表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/32

time to believe now 18

このエピソードも終盤に入りました。

 一月三十日 日曜日 火点し頃




 『間一髪』。

 その言葉は、今、この瞬間の俺の為に誕生した言葉だと確信した。

 俺と伊波千夏が、安心感から気を抜いてしまった隙に、水沢ひかるが、橋の欄干から飛び降り自殺を図った。しかし俺は、正しく間一髪、彼女の右手首を掴み取る事に成功したのだ。現在、水沢は「橋の上から宙吊り状態」という極めて危機的状況にあるが、辛うじて、落下という事態だけは阻むことが出来た。

 女の子とはいえ、第二次性徴を終えた人間を、右手だけで重力から救った自分を、俺は心の中で称賛する。しかし、気を抜いてこの状況を招いた事を考えると、帳消しになった感が強い。


「ッ! うわっ!?」


 水沢を掴めた事で僅かに油断してしまい、彼女の右手首を掴んでいる俺の右手が、一瞬滑りかけた。俺は慌てて左手を伸ばし、水沢の着ているダッフルコートの袖口を掴んで、捩じる様にして指に引っ掛ける。


「うおぅっ!?」


 欄干の手すりで身体を支えていた左手を離してしまった為、今度は俺の身体ごと持っていかれそうになった。咄嗟に左足を欄干の柵に絡み付け、どうにかこうにか持ち堪えようとする。


「くぅぅぅ……」


 手すり部分が俺の腹の辺りにある。完全に前屈姿勢だ。この体勢で水沢を引き上げるのは不可能に近い。


「……う……く……手を……は、放してよ……」


 水沢がこちらを見上げてそう訴えてきた。千杜橋に備え付けれるている電灯のお蔭で、微かに彼女の表情が見て取れる。その顔には苦悶の表情。それは心情的なものなのか、それともどこかを痛めたのか。


「く……い、言うと思ったけど……無理に決まってるだろ。くそっ……ナツさんっ!」


 近くに居るであろう伊波千夏に呼びかける。だが何故かレスポンスが無い。


「ナツさん! どうしたんだ!? 居るんだろ!? 手を貸してくれ! ナツさん!」


 この体勢で声を張り上げるのは非常に辛い。ナツさんは一体何をやっているんだ。


「ナツっ……うわあああ!?」


 またもや身体を持っていかれそうになった。集中しなければ、水沢どころか俺まで落ちてしまう。


「……かる? ひかる……ひかるーーー!?」


 ようやくナツさんの声を確認する事が出来た。もしかしたら、水沢が落ちたと思い込んで、放心していたのかも知れない。


「ひかる、居るのね!? まだ落ちてないのね!? よかったぁぁぁ……」


 俺のすぐ傍に来て、そう喜ぶナツさん。


「よくない! 今にも落ちそうなんだ! 引き上げて……うおおっ!?」


「え? きゃあああ!? ちょっ、因幡!? 放しちゃダメ! 放しちゃダメよっ!」


 俺の身体が三度(みたび)持っていかれそうになる。ナツさんが反射的に俺の腰へとしがみ付いてくれたお蔭で、辛くも凌ぐ事が出来た。

 俺は改めて足を柵へと絡め直し、可能な限りしっかりと固定する。


「ナ、ナツさん、身体は……固定できたから、水沢を引き上げるの……手伝って……」


「え……あ、う、うん、うん! ひかるっ、ひかるっ!」


 ナツさんは欄干から身を乗り出して、水沢へと手を伸ばす。しかし、全く届きそうにはない。それもその筈、何しろ俺は、腰まで乗り出している上に腕も伸ばし切っているのだ。そもそも、俺の腕がナツさんの腕よりも長い時点で、届く筈もなかった。


「ダメェェ……届かないよぉぉ……ひかる……ひかるぅぅ……」


「ナツさん……バッグの……ショルダーベルトだ。それを……外して垂らせば……届かないか?」


「あっ、やってみる!」


 俺が水沢を掴む前に投げ捨てたナツさんのスポーツバッグ。あれに使われていたショルダーベルトならば、それなりに強度があるだろう。

 柵を通して、逆さまに、ナツさんがバッグからベルトを外している様子が見えた。焦っている所為か、少し手間取っているようだ。


「……ッ、外れた!」


「端っこを、しっかりと自分の手に……巻き付けて、垂らすんだ。……落とすなんてヘマ、しないでくれ……よ?」


「分かってるわよっ! ……ひかる! これ!」


 ナツさんが俺の隣でベルトを垂らす。それは、水沢の顔の近くまで迫る事が出来ていた。


「よしっ、水沢、掴め……!」


「ひかる! 掴んで!」


「…………」


 しかし、俺達の意に反して、水沢は空いた左手を動かさない。


「ひかるっ!? はやくっ! はやくぅぅぅ!」


「…………」


「み、水沢……頼むから、掴んで……!」


「……私、落ちたいんだよ……」


「なっ、ひかるううっっ!」


「手を放して……ねえ、放してよ……」


「ばかーーーっ! ひかるのばかーーーっ!」


 これはいよいよもって不味い状況だ。

 いくら俺達が助けたくとも、本人にその意思が無ければ、今のこの現状を打開する事は困難。俺の握力だっていつまでも持ちはしない、この高さから落としてしまってはまず助からないだろう。闇に包まれた谷底を見れば、そこは川原。そう、この位置は川の上ではないのだ。仮に川の上であったとしても、あの水位では陸と変わらない。水沢を救うには、引き上げるより他ないのだ。


「――ッ!」


 そして、悪い事は重なる。

 俺が下の状態を確認する為に目をやった渓流。

 そこで、あるものが目に入ってしまったのだ。


「……うそ、だろ? ……こ、こんな状況で……?」


 川の側でこちらを見上げる女性らしき姿。

 今ほど自分の病気を呪った事は無い。


「やめてくれ……今だけは、今だけは来ないでくれ……」


「因幡っ!? アンタどーしたの!? ちょっとしっかりして! じゃないとひかるがっ!」


「来るな……来るな……来るな……」


「因幡ぁ! お願いだからしっかりしてぇぇぇ! ひかるが落ちちゃうよぉぉぉっ!」


 俺は強く目蓋を閉じて、只管(ひたすら)に両手へと力を込める事しか出来なかった。どうすれば水沢を引き上げられるのか、そんな事を考える余裕は失われている。

 もうどうしていいか判らない。

 このまま握力が尽きてしまうのを受け入れるしかないのだろうか。だが、それはつまり、水沢の死を、受け入れるという事。

 嫌だ、それは絶対に嫌だ!


「頼む! 消えてくれぇ! 俺は水沢を助けたいんだぁっ!」


 ――カルチョを助けて


「――え?」


 突然頭に響いた声に、俺は目蓋を開いた。目に入るのは宙吊り状態の水沢ひかる。そして……そして、その水沢の身体に重なるようにして見えた、別の女性らしき人の輪郭。それは、俺が幼い頃から目にしてきた女の人ではなかった。

 そう、それは……


「……さ、とみ……さん……か?」


「因幡ぁぁぁ! 因幡ってばぁぁぁっ!」


 すぐ傍で叫び続けるナツさんの声。しかし、それを押しのけて、別の声が俺の頭に直接響いて来た。


 ――カルチョと話して


(話?)


 ――私の言う事をカルチョに話して


(……やってみる)


 ――……カルチョ


「……カルチョ」


「……え?」


 虚ろだった水沢の瞳が、微かに揺れた。


 ――これがママの一番好きな花だよ。ね? カワイイでしょ?


「これがママの一番好きな花だよ。ね? カワイイでしょ?」


「……因幡君……何を言って……」


「因幡っ、ホントにどーしたのよっっ!」


 水沢もナツさんも、明らかに困惑している。しかし俺は、水沢の母親であるさとみさんに、一縷の望みを託した。


 ――地味じゃないよ~。ほら、見てみて。これね、花びらに見えるけど、実は花びらじゃないんだよ~


「地味じゃないよ~。ほら、見てみて。これね、花びらに見えるけど、実は花びらじゃないんだよ~」


「――ッ!? ……それ……それって……。え? ……な、なんで……?」


 水沢の表情が、困惑から驚愕へと変わった。


 ――名前? これはね、三角草っていうんだよ


「名前? これはね、三角草っていうんだよ」


 ――ママが一番好きな花。カルチョにも好きになって欲しいなぁ


「ママが一番好きな花。カルチョにも好きになって欲しいなぁ」


「…………。……え、え~? 私……チューリップの方がいい。だって……いっぱい、色があるんだもん」


「三角草だってね、ママの故郷では、赤かったり青かったりするんだよ? ここら辺には白いのしかないけどね」


「……ふ、ふ~ん……み、見てみたいかも……」


「よ~し、じゃあ、来年の春休みは、ママの故郷に連れてったげる。カルチョはまだ行った事ないもんね?」


「う、うう……うん。い、行き……たい。ママ……の、故郷」


「うんっ。ママの故郷の三角草を見れば、きっとカルチョも好きになってくれるよ~。チューリップよりもね~」


「うん……うん……ヒック。なったよ……グス……一番好きになった。居るんだね……? ヒック……ママ、そこに居るんでしょ?」


「…………」


「ねえっ! ママっ!」


 さとみさんの声が聴こえなくなってしまっていた。ここからは俺に託すという事か?


「…………。……水沢」


「え……? い、因幡……君? ……ママは? あれ? ママはっ!?」


「お母さんは、君に故郷の三角草を見てもらいたがってる」


「……ッ。……三角草……」


「君はどうなんだ? お母さんの故郷の三角草、見なくてもいいのか?」


「……み、見たい。でも……ママが居なきゃ……」


「そうだな。二人で見なきゃ意味ないよな。だったら、お母さんを故郷に連れて行ってあげないと。お母さんはもう、一人では故郷に帰れないんだから」


「え? ……ど、どういう事?」


「お母さんはもう、君の傍から離れられないんだ。だから、君が行ってくれないと、お母さんも行けない」


「え……? え……?」


「さっきまでの俺の言葉。あれは、今、君の傍に居るお母さんの言葉を、そのまま繰り返したんだ」


「なっ……!?」


「水沢。お母さんの姿、見えなきゃ駄目か? お母さんの声、聴こえなきゃ駄目か? いつでも、どんな時でも、一緒に居てくれるだけじゃ駄目なのか?」


「ママ……が……私と……一緒に……」


「君が死んだ後、お母さんと一緒に居られる保証は無い! だけど今! 君は間違いなくお母さんと一緒に居るんだっ!」


「……ッ!」


 もう、これが最後だ。

 俺の握力はすでに限界に達してる。

 これで駄目なら、俺はこの先、業を背負って生きていく事になるだろう。


「水沢、ベルトを、掴むんだ」


「…………」


 俺達は視線を絡める。

 照明に照らし出された彼女の表情。

 虚ろだった彼女のその瞳は、精彩を取り戻しているように見えた。


「ッ! ナツさん! ベルトを引っ張れえええええっ!」


「は? え?」


「水沢がベルトを掴んだっ! 早くっ、早くっっ!」


「あっ、あっ、んくっ……むに~~~~~!」


 ナツさんの力が加わった事で、俺に掛かる負担が僅かに小さくなった。俺は最後の力を振り絞って、右手を強く強く握る。そこで、コートの袖口を掴んでいた左手を放し、自分の身体を起こすべく、欄干の手すりを掴む。そうして、俺は強引に上半身を振り上げるように起こした。


「ぬあああああーーーーー!」


 水沢が俺の右手首を掴んでくれていた。彼女はもう、自らを助けようとしてるんだ。後は、俺とナツさんに懸かっている。


「上がれえええええーーーーー!」


「ひかるうううううーーーーー!」


 そして、遂に訪れたその瞬間。

 水沢の身体が、欄干の“こちら側”に……


 ――ドスン


「あいたっ」


 ……落ちた。


「…………」


「…………」


「いちちち……」


 俺とナツさんの目の前で、肩を押さえて痛がる、水沢ひかる。

 彼女は命の危機を――脱した。


「よっしゃあああああーーーーー!」


「ひがりゅうううううーーーーー!」


「わぶっ!?」


 俺は大声を上げながらガッツポーズ。ナツさんは泣きながら水沢に抱き着く。


「よがっだ……よがっだ~~~~~」


「ナツ、待って……。肩が痛いの……ちょっと緩めて……」


「ううう……うううう……」


「う、うん。分かった、分かったから……ごめん、ごめんね? だから、いっぺん離れて? ……い、痛いの……」


 ナツさんに抱き着かれた水沢が、何やらもがいていた。


「って、ナツさん、スットプストップ。水沢が痛がってる、どこか怪我してるのかも」


「えっ、怪我!? ひかる、どこ!? どこ怪我したのっ!?」


「ナ、ナ、ナ、ナツ……ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと……」


 抱き着くのは止めたが、今度は、橋の下でやったように、水沢の身体をガクガクと揺さ振り始めた。


「ああもう、落ち着け!」


「わっ」


 俺はナツさんの両脇に手を入れて、力任せに水沢から引き離した。


「……それで、水沢。どこが痛むって? 右肩?」


 脱臼でもしたのだろうか。俺の手首を掴めたくらいだから、そこまでではないと思うが。


「肩……ていうか、右腕……全体が痛いよ……」


「下手に動かさない方がいいな。……低体温の方も心配だし、やっぱり救急車を呼ぼう」


「きゅ、救急車はちょっと……大袈裟にはして欲しくない……」


「大袈裟じゃないと思うんだけど」


「おじさんを呼びましょ」


 ナツさんがそう言いながら、バッグからケータイを取り出していた。


「あ……ナツ、待って。パ、パパもちょっと……」


「……あ、もしもし? 千夏です。ひかる見つかりました~」


「…………」


 水沢を無視するかのように、俺達から距離を取って電話するナツさん。


「まあ、お父さんも君の事を探していたからな。伝えない訳にはいかないさ」


「……え? パパ……も?」


「娘さんがヤバい状態かも知れないって、俺が進言した」


「…………」


 水沢の表情が強張る。今日は一昨日と違って、状況が理解出来ているようだ。


「そんな顔しないでくれ。親は誰よりも子供の事を知っているべき人間だろ?」


「……子の心、親知らず……よ」


 母親だけではなく、父親との間にも解決しなくてはならない問題が在るようだった。そう言えば、再婚がどうとか言っていたな。


「ふぅ……。水沢、少し動けるか? ここでいつまでも座り込んでたら車が危ない。それに、橋の上は冷えるし……えーと……せめてあそこまで移動できないかな?」


「ん、分かったよ……」


 水沢はゆっくりと立ち上がった。しかし、すぐにふらついてしまう。


「おっと」


 俺は咄嗟に支えた。


「あ、ごめん……」


「問題無い。俺の手に掴まって。ゆっくりでいいから」


 俺は彼女の左手を取り、寄り添うように誘導する。


「ナツさん、あっちまで移動しよう」


 電話中のナツさんは、俺の呼び掛けに、人差し指と親指でOKサインを作って応えた。


「いつつ……」


「歩くと響く?」


「だんだん……痛くなってきた、かも」


「と、止まるか?」


「……いい。それより、話が聞きたい……」


「なんの話? ……って、訊くまでもないか」


「因幡君てさ、その……霊能者ってやつ……なの?」


「よく、分からない……。けど、水沢のお母さんには会った」


「……ひょっとして……最初の時も……?」


「……ああ」


 今回の事は、あの時が俺にとっての起点だった。あの時に水沢の母親と出会わなかったら、今の俺は、水沢とはなんの関係もない人間だっただろう。


「あの……今もママは……ここに?」


「それは……」


 水沢が不安そうな顔を向けてきた。「居る」とい答えてあげたいが、今はもうさとみさんの姿が見えない……


「ん? あっ、居るみたいだ」


 ……事もなかった。


「ほ、ほんとに?」


 水沢は、母親の姿を求めてキョロキョロと首を動かす。


「あー……その、水沢には見えないと思う。なんていうか……水沢のお母さん、何故か今は君と重なっているんだよ」


「へ?」


 一瞬だが、水沢の顔がブレて、残像の様にさとみさんの顔が見えたのだ。それを伝えると、水沢は俺から手を放し、自分自身を抱きしめる様な仕草をした。

 少しの間そうした後、彼女は再び俺の手を取って歩き出す。

 やがて、橋を越えたので、俺は、水沢が座れそうな場所を探す為に、辺りを見渡した。しかし、めぼしい場所は見つけられず、仕方なくガードレールに腰を預けさせる事にした。その際、気を遣ってハンカチをガードレールに掛けようとしたが、「もう汚れているからいい」との事だった。

 因みに、ナツさんは未だ電話中。

 水沢が腰を掛けたのを確認した後、俺はある疑問を彼女に投げかけてみた。


「なあ、水沢。今更なんだけど、俺の言う事、信じてるの?」


 それがずっと気になっていた。

 俺のイメージでは、遺族に「俺には貴方のご家族の霊が見えます」などと伝えた日には、それこそ最大級の非難を浴びせられるもの考えていた。それが水沢ともなれば、一体どんなん反応をされるか、一昨日の事を考えると、正直怖いとすら思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、彼女は拍子抜けなほど穏やかに話を聞いている。


「……あんなの、そうでもなきゃ……説明つかない」


「あんなの?」


「ママの言葉……。あれは絶対、ママじゃなきゃ分からないもの……」


「そうか……」


「……アンタが羨ましい……。私も……ママの声、聴きたいよ……」


「…………」


 俯く水沢を見て思った。落ち着いているから彼女は大丈夫、なんて楽観的にも程があった。もしかしたら俺は、彼女の追慕を煽っているだけなのかも知れない。


「その、理解者ぶるつもりはないんだけどさ、俺、水沢の気持ち……少し解るんだ」


「え……?」


「俺、六歳の時に、母さんを事故で亡くしてるから……」


「…………」


 ずるいやり方だった。俺の感傷を押しつけて、水沢に我慢を強いるだなんて。


「俺の母さんは……どうやら俺の傍には居ないらしい」


「――!」


 水沢が俺に顔を向けた気配がする。だが俺は、真っ直ぐに正面を見つめていた。


「…………。そっか……そう言うのが判っちゃうのも……辛いね」


 俺の思惑通りになってしまったようだ。

 ごめん、水沢。


「なによなによ~、人が仕事してる時にいい雰囲気作ってんじゃないわよ~」


 電話を終えたらしきナツさんが、不機嫌そうに難癖を付けてきた。彼女にはこの重たい空気がいい雰囲気に見えるらしい。前も思ったが、ナツさんはいまいち空気が読めないようだ。


「って、仕事? なんだそれ」


「ひかるのパパに、詳細を事細かく説明してた。アタシの知る限りぜーんぶっ」


「ちょっ!? ナ、ナツ……? どこまで……話……」


「はいソコ黙る。アンタはいっぺん、ガッツリ説教された方がいいわ」


「ナ、ナツ……怒ってる……の?」


「アレで怒らないとか、アタシって何星人?」


「あぅ……ご、ごめんなさい」


「ふぅ……ひかる」


 ナツさんは静かに水沢の名を呼び、そっと抱き寄せた。橋の上の時とは違って、今度はとても優しく。


「無事じゃなかったら一生許さなかったけど、無事だったんだから許してあげる」


「ナツ……。うん、ありがとう」


「よしっ。……じゃあ、少ししたらおじさんが来るは筈だから、そしたらアンタは病院行きなね?」


「分かった、ナツの言うとおりにする」


「はぁ~~~、一件落着ね。もう、一時はどうなる事かと思ったわよ。まさかリアル・クリフハンガーを拝むハメになるとはね~」


「クリフ……? ナツ、それって?」


「知らない? そういう映画があんのよ。その映画さ、始まってすぐに、さっきのひかるみたいな状態になった女の人が、谷底に落ちちゃうシーンがあるの。もうアタシ、そのシーンがずっと頭にチラついちゃって、恐くて仕方なかったわよ。因幡がおかしくなった時には『もうダメだー』って思った」


「お、おかしく……」


 まあ、間違っちゃいないが、なんてストレートな。


「う~ん、アタシ、よく解かんなかったんだけどさ。あの時の二人のやり取りってなんだったの?」


 ナツさんの疑問は尤もだ。さて、どう説明したものか。


「あれはね、ママの幽霊が、因幡君を通して話しかけてくれたんだよ」


「ぶふっ!? み、水沢……?」


 いきなりそんな事を言い出したら……


「はあ? ゆーれー?」


 ……こうなるだろ。


「うん。昔さ、ママと一緒にハイキングへ行った時に、あれと同じ会話をした事があるの。ママと私しか知らないやり取り。きっとママは、自分が傍に居るって事を、私に伝えたかったんだね。多分、因幡君に、ただ『ママが傍に居る』って言われても、私は信じなかった。だからママは、私とママにしか判らない事を、因幡君に言わせたんだよ」


「ちょ、ちょっとちょっと、ひかるストップ! 待って待って、なに? なに?」


 再び、ナツさんの疑問は尤もだ。さて、どう説明したものか。


「ひかる、アンタ……。ママが亡くなった事……受け入れられたの?」


「…………」


 俺が思っていたのとは違ったが、そのナツさんの疑問は尤もだった。

 彼女は、水沢に母親の話をするとどうなるかを、身を以って知っている。水沢の口から「ママの幽霊」なんて言葉が出るとは思いもしなかっただろう。


「……八年前……ね?」


 水沢が静かに口を開いた。


「その橋の下で……」


 語られる内容は、彼女にとって最も辛い事実。


「ママが……」


 やはり水沢は思い出していたのだ。


「……死んでいたの」


「ひかるっ!?」


 ナツさんの驚きの声。

 俺はというと、想定内の事に納得する。

 水沢ひかるは真実を知っているようだ。


「殺されていたのか?」


「ちょっと因幡っ!?」


「それは……よく判んない。ママを追って橋の下に降りたら、そこで……死んで……た」


「ひかる! いいのっ、無理に話さなくていいのっ! 因幡っ、そんなのは今はいいでしょっ!?」


「……そうだな、あんな事があった後だし。……ごめん、水沢」


「ううん、平気。橋の下でずっと……その事を考えてたから……さ。……なんでママは死んだんだろうって」


「え、死んだ瞬間は見てないんだ?」


「こらっ! 因幡っ!」


「あ、ご、ごめん……」


「ナツ、大丈夫だから。……ねえ、因幡君。その……ママは何か言ってないの? 死んだ……原因とか」


「色々と何かを伝えようとはしてくれてるんだけど、いまいち要領が掴めなくてさ……。水沢、その時って他に誰かいなかったか?」


「……多分、居た」


「居たのかっ!?」


「……私がママを見つけた時……誰かがあの階段を……下りてきたの。……わ、私……怖くなって……か、隠れて……。それで、しばらく……隠れて……戻ってきたら、マ、ママが……居なくなってて……うう」


「因幡っ! もういいでしょ!? ひかるこんな辛そうなのよ!?」


「あ、ああ……。水沢、無理させてすまなかった」


 予想に反して、水沢は母親の死の真相を知らなかった。彼女の話から、死んだと思われる場所は判明したが、死因を示す情報は何もない。八年経った今、もはや川原を調べても何も出て来やしないだろう。

 それにしても、水沢が目を離した隙に居なくなったというのは、つまり階段を下りてきたその誰かが、さとみさんの遺体を持ち去ったという事だろうか。だとすれば、それはそのまま、さとみさんを殺した犯人だという事にならないか? ……だが、証明できるものは何もない。現状、俺が辿る真相への道は途絶えたようだ。


「ひかる、落ち着いた?」


「……ナツ、私さ……」


「ん?」


「どうしてかさ、さっき言った事……今日まで思い出せなかった」


「え? そ、そんなの仕方ないわよ。そんな悲しい事、誰だって忘れたくなるわ」


「でもね? 私、思い出せて、ちょっとだけ……ホッとしちゃってるのよ」


「ど、どういう事?」


「私……ずーっと考えてたの。なんでママは……私の事、置いてっちゃったのかなって。私の事、嫌いになったのかなって」


「そうじゃなかったじゃない。仕方……なかったのよ。だって、アンタのママは……」


「うん、そう。でも、私はその事忘れちゃってたから……。だから私、ママは私を捨てて出て行ったのかもって思った。だけど私はすぐに……それを否定したわ。だってそれ、すごく怖い事なんだもん」


「うん……そうよね、親に捨てられるなんて怖いよね」


「違うの、ナツ」


「え?」


「……あんなに私の事が大好きだったママでさえ私を捨てた。だったら他の人達は、もっと簡単に私を見捨てるんじゃないかって。そう思ったらもう……怖くて……不安で……。私、必死に自分に言い聞かせたわ、ママが居なくなったのは、何か……どうにもならない理由があったんだって。決して私を捨てた訳じゃないんだって。……だから私、その理由を訊きたくてずっと……ずっと、ママを探し続けた」


「ひかる……」


「でも……私は、ママが居なくなった理由を知ってた。今日まで思い出せなかったけど、ママは私を見捨ててどこかへ行った訳じゃなかった。だから……私……ホッとしちゃったの」


「そう、だったんだ……」


「そしたら今度はさ、今までの自分が馬鹿みたいに思えて……。だって、そんな不安を抱くって事は、私がママの事を……全然信じていなかったって事じゃない? ……ううん、ママだけじゃない。私の周りにいる人達みんな……この人達はいつか自分を見捨てるかも知れないって、ナツにすらそう思った事があるんだ。……私、今まで、誰の事も……信じていなかったんだよ」


「…………」


「自分が嫌になった。私は誰も信用していない。だったら周りの人達だって、私の事を信用してくれる筈がない。私……ずっとナツに迷惑掛けっぱなし……。パパにも……。因幡君にはひどい事しちゃったし……。こんな私、きっといつか見捨てられる。そうなる事が……とっても怖かった」


「もしかしてひかる、だから、死のうと……?」


「……二人とも、ありがとね? 私を見つけてくれて……私を助けてくれて……。……私を、見捨てないで……くれ……て、うう……、ホントに……ヒック、……ありが……とう。……う、ううう……」


「……バカ」


 水沢とナツさんが抱き合う。街灯の薄明りの下で。

 皮肉にも、高井先生の推察は的を射ていた。水沢をここまで追い込んだ高井先生が、最も水沢を理解していたのだ。俺は医者じゃないから、水沢が本当に、高井先生の言うようなパーソナリティー障害なのかは、もちろん判断できない。だけど、彼女の中に見捨てられ不安があるのは、どうやら事実。それを如何に払拭するかが、これからの水沢の課題……いや、違うな。きっと“俺達”の課題、だ。


「グス……。ご、ごめんね? ナツ、メソメソしちゃって……。でも、思ってる事、全部言えたよ……」


「うん、ちゃんと聞いたよ、ひかる。安心して、アタシはアンタを見捨てたりなんかしない」


「ううん、もうそんな事思ってない。……そんな不安、消えちゃった」


 え? 今、消えたって言った?


「そうなの?」


「うん、不思議なくらい……。因幡君に、ママが傍に居るって言われてから、なんだか本当にママを感じるの。そしたら不安なんてどっかに行っちゃったみたい。……自分でもびっくりだよ」


 水沢がそう言った瞬間、彼女の姿が再びブレて、別の女性の姿が浮かび上がった。


 ――カルチョはきっと平気。


「えっ!?」


「ん? どうしたの、因幡君」


「い、いや、なんでもない」


 水沢の姿はもうブレていなかった。

 今、聴こえてきた声は、おそらくさとみさんの声。――そうか、絶対に見捨てない人が水沢の中には居るんだ。だから不安が消えた。なら、さとみさんの言う通り、水沢ひかるは、もう本当に大丈夫なのかもしれないな。


「……そっか、俺は御役御免って事か」


「因幡?」


「あ、これもなんでもない」


「そうなの? ……まあ、いいか。ところで因幡、包み隠さずプリーズ」


「は?」


 突然ナツさんが、訳の解らない事を言い出した。


「アンタの不思議さが、今アタシの中で絶賛増量中なのよ。このままだとアンタの事『不思議ちゃん』って呼ぶわよ?」


「ちゃん付けなんだ……」


 まあ、ムッツリよりはマシだけど。

 ……マシか?


「ええと……」


 ――ブオオォォォォン…… キキィッ


 俺が口を開こうとすると、ちょうど俺達の目の前に一台の車が止まった。そして、エンジンも止めずに運転手が降りてくる。


「ひかるっ!」


「あ……パパ」


 それは水沢の父親・隆三さんだった。彼は娘の姿を目にした瞬間、大きく息を吐く。


「はぁぁぁ……。ひかる、無事でよかった。まったく、心配させないでくれ」


「……ごめん」


 水沢はやや気まずそうだ。ナツさんがどこまで話しているか判らないからだろう。


「ひかる、千夏ちゃんから一通りの事は聞いてる。話したい事は沢山あるが、今はとにかく病院へ行こう」


「うん……」


「千夏ちゃん、志朗君、本当にありがとう、このお礼は後で必ず。無礼は承知で今は行かせて貰えないかい?」


「あ、もちろんですよ。早くひかるさんを病院へ連れて行ってあげて下さい」


「そうだよおじさん、早く早く」


「感謝する。……さ、ひかる」


「分かった。……二人共、私も後でちゃんとお礼するからね?」


「そんなのいいから、ほら、行った行った」


「ひかる、後で電話頂戴ね?」


「うん、それじゃ」


 バタンッ ……ブロロロロロ……!


 最後はやや忙しなく、水沢は俺達の前から去って行った。

 まだ全てが解決した訳ではないが、今はこの達成感に浸ってもバチは当たらない筈だ。


「……ねえ、今、ふと思ったんだけどさ」


「なんだ?」


「あの時、アタシが、通りかかった車を止めて助けてを求めてれば、もっと簡単にひかるを助けられたんじゃない?」


「…………」


「…………」


「……このKY」


「なっ!? 何よこのムッツリ!」


 そう、まだ解決はしていない。

 描写はしていませんが、さとみさんが何かをしたから、ひかるちゃんの不安が消えたという訳ではありません。

 ひかるちゃんは信じたんです。

 シロ君の事……では無くて、「お母さんは自分が大好きだ」という事を。

 母親への信頼が揺らいでいた為、ひかるちゃんの心は不安定になっていましたが、今回の事がキッカケで、彼女の中で確信を取り戻せたのです。彼女にとって、シロ君が本当にさとみさんの幽霊が見えているかは、実はどうでも良く、とにかく「ママが自分を見捨てていない」という事を、ひかるちゃんが心から信じる事が出来た、という事が重要なんです。シロ君は、「さとみさんの幽霊が水沢の不安を消した」みたいな事を言ってましたが、実際は、ひかるちゃん自身が、自分の中の不安と向き合い出したに過ぎません。ひかるちゃんの抱える問題は、これから徐々に、“自分の力で”解決していく事でしょう。

 劇中で、さとみさんが「カルチョはきっと平気」と言っていたとおり、とりあえず、ひかるちゃんのサルベージは完了です。

 が、このエピソードはもうチョイ続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ