それに……あ、赤ん坊……まで」
「ふむ……。女の人が亡くなっていたのかい? 赤ん坊も?」
「……多分。血……出てたから……」
「亡くなっていないかもしれない?」
「誰かが、その人達に、灯油を掛けてた……家にも……。あいつ……火を点ける気だ」
「あいつ? あいつって?」
「え? ……判らない、見えなかったから……。でも、男の声だった」
「男、ね。……因幡君、周りを見て御覧?」
「周り?」
「ここがどこか判るかい?」
「……千杜橋」
「そうだ。ほら、遺体なんてどこにも無い。もう、恐い事なんて何もないんだ」
「…………」
「君の言う男も居なくなった。もう大丈夫だろう?」
「大丈夫……ですね」
「ああ。因幡君、深呼吸は出来るかな? はぁー、はぁーって、息を吐く方に意識を置いてやってみなさい」
「は、はい……。はぁぁぁ……すぅ、はぁぁぁ……すぅ」
いつの間にか、最悪の“ビジョン”から抜け出せていた。
俺の傍には高井京助。どうやら、彼に介抱されているようだ。正直、複雑な気分だったが、お蔭で冷静さを取り戻せた。
しかし、心に落とされた影は深刻だ。
俺は、俺のこのチカラを、あまりにも軽々に認識していた。何か不思議な力を得て、人とは違う特別な存在になれたと、勘違いしていたのかも知れない。最初に、葉山ことりのビジョンを見た時に気付くべきだった。
これは耐えられない。
これから生きて行く上で、今見たようなビジョンを見せ続けられたら、俺の心はただじゃ済まされないだろう。「死者からのメッセージ」だとか言って、勝手に使命感に燃えていたが、俺なんかに背負える使命ではないようだ。
俺は今、このチカラが消えて欲しいと、初めて思った。
「落ち着いたようだね」
「あ、はい。……意外でした、介抱してくれるとは」
「介抱ぐらいするさ。君は僕のお気に入りだからな」
「……それ、やめて下さい」
「おやおや。……それで? 今のは幻覚症状かい? それとも“チカラ”かい?」
そんなワクワクした顔で訊かないで欲しい。今の俺の精神状態では、すぐにも冷静さを失ってしまいそうだから。
「幻覚、です」
「ふむ……“チカラ”の方みたいだね」
「くっ……」
そうだった。この人は、人心を読む事に長けているんだった。
「なあ、因幡君、聞かせてくれよ。何を見たんだ? こんな場所だから、さとみさんの事かと思ったが、君は女性二人と赤ん坊が死んでいたと口にした」
「――ッ!」
「僕は、君の“チカラ”に、非常に興味があるんだ。いや、誰だって興味を持つだろう。こんな不思議な事、楽しいに決まっている」
「たのっ……ふざけるなっっ!」
「おっと」
「あんなの……あんなの楽しい筈ないだろ!?」
人の死が楽しいなんて、絶対にある筈がない。
「んー、よっぽどの事があったみたいだねぇ。今回の事とは関係ない事だったのかい?」
この人は……俺が怒鳴りつけても、ちっとも怯んだ様子を見せない。先程介抱してくれていた時に見せた気遣わしげな表情は、見る影も無く消えていた。
「話してくれないかなぁ。なあ、頼むからさ。さっき、何かを見たのだろう? 三浦は出てこなかったか?」
「うるさいっ! 何も話す気は……三浦? なんで三浦の事なんか……」
「因幡君には死者が見える。……だよな?」
「――ッ!?」
高井は、俺がビジョンを見る前に、三浦の自首が面白みに欠けると言っていた。
なら、高井が望む結末とはなんだ?
父さんはこう言っていた、「最終的に自殺に追い込まれた被害者は少なくない」と。
まさか……
「……三浦が自殺するように仕向けたのか? 水沢にしたように」
「ん? 別に大した事はしてないさ。例のSDカード、宛名を三浦の奥さんの名前で送っただけ。先に奥さんに知られれば、三浦のひっ迫感が増すかと思ってね」
「あんたっていう人はっ!」
俺は、高井に再び怒鳴りつけながら、ケータイを取り出して、すぐさま父さんをコールする。
トゥルルルルル……トゥルルルルル……
「出てくれ、父さん……」
あの男性。
ことりさんの後ろに居た、あの初老の男性。
あれはもしや……。
あの時のことりさんの沈痛な面持ちが気に掛かる。
あの男性が、目を離した隙に消えてしまった事が気に掛かる。
そして何より、その直後に目にした“ビジョン”の内容が、あまりにも気に掛かる。
トゥルルルルル……プツ
「もしもし、志朗?」
「と、父さん……!」
「志朗、すまないが、今はとても立て込んでいる。後で掛け直すよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った! 父さん、こっちも超急用なんだよ! 三浦っ、三浦誠次の事っ!」
「む?」
「急いで三浦の自宅に行ってみて欲しい! 大変な事になっているかも知れないんだ!」
「…………」
「父さん!? もしもし!? 聞いてる!? もしもーし!」
「……志朗、今、父さんは、三浦宅前に居る」
「えっ!?」
「確かに、大変な事になっているよ」
「……!」
「志朗、何か見たのかい?」
「…………。……三浦が、無理心中を、図ったかも知れない……“ビジョン”を」
「なるほど……無理心中か。現場の検視はうちでやらせて貰おう」
「三浦の家は……焼けた?」
「ん? ……ああ」
「……遺体は、四体?」
「……そうだ」
「あ、あ、赤ん坊……も?」
「志朗……。ああ、そうだ」
「…………」
「とにかく志朗、話は聞きたいが、さっきも言った通り立て込んでいる。今は切るよ?」
「あ、うん……忙しいトコ、ごめん」
「いや、それじゃ」
プツ ツー……ツー……
「……………」
最悪の結果だった。
あの“ビジョン”。
あれは、三浦誠次の視点だったんだ。
理解が出来ない。俺には全く理解が出来ない。追い詰められたからといって、何故、無関係な家族を殺さなければならないんだ。こんな幕引き、絶対にあってはいけない。
「因幡君? 今、無理心中と言ったか? 遺体が四体と言ったか?」
そして、その三浦を追い詰めた張本人が、目の前に居る。俺が今、最も理解不能な人物だ。
「…………」
「なあ、聞かせてくれ、三浦は家族を殺したのか? 君はその現場を見たのか?」
この人は、どうして、そんな事を楽しそうに訊けるんだ?
自分の所為で四人も死んだんだぞ?
しかも、
その四人の内の一人は、
まだ幼い、
「赤ん坊がどうのと言っていたな。あいつは孫まで殺したのか? なあ、教えてくれよ」
「――ッ! この野郎ーーーーーっ!」
「おわっ」
限界だった。
今、俺の中にある感情は怒りしかない。
俺は高井の胸ぐらを掴み上げ、欄干へと押したやった。
「お、お、お……ああ、因幡君? 落ち着いた方がいいんじゃないか? このままだと、君の経歴に深刻な傷が付いてしまうぞ?」
高井の身体が、欄干の手すりに乗り上がっている事には気付いていた。しかし、俺は自分の激昂を止められない。
「お、おいおい、本当に落とす気じゃないだろうね?」
「あんたの所為で人が死んだんだぞっ!? 解っているのかっ!?」
「おっと……僕の所為ではないだろう。僕は誰も殺しちゃいない」
「あんたが原因だろうがっ! あんたが三浦を凶行に走らせたっ!」
「考えようによっては、僕がさとみさんの仇を討った事になるんじゃないかい?」
「関係の無い人まで死んでるっ! 赤ん坊までっ!」
「それを責めるべきは三浦だろう? 僕が一体何をした? 僕が何かした証拠は示せるのかい?」
「くっ……!」
「三浦がテンパって、勝手に馬鹿な事をしただけだ。そもそも、あいつがさとみさんを殺したりするからこうなったんだろう? 自業自得。あいつに殺された家族も、不運だと諦めるしかないさ。そう、運が悪かったんだよ」
「運じゃないっ! あんたがそう仕向けたっ! 何もかもあんたが元凶なんだよっ!」
「やれやれ……。OK、認めるよ。確かに僕は、三浦が自殺する事を期待していた。でも、家族を巻き込むなんて誤算だったんだ。まったく想像していなかったよ」
「嘘だっ! あんたは三浦の行動を読み切ったと……!」
「但しっ!」
「ッ!?」
「……楽しい誤算だったけどね」
「――――」
その言葉で、俺の思考力は完全に奪われる。今、俺の頭の中は、「この男をどうにかしなくてはならない」という、ある種の使命感に支配されていた。義務感と言ってもいい。しかしながら、俺にはこの男を止める術が解らない。――だから、思考力を失った俺の脳は、最も短絡的な行動を、肉体に取らせるのだった。
「…………」
俺は、ゆっくりと重心を前にやる。
高井京助の身体は、ゆっくりと傾く。
彼の身体は手すりの上。
このまま倒せば、行き着く先は深い谷の底。
(そうだ……このまま落としてしまえばいい……こいつが生きていては……また沢山の人達が……不幸になってしまう)
「……ふふふ、因幡君の不幸な人生が始まるな。いや、これまでも充分不幸だったのかな?」
高井が何かを口にしたが、俺には聞き取れない。ただ、その顔に笑みが浮かんでいる事は判った。俺はその笑顔を無感情に見つめながら、なんの抵抗も無くなった高井の身体を、欄干の向こう側へと押しやるのだった。
――……ダメッ!
不意に、腰が後ろへと引っ張られる感覚を覚える。自分の腰へと目をやると、そこには誰かが組み付いていた。
「……ことり、さん?」
「因幡っ! やめなさいっ!」
「え?」
「因幡君っ! 何やってるのよっ!」
「うわっ?」
突然、強い力で後ろへと引っ張られた為、俺は足を滑らせて、地面へと尻餅をついた。
「馬鹿っ! なんて事してんのよっ!」
「ナ、ナツさん……?」
「本当に落としちゃうトコだったわよっ!?」
「水沢……?」
俺の左右で、ナツさんと水沢が、一緒になって尻餅をついている。
「ちょっとちょっと因幡? 何、ボーっとしてんのよ。アンタ、状況解ってんの?」
「状況……」
俺は、今、何をしようとしていた?
「…………、……あっ!」
ようやく状況を把握できた。
……なんて事だ、俺は人を殺そうとしていたのか?
「いや~、どうも有難うございました。おかげで助かりましたよ」
その声に目を向けると、高井が、ズボンをはたきながら、立ち上がっているところだった。
「た、高井……」
「ん? ……ふふ」
高井は俺と目が合うと、とても柔らかな笑顔を見せる。とてもじゃないが、つい先程、橋から落とされかけた人間とは思えない。何事も無かったかのように、落ち着き払っていた。
「あ、あの……貴方って、この間の人ですよね? これって一体何が……」
俺の右隣に居る水沢が、おずおずと高井に訊ねる。
「やあ、ひかるちゃん。一週間振りだね。その後はどうだったかな?」
「え? あ、えと……ママの事は思い出せました。お蔭様で……」
お蔭様?
「み、水沢っ、こいつに何されたか憶えてないのかっ!?」
「はい? ……この人に、ママの事を思い出させて貰ったんだけど……え、何? 因幡君知ってたの? その事」
「っ!? こいつにお母さんの後を追うよう唆されただろっ!?」
「ええっ!? ちょっとひかる! それってホントなのっ!?」
「へ……? んと、この人はママの昔の知り合いで……それで私に、ママの事を色々と教えてくれたんだけど……」
「そ、それだけか? こいつに言われて死のうと思ったんじゃ……」
「そ、そんな……あれは結局、私が馬鹿な考えに囚われてただけで、別にこの人の所為って訳じゃ……」
「……ッ」
俺は高井を睨みつけた。そんな俺に、高井はニヤリと、唇の端を吊り上げて応えた。
「くっ……み、水沢、よく聞け。こいつは、佐藤直人なんて名前じゃないっ」
「は? それって……」
「名前を偽って、君に近付いたんだ。解るか? 水沢は騙されている。君が母親を失った原因は、こいつにこそあるんだよ!」
「な……な……」
「水沢、だから……!」
「因幡君、落ち着きなさいっ! ひかるちゃんを混乱させてはいけないっ!」
「ッ!」
高井の強い口調。彼の言う事を聞く必要などは微塵も無いのだが、水沢を混乱させているという言に、一気に冷静になった。見れば、水沢が顔を青くさせている。またやってしまった。今の俺は、自分の感情を優先するあまり、水沢の事を顧みていなかった。
「み、水沢……」
「……今の、どういう事?」
水沢が、静かに問い返してきた。俺は、己を叱責しつつ、答えを返そうと思考を巡らす。そこへ、高井が先に口を挿んでくる。
「ひかるちゃん、因幡君はね、ちょっと勘違いしているだけなんです。……簡単に説明するとですね、僕は、さとみさんとはお店で知り合った。そして、恥ずかしながら、その時、僕は未成年だったんです。その後ろめたさから、始めに偽名を名乗ってしまいまして、その後、訂正する機会が無かったんです。だから、さとみさんにとって、僕の名前は佐藤直人。君が知っているとしたら、そちらの名前かと思いまして、そう名乗ったという訳です」
「…………」
「…………」
俺は押し黙る。水沢も、だ。
そう、高井であれば、答えを用意していると考えて然るべきだった。彼の筋の通った説明に、水沢は……
「貴方、ママのお店のお客だったの……?」
……それを信じたようだ。
「み、水沢、こいつの言う事は嘘ばかりなんだ。信じちゃいけない」
「……因幡君。この人、ママが居なくなった事に、どう関わってるのかな?」
「それは……」
それを証明する事が、俺には出来ない。今ここで持論を展開しても、結局、高井に覆されてしまう気がした。
「その……なんて説明すればいいか……だから……ええと……」
俺は、最悪のタイミングで、しどろもどろになってしまう。これでは、言葉に信憑性を持たせられない。
「因幡君……」
「ねえ、因幡? ちょっと落ち着いた方がよくない? アンタ何があった訳? 様子変すぎ」
水沢はその顔に困惑を浮かべ、ナツさんは俺を訝る。
「お、俺は……」
「あ、ご心配なさらず」
ナツさんに答えようとしたところに、またも高井が上から言葉を被せてきた。
「さっきの彼は、ちょっと発作を起こしていたんですよ」
「発作? って、因幡の病気が……?」
「おや、貴女は因幡君の病気の事を、ご存知なんですね。……ええ。先程は少し対応を間違えてしまい、彼を興奮させてしまったんですよ。いやぁ、医者としてお恥ずかしい」
「お医者さんなんですか?」
「ええ、因幡君の通っている病院のね。……偶然ここを通り掛かったのですが、何やら様子のおかしい因幡君を見つけまして。どうも、下の川を見てしまったようなんですよ」
「あ、例の水辺恐怖症?」
「おお、貴女はそれもご存知なんですね。いや、傍に理解者が居るというのは、因幡君にとてもプラスです。これからも彼をよろしくお願いしますね?」
「え? あ、はい」
高井の優しい口調、柔らかな物腰、そして穏やかな笑顔。
やられた。
ナツさんは、もう高井を信用し始めている。今、俺が何かを口にしても、病気の症状と説き伏されてしまうだろう。
「……因幡君? よく解らないけど、この人に謝った方がいいんじゃない?」
「そうよ、因幡」
「…………」
水沢とナツさんに窘められる。二人の言う事は尤もだ。理由がどうであれ、俺がこの人を橋から落とそうとした事は事実。
――そう、俺はこの人を殺そうとしたのだ。
ようやく事の重大さを実感し始める。
こんな高い所から突き落とそうなんて、暴行罪じゃ済まされない。これは殺人未遂だ。
そして俺は打ちのめされる。
罪の大きさにではない。
俺は「激昂すると人を殺す可能性がある人間」。
その事に打ちのめされたのだ。
俺は今日まで、社会規範に添った人間であろうと、強く心掛けてきた。「信用に足る人間」でありたかったからだ。子供の頃から孤立気味に生きてきた俺は、親和欲求が強い。誰かと一緒に居たい、誰かと繋がっていたい、そんな思いが常に俺の中には在る。なのに、病気の事が知られると、誰もが俺を敬遠した。そんな俺が、「どうすれば人の和の中に入れるのか」と悩んで辿り着いた答えが、「信用を得る」という事だった。
――あの子、病気って聞いたけど、しっかりしてるね。
――あいつ、病気らしいけど、真面目な奴だな。
――あの人、病気って話だけど、別に普通じゃん。
周りの人達に「精神疾患なんて関係無い」と思って貰う為に、強く己を律してきたつもりだった。
しかし、今回の事がそれを覆す。
俺は「精神疾患なんて関係無く」人を傷付けてしまう可能性のある人間だった。俺は「信用に足る人間」ではないんだ。
「…………」
「因幡? 何か言ったら?」
ナツさんに促されたが、どうにも言葉が出て来なかった。
高井の何食わぬ顔には、もはや驚いたりはしない。俺が何を言ったところで、この人を切り崩すのは無理だという事を理解した。でも、言葉が出ないのはそんな事が理由ではなく、俺という人間が、果たして高井に何かを言えるような人間か、そんな疑問に囚われていた所為だった。
「いや、本当にいいんですって。僕の事よりも、因幡君の心配を……」
「……高井先生」
「……え?」
俺は高井に声を掛けた。何か言える事はないかと探して、ようやく一つだけ見つける事ができたのだ。
「高井、先生」
「……何かな?」
俺はもう一度高井の名を呼び、立ち上がって、真剣な目で彼を見据えた。
「危険な目に遭わせて……ごめんなさい」
「……ッ」
俺の謝罪に、高井が驚いた表情を見せる。
俺は今、心の底から真剣に謝った。
決して免罪を求めた訳ではない。
俺が逸脱してしまった規範に、再び添う為には、今、一体何をするべきなのかを考えた結果、一つだけ思い当たったのだ。
それは、「悪い事をしたら謝る」という事。
自分が悪いと思ったのなら、それをしっかりと自覚しなくては駄目だ。謝って許される事ではないとしても、悪いのはこちらだという事を、まず相手に伝える事だ大切。そうやって、過ちを犯した自分を律する取っ掛かりとしなければならない。言い訳というものは、相手よりも自分を惑わせてしまう。自分で自分の罪を曖昧にしてしまう。そうなっては、しっかりとした反省が出来なくなってしまう。
再び同じ過ちを犯さない為に、自分の落ち度を明確にする行為――それが「謝罪」。
悪い事をしたと思ったら、どんな場合でも、まずは謝罪。
「謝罪」――それは、過ちを繰り返さない為の、自分に向けた宣言とも言える。
「俺は、貴方に取り返しのつかない事をしてしまうところでした。本当にごめんなさい」
「……なんの、つもりかな?」
「貴方がどんな人間であっても、俺に貴方を傷付ける権利はありませんから。いえ、誰にだって、人を傷付ける権利なんてありはしません」
「なるほど、遠回しに非難する事にしましたか」
「俺は、本気で、貴方に申し訳ないと思っています」
「……んん?」
「貴方が、俺を殺人未遂の罪に問うというのなら、甘んじて受け入れなければなりません」
「……僕がそんな事をしないと、解っているから言っているのでしょう?」
「罪悪感というものを知らない貴方には、解らないのかも知れませんね。……罪を犯すという事は、とても苦しい事なんです。その苦しみを和らげるには、悔い改めて、罪を贖うしかないんです」
「うん、名言ですね」
「やっぱり通じませんか。そんな苦しみを知らない貴方は、実は誰より幸せなのかも知れないですね」
「……言うね」
「だけど、俺はこう思います」
「……なんだい?」
「かわいそうな人」
「!?」
「貴方が居るお蔭で、俺は自分の幸せを再確認出来ました」
「……お前……!」
怒り。
彼は怒っていた。
俺の言葉に憤っているのだ。
それは、高井京助と出会って以来、彼が初めて俺に見せた感情だった。いや、そもそも本気の感情を見せた事すらなかったのではないだろうか。水沢母娘の写真を目にしたあの時ならば或いは、と言ったところだろう。いずれにせよ、俺の言葉が、彼の胸に初めて響いた瞬間である事は間違いない。
「……ん、んんっ。僕が、君よりも不幸な人間だと言うのかい?」
高井は一つ咳払いを入れて、冷静に言葉を紡いだ。しかし、表情の険しさは隠せていない。
「間違いなく」
「……ッ、僕は、君の過去をある程度知っている。君のように哀れな人間は珍しい」
「貴方が俺の何を知っているというのですか? 俺ほど恵まれた人間はそう居ません」
「強がりにしか聞こえないね」
「強がれる事が証拠です」
「…………」
俺達はしばし睨み合う。
高井の顔は、それまでとは別人のようだった。
そうなって気付いたが、今までの高井は、俺を下に位置する人間と捉えていたのではないだろうか。今の高井の目に、俺に対する憎々しさが籠っているところを見ると、ひょっとしたら彼は、俺の事を「不幸にしたい上に位置する人間」と、評価を改めたのかも知れなかった。つまり、俺は彼のターゲットになり得るという事だ。
それが彼の価値観。
下に居る者には寛容で、上に居る者には憎悪する。
「……お暇しよう。三浦の話を詳しく聞きたかったが、こんな禅問答は楽しくない」
高井はそう呟くと、ポケットからキーを取り出して、車の運転席へと向かった。そこに、俺は最後の言葉を投げ掛ける。
「俺は、貴方に罪を贖わせたい。今は無理でも、いつ必ず……!」
「……楽しみだね」
バタンッ! ……ブロロロロロ……!
こうして、高井京助は、俺の前を去って行った。
高井との決着は持ち越しで、このエピソードを終えます。
が、もう一話あります。