time to believe now 14
え? ひかるちゃんのエピソードなのに、彼女の出番が少ない? 大丈夫です、今回にバッチリ……出てこないです、ゴメンナサイ。
一月三十日 日曜日 正午頃
「――ああもうっ。どこ行ったんだ……」
俺は少し苛立ってしまっていた。
この冬一番の冷え込みだった寒い寒い早朝からずっと探し続けて、もうすぐ正午になろうかという時にようやく目にするも、それは一瞬目に映っただけに止まり、結局接触には至らなかったのだ。
さすがに落胆を隠せない。
「水沢さん……」
ぼそりと求めし人の名を呟く。
それは水沢ひかるの母親。
今日俺が探し続けている人物。
初見の時は、あれほど俺に拘ったというのに、こちらから求めてもあの人は応えてくれない。確かに、相手は理屈が通らなくても納得のいく存在だけども、振り回される方の身にもなって欲しいものだ。
――疑問を持ちなさい。
「う……」
記憶の中の美作先生に窘められる。
考えてみれば、「水沢の母親が俺に何かを伝えたがっている」というのは、俺の勝手な解釈でしかないし、そもそも、水沢の母親と意思の疎通が図れたとは言い難い。常に一方通行。俺の言葉が届いた事はほとんど無かったんじゃないだろうか。
……なんだか、水沢の母親の言動が、単なる反射的な反応でしかないように思えてきた。
つまり、意図も無ければ自我も無いただそこに居るだけの地縛霊の記憶を追体験しているだけなのではないか、と。
そんな考えを皮切りに、俺の思考はどんどんネガティブになっていく。
だいたい、さっき見たのは本当に水沢の母親か?
チラッと見ただけで速断したが、だんだんと自信が無くなってきた。いや、もっと根本的に、例の“チカラ”なるものが、俺の中から消えていないという保証は?“チカラ”の存在の有無なんて、どうやって確認すればいいんだ。
まずい、少し疲労を覚えてきた。
「ふぅ……。とりあえず、ホテルまでは……」
俺は、昼食を摂る前に決めていた予定を、遂行する事にした。
今居る場所は、アーケード街を駅側から入って、最初の横町を曲がったその先を、少し進んだ路地裏。このまま十五分ほど歩けば、昨日のホテルに着く。そこまで行っても水沢の母親に接触できなかったら、もう諦めて学校に……
「――ねえ、もしかしてひかるの家に行くの?」
「……いや、俺、水沢の家なんて知らな……って、え?」
「んじゃ、どこ行くのさ」
「…………」
「ん?」
「なんで居んのっ!?」
「わっ」
何故か伊波千夏がそこに居た。
「な、なんでって、アンタがひかるが居たような事を言うから、追ってきたんだけど?」
気付かなかった……。
俺としては、立ち食いそば屋の前で別れたつもりになっていたので、まさか付いて来ていたとは、少しも考えていなかった。
どうしよう。
正直、これから行く場所まで付いて来られるのは、いろんな意味で困る。
「それで? ひかるが居たの? あの子を追ってきたわけ?」
「いや、俺が追ってきたのは水沢じゃなくて……」
「え? でもさっき、『居た、水沢さん』って言ってたじゃん」
「そ、それは、水沢であって水沢ではないと言うか……」
「何言ってんの? アンタ」
説明する時間が惜しい。説明したとしても、理解して貰えるとは思えない。こうなったら……
「……ナツさんっ!」
「な、何?」
「俺は今、幻覚症状を発症中なんだ」
「は?」
「君に迷惑を掛けたくない。だから、放っておいてくれ」
「……超冷静じゃん、とてもそうは見えないんだけど?」
「くっ……その、わ、僅かな理性で応対してるんだ」
「ていうか、そんな状態なんだったらさ、アタシ、傍に居た方がいいんじゃない? なんかあった時に為に」
「優しいね、こんちくしょう」
「……確かに言動はおかしいっぽいわね」
さすがに無理があったようだ。窮すると弱いな俺。
「と、とにかく、俺の事は捨て置いてくれて構わないから」
「…………。なんかちょっと心配だから付いてくわ」
なんでこの人こんなに親切なの?
普段なら泣いて喜ぶけど、今は空気を読んで欲しいぞ。
「ああもうっ、どうなっても知らないからなっ」
少し自棄になりながらホテルへと向けて足を踏み出す。ナツさんもちゃんと付いて来ているようだ。いや、来なくていいんだけど……。
まあ、目的地に着けば、彼女も去る事になる筈だ。俺への不信感を胸に抱きつつな。……くそう。
「それでそれで? どこ行く気?」
「あ、あっち」
適当に指を差して濁す。ラブホテルとは口が裂けても言えないからだ。着けば判る事だけれども。
「あっちって……いわゆるホテル街があるんじゃ……?」
「うぐ」
知ってましたか。
「……え? 嘘、でしょ? そこ行く気?」
「だ、だから付いて来なくていいってば」
「なんでそんなトコ行くわけっ!?」
「い、色々と事情があるんだよっ!」
「どんな事情よっ! 脈絡無さすぎでしょっ!?」
「だったらナツさんはここまでなっ! じゃっ!」
「って、コラッ!?」
俺は耐えられなくなって、唐突に走り出す。
さすがにもう付いては来ないだろうが、なんだか最悪の別れ方だった気がする。彼女の中の俺像はどんな事になっているのやら、だ。
考えてもしょうがないので、再び水沢の母親を求めてあのホテルへと向かう。今度は道中彼女を探したりはせず、とにかくホテルを目指す事にした。
朝から複数回往復している道なので、当然迷うような事はなく、俺は難なくホテルへと辿り着いた。
「ふぅ、さて……」
着くと同時にホテル前の通りを見渡すが、水沢の母親の姿は見つける事が出来なかった。となると選択肢は二つ。諦めて学校に向かうか、ホテルの中まで捜すか、だ。
(入ったところで昨日の様に追い返されるかもしれないし、やっぱり諦めるか)
そう思いながらも、未練がましくホテルの入り口を覗き込んだ。すると……
ウィィィン
……あの、やけに稼働音のする自動ドアが開いた。中から誰かが出て来るのかと思い、そこから立ち去ろうとしたが、予想に反して誰も出て来なかった。しかも自動ドアはなかなか閉まらない。不思議に思い、近づいて中を覗こうとすると……
ウィィィン
……稼働音と共に自動ドアは閉まってしまう。
「…………」
誰も出入りしていないのに、勝手に開閉する自動ドア。
怖いぞ……。
でも、これは、ひょっとして……
「――ねえ、もしかして入ろうとしてる?」
「……いや、そのつもりは無かったんだけど、入る必要が出てき……って、え?」
「一人で入って何する気?」
「…………」
「ん?」
「再びなんで居んのっ!?」
「わっ」
何故かまたもや伊波千夏がそこに居た。
「あんな逃げ方されたら、気になるに決まってんじゃん。だから、追って来たのよ」
「追わないでくれますっ!?」
「なによなによ~、だったら何しようとしてるのか教えなさいよ~」
頬を膨らませるナツさんは可愛かった。じゃなくてっ、まさかこんなに好奇心の強い子だったとは。
「こんなトコに入ったら補導されるわよ? アンタ、制服なんだし」
「わ、分かってるさ。けど……」
ビイイイイイィィィィィ……
実は先ほどから耳鳴りがしていた。これが聴こえている以上、ダメモトでも中に入りたい。入った後の事は一切何も考えてはいないが。
「と、とにかく、こんな場所に高校生が居るのは問題がある。ナツさんは帰った方がいい」
「アンタも高校生」
「だから、色々事情があるってさっきも……」
「――ギャハハハハ、マジかよそれ! ちょ~ウケんだけど~!」
「ぶふっ!?」
死ぬほど聞き覚えのある声が聴こえてきた。
ナツさんのみならず、運命までもが俺の邪魔をする。
「くっ、ナツさん! こっちにっ!」
「へ? ……て、わっ、ちょ、なに? きゃっ!」
突如、通りに響き渡った下品な声に、俺は慌てて隠れる場所を探した。
そして見つけたのは、目隠しと思われる背の高い植木の向こう側に、ぽっかりと空いた空間。そこへとナツさんを引っ張り込み、強引に低い姿勢を取らせる。
「なになにっ? なんのつも……むぐ」
「シッ。……ちょっとでいいから黙ってて……!」
当り前の疑問を口にしようとするナツさんを無理やり封じ、俺自身も息を潜めた。そして通りへと意識を向け、アレが通り過ぎて行くのを待つ。
「ギャハハハ……! ……っと、今日はここにすっか。見た目ショボいけど、中はイイ感じだかんな」
(なんだとっ!?)
危うく声に出しそうになる。どうやらアレはここに入ってくるつもりらしい。昼間っからとはなんて不埒なっ。
「むぐー、むぐー」
「ナツさん……! もうちょっとだから頼む……!」
俺達は(ナツさんは無理矢理)更に息を殺して、アレをやり過ごす。
そして、すぐ側を通り過ぎていく複数の足音。
やがてあの自動ドアの稼働音が聴こえたので、俺は植木の枝葉の間から、アレの様子を確認。見えたのは男女三人の後ろ姿。つまり、アレは「両手に花」状態でホテルへと入って行った。
(さ、さ、さ、三人でだとぉっ!? 後ろから刺してやりたいっ!)
「むぐーーーっ!」
「ああっと、ご、ごめんナツさん」
「ぷはぁっ」
慌てて俺は手を離す。アレの、あまりにも不徳義な行いを目の当たりにし、思わずナツさんの口を押える手に、力が籠ってしまっていた。
「ハァハァ……苦しかった……。何すんのよっ!?」
「うっ、誠に申し訳ない……」
「こんな場所だから、ちょっと怖かったんだからねっ!」
「……本当にごめんなさい」
力尽くはさすがに拙かったな、反省せねば。だけど、こんな場所に居るところをアレに見られたく……
「……待てよ?」
いっそ、どさくさに紛れてみるのはどうだろう。アレになら迷惑かけても心痛まないし。
「もうっ、さっきっからワケわかんない事ばっか。因幡、いい加減きっちり説明してもら――」
「ナツさんっ!」
「――うひゃっ」
「今度こそナツさんは帰ってくれ、俺は行かなくちゃいけない」
「へ? ちょ、ちょっと……引っ張んないでっ」
さっきとは逆にナツさんを引っ張りだして、ホテルの敷地から通りへと押しやる。
「じゃっ!」
「『じゃっ』じゃないっつのーーーーー!」
彼女を鮮やかに無視して踵を返し、そのままアレを追って自動ドアをくぐった。そこからは余計な行動は挿まず、ぐるりとエントランスを見回してアレの姿を探す。
――チンッ
不意に聴こえてきた音の方に目をやると、エレベーターホールでアレを発見。丁度エレベーターに乗り込んでいるところだった。
俺は躊躇する事なく足を進め、敢えて勢いを付けて、エレベーターへと乗り込んだ。
「うおっ!?」
「きゃあ!?」
いきなり現われた俺に驚いたのか、先に乗り込んだアレ達が声を上げる。だが、そんな事は気にせずに、俺はそのままアレへと詰め寄った。
「こんのエロトラっ! 真っ昼間っからいいご身分だなぁっ!」
「おわっ、シ、シロか?」
「人がややこしい事になってる時に、お前ってやつは~~~!」
「な、何言ってんだオメェ、ちょっち落ち着け、話がさっぱわかんねぇ」
おっと……少しばかり感情的になってしまったかも知れない。いくら相手がトラだとはいえ、ちょびっとだけ理不尽だった可能性が無きにしも非ず。まあ、正直どうでもいい。今はそれより……
「――ねえ、もしかしてこの人、因幡の友達なの?」
「……いや、こんな不届きなヤツ友達でもなんでも……って、え?」
「だったらどんな関係?」
「…………」
「ん?」
「だからどーして居んのっ!?」
「わっ」
そしてやっぱり伊波千夏がそこに居た。
「そっちが悪いんでしょー、ちゃんと説明していかないから」
「説明出来ないんだよっ! それくらい察せないのかっ!?」
「ちょっと! 人をKYみたく言わないでくれる!?」
「このKYーーーッ!」
「なっ……!? こ、このムッツリーーーッ!」
「うがーーーーー!」
「――あー、なんだコイツら」
「なんや、虎太郎のツレと違うんか?」
「男の方はそうだ。女は知らね」
「痴話喧嘩始めてもうてるけど、エレベーター動かしてええのん?」
「さあな。……う~ん、とりあえずコレ止めっか。今日はゆっこも居る事だし、ここは関西風に……んんっ、すぅぅぅ……なんでやねんっ!」
ドゴォッ!
「ぐほぉっ!?」
「へっ!?」
ナツさんと言い争っていると、突然、胸部に強烈な衝撃を浴びせられた。
「ゲホッゲホッ……! な、何を……ゴホッ」
「あ、ワリ、ツッコミ強すぎたな」
「ング……ゲホッ、俺、いつ……ボケた……? ……ていうか、今の、逆水平チョップ……」
「シロがラブホとか、カラダ張ったボケとしか思えねぇだろ?」
「……俺がラブホテルに来たら……ウケ狙いに見えるのか……」
確かに俺は、こんな所には縁の無いガキだけど。
「にしてもたまげたねぇ、まさかラブホでシロに会う日がくるとは。……しかも相手ミケじゃねーし」
トラは、無遠慮に、ナツさんへと目を向けた。明らかに値踏みしている。
「は? ア、アタシ? てかミケって?」
「う~ん、上玉じゃねーか。やるねぇ、シロ」
「ば、馬鹿っ、失礼な真似するなよ。別に俺達はそういう間柄じゃない。だからここを利用しに来た訳でもない」
「あん? どういうこっちゃ」
「……ねえ因幡、結局誰なの? このヘビメタな人」
今日のトラ。
髪はいつも通り逆立てている。カラコンはいつもと違って両目にブルー。上着は異様に裾の長いロングコート。材質はズボンと合わせて革のようだ。そしてあちこちに金属ジャラジャラ。
うん、確かにヘビメタルックだな。
「これはトラ。憶える必要は一切無い」
「ひどっ。シロ、ちゃんと紹介してくれよ」
「黙れ、この変態」
「誰が変態だコラ」
「変態だろうが。女性二人と……だなん……て?」
「ん? うち?」
俺に視線を向けられた女性が首を傾げる。なかなかの美人で、胸部もふくよか……ではなくて。あれ? おかしいぞ、入る時は確かに……
「……あの、女の人がもう一人、一緒じゃありませんでしたか?」
「もう一人? 今日はうちと虎太郎の二人だけやで?」
今日は?
今日“は”という事は、過去には複数人で……ではなくて。
二人?
でも俺はトラ達が三人で入っていくところを見ている。そう思ってエレベーターの中に居る人数を数えてみるが、俺を含めて一、二、三、四人。つまり、間違っているのは俺。
「うーん……?」
「どしたぁ、シロ、何を悩んでやがる。つか、ホントに何しに来たんだよ。その子とナニしに来たんじゃねぇの?」
「トラ、マイナス一万点」
「なんの点数だそりゃ」
バカはほっとこう。
しかし、どうしたものか。消えたもう一人(?)は気になるが、このままここに居ても何の意味もなさそうだ。
(フゥ……やっぱり考え無しの行動じゃあこうなるか)
「なあ、うちら上に行きたいんやけど、自分らどうするん?」
「あ」
トラの連れの女性が焦れてきたようだ。それも当然だな、こんな場所で足留めされてたら、誰だって落ち着かない。
「す、すいませんでした。じゃあ、俺達はここら辺で失れ……」
「よっしゃ! んじゃ、こーしよーぜっ」
退散しようとしたところで、トラが何やら提案してきた。
「よっと」
掛け声と共に、トラは最上階のボタンを押す。エレベータは、待ってましたとばかりに、淀みなく稼動を始めた。
「今日はいっちょ、この四人で楽しもうじゃ……」
「なんでやねんっ!」
ズバンッ!
「ゲハァッ!?」
どうやらトラがボケたようなので、さっきのお返しとばかりに、思いっきりツッコんでやった。
もちろん逆水平で。
「ぐ……っ。……なかなか、いいモン持ってんじゃねーか……。シロ……よ、オメェなら、ベルトも……夢じゃ……ねぇ……ガクリ」
「はいはい、バカは早く死になさい」
本当はちょびっとだけそそられたが、理性でねじ伏せてやったさ。
「仲ええなぁ、この二人」
「そうかしら……?」
「なあなあ、あんたはどないや? 四人でってのも刺激的やあらへん?」
「はあっ!? な、な、何言っちゃってんの!? アタシは嫌よっ、そんな初た……い……ごにょごにょ」
「ん~? 最後なんて~?」
「あう……えっと……」
チンッ
「あっ、ほら、着いたわよ! アンタ達降りるんでしょ? アタシと因幡はこのまま下行くからっ」
「へ? ちょぉ待ちぃやっ」
トラを沈めてスッキリしていると、何故だかナツさんとトラの連れの女性が揉めていた。
「ほらほらっ、さっさと降りなさいよ!」
「ちゃうねんっ、ここ9階やろ? うちら行くんは14階や」
「え?」
確かにここは9階だ。トラは14階以外のボタンは押していなかったから、ここで誰かが乗り込んで来るという事になる。
「誰も居いひんな……閉めてええ?」
トラの連れの女性は、ホールに誰も居ない事を確認し、『閉』のボタンを押そうとする。
「ッ! 俺っ、ここで降ります!」
「そ、そうなん?」
「え? 因幡?」
ピンときた。
根拠は無いが、何故だか自信がある。
俺はここで降りるべきだ。
「それじゃ、どうもお邪魔様でした。トラの事、お願いします」
「ん? ああ、うん、まかしとき」
昏倒している(フリだと思う)トラを女性に任せて、俺はエレベーターから飛び出た。
「待ってよ因幡!」
やはりというか、当然ナツさんも出て来る。
「ほなな~。……虎太郎、いい加減起きぃや」
「はいよ。……結局なんだったんだ、シロの奴。でもま、ミケにチクれば面白れぇ事になりそ……」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇーーーっ!」
背後から聞こえてきた不穏な発言に慌てて振り向いたが、エレベーターの扉はすでに閉ざされていた。
「どしたの? アンタ」
「……いや、何もやましい事なんてしてないんだ。心配する必要は無い。……筈。……だよね?」
「何言ってんの?」
考えても怖いだけなので、今はやるべき事だけをやろう。
まずは、周りの確認。
こういう場所だから薄暗いのは仕方ない事だろう。このエレベーターホールから左右に廊下が続いているようだ。では、とりあえず右側から……
「……あっ」
「え?」
さっそく見つけた見覚えのあるシルエット。
俺はすぐさまそれを追う。
「ちょっと!?」
それは、その先のT字に別れた廊下を右へと曲がった。俺がT字路に辿り着き、それの曲がって行った先に目をやると、遂にその姿を確認する事ができた。
「水沢さん!」
「嘘っ、ひかるが居んの!?」
俺の呼び掛けには応える事無く、水沢の母親はとある一室へと――扉も開けずに――入っていった。
まるで吸い込まれるかの様に、扉の中へと消えていってしまったのだ。
「うわ……」
「ねえ、何!? ひかるはどこなの!?」
少し背筋にくるものがあったが、俺はその扉の前まで足を進める。
「……ここにひかるが居るの?」
中に、入るべきか?
……そうだな、ここまで来て入らない訳にはいかない
「もしもーし、因幡ー?」
俺はドアノブに手を掛け、ゆっくりと回した。
「…………。あれ? 動かない……」
しかし、ドアノブは全く動かない。
冷静に考えれば当然だった、俺はチェックイン(?)してここに居る訳ではないので、ここを開ける為のカギなどは持ち合わせていない。
というか、この扉、鍵穴はどこ? オートロック?
「ちょっとちょっと、どうしたわけ? 中にひかるが居んの? なんか喋りなさいよ」
これはもしかしてゲームオーバーなのではないだろうか。
どう考えてもここを開ける手段なんて一つしかない。しかし、制服を着た高校生にそれは無理だという事は、昨日証明されている。かと言って、私服を着て出直したとしても、昨日のスタッフらしきおじさんに見咎められたら、即アウトだろう。
「むむむむ……」
「ねえねえ、アタシ、怒ってもいいよね? ここまでシカトされたら、怒っちゃってもいいよね?」
カチャ
「え?」
「怒ってもいいかっつってんのっ」
「そうじゃなくて。今、何か音が聴こえなかった?」
「聴こえたけど……それが何さ」
ドアから聴こえてきた気がする。もしかして、水沢の母親がカギを開けてくれたのではあるまいか。
「……もう一度開けてみよう」
俺が再びドアノブへと手を……
ガチャン キィ
……掛ける前にドアが独りでに開き、
「――ん?」
中から普通に人が出て来た。
「……って、えええええ!?」
「え? え? な、なんだね君たちは……」
出て来たのは男性。
その向こうに女性も見える。
男性はひどく動揺しているようだ……って当たり前だろう! 出て来るなり目の前に人が居たら、誰だって気まずいに決まってる! な、何しろ、じ、事後、なのだろうから……。
「あ、えっと、その、お、俺達は……え~と」
何か思い付け俺!
「だから、その……コンタクトを……そう! コンタクトを落としてしまって……!」
俺はポケットからケータイを取り出し、バックライトを点けて床にしゃがみ込んだ。
「いや~、ここ暗いから、なかなか見つからなくて……ああ、すいません、こっち回って貰えます?」
苦しいか?
だが言い出した以上これで通さねば。
「……か、課長? ど、どうしたんですか……?」
「あ、ああ、なんかコンタクトを落としたとかで……。と、とにかく僕らは行こう。なんかその辺に落としたらしいから、そこは踏まないように……」
「は、はあ……」
やはり気まずかったらしく、彼らは深く考えずにそそくさと行ってくれた。でも、念の為に彼らの姿が見えなくなるまで、コンタクトを探すフリを続ける。
「……フゥ~、焦ったぁ。因幡、もういいんじゃない?」
ナツさんに促され、ケータイをポケットに仕舞いながら立ち上がった。
「ひかるじゃなかったじゃん。アンタ、何がしたいわけ?」
「…………」
「因幡?」
キィ……
「って、何開けてんのよっ!」
実は、閉まる直前にボールペンを挟んで、扉が閉まり切らないようにした。オートロックなのだとしたら、開けられなくなるからだ。
「…………」
「……アンタ、入る気じゃないでしょうねぇ」
そして、俺は中へと入った。
「うそでしょ!?」
部屋の中は廊下よりも暗い。点いている照明は壁のブラケットライトだけで、それもかなり弱く灯されている。部屋の様子はほとんど判らないが、それでいい。きっとここには、十八歳未満が見てはいけないものもある筈なのだから。
「暗いわね、電気どこ? あ、これか」
パチッ
「なんで点けるかなっ!?」
パチッ
いきなりメインの照明を点けたナツさん。俺は間髪入れずにそれを消した。……というか、結局君も入って来たんだ。
「ちょっとなんでよ~」
「あのなぁ……。ここは、さっきまで使われていたんだぞ? 絶対に見えない方がいいって」
「あっ……そ、そうよね」
そう、ここは先ほど出て来た二人が使っていた部屋。今の俺が言っても全く説得力は無いが、これはプライバシーを侵害している可能性がある。もうさっきから良心の呵責が凄い。一瞬ベッドの辺りに様々な何かが見えた気がしたが、もちろん見なかった事にした。
(いつまでも滞在できる場所じゃないな。精神的にはもちろん、身体的にも色々辛い。何の事かは……言わぬが華だが)
「うう……このニオイ最悪~」
「言うなよっ!?」
気持ちは解るが、口にしないで欲しかった。知らないニオイの筈なのに、なんとなく判ってしまうのが辛い。
「ねぇ……もういい加減にしない? こんな事してて何になるってのよ」
「何に……なるんだろうな……」
「もしもし?」
熟慮断行を以ってここまで来た訳ではない。ただ、水沢の母親を追って来ただけで、何がどうなるかなんて俺にはさっぱりだ。したがって、何をどうすればいいのかもさっぱりだ。あの耳鳴りでもしてくれれば何か……
「……耳鳴り……」
「何か言った?」
今まで、不思議な事がある時には、あの耳鳴りのような音が聴こえてくるものと捉えていた。
しかし、ちょっと戻って考えてみると、俺が自ら不思議な事象を求めても、何も起きないパターンが多い。
例えばだ、俺は受信専用なのだとしたら?
つまり、あの耳鳴りは着信音で、水沢の母親なり葉山ことりなりが何かを発信した際に、鳴り出すのではないかという事だ。状況を鑑みれば、辛うじて仮説の域には達している気がする。
では、その仮説に則って現状を考えてみよう。
……耳鳴りは無い。
よって何も起こらない。
「…………」
「お~い、暗くてよく判んないんだけど、アンタ生きてる~?」
「……帰るか」
「はあ!?」
「因幡志朗。特技は骨折り損の草臥れ儲けです」
「……アンタ、はったおすわよ……」
――ナツさんは勝手に付いて来たのだから文句言わないで欲しい。そう口しようとした時だった。
突然、壁のブラケットライトの小さな明かりが肥大し、俺の目の前を、一面オレンジ色に染めたのだ――
――気付けばそこは、ほの暗い部屋。
ベッドのヘッドボードに置かれたライトスタンドが唯一の光源。その光に薄く照らし出された部屋は、俺がつい先程まで居た部屋ではなかった。
いや違う。
壁紙や設備等は替わっているが、構造は先程まで居た部屋と同じに見える。だがこの一瞬でレイアウトが変わる筈がない。
これは異なる時間軸の同じ部屋、そういう事ではないだろうか。
「――それじゃあ亜季ちゃん、くれぐれも頼むよ?」
「……ごめんなさい。本当に」
その部屋には二人の人間が居た。
一人は男性。
ベッドから少し離れたテーブルの側に立っている為、その顔を明確に判別する事は出来ない。
もう一人は女性。
こちらはベッドに腰掛けているので判別出来る。それは、間違いなく、水沢の母親だった。
「私は行くよ、元気でな、亜季ちゃん」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
男性はどうやら部屋から出て行くようだ。
女性はベッドに座ったまま、俯きながら、何度も謝罪の言葉を口にしている。
やがて、男性は無言で部屋から出て行った。
「…………。はぁ……」
女性は溜め息を吐きながら、ドサッとベッドの上で仰向けになる。スタンドライトに照らし出されたその表情には、正しく翳りが窺えた。彼女はそのまましばらく天井を見つめた後、おもむろに立ち上がって、先程まで男性が側に立っていたテーブルまで歩み寄る。すると女性は、テーブルの上にあった何かを掴み上げた。そちらにはスタンドライトの光が及ばす、それが何かは判らない。ただ、女性の手元からガサガサと紙擦れの音が聴こえてきた。おそらくそれは紙袋で、彼女は中身を確認しているものと思われる。
「はぁ……」
再度、女性は溜め息を吐いた。やはりそこには光が及ばす、今度は表情を確認出来ない。彼女は手にしていたそれを、やや乱暴にテーブルへと戻し、ベッドの方へと戻って行く。
コンコン
不意に響くノックの音。それを聴いた女性は、どこか重い足取りでドアへと向かった。
ガチャ
ドアを開ける音。そして、すぐに女性は誰かと連れ立って、部屋の中へと戻って来る。
「首尾は?」
聴こえてきたのは男性の声。
先程まで居た男性とは明らかに違う、若い男性の声だった。
「そこのテーブルの上」
女性はベッドへと戻り、腰を下ろす。
一方の男性は、テーブルの上に置かれていた、紙袋と思われるものを手にしている。例によって、そこの場所では、顔を判別する事が出来ない。
「本当に300万あるのか?」
「数えてないけど、あると思うよ」
300万……お金の事だろうか。
だとするなら、その金額には覚えがある。昨日、ホテルの前の通りで見たビジョンの中で、三浦という男性が口にした金額だ。
もしやこれは、水沢の父親が慰謝料を手にした時。
では、水沢の母親の不倫騒動は落着したのか?
「ふふん、過去最高額だな。流石は名門大学の学部長。まだまだイケるんじゃないか?」
「え!?」
男性の言動に不穏当なものが読み取れた。過去最高額というのはどういう意味だろう。
「い、いやよ! それだけあれば充分だよ! 三浦さんはもういいでしょ!?」
「何が充分だよ。お前は自分の置かれている状況が、まだ理解出来ていないんじゃないのか?」
「わ、わかってるよ! でも、三浦さんにはそれ以外にも随分貰ってるし、これ以上はもう……」
「なんだ、あのジジィに本気にでもなったのか?」
「そうじゃない! 私はただ……三浦さん、いい人だったから、心が痛くて……。ね、お願い、私、すぐに他のを見つけるから、三浦さんは……」
「次のも上玉とは限らないだろ? 100万単位なんて、なかなか無かったろうが」
「だ、だけど……私はもういやだよ……」
この二人は一体なんの話をしているのだろうか。
不倫を清算したのだと思っていたが、会話を聞く限りでは、夫婦で共謀して搾取を行ったのだとしか思えない。
「はぁ……。いいのか? 娘と離ればなれになってしまっても」
「ッ!」
娘……水沢ひかるの事か?
「お前は娘と一緒に居たくて、こんな事をしているんだ。そうだよな?」
「カ、カルチョと……」
「お前と娘が一緒に居る為には、金が必要。そうだよな?」
「カルチョと一緒に居る為に……」
「お前が娘と一緒に生きるには、こうするしかない。そうだよな?」
「カルチョの為にはこうするしか……」
「お前が娘の為に出来る事はこれしかない。そうだよな?」
「カルチョの為……」
それは、ひどく――
ひどく異様な光景だった。
男の声が、まるで呪詛の様に彼女を侵していく。
「さあ、急がないと三角草が咲いてしまうぞ?」
「あ……」
三角草。
その言葉で彼女から迷いの色が消えてしまう。
「……わかったよ」
「ん~?」
「京助君の言うとおりにする」
「よくできました」
え……――
――バシィッッ!
「おぶっ!?」
「因幡! しっかり、しっかりするのよ!」
バシィッ! バシィッ!
「ぶっ!? いたいっ、ちょ……あばっ!」
「因幡!? 気が付いた!?」
「な、なんなの……一体」
俺は何故か、ナツさんにより、平手の雨を浴びせられていた。
両の頬が非常に熱い。
どうしてこんな目に遭わされているのだろうか。
「ふぅ~~~、焦ったぁ。アタシ、人が気絶するトコ見たの初めてかも」
「いちち……き、気絶?」
「そうよっ、しかも立ったままで! ……人間て、立ったまま気ぃ失えんのね」
「いや、マンガじゃあるまいし」
「でもでも、アンタ実際ウンともスンとも言わなかったわよ? 引っぱたいてもすぐには気付かなかったし」
意識は確かに飛んでいたのだろう。“ビジョン”を見ている時の自分がどういった状態になっているのかは判らないが、立っていられたという事が、失神ではなかった事を示している。これは素直に不思議だった。
「どのくらい無反応だった?」
「え? そんなに長くはなかったわ。一分くらい?」
やはり、葉山ことりの時と同じで、体感と実際の時間には差異があった。これも素直に不思議だ。
「はぁ……ちょっと疲れた……」
俺はそう呟きながらその場に座り込み、精算機とやらに背中を預けた。疲れたと言っても、肉体的な疲労ではなく、まるで、テストを終えた後の緊張から解放された脱力感に似たものを感じる。ビジョンを見た事自体に消耗した訳ではない。その内容に、精神的な消耗を覚えた。
「因幡? 大丈夫なわけ?」
「ああ、ありがとう。でも、もう一分だけ時間をくれ……」
俺は今見たものについて考える。
今回、新しく知った事。
水沢の母親は、いわゆる「美人局」を行っていたようだ。ターゲットの人物と関係を結び、のちにその関係を家族にばらすと脅し、慰謝料と称して金銭を要求する。当たり前だが、これは犯罪だ。しかも、後から来た若い男性との会話から察するに、常習犯。恐らく彼女達は、その後も三浦なる人物から搾取をしたものと思われる。となると、その三浦の事を調べる必要があるかもしれない。言ってみれば、彼には「動機」があるのだから。――そう、水沢の母親を手に掛ける「動機」が。
しかし、だ。
俺にはそこよりも気掛かりな点がある。
それはもう一人の男性。
俺はその男性を、水沢の母親の夫、即ち水沢ひかるの父親だと思っていたのだが、そうとは言い切れないのかも知れない。
昨日見たビジョンの中で水沢の母親は、その人物を「直人さん」と呼んでいたが、今見たビジョンでは「京助君」と呼んだ。
昨日と今日では違う人物だというのか?
どちらの時も顔を確認する事は出来なかったから、違う可能性ももちろんある。声の方も、昨日は怒声だったが、今日は落ち着いた口調だった為、同じ人物の声と断定しづらい。けれども、若い男だという事は共通しているし、状況も把握していたようだから、同一人物と考えてもいいのではないだろうか。
ならば、何故違う名で呼ばれていたのか。
犯罪を行っていたのだから、偽名を使った線が濃いだろう。となると、三浦の前で呼ばれた「直人」が偽名で、「京助」の方が本名であると考えるのが自然だ。
「…………」
解っている。「京助」なんて決して珍しい名前ではない。たまたま同じ名前だっただけ。こういう偶然があっても何ら不思議な事じゃない。
そう、あの人である筈は無い、そんな筈……
「ねえ、マジで大丈夫?」
「……え? ッ! うわっ!?」
声のした方に顔を向けると、すぐ鼻先にナツさんの顔があった。俺は反射的に仰け反ってしまう。
「な、な、なんでそんな近くに!?」
「だ、だって……暗くて顔色が判んなかったんだもん。なんかアンタ具合悪っぽそうだったし」
どうやら心配させてしまったようだ。
「……ごめん、具合が悪い訳じゃないんだ。ちょっと悩ましい事態になっててさ」
「あのさ、別に何も起きて無くない? アンタ一人で何やってんのよ。……これってさ、その、つまりアンタって今、病気……な感じ?」
言い難そうにしつつもズバリ訊いてくるナツさん。だが、そう思われても仕方がない。
「もう終わったから大丈夫。さ、帰ろうか」
「……終わったんだったらさ、説明しなさいよ。ひかるに関係ある事なんでしょ? アタシ、そろそろ我慢の限界。教えてくんなかったら、無理矢理ここに連れ込まれたって言いふらす」
「濡れ衣じゃんっ!?」
「だったら、とっとと、説明」
もしかしてナツさん、実はかなり怒っているのか?
だったらここまで付き合う事ないだろうに。
これも水沢を想う故なのだろうか。
「は、話しても理解して貰えるかは……」
「それ、決めるの、アタシ」
「ご、ごもっとも……」
少し心が痛むが、ここは昨日話した内容の延長で誤魔化そう。
「……昨日の放課後の話、憶えてる?」
「え? どの話?」
「俺が水沢と関わるようになったキッカケ」
「……えーと? ひかるの前でフラッシュバック起こしたってやつ?」
「前でって言うか、俺が発作を起こしてた時に、水沢がたまたま傍に居たんだ」
「ああそっか。なんだっけ……昔会ったひかるのママの幻覚を見てたんだっけ?」
「それ。つまり、今日もそれ」
「……ひかるのママの幻をここまで追って来たって事?」
「そう」
「ワケわかんないかも。大体、幻って判っててなんで追うのよ」
「え? ええと……な、何か、情報が得られるかな、って?」
「幻から? なんの情報よ」
「う……。だ、だから……き、記憶だよ。うん、そう。何か水沢のお母さんの事を思い出せるかなって思ってさ。ほら、居なくなった理由とか、思わぬ情報が俺の中に有るかもって」
「……ひかるの為に、何かひかるのママの事を思い出したかったって事?」
「まあ、そんな感じ」
ゴメンナサイ、俺、君に嘘ばっかりです。
「ふ~~~ん……」
相変わらずここは暗くて、ナツさんの表情を正確に読み取れないが、絶対に納得していないと思う。
「んで? ひかるのママの幻さんは、何か情報くれたの?」
「えっと、まあ……」
「マジで? それってアンタが何か思い出したって事よね? 何を思い出したのよ」
あ、しまった。何も無いって言えばよかった。
「あ、き、今日じゃないよ? 前の時、前の時。言ったろ? 俺が水沢のお母さんから聞いたと思われる言葉を口走った所為で、それを聴いた水沢が、俺とお母さんを関連付けたんだ、てさ」
「ひかるとひかるのママしか知らないってやつでしょ? 何よ、それだけなわけ? 今日はただ幻覚見ただけ? こんな場所にまで来て何も思い出せず終い?」
「ごめん……」
「はぁ……」
暗い部屋に大きな溜め息の音。
ちょっと不条理を感じる。
何度も言うが、ナツさんは勝手に付いて来たんだぞ。
「ねえ」
「はい?」
「ひかるとひかるのママしか知らない事ってどんな事? 親友のアタシにも話してない事なの?」
「水沢は誰にも話してないって言ってたぞ」
「訊いちゃダメ?」
ナツさんになら問題ないかな?
「『カルチョ』と『三角草』って、水沢から聞いた事あるか?」
「ミスミソウはひかるが好きだって言ってた花ね。カルチョは……あれ? サッカー……だっけ? フランス語?」
「いや、イタリア……語……」
あれ……?
「あ、そうそう、イタリア語でサッカーの事か。……って、それとひかるになんの関係が?」
「……サッカーの事じゃなくて、水沢の小さい頃のニックネーム……母親がそう呼んでたんだって……」
「そうなの? 聞いた事無かったわ。……ひかるには悪いけど、変なあだ名ね」
「……『ひかるちゃん』が崩れて『カルチョ』になったらしいけど……。あの、ナツさん?」
「なによ」
「今、カルチョって聞いた時、なんだと思った?」
「いや、だからサッカーだってば」
「それ以外だったら?」
「は? ひかるのあだ名なんでしょ?」
「最初に聞いた時、誰かの事だと思った? えーと、誰か個人の事を指した言葉だって、少しでも過ったりしたか?」
「う~ん? 誰かの名前かと思ったかって事? ……思わないでしょ、ふつう。アタシ、真っ先にトトカルチョって言葉が浮かんできたし」
「…………」
――でも、カルチョっていうのは誰の事でしょうか
「で、それが何?」
何故あの人は誰かの呼び名だと思ったんだ?
「お~い? 因幡~?」
俺もナツさんと同じく、初めて「カルチョ」と聞いた時は、人のあだ名だとは全く思わなかった。
「ちょっとちょっと、もしかしてまたぁ?」
つまり、あの人は知っていたという事か?
知らないフリをしようとして、うっかり口を滑らせた?
「仕方ない、もっかい引っぱたくか……」
あの、ビジョンで見た「京助」という人物は……
「せーのっ……」
……高井京助先生、なのか?
――ガチャ
「へ? なんの音?」
「え? アタシまだ何もしてないケド?」
音のした方向、ドアの方へと目を向けると、何かがここへと入って来た。……台車?
「って、やばっ!」
パチッ
入って来たものが何か理解した瞬間、部屋のメインライトが点けられた。
「……ん? あ……す、す、すんませんっっっ!」
部屋に響き渡る、男性の謝罪。
電気が点いた事で状況が明瞭化する。最初に入って来たのは、シーツやら枕やら掃除用具などが積まれた台車。そして、それそ押しながら入って来たおじさんが電気を点けたのだ。そのおじさんは、客がまだ居たと思い込んでいるようで、平謝りを始めている。
「もぉぉぉしわけありませぇぇぇんっっ! チェックアウトのシグナルが出てたので、てっきりもう居ないものと! ほんとぉぉぉにすいませぇぇぇんっっ!」
詰まる所、まだ客の帰っていない部屋にスタッフがベッドメイクにきてしまって鉢合わせをした、といった状況なのだろう。こういうホテルで、急にスタッフが部屋に入って来てしまうのは致命的ミスだ。いや、どんなホテルでもか。
「い、因幡ぁ……」
ナツさんは、助けを求めるかのような視線を、こちらへと向けてきた。
気持ちは解かる。何せ、おじさんはまだ気付いていないが、俺達は制服を着ているのだ。俺に至っては、学校名が刺繍されているコートを羽織ってる。そもそもこのおじさん、昨日俺を注意した人じゃないか。……ナツさん、名前、呼ばないで欲しいぞ。
「あ……えと、も、問題無いですって。俺達、忘れ物を取りに来ただけですから。じ、じゃあ、俺達帰ります。お仕事頑張って……」
「ああ……はい。いや、ホントすんませ……ん?」
拙いっ、気付かれるっ。
「ホラ行くぞっ」
「きゃっ」
俺はナツさんの腕を掴み、その場から素早く離脱した。
どうか気付かれていませんように。
「因幡っ、どうすんのっ!?」
「どうするって……ここから出る。もう用は済んだんだから」
廊下を走りながら会話するカップル、迷惑な客もいたものだ。
俺達の事ですが。
客でもないし。
やがてエレベーターホールに着き、エレベーターを呼ぶべく、俺はボタンを連打した。
バシバシバシバシ……!
「こらこら、連打したって意味無いでしょ? やめなよ」
「いや、心が急かすもんだからつい。なんか、用が済んだら、ここに居る事が苦痛になってきてさ」
何故か今になって不安と緊張でドキドキしてきた。慣れない事はするもんじゃない。
「用が済んだ、ね……。アタシ、今なら一晩中アンタに質問できるわよ? もう、ワケわかんない事ばっか」
「夜はやめて欲しいかな……」
「ものの例えよっ。それだけ訊きたい事があるって言いたいのっ」
「……解ってる」
チンッ
エレベーターが来たので、一旦話を止めて二人で乗り込んだ。『1』のボタンと『閉』のボタンを同時に押して、一階へと下りていく。
上がって来た時の騒がしさとは対照的に、二人は終始無言だった。
そして、そのまま結局、ホテルを出るまでお互い口を開く事はなかった。
「んんー……よし。特に見咎められたりはしてないな。はぁ……疲れた」
通りまで出てようやく緊張感が薄れてくれた。
「……じゃ、どっか店探そ? 外じゃ寒すぎるわ」
「は?」
「話、じっくり聞かせて貰うからね」
「えっと……」
ナツさんは思いのほか食い下がってくる。俺が色々と誤魔化している事に気付いているのかも知れない。しかし、俺が誤魔化さずに話したとしても、彼女が抱いているモヤモヤは解消されないだろう。
「ナツさんは、なんでそこまで水沢の事を気に掛けるんだ?」
「は? 今更何言ってんの? 親友だからに決まってんじゃん」
「なんていうか、親友というよりは、親みたいな心配の仕方に見えるんだ」
「意味わかんないんだけど?」
「親ってさ、子供の心配に際限がないだろう? だから子供の事ならどんな些細な事でも知りたがる。今のナツさんはそんな感じだ。知ってもしょうがない事だってあるだろうに」
「……なんかムカつくわね。アタシは部外者だって言いたいわけ? こっちからすればアンタの方がぽっと出なんだけど?」
「そうじゃなくて。例えば今回、出会って間もない男とラブホテルに入るなんて、あまりにも軽率だ。いくら水沢の為だからって、あそこまでするのはおかしく感じる。今の水沢ってそんなに心配な状態なのか? 連絡付かないって言ってもまだ二、三日だろ? ちょっと過剰というか、過保護じゃないかな」
「それは……そうかもだけど。……アンタには解んないのよ」
「水沢の危うさは俺にもなんとなく解るよ。ただ……」
「知った風な事言わないでっ!」
「……ッ」
「たかだか数回話した程度のアンタに何が解るってのよ! ひかるが危うい? アタシが過保護? 簡単に言ってくれちゃって……! いい? アタシはね、中学でひかると出会った時から今まで、ずっとあの子を護ってきたの。だってあの子言うんだもん、自分にはアタシしか居ないって、アタシしか信じられる人は居ないって。分かる? このアタシが今のひかるにとって一番近しい人間なのよ! 家族でもなく彼氏でもなく、このアタシが! だから……だからアタシは、ずっとひかるの傍に居なきゃダメなの。誰よりあの子の事知ってなきゃダメなの。……だって、じゃないと、そうしないと……! あの子……ホントに……死んじゃう……」
「!」
ナツさんは涙ぐんだ目を隠すように俯き、自分の身体を抱きしめる様な仕草をする。今の彼女はひどく弱弱しい印象で、今にも不安に押し潰されてしまいそうな、そんな雰囲気を纏っていた。
一方の俺も、彼女の感情の吐露に、重苦しいものが胸を取り巻いている。
「ナツさん……」
「…………」
「水沢、本当は自殺を図った事があるんだな?」
「…………」
彼女は、コクンと、静かに頷いた。
「……アタシが、あの子の自殺を止めたのをきっかけに、友達になったの」
「そう、だったのか」
伊波千夏。
水沢ひかるの親友。
彼女は思った以上に重いものを背負い込んでいるのかもしれない。
彼女の抱える不安や負担を解消するのは、とても難しい事だろう。
それは――最初の段階で自ら胸に刻み込んでしまった重責。
水沢ひかるが居る限り、それは彼女について回る。
今、一番助けが必要なのはナツさんなのでは?
「ナツさん、俺、知ってる事全部話すよ」
「……え?」
「ただ、ゴメン、少し時間をくれないか? 話す前にまず、俺自身が理解し切れてないんだよ」
「どういう事?」
「俺も状況がよく解ってないから、多分、今話しても疑問しか出て来ないと思う。だからちょっと待って欲しいんだ。けど、少しでも何か答えが出たら、必ず君に話すよ。包み隠さず全部」
「…………」
真剣な思いが伝わるように、ナツさんの目を真っ直ぐに見つめた。
「駄目、か?」
「……はぁ。アンタが今話す気無いんだったら仕方ないじゃん。それでいいわ」
「ありがとう。……それとさ、その時は、どんな話だったとしても、とりあえず最後まで話は聞いて欲しいんだ」
「なんでそんな念を押すの?」
「俺は間違いなく真剣に話すつもりだけど、君はそう捉えない可能性が高いんだよ」
「ちゃんと真面目に聞くわよ」
「そうじゃなくて、ナツさんには……というか、普通の人には到底受け入れられないような話なんだ。それでも、どうか聞くだけは聞いて欲しい。その後、ナツさんが俺の事をどう思おうと、一切反論はしないから」
「随分と気を持たせるのね、今すぐ聞きたくなるじゃない」
「そういうつもりじゃないんだけど、ゴメン」
「まあ、いいわ、聞きたがってるのはこっちなんだし。じゃあ、ケータイ番号交換しとこ? 話す気んなったら電話頂戴」
「えっ?」
「なによなによー、嫌なわけー?」
「ああっと、そうじゃなくて……」
きっと他の人なら普通の事なのだろうが、俺にとっては、高校生になって初めての出来事だった。
何がってケータイ番号の交換。
「ケータイ出して。赤外線で送るから」
「は、はい」
という事はメルアドも教えてくれるのか……。き、緊張する、電話帳に友達を登録するのって何年振りだろ。……えーと、ナツさんて俺の友達?
「因幡?」
「あ、ゴメン、今出す……」
ピリリリリリ…… ピリリリリリ……
「わっとっと」
コートのポケットの中に手を入れた瞬間、そこに入っていたケータイが鳴り出した。驚きつつ慌てつつでそれを取り出して、誰からの着信か確認する。
「あれ、父さん? ……って、あああああっ!?」
「きゃっ、な、何よ……」
約束の一時がすでに過ぎていた。
『トラ』って何者かって? 憶える必要は一切ありません。
あ、嘘です嘘です。
トラ君は、実はミケちゃん同様、主要キャラなんです。活躍はかなり先になりそうですが……。
あと、『ナツさん』、実はヒロイン格だったりします。