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time to believe now 21

ほんのちょっとだけ、鬱な展開です。シロ君の弱さが露呈します。

 二月六日 日曜日 日中午前




「――いらっしゃいませー」


 俺は花屋へと足を踏み入れた。若い女性が笑顔で迎えてくれる。普段はまず利用する事のない店なので、少しだけ緊張しつつ、店内を見回した。やはり花屋だけあって華やかだ。いや、ダジャレではなく。色とりどりの草花が、店中に敷き詰められていると言った感じだ。これだけ様々な植物に囲まれていると、今が冬だという事を忘れてしまいそうになる。……どの植物がどの季節のものかなんて事は、さっぱり判らないけれど。


「いらっしゃいませ、どの様なものをお探しですか?」


「あ、え、え~と……。あの、け、献花って、どんな花だといいんでしょう……かね?」


「ご葬儀でいらっしゃいますか?」


「あ、いえ、事け……じゃなくてっ、事故現場に供えようかと」


「それは……ご心痛、お察し致します」


「恐縮です」


「そのような場合ですと、特に制約は無いかと存じます。ただ、棘があったり、色の強いものは避けた方がよろしいかと。無難なものですと、やはり白い百合や菊でしょうね。カーネーションなんかですとお手頃ですよ?」


 俺を高校生と見越してか、懐に優しい花を勧めてくれた。カーネーションは良いかもしれない。母親を連想させる花だから。


「じゃ、その白いカーネーションを……」


 購入しようかと思ったが、ふと足元にある花に目が留まった。正確にはそのネームプレートにだ。


「雪割草……。あの、すいません、これって三角草の事ですよね?」


 俺は、足元にズラッと並んでいる鉢苗を指差して、店員さんに訊ねた。


「え? ああ、はい。正確にはオオミスミソウですね。当店では、開花時期の今だけ、取り扱っております」


 これが三角草か……。

 赤い……というよりは紫か。こっちのは完全に青い。なるほど、色の濃度で大分雰囲気が変わる。けど、俺はこの白いのが一番好きだな。丸っこい花弁が可愛い。


「お客様?」


「あっ……」


 つい見入ってしまった。


「すいません、やっぱりこっちにして下さい」


「こっちって……雪割草ですか? 鉢苗は献花に向かないかと」


「……故人が一番好きだった花なんです」


「まあ、そうでしたか。であれば、それが最良ですわね」


 そうして俺は、白い三角草の鉢苗を三つ購入して、店を後にした。


「さてと……」


 今日は日曜日。

 水沢の自殺騒動から、ちょうど一週間だ。

 昨日、父さんとのやり取りで、今回の事に一段落がついたと判断した俺は、気持ちの整理も兼ねて、水沢さとみさんが殺害されたと思われる千杜橋(せんとばし)の下に、花を供えようと思い立った。もちろん事件そのものはまだ解決されていないが、今や、俺に出来る事は無くなっている。先週の日曜日以来、さとみさんは俺の前に現われてはいないし、例の耳鳴りすら起こっていない。――俺は役目を終えた。そう思っている。

 さとみさんを救えたかどうかは判らない。

 彼女の望みに応えられたかどうかも判らない。

 しかし、自分にやれる事はやったという自負はある。後は、父さんと警察を信じて、事件の解決を祈る他ないのだ。


「……着いたけど、どうしよう」


 花屋を出た後、俺は真っ直ぐに千杜橋へと向かった。そして、辿り着いたはいいが、ちょっとだけ問題が発生する。さとみさんが亡くなったと思われる場所は橋の下。つまり、川の側。今は日中なので、先週の時とは違い、川の様子が鮮明に判る事だろう。

 早い話が、川へ降りるのが怖いのだ。……何しに来たんだ俺は。


「えーい、行くだけ行ってみよう」


 とにかく川さえ目に入らなければあの女の人は現れない。……筈。……だと思う。うん、ここは前の様に、足元凝視作戦で行こう。

 俺は覚悟を決めて、あの螺旋階段を目指し、千杜橋を渡り始めた。

 ふと前に目をやると、迷惑にも橋の上で停車している車があった。その側には、橋の下を覗いている男性もいる。一体何をして……っ。


「……え? な、んで……?」


 その車、その男性、どちらにも見覚えがあった。

 それに気付いた俺は、駆け足で橋を渡る。


「高井さんっ! 何故貴方がここにっ!?」


「おや」


 それは、高井京助、だった。

 何故この人がここに居る?

 警察に捕まった筈だろ?


「ハァ……ハァ……」


「こんにちは、因幡君、昨日振りですね。大丈夫ですか? そんなに息を切らせて」


 昨日の時と違って、彼は丁寧な口調で話しかけてきた。表情も非常に穏やかなものだ。


「どうして……! ハァハァ……ッ、ここに居るんですかっ!」


「うーん、それはどっちの意味でしょう。言葉通り、この場所に居る事が疑問なんですか? それとも、警察から解放されている事が不思議なんでしょうか」


 しれっとそんな事を訊いてきた。どういう神経の持ち主なんだ。


「両方です!」


「そうですか。はい、答えましょう。ここに居る理由は、街中で彼女達を見つけて、尾行して来たからです」


 そう言って高井は再び橋の下を覗き込む。


「か、彼女達って?」


「ほら、見れば判りますよ。あ、そうか、川があるから君には見れませんよね」


「く……」


「ひかるちゃんと、ええと……その友人かな?」


 水沢とナツさんが? 


「どうやらお花を供えに来たみたいですねぇ、なるほどなるほど、さとみさんはここで死んだのか」


 高井の口調は、丁寧ではあるが、癇に障る。何故か一言一言が、俺の感情を逆撫でた。


「警察はどうしたんですかっ!?」


「ん~? いえ、任意でしたからね。昨日の夜中には帰宅させて頂きました」


「任意!? そんな筈……!」


「やれやれですね、警察も何を勘違いしたのやら。聞いて下さいよ、あの人達、僕を詐欺師扱いするんですよ?」


 こ、こいつ……。


「アンタは詐欺師だっ! それも最悪のっ!」


「…………」


 俺はこれ以上ない程強く、高井を睨みつけた。その高井は、一瞬だけ目を細め、そしてすぐに唇の端を吊り上げる。吐き気がするくらい嫌な笑みだった。


「いやいや~、そう言えば君は、なんでも知っているんでしたね~。何しろ超感覚的知覚能力者。エスパーでミーディアムでサイコメトラーでアストラルな因幡君。……五人目は出てきましたか?」


「馬鹿にするのもいい加減にしろぉっ! 高井ぃっ!」


「おやおや、遂に呼び捨てですか。素直だった頃の君が懐かしいですよ」


「このっ……!」


 駄目だっ、落ち着け俺っ。相手の術中に嵌っている。冷静に、冷静にだ……。


「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」


 俺は大きく深呼吸をする。平常心を取り戻せたとは言えないが、どうにか思考力は回復できた。


「落ち着きましたか?」


「ぐ……ええ、おかげさまで」


「そうですか。では、少しお話をしませんか?」


「願っても無い事です」


 俺は高井へと近付き、渓谷を背にして欄干へと寄りかかる。高井の方も俺と同じ体勢を取った後、懐から煙草を取り出した。


「タバコ、喫うんですね……」


「君もやりますか?」


「罪に問われます。主に貴方が」


「君にとって嬉しい事でしょう?」


「そんなちんまい罪でなければね」


 高井は、ふふんと鼻で笑いながら煙草を咥え、ジッポーライターで火を点けた。


「いいでしょう、これ。妻からのプレゼントなんです」


 ライターを見せつけながら得意そうな顔をする。正直どうでもいい。


「貴方みたいな人と結婚する女性の気が知れません」


「何にでも噛み付きますねぇ。別におかしな事ではないですよ、妻は僕の本性を知りませんから」


「本性って……詐欺師の貴方の事ですか?」


「詐欺師……僕は詐欺師なんでしょうか。なんだかそのカテゴライズは納得いきませんね。僕はただ、誰かの不幸が好きなだけですから」


「――ッ、認めるんですね!? 今までの行いを!」


「はてさて、どの事を言っているかは判りませんが、まあ概ね認めたという事でいいですよ」


「だったら警察に……!」


「はい? やだなぁ、警察になんか捕まりたくないに決まってるでしょう。因幡君に包み隠さず話しているのは、別に君に知られても、痛くも痒くもないからです」


「俺は証言します!」


「ふむ、まあ、お好きに。証拠が無い限り、今回の繰り返しになるだけだと思いますがね」


「ッ……ッ……!」


 ぐうの音も出なかった。

 今回、高井が警察から解放されたという事は、証拠が足りなかったという事に他ならない。そもそも、任意同行だったとは思いもしなかった。あれだけの人数を揃えて出向いて来たというのに。……二課の人達はそんなにテンパっているのか?


「僕は警察の方々の気持ち、よく解りますよ。あの人達はずっと、僕にしてやられていましたからね。ちょっとした事にも、つい過剰に反応してしまうといった感じなんでしょう。僕アレルギー……いや、僕中毒かな? ははは……」


 まるで、自画自賛しているようで、不愉快極まりない言い草だった。

 誰かの不幸がこの人の娯楽……今ならよく解る。


「……貴方は一体、何なんですか……」


「僕は高井京助。君の主治医の甥ですよ?」


「美作先生は、貴方がこんな人間だなんて知っているんですか?」


「もちろん知りません。人を騙すのは僕の得意技です。何せ、あの叔母さんですら見抜けないのですから」


「貴方の本性を知っているのは俺だけ?」


「いえ、僕の従妹には見抜かれているフシがありましたね。あの子は底の知れないところがあるから」


「従妹?」


「ふふ、行き遅れ街道まっしぐらのあの子ですよ」


「あ、美作先生の……」


「君の将来のお嫁さんでしょう?」


「そんな話は微塵もありませんっ!」


 まだそのネタ引っ張るか……。


「って、こんな話がしたいんじゃないっ! ……高井さん、貴方の目的は何なんですか? 一体、何がしたいんですか?」


 何に付けても、この人に関してはこの疑問に尽きる。

 俺には全く理解出来ないその価値観。

 どうすればこの人を止められる? 

 何を以ってすればこの人は行動を止めてくれるんだ?


「僕の目的ね……。因幡君に話しても、いえ、大抵の人には理解して貰えないと思いますねぇ。でも、特別に話してあげましょう。君は僕のお気に入りですから」


「…………」


 お気に入り、などと言われても鳥肌が立つだけで、少しも嬉しくはなかったが、どうやら話は聞かせてくれるらしい。しかし、気を付けねばならないだろう、父さんはこの人を「嘘しかない男」と言っていたのだから。


「なあ、因幡君。『他人の不幸は蜜の味』って言うだろ? それって、どういう意味か考えた事はあるか?」


 高井の口調が変わっていた。表情も、先程までのような恍けた感じではない。


「……あります」


「それは素晴らしい。君の考え、聞かせてくれない?」


「…………」


 正直、訳が解らなかったが、とりあえず高井に合わせる事にした。


「自分よりも不幸な人を見ると、自分の幸せを確認出来る。自分よりも不安がっている人が居ると、自分は安堵を覚える事が出来る。自分よりも劣っている人が居ると、自分は優越感を得る事が出来る。……対比的に自分のアドバンテージを実感したいという欲求だと思います」


「本当に素晴らしい。僕が君ぐらいの時には、そんな事を考えたりはしなかったよ」


「貴方が裕福な家で育ったからでは?」


「ふふ、そうかもな。……では、そこに少しだけ補填しよう」


「補填?」


 高井は煙草を靴の裏でもみ消し、吸殻を携帯灰皿に押し込んだ。そして、俺に視線を合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……君が不幸なのを見て、周りの人達は自分の幸せを確認出来た」


「っ!?」


「より具体的に。……君がイジメられているのを見て、周りの子達は安堵を覚えた」


「ちょっと!」


「君が精神異常者だと知って、周りの子達は優越感を覚えた」


「ぐ……やめろぉぉぉっ!」


 俺は高井に詰め寄り、両手で胸ぐらを掴んだ。高井は少しだけ驚いていたが、すぐに冷静に話し出す。


「『おれ、こいつじゃなくてよかったぁ』。『わたし、このひとよりはましだわぁ』。そんな声が聴こえてきた事はあるかい?」


「そんなの無いっ!」


「ふふ……。そうだ、そんな声は聴こえてこない。何故なら、それらの言葉は、この言葉へとすり替えられるからな」


「何を言って……!」


「『かわいそう』」


「――ッ!?」


 その言葉に、俺は高井から手を離す。


「人が『かわいそう』と口にする時は、自分が優位にある事を実感した時なんだよ。……ふむ、どうやら君は、それをよく解っているようだね」


「…………」


「人が同情を嫌う理由はここにある。平たく言うと、同情というものは常に上から目線なんだよ。……幸福な人でなければ、不幸な人に手を差し伸べられない。安心している人でなければ、不安がっている人を心配出来ない。優越感がなければ、劣等者に施そうなんて気にはなれない。“上に居る者”が“下に居る者”に合わせる事は容易だが、その逆は至難。そして、上に居れば上に居る程、下に合わせるのは容易。下に居れば下に居るほど、上に合わせるのは至難。ややこしいかもしれないが、この、上と下の差こそが、同情の深さとイコールで結ばれる。即ち、下の人間の気持が解らない人間ほど、深い同情をする訳だ」


「……何が言いたいのか、よく解らない……」


「僕は同情する側の人間。僕は常に上に居た。僕はこれからも上に居る。僕より上に居る人間なんて大嫌いだ。僕より下に居る人間の気持ちなんて知る必要はない。皆、僕よりも下に居ればいい。誰かが僕の下に落ちて行く様子を見るのが嬉しくて仕方がない」


「…………」


「僕は上。他は下。そんな泣けてくる程の傲慢さが、僕の中で膨らみ続けているんだよ。止められないし、止める気も起らないんだ」


 歪んでいる。

 歪みすぎている。

 こんなの理解出来る筈がない。


「……貴方は、病気だ……」


「ぷっ……あははは……。……僕は精神科医だ、とっくに自己診断は済ませている。PCRで三十点を超えていたよ、ふふ」


 駄目だ。俺にはこの人を止める方法が解らない。この人が何かミスを犯すのを待つしかないのだろうか。でも、その間にも、どんどん被害者が増えていってしまう。


「さて、因幡君。こんな僕でもね、水沢さとみさんの事には非常に驚いた。あれは僕の想定外の事だったのさ。あの時の僕は未熟だったなぁ。まさか三浦に人を殺す度胸があったとは、見抜けなかったよ」


「……嘘だ、貴方なら見抜けたに決まってる」


「言ったろ? 未熟だったって。あんな形で終わるなんて、僕としても消化不良だったんだ。せっかく色々と幕の降ろし方を考えていたのにねぇ。実に悔しいよ、三浦が僕よりも上みたいで。そこで因幡君に確認したい。さとみさんは見つかったのか?」


「…………」


 さとみさんはとっくに見つかっている。だが、それを高井に伝えて良いものなのか、判断ができない。この人が、何を企んでいるのか判らないからだ。


「警戒するのも分かるけど、答えてくれないかなぁ。さとみさんの事件が解決するかどうかは、君のその“不思議なチカラ”に懸かっているんだぞ?」


「なんだって? どういう意味ですか」


「この事件は、まず、さとみさんの死亡が確定しなければ話にならない。この八年間、誰にも見つける事の出来なかったさとみさんの遺体を、君ならば見つけられたのではないかと考えてね。そこで、ある賭けをしてみたんだ」


「賭け?」


「八年前に三浦をターゲットにした時、恐喝用にと、さとみさんと三浦が一緒に写っている写真や、二人がやり取りしたメールなどを保存したSDカードを、僕は保持していたんだ」


「何っ!?」


「結局使う事はなかったがね。でも、それがあれば、三浦を、さとみさん殺害の容疑者にできる」


「それは今どこにっ!?」


「おっと……落ち着きなさい。賭けだって言ったろ? 君がさとみさんを見つけているのならば、三浦は破滅する。見つかっていないのであれば、二人を繋ぐ証拠が破滅してしまうかもな、ふふふ」


 見つけていたら三浦が破滅で、見つかっていなかったら証拠が破滅?

 なんだそれは。

 高井は何をしたんだ。


「…………」


「焦らすね。まあ、賭け事はその方が盛り上がるか」


「……っている」


「ん、なんだ?」


「さとみさんはもう見つかっている! そのSDカードどこにあるんだっ!?」


「おおそうか、僕は賭けに勝ったみたいだな。ふふ、払い戻しは無いがね」


「いいから早く教えてくれっ!」


「まあまあ。僕の読み通りならば、そんな証拠はもう必要ない。八年前とは違って、今度は三浦の行動を読み切った自信がある。彼はもう破滅している筈だ。危なかったな、さとみさんが見つかっていなかったら、三浦が証拠を隠滅して、またもお咎め無しだったかも知れない」


「いい加減にしろぉぉぉっ! あんたの戯れ言に付き合っている場合じゃないんだっっっ!」


「SDカードは、三浦の元に送った。『コピーを警察に送った』と書き添えてね」


「……え?」


「さとみさんが見つかっているのなら、それは、さとみさんと三浦を繋ぐ重要証拠。三浦は観念するだろう。さとみさんが見つかっていないのなら、それは警察にとって、意味不明な不倫の証拠。三浦は隠滅を図るだろう。因みにコピーは無い。三浦に行動させる為の嘘だ」


 高井は完全に遊んでいる。三浦が破滅するかしないかを楽しんでいるんだ。


「……いまいち言っている意味が解らない。三浦は、自首していると?」


「その結果は面白みに欠けるなぁ……ふふふ」


「!?」


 俺は高井の表情に戦慄を覚えた。

 今まで、散々この人の本性には辟易してきたつもりだったが、今のこの一瞬が、本当に本当の高井京助なのかも知れない。彼が今見せた表情、それは悪戯にワクワクする子供そのものだった。この人は、物を知らない幼子と同じ、罪悪感が完全に欠如しているんだ。


「貴方は……、……ッ!」


 ――ビイイイイイィィィィィ……


「ん? どうした因幡君」


 実に一週間振りの耳鳴りだった。

 俺は反射的に周りを見回す。そして、高井の背の向こうに見知った人の姿。

 それは黒髪のボブで伏し目がちな少女。

 葉山ことりだった。


「んー?」


 俺の目線に気付いた高井が、振り返って確認している。しかし彼には見つけられないだろう。

 ことりさんは何故かひどく沈んだ表情をしている。

 一体何を伝えたいのか。

 俺がことりさんの思いを読み取ろうとしていると、彼女の背後に、初老の男性が近づいて来ている事に気付いた。俺は思わず注意を促そうと声を出しかけたが、彼女がどういう存在なのかを思い出し、慌てて口を噤む。

 俺は、その男性が何事もなく通り過ぎるものとばかり思っていた。しかし、予想に反して、その男性はことりさんのすぐ後ろで足を止めたのだった。そして次の瞬間……


 ビイイイイイイイイイイ……!


「! ……ぐ、ぐうう……ああああ……!」


 ……激しい頭痛が俺を襲った。


「お、おい、因幡君?」


 この頭痛、覚えがある。先週の日曜日、学校の応接室でも同じ事があった。周りの音を掻き消す程の強い耳鳴りといい、間違いない。

 俺は片膝を地面に付きつつ、ことりさんにもう一度目をやった。しかし、そこには誰の姿も無い。


「ッ!?」


 誰も居ない? 

 あの初老の男性はどこへ? 

 俺は驚きのあまり目を見開いた。……つもりだったのだが、目の前はどんどんと暗くなっていく――




 ――気付けばそこは、見覚えのないリビングルーム。

 とても広い部屋だった。

 おそらく、一戸建てのリビングルームだろう。

 家財道具は非常に充実しており、それだけで裕福な家である事が窺い知れる。

 しかし、俺は何故、こんな見も知らぬ場所の“ビジョン”を見ているのだろうか。前回、水沢と高井のやり取りを目にした“ビジョン”も、それまでのものとはやや違っていたが、今回は更に異彩を放っている。

 具体的に挙げるならば、まずは俺の視界。

 俺の目に映る近景が、目まぐるしく移り変わるのだ。このビジョンを見始めてからずっと、俺の意思とは関係無く、リビングルームのあちこちへと、忙しなく目を向けているといった状態。自分の目が勝手にキョロキョロしているようで、非常に気持ちが悪い。

 そしてもう一つ、この“ビジョン”が始まった時から続いている事がある。それは……


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……っ!」


 ……この乱れた息遣い。

 俺の、それこそ間近から聴こえてくるが、見える範囲には誰も居ない。いや、誰かの息遣いというよりは、まるで俺自身が発しているかの様な感じだ。もちろん、俺に息を荒げている自覚は全く無い。しかし、その呼吸音は、自分の中から聴こえてきているかの様だった。これも、非常に気持ちが悪い。


「はぁ……はぁ……うう……うううう……」


 息遣いに続き、今度は呻き声が聴こえてきた。それもまた、まるで自分の中から聴こえてきているかの様に思えた。俺は一切、声を出したつもりはない。何より、その呻き声が自分の声だとは、どうしても思えなかった。


「うう……く、くそっ……くそっ……!」


 どうやら泣きながら悪態をついているようだ。声はやはり俺のものではない。何か、もっと年配の男性の様な声。しわがれている上に、震えた声だ。

 なんとなく判った気がする。

 これは――どこかの誰かの視点が、そのまま“ビジョン”になっているのではないだろうか。


「あああああ……っ!」


 その「どこかの誰か」が強く声を荒げたのと同時に、視界の風景が移り変わった。

 移動をしているようだ。

 ふらふらと揺れながら、この誰かはキッチンにまでやって来た。そしてそのまま、正面に捉えていた、勝手口らしき扉を開く。

 庭の様な場所に出て、そこに在ったプレハブの物置を開けた。

 中には様々なものが収納されているようだが、視線はある一点に向けられている。

 二つの、赤いポリタンク。

 少しの間、そのポリタンクを見つめたまま動きが無かった。すると……


「ッ……くそおおおおおっ!」


 と、再び声を荒げながら、物置の中へと足を踏み入れるどこかの誰か。そして、一気にポリタンクへと歩み寄り、二つとも掴み上げた。

 その時になって、ある事に気付く。――その手、今ポリタンクを掴んだその手。その手を赤く染めているそれは、一体なんだ?


「ぐっ……ううううう……!」


 タプタプと、水音が聴こえてくる。どうやらポリタンクを運んでいるらしい。勝手口に向かっているところを見ると、家の中へと持ち込もうとしているようだ。

 扉が目の前に迫った時、俺は、先程見えたものを確認しようと、扉のノブに意識を向けた。そして目にした、ノブを掴む手。

 やはり赤い。

 やや黒ずんだ赤い何かが、この誰かの手を染めている。


「ああっ……! あああっ……!」


 勝手口を上がり、キッチンに戻ってくると、ポリタンクを床へと降ろし、喚きながらキャップを回す。

 臭いが……判る。

 この臭いは、そう、冬の今ならば馴染みのある臭い。

 これは灯油だ。

 それをどうする気だ? 

 まさか……。


「ううう……! ううううう……!」


 飛び散る液体。

 充満する臭い。

 家の中に灯油を撒かなくてはならない理由とはなんだろうか。

 そんな事は決まっている。

 そんな事は一つしかない。

 これは、絶対に止めなければならない事だ。しかし、俺には止める術が無い。俺は、この、どこかの誰かの目を通して、只々その光景を見ている事しか出来ないのだ。

 やがて、ポリタンク一つ分の灯油が、キッチンとリビング中に撒かれてしまった。

 空になったポリタンクをその場に捨て、もう一つを掴み上げると、リビングから廊下へと移動した。そして、すぐ手前にあった部屋のドアノブへと手を掛ける。しかし、なかなか開けようとはしない。ノブを掴んでいる、赤黒く染まった手は、明らかに震えていた。

 この部屋に何かあるのかも知れない。


「……ッ、あああああっ!」


 まるで、気合を入れるかのようなシャウト。そして、ようやく扉は開かれた。

 ……え?


「ひ、ひひ……ひひひ……ううう……」


 震える視界。

 ぼやける視界。

 そんな視界の中央に映っているもの。

 それは女性。

 うつ伏せに倒れている女性。

 赤い、水溜りの中で、ピクリとも動かない女性。

 ……だった。


「ひあああああっっっ!」


 奇声を上げながら、その女性に灯油を振り掛ける。そうされても、女性に動く様子はない。――もう、動けない……。


「ひああっ! ひあああっ!」


 誰か……助けてくれ。もう、こんなものは、見たくない。こんな(おぞ)ましいものを、俺に見せないでくれ。


「あああああ……!」


 願いも虚しく“ビジョン”は続く。

 女性に灯油を掛けた後、再び廊下へと戻り、ドタドタと足を踏み鳴らしながら走る。そして、その勢いのまま階段を駆け上がり、二階にあったとある部屋の扉を、蹴破る様に開けた。

 勢いは殺さずに、部屋の中へと入り、脇目も振らず、そこに……居た……女性に……。


「うああ! うああ! うあああっ!」


 なんという……事だろうか。

 この部屋に居た女性にも灯油を掛けている。

 ソファに横たわる女性。

 着ている服を、赤に、染めた女性。

 灯油を振り掛けられた女性は、目を大きく見開いたまま、全くそれに抗う様子はない。――もう、抗えない……。


「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」


 もういい、もういい、こんなのはもういい。

 早く現実に戻してくれ。

 早く現実に戻りたい。


「うう……うう……はぁ……はぁ……うううう」


 もはや、視界は涙で滲んで、まともに見えない。俺の涙ではないが、きっと俺自身も涙は流している事だろう。

 何故こんな事になったのか。一体何が起こっているのか。そんな事はどうでもいい事だった。今はとにかく、この拷問から逃れたい。

 そう、これは拷問だ。

 目を逸らしたくても、逸らせない。

 ここから逃げ出したくても、逃げ出せない。

 こんな凄惨な光景を見続けていたら、俺は本当におかしくなってしまう。

 ――声しか知らないどこかの誰か、頼むからもう目を瞑ってくれ。そうすれば、俺には何も見えなくなる。それが駄目なら、せめて目の前の、赤に染まった女性から目を逸らしてくれ。その女性の、見開いた目を凝視するのを、今すぐにやめてくれ。


「はぁ……はぁ……」


 願いが届いたのか、視界がゆっくりと動き出す。そして、女性は視界の外へと消えてくれた。

 しかし、“ビジョン”は終わらない。

 いつまで続くんだ、この拷問は。


「はぁ……」


 移動していた視点が止まる。そして、そこ……に、在ったものに……俺は……戦慄……


「…………」


 ……そんな……そんな……駄目だ、駄目だ、それは駄目だ。それは在っちゃいけない。

 ……やめてくれ。

 ……それだけはやめてくれ。

 ……それに近づくのだけはやめてくれ。


「…………」


 嫌だ!

 それだけは見たくない!

 その中だけは覗かないでくれ!


「…………」


 その、ベビーベッド、の、中、だ……け……は――




「――ああああああああああ……!」


「……っとぉ、おい因幡君? 僕が判るかい? 大丈夫。もう、大丈夫だ。僕の声を聴きなさい」


「そんな……! そんな……! 赤ん坊までっ!」


「赤ん坊? ……因幡君、僕を見るんだ。ほら、顔を上げてごらん?」


「ハァ……ハァ……ッ、でも、でも!」


「因幡君。大変だったね? でも、もう終わった。安心していい」


「ハァハァ……お、終わった?」


「よしっ。……そうだよ、怖い事はもう終わったんだ。もう大丈夫。ほら、僕が誰か判るね?」


「……高井先生……」


「そうだ。別に怖い事ないだろ?」


「……だって、さっき、あれは」


「うん、何かあったんだね。どんな事があったのかな?」


「ひ……人が、死んで。女の人が……二人も……。そ、そ、それに……あ、赤ん坊……まで」


「ふむ……。女の人が亡くなっていたのかい? 赤ん坊も?」


「……多分。血……出てたから……」


「亡くなっていないかもしれない?」


「誰かが、その人達に、灯油を掛けてた……家にも……。あいつ……火を点ける気だ」


「あいつ? あいつって?」


「え? ……判らない、見えなかったから……。でも、男の声だった」


「男、ね。……因幡君、周りを見て御覧?」


「周り?」


「ここがどこか判るかい?」


「……千杜橋」


「そうだ。ほら、遺体なんてどこにも無い。もう、恐い事なんて何もないんだ」


「…………」


「君の言う男も居なくなった。もう大丈夫だろう?」


「大丈夫……ですね」


「ああ。因幡君、深呼吸は出来るかな? はぁー、はぁーって、息を吐く方に意識を置いてやってみなさい」


「は、はい……。はぁぁぁ……すぅ、はぁぁぁ……すぅ」


 いつの間にか、最悪の“ビジョン”から抜け出せていた。

 俺の傍には高井京助。どうやら、彼に介抱されているようだ。正直、複雑な気分だったが、お蔭で冷静さを取り戻せた。

 しかし、心に落とされた影は深刻だ。

 俺は、俺のこのチカラを、あまりにも軽々(けいけい)に認識していた。何か不思議な力を得て、人とは違う特別な存在になれたと、勘違いしていたのかも知れない。最初に、葉山ことりのビジョンを見た時に気付くべきだった。

 これは耐えられない。

 これから生きて行く上で、今見たようなビジョンを見せ続けられたら、俺の心はただじゃ済まされないだろう。「死者からのメッセージ」だとか言って、勝手に使命感に燃えていたが、俺なんかに背負える使命ではないようだ。

 俺は今、このチカラが消えて欲しいと、初めて(・・・)思った。


「落ち着いたようだね」


「あ、はい。……意外でした、介抱してくれるとは」


「介抱ぐらいするさ。君は僕のお気に入りだからな」


「……それ、やめて下さい」


「おやおや。……それで? 今のは幻覚症状かい? それとも“チカラ”かい?」


 そんなワクワクした顔で訊かないで欲しい。今の俺の精神状態では、すぐにも冷静さを失ってしまいそうだから。


「幻覚、です」


「ふむ……“チカラ”の方みたいだね」


「くっ……」


 そうだった。この人は、人心を読む事に長けているんだった。


「なあ、因幡君、聞かせてくれよ。何を見たんだ? こんな場所だから、さとみさんの事かと思ったが、君は女性二人と赤ん坊が死んでいたと口にした」


「――ッ!」


「僕は、君の“チカラ”に、非常に興味があるんだ。いや、誰だって興味を持つだろう。こんな不思議な事、楽しいに決まっている」


「たのっ……ふざけるなっっ!」


「おっと」


「あんなの……あんなの楽しい筈ないだろ!?」


 人の死が楽しいなんて、絶対にある筈がない。


「んー、よっぽどの事があったみたいだねぇ。今回の事とは関係ない事だったのかい?」


 この人は……俺が怒鳴りつけても、ちっとも怯んだ様子を見せない。先程介抱してくれていた時に見せた気遣わしげな表情は、見る影も無く消えていた。


「話してくれないかなぁ。なあ、頼むからさ。さっき、何かを見たのだろう? 三浦は出てこなかったか?」


「うるさいっ! 何も話す気は……三浦? なんで三浦の事なんか……」


「因幡君には死者(・・)が見える。……だよな?」


「――ッ!?」


 高井は、俺がビジョンを見る前に、三浦の自首が面白みに欠けると言っていた。

 なら、高井が望む結末とはなんだ?

 父さんはこう言っていた、「最終的に自殺に追い込まれた被害者は少なくない」と。

 まさか……


「……三浦が自殺するように仕向けたのか? 水沢にしたように」


「ん? 別に大した事はしてないさ。例のSDカード、宛名を三浦の奥さんの名前で送っただけ。先に奥さんに知られれば、三浦のひっ迫感が増すかと思ってね」


「あんたっていう人はっ!」


 俺は、高井に再び怒鳴りつけながら、ケータイを取り出して、すぐさま父さんをコールする。


 トゥルルルルル……トゥルルルルル……


「出てくれ、父さん……」


 あの男性。

 ことりさんの後ろに居た、あの初老の男性。

 あれはもしや……。

 あの時のことりさんの沈痛な面持ちが気に掛かる。

 あの男性が、目を離した隙に消えてしまった事が気に掛かる。

 そして何より、その直後に目にした“ビジョン”の内容が、あまりにも気に掛かる。


 トゥルルルルル……プツ


「もしもし、志朗?」


「と、父さん……!」


「志朗、すまないが、今はとても立て込んでいる。後で掛け直すよ」


「ちょ、ちょ、ちょっと待った! 父さん、こっちも超急用なんだよ! 三浦っ、三浦誠次の事っ!」


「む?」


「急いで三浦の自宅に行ってみて欲しい! 大変な事になっているかも知れないんだ!」


「…………」


「父さん!? もしもし!? 聞いてる!? もしもーし!」


「……志朗、今、父さんは、三浦宅前に居る」


「えっ!?」


「確かに、大変な事になっているよ」


「……!」


「志朗、何か見たのかい?」


「…………。……三浦が、無理心中を、図ったかも知れない……“ビジョン”を」


「なるほど……無理心中か。現場の検視はうちでやらせて貰おう」


「三浦の家は……焼けた?」


「ん? ……ああ」


「……遺体は、四体?」


「……そうだ」


「あ、あ、赤ん坊……も?」


「志朗……。ああ、そうだ」


「…………」


「とにかく志朗、話は聞きたいが、さっきも言った通り立て込んでいる。今は切るよ?」


「あ、うん……忙しいトコ、ごめん」


「いや、それじゃ」


 プツ ツー……ツー……


「……………」


 最悪の結果だった。

 あの“ビジョン”。

 あれは、三浦誠次の視点だったんだ。

 理解が出来ない。俺には全く理解が出来ない。追い詰められたからといって、何故、無関係な家族を殺さなければならないんだ。こんな幕引き、絶対にあってはいけない。


「因幡君? 今、無理心中と言ったか? 遺体が四体と言ったか?」


 そして、その三浦を追い詰めた張本人が、目の前に居る。俺が今、最も理解不能な人物だ。


「…………」


「なあ、聞かせてくれ、三浦は家族を殺したのか? 君はその現場を見たのか?」


 この人は、どうして、そんな事を楽しそうに訊けるんだ?

 自分の所為で四人も死んだんだぞ?

 しかも、

 その四人の内の一人は、

 まだ幼い、


「赤ん坊がどうのと言っていたな。あいつは孫まで殺したのか? なあ、教えてくれよ」


「――ッ! この野郎ーーーーーっ!」


「おわっ」


 限界だった。

 今、俺の中にある感情は怒りしかない。

 俺は高井の胸ぐらを掴み上げ、欄干へと押したやった。


「お、お、お……ああ、因幡君? 落ち着いた方がいいんじゃないか? このままだと、君の経歴に深刻な傷が付いてしまうぞ?」


 高井の身体が、欄干の手すりに乗り上がっている事には気付いていた。しかし、俺は自分の激昂を止められない。


「お、おいおい、本当に落とす気じゃないだろうね?」


「あんたの所為で人が死んだんだぞっ!? 解っているのかっ!?」


「おっと……僕の所為ではないだろう。僕は誰も殺しちゃいない」


「あんたが原因だろうがっ! あんたが三浦を凶行に走らせたっ!」


「考えようによっては、僕がさとみさんの仇を討った事になるんじゃないかい?」


「関係の無い人まで死んでるっ! 赤ん坊までっ!」


「それを責めるべきは三浦だろう? 僕が一体何をした? 僕が何かした証拠は示せるのかい?」


「くっ……!」


「三浦がテンパって、勝手に馬鹿な事をしただけだ。そもそも、あいつがさとみさんを殺したりするからこうなったんだろう? 自業自得。あいつに殺された家族も、不運だと諦めるしかないさ。そう、運が悪かったんだよ」


「運じゃないっ! あんたがそう仕向けたっ! 何もかもあんたが元凶なんだよっ!」


「やれやれ……。OK、認めるよ。確かに僕は、三浦が自殺する事を期待していた。でも、家族を巻き込むなんて誤算だったんだ。まったく想像していなかったよ」


「嘘だっ! あんたは三浦の行動を読み切ったと……!」


「但しっ!」


「ッ!?」


「……楽しい(・・・)誤算だったけどね」


「――――」


 その言葉で、俺の思考力は完全に奪われる。今、俺の頭の中は、「この男をどうにかしなくてはならない」という、ある種の使命感に支配されていた。義務感と言ってもいい。しかしながら、俺にはこの男を止める術が解らない。――だから、思考力を失った俺の脳は、最も短絡的な行動を、肉体に取らせるのだった。


「…………」


 俺は、ゆっくりと重心を前にやる。

 高井京助の身体は、ゆっくりと傾く。

 彼の身体は手すりの上。

 このまま倒せば、行き着く先は深い谷の底。


(そうだ……このまま落としてしまえばいい……こいつが生きていては……また沢山の人達が……不幸になってしまう)


「……ふふふ、因幡君の不幸な人生が始まるな。いや、これまでも充分不幸だったのかな?」


 高井が何かを口にしたが、俺には聞き取れない。ただ、その顔に笑みが浮かんでいる事は判った。俺はその笑顔を無感情に見つめながら、なんの抵抗も無くなった高井の身体を、欄干の向こう側へと押しやるのだった。


 ――……ダメッ!


 不意に、腰が後ろへと引っ張られる感覚を覚える。自分の腰へと目をやると、そこには誰かが組み付いていた。


「……ことり、さん?」


「因幡っ! やめなさいっ!」


「え?」


「因幡君っ! 何やってるのよっ!」


「うわっ?」


 突然、強い力で後ろへと引っ張られた為、俺は足を滑らせて、地面へと尻餅をついた。


「馬鹿っ! なんて事してんのよっ!」


「ナ、ナツさん……?」


「本当に落としちゃうトコだったわよっ!?」


「水沢……?」


 俺の左右で、ナツさんと水沢が、一緒になって尻餅をついている。


「ちょっとちょっと因幡? 何、ボーっとしてんのよ。アンタ、状況解ってんの?」


「状況……」


 俺は、今、何をしようとしていた?


「…………、……あっ!」


 ようやく状況を把握できた。

 ……なんて事だ、俺は人を殺そうとしていたのか?


「いや~、どうも有難うございました。おかげで助かりましたよ」


 その声に目を向けると、高井が、ズボンをはたきながら、立ち上がっているところだった。


「た、高井……」


「ん? ……ふふ」


 高井は俺と目が合うと、とても柔らかな笑顔を見せる。とてもじゃないが、つい先程、橋から落とされかけた人間とは思えない。何事も無かったかのように、落ち着き払っていた。


「あ、あの……貴方って、この間の人ですよね? これって一体何が……」


 俺の右隣に居る水沢が、おずおずと高井に訊ねる。


「やあ、ひかるちゃん。一週間振りだね。その後はどうだったかな?」


「え? あ、えと……ママの事は思い出せました。お蔭様で……」


 お蔭様?


「み、水沢っ、こいつに何されたか憶えてないのかっ!?」


「はい? ……この人に、ママの事を思い出させて貰ったんだけど……え、何? 因幡君知ってたの? その事」


「っ!? こいつにお母さんの後を追うよう(そそのか)されただろっ!?」


「ええっ!? ちょっとひかる! それってホントなのっ!?」


「へ……? んと、この人はママの昔の知り合いで……それで私に、ママの事を色々と教えてくれたんだけど……」


「そ、それだけか? こいつに言われて死のうと思ったんじゃ……」


「そ、そんな……あれは結局、私が馬鹿な考えに囚われてただけで、別にこの人の所為って訳じゃ……」


「……ッ」


 俺は高井を睨みつけた。そんな俺に、高井はニヤリと、唇の端を吊り上げて応えた。


「くっ……み、水沢、よく聞け。こいつは、佐藤直人なんて名前じゃないっ」


「は? それって……」


「名前を偽って、君に近付いたんだ。解るか? 水沢は騙されている。君が母親を失った原因は、こいつにこそあるんだよ!」


「な……な……」


「水沢、だから……!」


「因幡君、落ち着きなさいっ! ひかるちゃんを混乱させてはいけないっ!」


「ッ!」


 高井の強い口調。彼の言う事を聞く必要などは微塵も無いのだが、水沢を混乱させているという言に、一気に冷静になった。見れば、水沢が顔を青くさせている。またやってしまった。今の俺は、自分の感情を優先するあまり、水沢の事を顧みていなかった。


「み、水沢……」


「……今の、どういう事?」


 水沢が、静かに問い返してきた。俺は、己を叱責しつつ、答えを返そうと思考を巡らす。そこへ、高井が先に口を挿んでくる。


「ひかるちゃん、因幡君はね、ちょっと勘違いしているだけなんです。……簡単に説明するとですね、僕は、さとみさんとはお店で知り合った。そして、恥ずかしながら、その時、僕は未成年だったんです。その後ろめたさから、始めに偽名を名乗ってしまいまして、その後、訂正する機会が無かったんです。だから、さとみさんにとって、僕の名前は佐藤直人。君が知っているとしたら、そちらの名前かと思いまして、そう名乗ったという訳です」


「…………」


「…………」


 俺は押し黙る。水沢も、だ。

 そう、高井であれば、答えを用意していると考えて然るべきだった。彼の筋の通った説明に、水沢は……


「貴方、ママのお店のお客だったの……?」


 ……それを信じたようだ。


「み、水沢、こいつの言う事は嘘ばかりなんだ。信じちゃいけない」


「……因幡君。この人、ママが居なくなった事に、どう関わってるのかな?」


「それは……」


 それを証明する事が、俺には出来ない。今ここで持論を展開しても、結局、高井に覆されてしまう気がした。


「その……なんて説明すればいいか……だから……ええと……」


 俺は、最悪のタイミングで、しどろもどろになってしまう。これでは、言葉に信憑性を持たせられない。


「因幡君……」

 

「ねえ、因幡? ちょっと落ち着いた方がよくない? アンタ何があった訳? 様子変すぎ」


 水沢はその顔に困惑を浮かべ、ナツさんは俺を訝る。


「お、俺は……」


「あ、ご心配なさらず」


 ナツさんに答えようとしたところに、またも高井が上から言葉を被せてきた。


「さっきの彼は、ちょっと発作を起こしていたんですよ」


「発作? って、因幡の病気が……?」


「おや、貴女は因幡君の病気の事を、ご存知なんですね。……ええ。先程は少し対応を間違えてしまい、彼を興奮させてしまったんですよ。いやぁ、医者としてお恥ずかしい」


「お医者さんなんですか?」


「ええ、因幡君の通っている病院のね。……偶然ここを通り掛かったのですが、何やら様子のおかしい因幡君を見つけまして。どうも、下の川を見てしまったようなんですよ」


「あ、例の水辺恐怖症?」


「おお、貴女はそれもご存知なんですね。いや、傍に理解者が居るというのは、因幡君にとてもプラスです。これからも彼をよろしくお願いしますね?」


「え? あ、はい」


 高井の優しい口調、柔らかな物腰、そして穏やかな笑顔。

 やられた。

 ナツさんは、もう高井を信用し始めている。今、俺が何かを口にしても、病気の症状と説き伏されてしまうだろう。


「……因幡君? よく解らないけど、この人に謝った方がいいんじゃない?」


「そうよ、因幡」


「…………」


 水沢とナツさんに窘められる。二人の言う事は尤もだ。理由がどうであれ、俺がこの人を橋から落とそうとした事は事実。

 ――そう、俺はこの人を殺そうとした(・・・・・・)のだ。

 ようやく事の重大さを実感し始める。

 こんな高い所から突き落とそうなんて、暴行罪じゃ済まされない。これは殺人未遂だ。

 そして俺は打ちのめされる。

 罪の大きさにではない。

 俺は「激昂すると人を殺す可能性がある人間」。

 その事に打ちのめされたのだ。

 俺は今日まで、社会規範に添った人間であろうと、強く心掛けてきた。「信用に足る人間」でありたかったからだ。子供の頃から孤立気味に生きてきた俺は、親和欲求が強い。誰かと一緒に居たい、誰かと繋がっていたい、そんな思いが常に俺の中には在る。なのに、病気の事が知られると、誰もが俺を敬遠した。そんな俺が、「どうすれば人の和の中に入れるのか」と悩んで辿り着いた答えが、「信用を得る」という事だった。

 ――あの子、病気って聞いたけど、しっかりしてるね。

 ――あいつ、病気らしいけど、真面目な奴だな。

 ――あの人、病気って話だけど、別に普通じゃん。

 周りの人達に「精神疾患なんて関係無い」と思って貰う為に、強く己を律してきたつもりだった。

 しかし、今回の事がそれを覆す。

 俺は「精神疾患なんて関係無く」人を傷付けてしまう可能性のある人間だった。俺は「信用に足る人間」ではないんだ。


「…………」


「因幡? 何か言ったら?」


 ナツさんに促されたが、どうにも言葉が出て来なかった。

 高井の何食わぬ顔には、もはや驚いたりはしない。俺が何を言ったところで、この人を切り崩すのは無理だという事を理解した。でも、言葉が出ないのはそんな事が理由ではなく、俺という人間が、果たして高井に何かを言えるような人間か、そんな疑問に囚われていた所為だった。


「いや、本当にいいんですって。僕の事よりも、因幡君の心配を……」


「……高井先生」


「……え?」


 俺は高井に声を掛けた。何か言える事はないかと探して、ようやく一つだけ見つける事ができたのだ。


「高井、先生」


「……何かな?」


 俺はもう一度高井の名を呼び、立ち上がって、真剣な目で彼を見据えた。


「危険な目に遭わせて……ごめんなさい」


「……ッ」


 俺の謝罪に、高井が驚いた表情を見せる。

 俺は今、心の底から真剣に謝った。

 決して免罪を求めた訳ではない。

 俺が逸脱してしまった規範に、再び添う為には、今、一体何をするべきなのかを考えた結果、一つだけ思い当たったのだ。

 それは、「悪い事をしたら謝る」という事。

 自分が悪いと思ったのなら、それをしっかりと自覚しなくては駄目だ。謝って許される事ではないとしても、悪いのはこちらだという事を、まず相手に伝える事だ大切。そうやって、過ちを犯した自分を律する取っ掛かりとしなければならない。言い訳というものは、相手よりも自分を惑わせてしまう。自分で自分の罪を曖昧にしてしまう。そうなっては、しっかりとした反省が出来なくなってしまう。

 再び同じ過ちを犯さない為に、自分の落ち度を明確にする行為――それが「謝罪」。

 悪い事をしたと思ったら、どんな場合でも、まずは謝罪。

 「謝罪」――それは、過ちを繰り返さない為の、自分に向けた宣言とも言える。


「俺は、貴方に取り返しのつかない事をしてしまうところでした。本当にごめんなさい」


「……なんの、つもりかな?」


「貴方がどんな人間であっても、俺に貴方を傷付ける権利はありませんから。いえ、誰にだって、人を傷付ける権利なんてありはしません」


「なるほど、遠回しに非難する事にしましたか」


「俺は、本気で、貴方に申し訳ないと思っています」


「……んん?」


「貴方が、俺を殺人未遂の罪に問うというのなら、甘んじて受け入れなければなりません」


「……僕がそんな事をしないと、解っているから言っているのでしょう?」


「罪悪感というものを知らない貴方には、解らないのかも知れませんね。……罪を犯すという事は、とても苦しい事なんです。その苦しみを和らげるには、悔い改めて、罪を贖うしかないんです」


「うん、名言ですね」


「やっぱり通じませんか。そんな苦しみを知らない貴方は、実は誰より幸せなのかも知れないですね」


「……言うね」


「だけど、俺はこう思います」


「……なんだい?」


「かわいそうな人」


「!?」


「貴方が居るお蔭で、俺は自分の幸せを再確認出来ました」


「……お前……!」


 怒り。

 彼は怒っていた。

 俺の言葉に憤っているのだ。

 それは、高井京助と出会って以来、彼が初めて俺に見せた感情だった。いや、そもそも本気の感情を見せた事すらなかったのではないだろうか。水沢母娘の写真を目にしたあの時ならば或いは、と言ったところだろう。いずれにせよ、俺の言葉が、彼の胸に初めて響いた瞬間である事は間違いない。


「……ん、んんっ。僕が、君よりも不幸な人間だと言うのかい?」


 高井は一つ咳払いを入れて、冷静に言葉を紡いだ。しかし、表情の険しさは隠せていない。


「間違いなく」


「……ッ、僕は、君の過去をある程度知っている。君のように哀れな人間は珍しい」


「貴方が俺の何を知っているというのですか? 俺ほど恵まれた人間はそう居ません」


「強がりにしか聞こえないね」


「強がれる事が証拠です」


「…………」


 俺達はしばし睨み合う。

 高井の顔は、それまでとは別人のようだった。

 そうなって気付いたが、今までの高井は、俺を下に位置する人間と捉えていたのではないだろうか。今の高井の目に、俺に対する憎々しさが籠っているところを見ると、ひょっとしたら彼は、俺の事を「不幸にしたい上に位置する人間」と、評価を改めたのかも知れなかった。つまり、俺は彼のターゲットになり得るという事だ。

 それが彼の価値観。

 下に居る者には寛容で、上に居る者には憎悪する。


「……お(いとま)しよう。三浦の話を詳しく聞きたかったが、こんな禅問答は楽しくない」


 高井はそう呟くと、ポケットからキーを取り出して、車の運転席へと向かった。そこに、俺は最後の言葉を投げ掛ける。


「俺は、貴方に罪を贖わせたい。今は無理でも、いつ必ず……!」


「……楽しみだね」


 バタンッ! ……ブロロロロロ……!


 こうして、高井京助は、俺の前を去って行った。

高井との決着は持ち越しで、このエピソードを終えます。

が、もう一話あります。

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