time to believe now 12
伏線、乱発します。
が、ひかるちゃんエピソード中は回収されません。
一月二十九日 土曜日 宵の頃
――タッタッタッタッタッタッタッ……
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……」
日の落ちた住宅街を駆け巡る。
月の無い寒空を見上げれば、そこには冬の星座たちの瞬きが……いまいちよく見えなかった。
ここはベッドタウン。
市街地である穂ノ上から、駅で数えて、下りに四駅目の月成駅を中心に広がる住宅街。
防犯の為に数多く設置されている街灯の所為で、ここら辺は残念ながら天体観測には向かない。しかし、俺は星が見たくて外を走っている訳ではないので、何ら問題は無い。
「ハッ……ハッ……ハッ……、フゥ~……」
とある街灯の下で足を止め、腕時計で時間を確認……七時を回っている、そろそろ折り返そう。
「スーーー、ハーーー……フッ!」
大きく深呼吸をし、己の口から吐き出された白い息をその場に残すと、踵を返して、来た道を戻った。
タッタッタッタッタッタッタッ……
街灯の下を選ぶように走って自宅へと向かう。その間、目に入る家々には、煌々と電気が点いていた。
今は土曜の夜の、いわゆるゴールデンタイム。一週間で、最も家族の団らん率が高いと思われる時間帯だ。
そんな時間帯に、独り住宅街を駆け巡る俺。……別に淋しいとか思っていない、俺が家に着く頃には、父さんが帰って来る筈だ。ウチもご多分に漏れず、家族の団らんが待っている。
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……」
説明すると、俺は父さんが帰ってくるまでの空いた時間を、ジョギングで潰しているという訳だ。
夕方、児の手柏医院から帰ってきた後、夕飯の準備をしていると、父さんからの帰宅予定時間を報せるメールを受信した。俺はその時間の調理終了を計算し、ひとまず食材の下ごしらえだけを行い、あとは火を通すのみといった状態で、一旦準備を停止した。本当は、父さんが帰って来るまでの間、宿題をしているつもりだったのだが、どうにも明日の事が気になって集中できず、気分転換にジョギングに興じようと考えたのだ。
ジョギングは俺の唯一の趣味と言えるかもしれない。
そもそもは、美作先生の勧めによって始めた事だ。
曰く「有酸素運動は心肺機能を高め、心拍の安定をもたらす。心拍の安定は精神の安定につながり、延いては、不安感の解消や抑うつ状態の回避が見込める」との事。つまりは運動療法なのだろう。効果の程は定かではないが、どうやら俺の性に合っていたらしく、最近では走る事に楽しさを覚えてきていた。そういう訳で、時間を見つけては走っているのだ。
因みに、ただ走っているだけなので、運動能力の向上にあまり効果は無い。
――シャ……ァァァァァアアアアア!
「――喰らえっ!」
ズシャンッ!
「おごほっ!?」
それは、あまりにも脈絡の無い展開だった。
突然背後から、自転車と思しき音が近付いて来たかと思った次の瞬間、その自転車と思しき物体が、俺の腰へと衝撃を加えて来たのだ。
「んぐぐぐ……」
前方に弾かれた俺は、腰に手を当てながら地面に片膝をつき、その体勢のまま、痛みが去るのを待つ他なかった。
「い、一体……何……が?」
「あ、シロ、平気?」
「え? ミ、ミケ……か?」
痛みに耐えながら背後へと顔を向けると、街灯に照らされたミケの姿がそこに在った。
「前方不注意でした。ごめんなさいでした」
「ぜ、前方不注意……違うよね? 『喰らえ』……言ったよね?」
「うゆ? そだっけ?」
「お、お前なぁ……」
何故こんな無体な仕打ちを受けているのだろう。
「ごめんね、シロ。イライラしてたからつい」
「通り魔かよっ!? 俺じゃなかったら確実に手が後ろに回るぞ!」
「こんな事してあげるの、シロだけなんだからねっ」
「意味深に言われたってちっとも嬉しくないってばっ! ……はぁ、まったく、こんな暗いってのに、間違ってたらどうするつもりだったのやら……」
ようやく痛みが引いたので、立ち上がってミケへと歩み寄った。
「大丈夫。そんなダサい夜光ベスト着てジョギングするの、シロぐらいしかいないから」
「俺以外だっています~、夜間ジョガーのマナーです~。……そんなトコで判断してたなんて、本当に俺でよかったぞ」
「間違っちゃっても未成年で初犯だし、別にいいかなって。ほら、触法少年?」
「いい事なんて一つとして無いってのっ! あと、触法少年は十四歳未満だから、ミケは当てはまらない」
ミケに近付いたところでふと気付く。
薄暗くて明確には判らないが、彼女に何かが足りない。
「う~ん?」
「何さね」
俺に凝視されてミケが首を傾げたが、気にせずに間違い探しを始める。
パンツルックに謎柄のポンチョ、跨っているのは彼女の愛車のマウンテンバイク。
ジーパンは別におかしくない、ミケは制服以外は基本的にズボンだからな。
このポンチョは初めて見るが、その謎の柄はおそらくアニメキャラ、実に彼女らしい。
MTBはミケが長年乗っているものだから、見間違えようもない程に見慣れている。
うーん、なんだ、どこがおかしいんだ?
「お~い、シロ~?」
呼び掛けられてミケの顔に目を向けた時、ようやく気付いた。
「あれっ? おさげ無くなってる? つーか髪の毛が短いっ!?」
「気付くの遅くね?」
朝の時点ではまだおさげがあったのだが、今のミケはなんともボーイッシュな……いや、マニッシュかな? とにかく、かなりのショートになっていた。
「ど? 似合う?」
「可愛いっちゃあ可愛いが……また思いきったなぁ。なんだってこの時期にイメチェン? あ、受験に向けて気合入れたのか?」
「んーん。言ったでしょ? イライラしてたって」
「は?」
「だから髪、切ったの」
「……イライラする度に切ってたら、髪の毛いくらあっても足んないだろ」
「へーき。わたし、伸びるの早いから」
早いと言っても、人間の髪の毛は一ミリ伸びるのに大体三日は要する筈だ。今朝までのミケの髪は、肩口から五十センチはあった。だから、もし彼女が元の髪型に戻したくなったとしたら、計算上ええと……うん、ミケはこれから四年以上はイライラ出来ない。
「違う! わたしはエロくない!」
「誰に何を反論したっ!?」
「およ、違った?」
「……もしかして、『エロい人の髪の毛は伸びるのが早い』っていうあれか?」
「男はハゲて、女は伸びるんでしょ?」
「迷信だろ? そんな統計が取れる筈ないし」
その場合“エロい人”の定義が必要になってくる。そんなもの定義づけられる訳がない。
「苦労すると髪が伸びて、楽すると爪が伸びるんでしょ?」
「え? あ、ああ、そんなの知ってるんだ。けど苦楽は関係無しに、髪も爪も伸びるもんだろ?」
大体、「苦爪楽髪」っていう逆の言い方もあるし。
「揉むと膨らんで、揺すると萎むんでしょ?」
「へ? 何それ、なんの話?」
「おっぱい」
「…………」
「…………」
街灯の下、二人は見つめ合う……。
言っておくが、ちっともロマンティックではない。
「叩くと硬さが増して、冷やすと持続性が増すんでしょ?」
「さあて、早く帰って晩御飯にするか」
「シロ、無視はヤ。ちゃんとなんの話か訊いて」
「ミケ~、置いてくぞ~」
「…………。……答えはおち……」
「だまれ思春期っ!」
結論、エロいミケの髪は伸びるのが早い。
「つまんない」
ミケは不服そうに呟きながらキコキコとペダルをこぎ出し、俺の隣を並走する形を取った。
タッタッタッタッタッタッタッ……
キコキコキコキコキコキコキコ……
「ハッ……ハッ……ハッ……それで? なんでミケはイライラしてた?」
走りながらミケとの会話を続ける。俺のジョギングはトレーニングではないから、会話の出来るペースで走るのが一番良いのだ。
「……ぴき」
「ぴき?」
「あ、今のは擬音。額に血管浮き出た系の」
「……だったら擬音というよりは擬態語だな。血管が浮き出る時に音なんてしないから」
「シロ、細かい。怒りを表現したかっただけ」
「あ、そう、ごめん」
にしても「怒り」か……。
あまり感情を表に出さないミケが、ここまで怒りを曝すのも珍しい。一体どれほどの事があったのだろう。
「デルグラ、報特で潰しやがった。帝テレ、許すまじ」
「あ、納得」
どうやら、夕方のアニメが報道特番で潰れたらしい。ミケの一押しだったもんな、『デルタ・グラデーション』。
「報特って、なんか事件あったの?」
「幽世の掃除をしたんだってさ。わたしにはどうでもいい事さね」
「カクリヨノソウジ?」
「そ」
「…………」
「…………」
タッタッタッタッタッタッタッ……
キコキコキコキコキコキコキコ……
「あ、内閣総辞職?」
「おお、通じた。シロ、やるねぇ」
「いや、昨日党首選やってたから……。てか、普通に教えろよ」
「ダジャレたつもりだったんだけど、なかなか言い得て妙くない? 常世(内閣)のゴミ(閣僚)を一掃」
「この国に夜明けは来ないってか? まあ、巧いかも。でも大臣をゴミ扱いはひど過ぎない?」
「奴らはあれよ、……ちょーりょーばっこ?」
「漢字、書けなさそうだな。俺も怪しいけど……。それにしても、金本総理って短かったなぁ」
「去年、内臓改革したばっかなのにね」
「ん~、そっちはいまいち」
「なにが?」
「へ?」
もしてかして本気で間違ってる? 内閣改造。……入試不安だぞ、ミケ。
「選挙権の無いわたしら子供には、ホント関係ない事だし、んなことでデルグラ潰すなって感じ」
「解散じゃないから、有権者もあんまり関係無いと思ってるかもな。どんな組閣したって、結局代わり映えなんてしないだろうし」
「でも、シロには意外と関係あるんじゃない?」
「何故」
「入閣者予想に、ナナシの親が入ってた」
「え、伯父さんが?」
「七篠稲冶ってそうっしょ?」
「ああ、そうだ。ふーん、伯父さんがねぇ……。でもそれって、飽くまでマスコミの予想だろ?」
「まね。でも、本当にそうなったら、シロってば大臣の甥っ子じゃん。すごくね?」
「……仮にそうなったとしても、やっぱり俺には関係無いよ。ミケも知ってるだろ? 母方の親戚とは、ほぼ絶縁状態だって事。瑞穂さん以外とは、全くと言っていいほど交流が無い」
「…………。……ナナシとも絶縁しとけ」
「またそういう事を……。俺には、ミケがなんでそこまで瑞穂さんを嫌うのか、理解出来ない。本当に何があったんだよ」
「別に……。ナナシが成中卒業してから一回も会ってないし」
「きっと、何か誤解してるんだよ。会って話せばそれも解けるさ」
「シロ、可哀相。あんまり素直なのも玉に瑕ね」
「どういう意味だ?」
「ナナシのペルソナにダマされんなって事」
「いや、だから、それがミケの誤解なんだって」
「……まあいいさね。どうであれ、わたしが徳英に入ったら、倒す予定だから」
「た、倒すの……?」
「殺す、でも可」
「不可っ! 絶対不可だっ!」
「……つまんない」
「ここでつまんないは怖いっつのー!」
ミケの過激なジョーク(?)に振り回されながらのジョギング。通常の三倍は消耗するが、俺は彼女とのこんなやり取りが大好きだった。こういった気の置けないコミュニケーションが取れるのは、実質ミケとトラだけ。トラは神出鬼没でいつ会えるか判らない為、俺の親和欲求の大部分を満たしてくれているのはミケだ。俺が今日まで腐らずにやってこれたのは、彼女のお蔭だと言っても過言ではない。
「話は変わるんだけど、わたしお腹へっちった」
「超変えたな。何、夕飯まだだったんだ」
「美容院、飛び込みだったから時間掛かったの。シロんちの今夜の献立は?」
「ん? ……ええと、主菜が麻婆豆腐で、副菜は春雨の塩サラダかな」
「ほほう、中華ですか。辛さは抑え目でヨロピコ」
「……え? ……あ、ああ、分かった」
ミケは何かと唐突だ。
話も唐突なら来訪も唐突。
こんな事はよくある。
「そうと決まればペースアップよ。者共、我に続けっ!」
「わっ、ちょっとミケ!?」
シャアアアアアアーーー……
そして行動も唐突。
ミケは一気にMTBを加速させ、あっという間に俺の視界から消えてしまう。夜道をそんなにぶっ飛ばすなんて、危ないったらありゃしない。
「はぁ……仕方ない。……フッ!」
俺もペースを上げてミケを追う。
と言っても追い付ける気はしない。
そもそも追い付く必要は無い。
目指す場所は同じなのだから、ミケなんて気にせずに自分のペースで帰っても、やがては合流出来る。しかし俺はペースを上げて走っていた。どうやら俺は、偶然ミケに会えた事が思いのほか嬉しかったようで、置いて行かれた事に妙な淋しさを感じてしまっているみたいだ。その所為か、俺は軽い焦燥感を覚え、自分の力量も弁えずにどんどんと走るペース上げていっている。
「ハァ……ハァ……ミ、ミケ……待って、くれ……ハァ……ハァ……」
息も絶え絶えにミケを呼ぶ。だが彼女は遥か先で、こんな小さな声では届きやしない。解ってはいるのだが、不安に駆られて呼ばずにはいられなかった。
そう、俺は今、不安を覚えている。
このままミケに見捨てられてしまうのではないか、という不安を。
たかだか先に行かれたくらいでこんな不安を抱くのは、明らかに杞人之憂。普段であれば、こんな事を思いはしないだろう。しかし、俺の頭には“ある事”が思い起こされ、つい、ミケに見捨てられるという事態を想像してしまったのだ。
“ある事”というのは、今日の夕方、児の手柏医院よりの帰途、俺を送ってくれた高井先生とのやり取り。
その時に聞かされたあの話――
「――見捨てられる不安感、ですか……」
「ええ、境界型と呼ばれるパーソナリティ障害の根幹にあるのがそれです」
「でも、それは誰でも持っている不安なのでは? 俺も、大切な人に見捨てられるのは怖いですし」
「因幡君の言うとおりですね。もちろん僕にもそう言った感情があります。だた、境界例の人達は、そういった感情が非常に強い。常に見捨てられる不安に囚われているんです。……赤ん坊を思い出してみて下さい。赤ん坊が母親から引き離されると、激しく泣き叫ぶ事がよくありますよね? それは、母親に見捨てられる事が己の死に直結する事を、本能的に察しているからなんです。だから、泣き叫んで母親を求める。この、赤ん坊が本能的に抱くような不安感に、境界例の人達はいつも苛まれているんです」
「母親に見捨てられる不安……」
「そうです。そんな不安の所為で、精神や感情が安定せず、自暴自棄になったり、他者に危害を加えるようになったりと、社会性・社交性を著しく損なってしまう人格障害。これが境界性パーソナリティ障害です。その原因として、母親との関係性というのはとても重視されています」
「その……A子がそれを患っているのは、間違いないんですか?」
「『患う』という表現は適当ではないかもしれません。人格障害は病気ではありませんから」
「病気じゃないって……え? あれ?」
「精神医療の領域ではありますがね、精神病とは一線を画しているんですよ。精神病態に達していない精神的症候を人格障害、もしくはパーソナリティ障害と言うんです」
「病気じゃないって事は治らないんですか?」
「いいえ、改善は可能です、時間は掛かりますがね。ただ、憂慮すべきなのが、境界例は他のパーソナリティ障害に比べて、自殺が多いという事」
「自殺……」
「だから僕は、その疑いがあるというだけでも、A子ちゃんは専門家に診せるべきと考えます。手遅れになる前にね」
「……て、手遅れ」
「因みに、因幡君は自殺を考えた事がありますか?」
「あ、ある訳ないですよ!」
「それはよかった。君とA子ちゃんは、共通点が多々ありますからね、院長にはそんな懸念もあったんじゃなかな」
「俺も境界例って……?」
「はっきり言って、因幡君はそうなる因子を有していると思ってるんですよ、僕は」
「…………」
「気を悪くしないで下さいね、飽くまで可能性があるというだけですから。今のところその傾向は見られませんし、定められた判定基準も満たしてはいません。けど、無視出来ない因子がある事も確かなんです。君の境遇や、お父さんに対する感情とかね。だから僕は、君がA子ちゃんに関わる事が心配なんですよ」
「高井先生……」
「境界例の人達に、強い共感を持って接する事は、良い結果をもたらしません。一定の距離感を固守して接する事が肝要です。これが境界例の難しい所なのですが、その不安定な心と極端な思考に引きずられない為に、どんな時も、一貫した平静を保って対応しなければなりません。無暗な同情や受容は禁物。自分以外に自分を救える者は居ないという事を理解させなければ、治療すら始められないんです。すでに強い共感を抱いている因幡君に、そういった対応は難しいんじゃないでしょうか」
「……そう、ですね」
「因幡君の『なんとかしてあげたい』という気持ち、それ自体は決して悪い事ではありません。ですが、こと境界例に限っては、そんな気持ちが問題を大きくしてしまう事が、よくあるんです」
「あ、あの……ようするに、もう、A子には関わるなって事ですか?」
「…………。……僕が主治医ならば、絶対に関わらせたりしません」
「あ……」
「院長が折れた時は、本当に驚きました。あの人の判断に、ここまで批判的な感想を持ったのは初めてですよ。正と出るか邪と出るか、正直判断付きませんね。でも、悪い結果の可能性があるのなら、回避すべきだと思うんです。A子ちゃんの事が、因幡君にとってそこまで必要な事とは思えませんし」
「それは……ごもっともです。俺は完璧部外者ですし、A子からしたら、余計な首を突っ込んでいるようにしか見えないでしょうね……」
「それが解っていても、関わるのを止めようとは思いませんか?」
「す、すいません……」
「いえ、僕に謝られても……。でもそうですか、力尽くで止める訳にもいきませんし、主治医ではない僕は、院長の意向に従う他ありませんね。……なら、そうですね。A子ちゃんの事、分かる範囲で出来るだけ詳しく話してくれませんか?」
「え?」
「因幡君の負担を減らす為にも、A子ちゃんへの対処法を教えておこうと思うんです。A子ちゃんの情動が不安定なのは間違いないようですからね、そういう子と接する際に注意すべき点を知っておいた方がいいでしょう? ただ、正確にお教えするには、もう少し情報が欲しいんですよ」
「ああ、なるほど。でも俺、A子とは親しい訳じゃないので、これ以上詳しい話は……」
「因幡君の主観で構わないので、A子ちゃんに抱いた印象などを教えて下さい」
「それでいいんですか? 先入観と入っちゃいますよ?」
「主観的な話の中に隠れた客観的な部分だけを抽出する手法があるんです。だから、気にせず思いつくままに話して下さい」
「なんかちょっと恐げですね……。んじゃまあ、えっと――」
――そうして俺は、自宅へと到着するまでの間、高井先生にA子……水沢ひかるの事を話した。
その際、一昨日の放課後の話が出た所で、水沢が殺しかけたのは実は俺であるという事を、うっかり高井先生に話してしまい、美作先生が居た時には隠した、詳しい状況を話す羽目になったのだ。
その時に高井先生がある点に気付いた。
それは水沢が正気を失ったタイミング。
保健の小池瞳先生の話では、水沢は俺に平手を喰らわせたのは憶えているとの事。彼女から平手をもらったのは、俺が母親の死を指摘した時だ。思い返してみれば、彼女はあの時、母親の死の証拠を俺に提示するよう求めてきた。それは、正気を失っているにしては冷静な思考に思える。つまり、母親の死を指摘した時点での水沢は、自己の同一性が保たれたまま激昂していたのだ。
真に水沢から正気を奪ったのは、その後に俺が彼女に掛けた言葉。「今、自分の傍にお母さんが居ない」「自分の事を大好きなお母さんが、今の今まで音沙汰がない」「もし、お母さんが無事なら、何に代えても、まず自分に会いに来る」。これらの発言は、母親が亡くなったという事よりも、むしろ母親に捨てられたという事を彷彿とする文脈で、境界例の人の感情を爆発させるには十分は言葉だと、高井先生に指摘された。
実際、俺のこの発言の後に、水沢は我を失うほど激昂したのだから、先生の指摘は正しいのだろう。
母親に見捨てられるという不安感。それを増長させる、傍に母親が居ないという現状。これが水沢ひかるの心を不安定にしている元凶。高井先生は境界例の疑いを益々深めたようだ。
今にして思えば、水沢は出会った時から掴み所の無い子だった。
初見では、無慈悲にも俺を痴漢扱いして、雑踏の中で喚き散らした。しかし、その後すぐに一転して俺をフォローする側に回り、やけにフレンドリーに接してきた。だが母親の話に入ると更にもう一転、ひどく取り乱しながら俺へと詰め寄った。
二度目の遭遇の時も、始めは素っ気なく無関心な態度だったが、俺の失言に一気に憤激。ところが、去り際には何故かしゅんとしていた。
一昨日だってそうだ。昼に屋上で出会った時は言葉少なげで、弱弱しい態度だったが、あっさりとふてぶてしい態度に変わった。その後の放課後も、興奮したり落ち込んだりと目まぐるしく、それでも母親の思い出話をしていた時は、とても穏やかで優しげな表情を浮かべていた。
このように、俺の前での水沢は、態度が一貫していた事が無い。感情の起伏が激しく、それこそ端から端へといった感じだった。高井先生によると、それは境界例の典型で、やはり見捨てられ不安に起因する情動障害なのだそうだ。
だが、やや疑問がある。
水沢の母親は、別に娘を捨てた訳ではない筈。それでもここまで見捨てられ不安を抱くものなのだろうか。
その疑問に再び高井先生は、水沢自身の捉え方の問題だと説いた。彼女は母親の死を認めていない為、自分の傍から母親が居なくなった理由を「ママが自分を捨てた」と解釈してもおかしくはないとの事らしい。それをきっかけに水沢は境界例の道を歩み出したのかもしれない、というのが高井先生の見解だ。
では、美作先生が言っていた、水沢が「母親の死に際をフラッシュバックしている」という話はどうなるのか。
高井先生はその説を否定した。
もし、彼女が正気を失った理由が、母親の死を想起した際に起こった防衛機制とするならば、俺が母親の死を想起させた時点て起こっていなければおかしいとの事だ。
……この時は結局、水沢に関して最終的な結論には至らなかった。それも当然だろう、俺は決して水沢と親しい訳ではないし、高井先生に至っては会った事すらないのだから。しかし、正確にではないとはいえ、水沢が大変な問題を抱えているであろう事は、俺自身、前よりも認識が深まったように思える。同じ轍を踏むような不用意な真似は避けられるだろう。
明日を迎える前に高井先生と話せて、良かったのかも知れない。
「ゼハー……ゼハー……ミ、ミケ……どこ……だ……? フゥ……フゥ……」
いつの間にか俺は月成駅前に居た。我ながら一心不乱に走ったものだ。いや、この表現は適当じゃないか。ごちゃごちゃ考えながら走っていたからな。
「シロー、こっちー」
声のした方に顔を向けると、駅本舎前に備え付けられた自販機の横で、缶ジュースを呷るミケを発見した。俺は最後の力を振り絞って、そこへと駆け寄る。
「シロおっそい。そんなんじゃ箱根なんて夢のまた夢」
「ゼェ……ゼェ………目指して……ハァ……ハァ……ません、から……」
もう一度言おう、俺はトレーニングの為に走ってる訳じゃない。
「ングングングング……プハァ。やっぱレモネードはホットに限る。夏でもあっためて欲しいよね」
「フゥ……フゥ……賛同、しかねる……ハァー……」
ホットレモネードをがぶ飲み出来るミケは凄いと思う。
「おりゃ」
ミケが掛け声と共に、飲み終わった空き缶を、くずかごへと投げた。
ガコンッ カラカラカラ……
しかし、缶はくずかごの縁に弾かれる。
「あや……シロ、お願い」
「んあ? ……ああ」
俺は地面に転がった缶を拾い上げると、くずかごへと投げ入れた……りはせずに、ミケの元へと戻した。
「さんくす。……むむむむむ、せりゃっ」
俺から受け取った空き缶を、再び投じるミケ。
カシャンッ
「YES!」
事前に狙いを定めたのが良かったのか、空き缶は吸い込まれるように、くずかごの中へと消えた。
「ぶい」
そして、何故か夜空に向かってVサイン。ミケは時々不思議ちゃんだ。
「さて、俺の息も整ったし、ミケも己に打ち克ったし、とっとと帰ろう」
「ほーい」
俺達は連れだって月成駅を抜けて行く。
バスと一般車両でひしめく駅前ロータリーを横目に横断歩道を渡ると、目の前に立ちはだかる十二階建てのマンション。
「到着っと。わたし、自転車置いて来るから」
「あいよ」
ミケは駐輪場へと回って行った。
そう、この、駅から徒歩一分未満という超好立地のマンションこそが、俺宅だ。
その名もオークハイツ月成。
ここの101号室で、俺と父さんは暮らしている。
因みに、ここの505号室にミケが住んでたりもする。
「ん?」
俺がエントランスに着いた時、駐車場の方から、眼鏡をかけたサラリーマン風の青年がやって来た。
「あ、父さん、お帰りなさい」
「ん? ああ、志朗、ただいま」
それは、父さんだった。
俺としては、父さんが帰って来る前に戻るつもりだったのだが、ミケと遭遇した事で、少々計算が狂ったようだ。どうやら後半の追い上げは実を結ばなかったらしい。
「走ってたのかい?」
「まあね、ちょっと時間が空いたもんで」
「ふむ、明日の事が気に掛かって、ジッとしていられなかったのかな?」
「ング」
刑事といい、精神科医といい、人の心を読むのは止めて貰えないだろうか……。
「……それって、プロファイリングだったり?」
「まさか。父親の勘だよ」
はっきり言って、父さんの勘は非常に鋭い。本人は父親の勘だと主張するが、絶対に仕事で培ったものだろう。
「おまた~。……およ? シロパパじゃん、おかえんなさい」
「やあ、ミケちゃん、ただいま。なんだ、ミケちゃんと走ってたのか」
「んーん、シロとは偶然会ったの。よって必然的にゴチになります」
「は?」
「いやミケ、脈絡が途切れてる」
「そ?」
「……うん、まあ言いたい事は判ったよ。夕飯はミケちゃんも一緒なんだね?」
「うす、改めてゴチになります」
「ご馳走するのは志朗だけどね」
「父さんが家長なんだから間違っちゃいないさ。さ、ここは寒いから早く中に入ろう」
俺はポケットからキーを取り出し、エントランスのドア横のセンサーにかざす。キーに埋め込まれたICチップにセンサーが反応して、ガチャッと、ロックが解除された。
俺、父さん、ミケの順でマンションへと足を踏み入れる。
エントランスはマンションの南側の端にあり、入ってすぐに105号室がある。つまり、北側の一番奥に、俺達の住む101号室があるといった構造だ。普通、入り口から1、2、3……と並ぶものじゃないかと、未だに疑問に思っている。
「ここでシロパパに残念なお知らせがあります」
部屋に向かって廊下を歩いていると、ミケがやはり唐突に口を開いた。俺と父さんは足を止めて振り返る。
「ん、なんだい、ミケちゃん」
「シロパパ、シロに身長、追い抜かれてるよ」
何事かと思えば、わりとどうでもいい指摘だった。
「そ、そんな……馬鹿……な」
しかし、父さんは殊の外ショックを受けたようだった。
「と、父さん?」
いつも毅然としている父さんの動揺に、俺の方まで動揺してしまう。
「く……息子の成長を喜ぶべきなのに、男のプライドがそれを邪魔する……。僕はなんて小さい人間なんだ」
「実際シロパパって小さいよね」
「ぐはっ」
「お、おい、ミケ……?」
何故か追い打ちをかけるミケ。だが、別に父さんは、極端に背が低い訳ではない。細身で童顔なところが、なんとなく相手に小柄な印象を与えてしまうのだ。
そこに誰もが騙される。
見た目で判断してはいけないという典型例だ。
父さんは三十代半ばで警部に昇格した。ノンキャリアの叩き上げとしては、最速コースでの昇進で、今年度からは県警本部に勤めているのだが、それまでは某所轄で、なんと「マル暴」に所属していた。つまり、昨年度まで、組織犯罪対策係で暴力団を相手にしていたという訳だ。いわゆるキャリア組とは違って、苛烈な現場をがっつりと経験している為、見た目が華奢でも、そこいらのチンピラとは比べものにならない程の修羅場をくぐってきているのだ。
……だから父さんが体格の事を気にしていただなんて、思いもよらなかった。
「違うよ、父さん。父さんは小さくなんてない。小さい人間なんかじゃないよ」
「志朗……」
「だって、俺をここまで育ててくれたじゃないか。こんな問題だらけの俺を。父さんは、とても器の大きい人間さ、俺はそれをよく知ってる」
「……志朗、僕は君に、親の背中を見せてあげられているだろうか。こんな小さな背中でも、ちゃんと父親の背中をしているだろうか」
「小さくなんてない。俺はちゃんと、父親の大きな背中を見て育ってるよ」
「そう、か……」
「父さん」
「ん?」
「いつもありがとう」
「……志朗」
そして父と子は握手を交わす。深まる親子の絆に胸が熱くなった。
「なにこの親子、ガチでウザい」
「ぶち壊さないでくれますっ!?」
水入らずなところに水を差すミケ。感動が霧散してしまった。
「人の居ないトコでやってくれる? 見ててカユい」
「……前はグッジョブとか言ってなかったか……?」
「それは単に設定萌え、リアルはキモい」
「う、く……」
そもそも発端はミケなのに、容赦無く辛辣に切り捨てやがった。
「志朗、確かにミケちゃんの言うとおりだ」
「……え、父さん?」
「こういう話は、二人っきりの時にしよう」
「そう、だね」
「ごめんなさいでした。だからもうヤメテ。ホントにキショい」
そんなこんなで、帰宅するのにやたら手間取ってしまった。時刻は二十時近い、急いで夕飯を用意しなければならないだろう。俺と父さんは慣れているが、ミケにはやや遅めの夕食になってしまっている。それに、同じマンションに住んでいるとはいえ、中学生をあまり遅い時間に帰す訳にもいかない。
「おじゃましま~す」
俺が自宅のドアのカギを開けると、ミケが我先にと中へ入って行った。勝手知ったる他人の我が家、俺も父さんも今更気にしたりはしないので、それに続いて中へ入っていく。
ミケは早々にリビングに向かい、父さんは自室へと向かった。残った俺は、キッチンでご飯の炊きあがりを確認してから、夜光ベストを脱ぎつつ自室へと入る。そこでなんとなく自分が汗臭いような気がした。今日はミケのお蔭でハードワークになってしまったからだろう。少し考えて、クローゼットから着替えを取り出し、部屋を出た。
ダイニングに来ると、スーツを脱いだワイシャツ姿の父さんが、テーブルで新聞を広げていた。リビングを見ると、ポンチョを脱いだ白いセーター姿のミケが、ソファに座ってテレビを見ていた。そんな二人に聴こえるように、俺は声を掛ける。
「ごめん二人とも、軽く汗だけ流させて。五分で済ますから」
「ああ、分かった」
「気にせずごゆっくり~」
二人の快諾を得て、俺はバスルームへと入ってゆく――。
「…………」
「…………。……さっきの……」
「ん? なんだい、ミケちゃん」
「さっきの茶番は笑えた」
「がくっ、茶番はひどいなぁ。だいたい君、笑ってなかったろ?」
「心で嘲笑」
「おいおい、志朗はああいうの本気な子なんだから、それはやめてあげなさいな」
「100パー、あんたに向けたもんよ。……あんな感じでシロは洗脳されてるのね」
「洗脳って……。おかしなアニメの見過ぎじゃないのかい?」
「アニメ関係ない。シロを自分に依存させて何のつもりかって話」
「またそれかい? ミケちゃんの思い込みにも困ったもんだ。あんまり物事を穿った目でばかり見ていたら、心が捻くれてしまうよ? それとも、もう手遅れかな?」
「言われなくても捻くれてるのは知ってる。でも、それとこれとは話が違う。わたしがあんたに懐疑的なのには、ちゃんと根拠があるもの」
「はぁ、あの事か……。厄介な子に知られてしまったものだよ。そう考えてしまう気持ちは解るが、僕は本当に志朗に愛情を注いでいる。志朗だって、それに応えてくれているよ」
「それが洗脳」
「…………。ミケちゃん、君も知っての通り、うちの家庭はやや普通とは違う。だから親子の絆の育み方も普通とは違うのかもしれない。そこが、見る人によってはおかしく映るんだろう。だけど、僕と志朗の絆は確かなものだよ。僕は父親として、志朗を誰よりも大切に思っている。どうか信じて欲しい」
「1ミリも信じらんない」
「君ねぇ」
「『憎んでない』だったら信じたかも。でも『誰よりも大切』は有り得ない」
「はぁ……本当にそうなんだから仕方ないだろう。なんで信じないかな」
「信じて欲しいんなら全部吐け。シロをどうする気? 何が目的?」
「警官に尋問かい? やれやれ。……僕の目的は志朗を幸せにする事。これでいいかな?」
「……大概にしとけよ、このガキデカ」
「ピクッ。……ふ、ふ~ん、いやあ、ミケちゃんはあれか。つまりは、志朗を独占したい訳だ。だから『ミケちゃんよりも大切にされている僕』が、気に喰わないんだね」
「はあ? 別に独占とか考えてないし。あと、わたしよりあんたが大切にされてるって基準判んないし」
「聞いてるよ? 君は、志朗が親しくしている人達に、軒並み辛辣なんだそうだね」
「だ、誰の事さねっ」
「例えば、虎太郎」
「あのDQNは、シロに厄介事を持ち込むトラブルメーカーだからよっ」
「どきゅんの意味が解らないのだが……。まあ、確かに彼にはいろいろ問題があるけど、志朗が一番心を許している相手だと思うよ?」
「そんなん認めない」
「やれやれ……。なら、瑞穂君の事は?」
「あのふたくち女は、シロと親しい訳でもなんでもないっ」
「二枚舌って言いたかったのかな……。誰しも裏表は持っているものさ。それが表向きだったとしても、彼女が志朗に親切である事に変わりはないよ」
「そんなん認めないっ」
「おやおや……。じゃあ、美作先……」
「あのオバハンはわたしが個人的に嫌いなだけ! シロは関係ない!」
「おっと早いな……。しかし、それはどうにかした方がいいんじゃないかい? 先生は志朗の最大の理解者なのだから」
「認めてなるものかっ!」
「ミケちゃん、思っていた以上に排他的だね。君みたいな子が、往々にしてストーカーになるんだ。うん、予備軍だね。これは志朗の父親として、そして警官として、君の事をマークしといた方が良さそうだ」
「にゃんだと~~~……」
「……オタク、だしね」
――プツンッ
「この偏見陰険メガネザル科のショタ刑事があああああーーーっ!」
「な、なんて口汚い子なんだ」
「あんたなんか昔捕まえた犯人にお礼参りで『アッー!』されるがいいーーーっ!」
「もはや何を言ってるのか解らないなぁ……」
「あんたは倒すっ! 絶対倒すっ! 殺すでも可っっっ!」
「殺人未遂着手の時点で捕まえてあげるのが、せめてもの慈悲かな」
「ヨユウブッコイテンジャネェェェェェーーー!」
「そろそろ落ち着いた方がいい。ほら、志朗がバスルームから出て来たみたいだ」
「ッ!?」
ガチャ……
「…………」
「…………」
トットットッ……
「――ふぅ、さっぱりした。二人ともごめん、夕飯すぐ用意するから」
「ああ、分かった」
「気にせずごゆっくり~」
「あはは、二人とも、シャワー行く前と同じ科白じゃん」
「おや?」
「そだっけ?」
俺はクスクスと笑いながら調理に取り掛かる。
下準備は完璧、ものの数分で出来上がるだろう。
まずは中華鍋を焼く。煙が出てきたらたっぷり目のサラダ油を入れる。そこにすかさずニンニクとショウガのみじん切り、そして豆板醤を投入し、焦げないように気を付けながら油に香りと辛みを付ける。香り立ったらひき肉を入れて、バラバラになるよう鍋を振りながら炒める。肉に火が通りきる前に、長ネギのみじん切りを入れる。ネギが油に馴染むと同時に合わせ調味料(醤油、酒、オイスターソース、赤味噌、甜麺醤)を入れて、さらに香り立ったらガラスープでのばす。ウチは山椒は入れない、父さんが苦手だからだ。その代わり黒胡椒を入れる。やがて鍋が煮立ったら、水抜きした豆腐を入れ、崩さないように混ぜつつもうひと煮立ち。ここで味見を……うん、塩を足す必要ないな。すぐに水溶き片栗粉でとろみ付け。とろみが付いたら火を消して、最後にごま油を少々。これで麻婆豆腐の出来上がり。ミケに合わせて辛さを抑えているし、山椒や八角といった癖のある薬味も入れていないから、やや子供向けかな。
「はい、終了。ミケ~、冷蔵庫からサラダ出してくれる~?」
「オケー」
副菜をミケに任せ、俺は三人分のご飯とみそ汁を粧う。それを、お盆でテーブルへと運んだ。
「父さん、今日お酒は平気? えんがわがあるんだ、カレイのだけど」
「ああ、ビールを貰えるかい?」
「わかった」
「はいシロ、ビール」
見るとミケが、サラダと一緒に、ビールとグラスも持って来てくれていた。
「お、ミケ、読んでたのか」
「うんにゃ。外しても、わたしが飲めばいいかなって」
「うん、それ罪に問われる。主に父さんが」
ミケから目が離せないな。
そんな事を思いながらキッチンへと戻り、お盆に麻婆豆腐とえんがわを載せて再度テーブルへ。
「はい、おまたせ~。んじゃ、食べようか」
こうして、食卓に三人が着いた。
う~ん、家族団らんな感じが心地いい。
「いただきます」
「うん、いただこう」
「いただき~……ゴクン。うん、おいし」
「ミケ? いま、咀嚼した?」
「うゆ?」
いやまさかね。
確かにミケは、ホットレモネードをがぶ飲みできる女の子だけど、さすがに出来たての麻婆豆腐を……
「ハグハグハグハグハグ……」
「……かき込んでるっ!?」
「ング? はっひはははひ?」
「あ、お気になさらず~」
ミケとはわりと長い付き合いだが、まだまだ新しい発見がある。
実に楽しい奴だ。
「ふふ、ミケちゃん、女の子なんだから、もう少し落ち着いて食べた方がいいんじゃないのかい?」
「ほっほいふぇ」
父さんの窘めにミケは……なんて返したか判んないけど、そんな二人のやり取りは、傍目に親子のように見えた。
少しばかり妬けてしまう。
両者に対して。
「そう言えばさっき、二人でなんか楽しそうだったね」
「ぶふっ」
「わ、ミケ、大丈夫か? そんなかき込むから……」
「ケホ、ケホ、いいから、平気だから。それよりシロ、聴こえてたの? さっき」
「え? ああ。内容は判んなかったけど、ミケが声を張るなんて珍しいからさ、何を話してたのかなーと思って」
「……セーフ」
「三毛猫かぶり、なんてね」
「シロパパつまんない」
「?」
俺には意味が解らなかったが、二人の間では通じているようだ。
ちょっと淋しかったりして。
「二人ってさ、結構仲がいいよね」
パシンッ!
「あだっ!?」
何故かミケに頭を叩かれた。
「あ、ゴメン、ツッコミ強すぎた?」
「俺いつボケた!?」
「あや? 今のボケと違うん?」
「今のってどれ!?」
どう考えても、俺はボケた発言なんてしていない。話が噛み合っていなかった。
「ミケちゃん、志朗はきっと、僕らが仲良さげにしていたから、淋しくなっちゃったんだよ」
そして、的確に俺の感情を読み取る父さん。噛み合い過ぎるのも嫌だな。
「何、やきもち? シロってばカワイイじゃん」
「くっ……」
確かに二人の言うとおりなのだが、素直に受け入れられない。俺は妙な敗北感に包まれながら、ご飯をかき込むのだった。
「ムグムグムグムグ……」
「シロ? あれ、拗ねた?」
「志朗ぐらいの年齢の男の子は、子ども扱いされるのをとても嫌がるからね。カワイイなんて言っちゃ駄目だよ、ミケちゃん」
「そなの? 失敗失敗」
「ガツガツガツガツ……」
その後は、二人に宥められながらの食事になった。俺の機嫌が直った頃には三人とも食事を平らげており、お茶を飲みつつの雑談に移行した。
しかし時間も時間、ミケはそろそろ帰すべきだろう。
「さて、と。わたし、そろそろ帰るね」
促す前に自分から席を立つミケ。そこで俺は、ふと思い出した事があった。
「あ、ミケ、帰る前に渡したい物が」
「ん、何?」
「ミケが嫌がりそうな問題を集めて編集したんだ」
「……は?」
俺はミケを引っ張って自室へと向かう。
「明日は俺、用事があるからさ、ミケはそれをやっててくれ」
「……ゲロ~ン」
妙な声を出すミケを、部屋へと引き込む。
それから俺は、PCを立ち上げた。
「ちょっと待ってて、今、プリントアウトするから」
「お構いなく~……」
妙なレスポンスを返すミケは、力無くベッドの上に座り込んだ……
「ん? ……くんくん」
……かと思ったが、すぐに立ち上がり、部屋の中をウロウロし始めた。
「くんくん……これか」
「どうした?」
「シロのコートから嗅ぎ慣れないニオイがする。何コレ、移り香?」
「え、何か変な匂いする? ……くんくん」
嗅覚に意識を集中してみるが、特に何も匂いはしなかった。
「シロのコートに香水のニオイ。これ如何に?」
「いやいやいやいや……おかしな事言うなよ。ほら、今日病院に行ったから、多分、美作先生の香水だろ?」
「これ、あのオバハンのニオイと違う」
「判別できるのか!?」
「もち。このニオイは……んーと、あれ? もしかして男物? ……シロ、まさか……」
「まさか何っ!? ……て、男物? ああ、そっか」
ミケの邪推に少し焦ってしまったが、そういう事なら思い当たる事がある。俺は安心(?)しつつPCに向き直った。
「それ、きっと高井先生のコロンだと思う。……あ、プリンターの電源」
「……高井?」
「ポチッとな。……ああ、児の手柏医院に新しく来た先生だよ。高井京助先生。今日の帰り、車で送って貰ったんだ。その時に付いた匂いだと思う」
「…………」
「三十くらいの若い先生でさ、ちょっと変わってるけど、優しい先生なんだ。それにね、なんと、あの美作先生の甥っ子さんなんだよ。先生んとこって医者の家系なのかも」
「……ふーん」
PCをいじりながら高井先生の事を話すが、ミケは興味無さげだ。まあ当たり前か、ミケにはなんの関係も無い人達の話題だしな。俺はディスプレイに目を向けているので表情は判らないが、レスポンスがほぼ無い事から察するに「つまんない」といったところだろう。
「それとさ、最近知った事なんだけど、美作先生には娘さんが居るんだって」
「…………。……え?」
他に話題が浮かんでこなかった為、そのまま話を続けていると、意外にもミケが反応を示した。
「考えてみるとさ、俺、美作先生のプライベートを何も知らないんだよな。そりゃ、医者が患者にプライベートを教える必要なんてないけど、十年近くも付き合いがあれば少しぐらいはねぇ」
「…………」
「詳しくは分かんないんだけど、その娘さん、なんでも『行き遅れ街道まっしぐら』なんだとか。どういう人かちょっと気にな――」
ズバンッ!
「――るぐひゅっ!?」
前触れも無く、突然でん部を蹴り上げられた。
俺は激しくダメージを受ける。
尻ではなく舌に。
「ひ、ひら……ひらはんら……」
「あ、ごめん。つい……」
「お、おはえらぁ……いひあい、あいひああう」
「ちょっと何言ってるか判んない」
「おはえろへいはー!」
「はい? わたしのセーターが何?」
「~~~~~」
ちょっと間を置いて、舌から痛みが引くのを待つ必要があるようだった。
「……ふぅ、ラクになってきた……。ミケ、弁解せよ」
「……まあ、妙な女に興味持つなって話」
「え? あ、いや、気になるってのは別にそういう事じゃなくて……」
「それよりシロ。……プリンターの出口閉まってる」
「ん? ……って、わっ」
見ると、排紙トレイを開き忘れたまま、プリントアウトを始めてしまっていた。慌てて開けるが時すでに遅し、用紙はヨレヨレになってしまっている。
「ありゃ……。まあ、詰まんなかったから良しとしよう。印刷も出来てるし」
「そのPCもプリンターも大分古いよね。未だに2000とかってむしろ凄いんだけど」
「父さんのお下がりだからなぁ。ま、動くんだからいいじゃん。俺、PCってあまり使う方じゃないしな」
「ケータイもかなり古いよね。ていうか、キッズケータイとかって有り得なくない?」
「これは中学の入学祝だから、出来るだけ使い続けたい。機能も、通話とメールが出来れば充分だし」
「そのCDラジカセとか、よく動くよね」
「それは小学生の時に買って貰ったやつだしな。ほら、俺ってあんま音楽とか聴かないだろ? だから、そう壊れはしないんだ」
「……シロパパに遠慮しておねだりしてないんでしょ」
「違う違う、ちゃんと使えるから必要ないだけ」
「…………」
ミケがどことなく憮然とした態度を見せた。彼女は、俺と父さんの親子関係に思うところがあるようで、時々こうやって批判的な立場を示す。俺を心配しての事なので、これはこれで嬉しいのだが、全部ミケの思い過ごしだ。
……ところで、俺を蹴った件て流された?
「……まあ、とにかく、はいこれ、プリント」
プリンターから吐き出された紙をミケに渡す。枚数にして六枚。サイズはA4。
「何? このグラフで埋め尽くされた紙。一体なんのデータ?」
「いや、関数のグラフだってばさ」
「こっちの暗号文は何? わたしに解読しろと?」
「それ英語。解読じゃなくて和訳」
「……ゲロゲロ~ン」
「さあ、頑張れ受験生。決戦の日は近い」
「今は頑張れとか言っちゃダメな風潮なのさ……」
何やら、ミケの周りに雨雲が生成されている気がするが、気にしない。これも彼女の為だ。
「帰るるる~……」
「ああ、送ろうか?」
「いらね~……。あ、シロ」
「ん?」
「その……さっきのさ、高井って先生」
「高井先生?」
「……シロを担当してるの?」
「へ? いや、俺の主治医は飽くまで美作先生だけど?」
「…………。……そ」
「? それが?」
「んーん。んじゃ帰る、見送り無用、じゃね」
「え、あ、ああ……」
ミケは足早に俺の部屋から出て行った。俺はプリンターの電源を落とし、PCをシャットダウンさせる。
……今のミケ、何かいつもを違った気がした。
どこがと訊かれても答えられないが。
「……洗い物するか」
少し気にはなったが、考えて答えが出るとも思えなかったので、俺はキッチンへ行く事にする。
部屋から出てダイニングを見ると、父さんの姿は無かった。――トイレかな? と思いながら食器類を片付けていると、テーブルの端に紙片を発見。
そこには文字が書かれていた。
《すぐ戻る 父》
どうやら出掛けたようだ……
「ただいまー」
……と思ったらもう帰って来た。書置きの必要性が問われる程の早さだな。
「おかえり、どうしたの?」
「うん? ああ、ミケちゃんが志朗に内緒の話があるって言うから、君に隠れて話を聞いて来たんだ」
「…………。……それ、ワザと?」
「何がだい?」
ミケが内緒にしたがっているのなら、問い質す訳にはいかない。けれども、そんな言い方されちゃあ気になってしょうがない。
「……それって、どんな話?」
「すまないね、内緒なんだ」
「…………」
ストレス溜まるー。
「じゃあ俺もミケに内緒の話」
「おや」
そして対抗意識を燃やす子供な俺。
だけど、ミケに内緒で父さんに話したい事が本当にあった。
「…………」
「志朗、どうした? なんの話なのかな?」
唐突に切り出してはみたものの、さすがに躊躇ってしまう。でも、話さない訳にはいかない。美作先生との約束もあるしな。
「その、例の水沢ひかるって子の話なんだけど」
「……ふむ」
父さんは、自分の息子に危害を加えた人物の名を聞いて、にわかに真剣味を表わす。俺もそれに合わせるように、真剣な声色で言葉を紡いだ。
「その子の母親、殺されたのかもしれない」
「……なんだって?」
『ミケ』ちゃんはサブキャラではありません。でも、このエピソードではサブキャラです。この子の情報は小出しします。
次回、『ナツさん』が登場します。