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time to believe now 11

 かったるい話が過去最長です。

 果たして、今回の話は最後まで読んでもらえるのでしょうか。

 今回は病院での話で、医者たちには演出の為に専門用語っぽい言葉を、頑張って(・・・・)使わせています。

 いいですか? 演出です。フィクションです。

 はっきり言って、かなり適当なので、実際のものと混同しないよう、お願い申し上げます。

 追伸 ケータイで読んで下さっている方々。どうか頑張って下さい。

 一月二十九日 土曜日 夕暮れ前




 ()手柏(てがしわ)医院。

 俺が十年来お世話になったきた精神科の病院。

 休診日は木曜日と祝日。土日は午後からの診察となっている。が、この辺はかなりファジーで、俺の感覚では、ほぼいつ来てもOKな気がする。先週のような急な診療希望も、断られたためしは無い。

 医師の数は、確か、常勤二人に非常勤が三人だったと思う。常勤の一人はもちろん美作奈緒子先生。もう一人は主に病棟に居る為よく知らない。だがそう言えば、高井京助先生が先週から新しく常勤に入ったと言っていた。美作先生の甥っ子さんで、ちょっと変わった……いや、まだ判断できるほど接していないか……もとい、ちょっと変わっていそうな先生だ。でも真面目そうで優しそうな感じではあった。

 だがやはり、児の手柏医院の最大の魅力は美作先生の存在だろう。決して俺の贔屓目ではなくて。

 美作先生は、PTSDに有効とされる、EMDRという治療が行える医師だ。これを行うには医師免許とは別の資格が必要になるらしい。詳しい事は知らないが、EMDRを行える医師は決して多くないようで、この界隈では美作先生だけなのだそうだ。俺も何度か受けた事があるが、目の前で先生がただ指を左右に動かしているだけにしか見えない為、「なんでこれに資格が要るのだろう」と疑問を持った事もある。だがその実、かなり厳密な手順があるとの事。でも確かに、あれをやって貰うと過去の記憶を鮮明に思い出すことが出来た。もちろん思い出せない事だってあるし、俺に関しては手詰まりな状態になりつつもある。とは言え、美作先生が優秀な医師である事を疑った事は無い。

 そんなお医者さんが居るのだから、今日も児の手柏医院は大繁盛……してないな。

 待合室には俺しかいない。

 実は珍しい事ではなく、基本的にここで他の患者さんと鉢合わせる事は滅多にない。会うとすれば、医師にアドバイスを請いに来た患者の家族が主だ。

 この国の精神医療は、一昔前までは入院治療が基本だったのだが、現在は在宅療法にシフトしつつある。そこで美作先生は、いっそ訪問診療へと踏み切ったらしい。今はまだテストケースの段階ではあるものの、名目上この病院に所属を置く三人の医師が、患者宅を訪問して診療を行っているのだ。その為、患者達はここに通院する必要が無い。よって、ここで他の患者に会う事は滅多にない、という訳だ。

 では、どうして俺は通院しているのか。

 それは、この病院の開業医である美作先生が、その立場上訪問診療を行っていないからだ。

 精神疾患は、医師との相性が圧倒的にものを言う。だから俺は、美作先生が外来を行っているこの児の手柏医院に、足繁く通っている。要するに、俺は他の先生では嫌なのだ。

 しかし、高井先生を常勤させたところを見ると、美作先生は訪問診療の方に回るつもりなのかもしれない。あるいは甥っ子さんにここを譲る気だとか。

 ……それは有り得るな。

 この病院は、一般の住宅を改装して造られているので、見た目は普通の民家とそう差はない。まあ「普通」とは言っても大豪邸の部類に入るのだが、総合病院などに比べると小規模な医療施設だ。しかし、中はちゃんと病院然としており、二階なんかには六床ほどの病棟を完備している。

 このように、規模は小さいながらも設備は充実しているので、美作先生が自分の引退後もここを機能させたいと考え、跡取りとして高井先生を呼び寄せた可能性は、充分にあると思われる。

 いや、美作先生が引退なんて先の事か。

 まだまだバリバリだし。

 となると、やっぱり美作先生は訪問診療に回りたいのかもしれない。どちらにせよ、やがては高井先生がここのメインになるのだろうと思う。


「――やあ、因幡君。お早いお着きですね」


 噂をすれば影が差す。

 噂してた訳じゃないけど。

 俺が待合室で、つらつらと時間潰しの考え事に興じていると、奥から高井先生が現れた。初見の時も思ったが、相変わらず爽やかな空気を纏っている。髪型や体格は俺とそう変わりはないのに、何故こんなにも好青年に見えるのだろう。……やっぱ顔の差? くっ。


「こんにちは、高井先生」


「はい、こんにちは。すいません、院長は今、電話対応に追われてまして。少々お待ち下さいね?」


「あ、問題ありません。俺が勝手に早く来ただけですから」


 俺がそう言うと、高井先生は何故か俺の隣に腰を下ろした。何か話があるのだろうか。


「因幡君、これはもちろん断ってくれても構わないのだけど、今日は僕も立ち会わせて貰えませんか?」


「はい? 立ち会うって、診療にですか?」


「ええ。実は僕、君の病状に関する意見を、院長からよく求められていたんですよ、ここに来る前からね」


「そうなんですか?」


「因幡君の症状は多様性に富んでいるので、院長は多角的な見解が欲しかったんでしょう。僕に限らず、方々に意見を求めていたようですよ」


「…………」


 美作先生にとって、俺はかなり悩ましい患者なのだろう。

 いや、俺でなく、俺の病状か。

 この十年お世話になってきたが、言い換えれば、未だにお世話になっているとも言える。通常、事故を原因とするPTSDは、五年も経てば寛解に向かうのだそうだが、俺は十年経った今でも水辺では不安定になる。それに加えて、ややこしい幻覚症状。PTSDよりもこちらの方に手を焼いている筈だ。何せ、現在に至るまで、その原因を確定出来ずにいるのだから。

 そう、美作先生には幻覚の原因が判らない。

 先生が医師である限り、その答えには辿り着けない。


「因幡君? えーと、聴こえてます?」


「あっ、は、はい……大丈夫です」


「それで……僕はですね? ずっと君の事が気になっていたんです。こうしてお話し出来る日を、ずっと待っていました」


「ぶふっ!? ちょっ、俺、男ですよ!?」


「はい?」


「えあ?」


「え~と、男なのは見れば判りますが……。ごめんなさい、なんの話かな?」


「えっと……」


 直前の会話をよく思い出してみる。

 ……うん、人の話はちゃんと聞こう。


「す、すいません、ちょっと勘違いを……。話、続けて下さい」


「あ、はあ。……んんと、どこまで話したかな……あ、そうそう、僕が因幡君と話をしたかったってところでしたね。僕は、院長とはやや異なる分野を専攻して来ましたので、ひょっとしたら、何か気付ける事もあるのではないかと思ったんです。いわゆる、セカンド・オピニオンですね」


「なるほど」


 俺は美作先生以外の診療を受けた事が無い。先生の指示の下、他科の病院で検査を受けた事はあるが、俺の治療に携わっているのは、実質、美作先生一人だけだ。十年近く掛かっている事を考えれば、別の医師の意見を聞くのも有りだと思う。だけど、今となっては、それはあまり意味の無い事なのかもしれない。俺の問題は、医学の領域ではないのだろうから。


「あの、因みに美作先生と違う分野っていうのは?」


「ああ、院長は言語活動による治療手法に定評がありますが、僕は脳神経からのアプローチを得意としています」


「の、脳……?」


「ええ、ロボトミーとか」


「ロボトミー!?」


「やだなぁ、冗談ですよ」


「……おい」


 精神科医にあるまじき冗談だと思う。


「残念だけど、この国では出来ませんから」


「…………」


 今、「残念」って言ったぞ。

 実はこの人ヤバくない?


「電気や光で刺激を与える技法や、外科的な処置なんかも学んではきましたが、僕はお薬の勉強に最も力を入れてきました」


「えっと、トランキライザーとかの……?」


「そういったものを如何に適切に扱えるかが、僕の腕の見せ所ですね」


 なんかそういう風に言われると、一気に警戒心が下がるな。……俺、騙されてる?


「因幡君のカルテを見る限り、適宜な治療が為されていると思います。僕なんかに出来る事はないのかもしれません。しかし、愚者一得という事も有り得ますし、どうでしょうか?」


「あ、立ち会って下さるのは全然構わないんです。ただ、きっとこれ以上の改善は……」


 見込まれない。

 俺の幻覚症状は、治るとかそういう問題ではないから。


「僕は、幻覚に関しては、一旦置いておいてもいいと思っているんです」


「え!?」


「もっと正確に言うならば、君の症状が幻覚ではないという可能性も考慮すべきかと」


「ッ!」


 ボスンッ!


「因幡君?」


 思わず立ち上がってしまった。しかも、膝の上に置いていたスポーツバッグを落としながら。……他の患者さんが居なくて良かった。


「あ、あの、それって、どういう意味で言ってます?」


「…………。因幡君が、今まで症状として見てきた物、聴いてきた音が、本当に幻覚なのか疑問に思っている、という意味ですよ」


「た、高井先生……」


 思わぬ展開だった。

 まさか、高井先生が先に気付くとは。

 俺は、自分に起きている事を、美作先生に伝えるべきかを決めかねていた。先生とのこの十年を否定してしまうような気がしたからだ。

 俺に必要なのは精神医療の力では無いと思われるのが嫌だった。

 それにより先生との繋がりが断たれてしまう事が嫌だった。

 そして、最も嫌なのが、先生に俺の話を信じて貰えなかった場合だ。

 もちろん先生が俺の話を信じてくれないとは思わない。だが、美作先生は精神科医なのだ。俺のこんな非常識な話をあっさり信じるようでは、医師として問題があると言わざるを得ない。俺の話に疑問を持ち、社会通念に準じた人間へと戻す事が、正しい医師の在り方。それがお医者さんの仕事。俺は信じて欲しいけど、美作先生は医師としてそれを信じてはいけないのだ。

 だから悩む。

 話すべきか、話さざるべきか。


「僕のような考えでは、やはり信用は持てませんか?」


「そ、それは……」


 しかし、この高井先生は、柔軟にも俺の特異性に気付き、更には受け入れようとする姿勢すら見せている。

 それは、本来ならば誤った対応。

 でも、俺に限っては非常に有効な対応。

 ただ、高井先生に話すという事は、美作先生に話すも同然。同じ病院の医師なのだから、申し送りやディスカッションは当然の如く行われるだろう。その結果、新しい症状の発露と判断されてしまう可能性も考えられる。それならいっそ、隠しておいた方がマシなのではないだろうか。


 ビイイイイイィィィィィ……


「わっ!?」


「ど、どうしましたか、因幡君」


 何故かこのタイミングでこの音。

 この音を聞いてまず最初に浮かんでくるのは、葉山ことり。

 また彼女が現れるのかと思い、キョロキョロと周りを見回したが、どこにもその姿は無い。けれども、なんとなく、本当になんとなくなのだが、誰かが、俺に何かを伝えたがっているような気がした。


「因幡君、大丈夫ですか? 座った方が良いですよ。さあ……」


「……あ、は、はい、すいません……」


 高井先生が、気遣わしげに俺の両肩に手を置いて、ゆっくりと座らせる。


「さ、これも……」


 そして、床に落としたバッグを拾い上げて、俺に手渡してくれた。流石だ、俺の突然の奇行にも全く動じない。


「あ、何か落としましたね」


 そう言って高井先生はもう一度床へと手を伸ばす。その手の向かった先にあったもの。それは――写真。


「えっ……?」


 何故、だ? 

 なんでそれが落ちた? 

 それは絶対に落としてはならない物。

 俺はそれをバッグのサイドポケットに仕舞って、しっかりとファスナーを閉めた。そしてその後、そこを開けてはいない。だから落ちる筈がないんだ。

 “水沢母娘の写真”が。


「よいしょ……ん? ……ッ! こ、これはっ!?」


 俺が驚いていると、何故か、高井先生がそれ以上に驚いた様子を見せた。


「高井……先生?」


「因幡君……! き、き、君はっ……!」


「は、はい……?」


「君は……ッ、妻子持ちだったのかいっっ!?」


「なんでやねんっ!」


 思わず異郷の言葉でツッコミを入れてしまった。


「……え? ち、違うんですか……? でも、これ……奥さんと娘さんの写真じゃ……?」


「だからなんでやねんっっっ!」


 この人、冗談じゃなくて本気っぽい!?


「俺は十六です! 結婚なんて出来ません! 大体その女の子の方! どう見ても小学生でしょ!? いったい俺がいくつの時の子ですか!? 一ケタ代になりますよ!」


 なんか今、既視感を覚えたぞ。


「……冷静に考えてみればそうですねぇ。……ふぅ、驚いた……」


 高井先生はそう言いながら写真を返してくれた。というか驚いたのはこっちだ、こんなの冷静に考えなくても分かるでしょ。


「はぁ……。……でも、ホントになんで落ちたんだろう……」


 写真を再び仕舞うべくバッグのサイドポケットに手をやると、ファスナーが開いていた。俺は確かに閉めたし、その後は絶対に開けていない。

 落ちた拍子に開いたのだろうか。いや、「裂けた」なら解かるが、「開く」というのは有り得ない気がする。

 これは……何かのサイン?

 だとして、何を示している?

 もしかして「打ち明けろ」という事か?


「――因幡さーん、お部屋にどうぞー」


「あ、因幡君、呼ばれましたね」


 俺が考え事を始めてすぐに、受付のお姉さんが呼びかけてきた。

 これから美作先生と話をする訳だが……うん、そうだな、そうしてみよう。


「あの、高井先生」


「はい?」


「美作先生と一緒に、俺の話を聞いて貰えませんか?」


「それはもちろん構いませんよ。それが仕事ですからね。けど、僕も一緒でいいんですか? 最初にも言いましたが、僕の申し出なら気にせずに断ってくれていいんですよ?」


「高井先生、実は俺、自分の身に起こっている事は、幻覚症状じゃないと思うようになってきたんです」


「…………。……お話、伺いましょう」


 そうして俺は、高井先生と連れだって、美作先生の待つ診療室へと向かった。

 高井先生は無言で、何かを考えている様子だ。多分、俺に講ずるべき対処法のプロセスを組み立てているのだろう。

 一方の俺も同じように、何をどこまで話すべきかを頭の中でまとめていく。

 何から何まで話す必要はない。話す事によって得られる、気持ちの整理が目的なのだ。先生たちが俺の問題を解決してくれるのではなく、俺自身が問題を解決出来るように、先生たちが導いてくれる。それがカウンセリングなのだと美作先生は言っていた。


 コンコン


「はぁい、どうぞ~」


 部屋の扉をノックした直後に美作先生の応答。

 それを確認してからドアを開く。


「美作先生、こんにちは」


「はい、こんにちは志朗君。あら、京助君?」


 俺が高井先生を伴って入ってきた事に、美作先生は軽く驚いた様子を見せる。どうやら同席する事は、高井先生の独断だったようだ。


「院長、高井でお願いします。……実は、同席させて頂こうかと思いまして。因幡君の了承は得ています、よろしいですか?」


「ふ~ん、やっぱり気になった?」


「まあ、あんな話を聞かされれば……」


 なんの話だろう……?


「志朗君がOKなら構わないわ。志朗君の症状は複雑だけど、決して重篤ではないし、目線を変えてみるのも有りだわね」


 美作先生はそう言いながら、俺達に座るよう促した。

 俺はいつものように、ソファへと腰を下ろす。

 そして、やはりいつものように、目の前のテーブルにはティーセットが置かれている。

 ここは、診療室と言っても、パッと見は普通のリビングルームに見える。木目を基調とした家具が並び、各所に置物やら観葉植物やらがレイアウトされていた。更には、テレビを始め、冷蔵庫や電子レンジ、IHヒーターなどの家電も取り揃えられており、この部屋でなら普通に……寧ろ快適に生活が送れそうな勢いだ。

 医療関連の物は、美作先生のデスク周辺に集中しており、そこが無ければ、この部屋は先生の私室ではないかと思えてしまう。

 そして、この微妙な散らかり具合も生活感を出していて、その印象に拍車をかけていた。


「はいどうぞ~」


「ありがとうございます」


 俺がソファに座って間もなく、美作先生がティーカップを差し出してくれた。中身は、これもまたいつものように、ミルクティーだ。俺はカップを受け取ると、更にまたいつものように、砂糖を怒涛の如く投入する。


「い、因幡君? さすがにそれは入れ過ぎなんじゃ……」


「ふふ、志朗君は甘いもの好きなのよ。小さい頃からずっと」


「はい、大好きです。ケーキ、6号なら1ホールいけます」


「そ、それはかなり好きですね……。僕は甘い紅茶は苦手なのでストレートでお願いします」


「志朗君ね、自分でスイーツも作っちゃうのよ。特にスウィートポテトは絶品」


「へえ、そうなんですか」


「い、いえ、あれは、別に特別な作り方をしている訳じゃなくて、ワタヤさんトコの牛乳がおいしいから出る味なんです」


「ああ、ワタヤ牛乳。前に、テレビで取り上げられた事がありましたよね?」


「あ、高井先生、ご存知でしたか。あの牛乳、コクが絶妙なんですよね。普通の牛乳と比べたら圧倒的に濃いんですけど、生クリームほどの重さが無いんで、あれでスウィートポテトを作るとボテッとしないんですよ。……ただ、ここら辺の店には卸していないんですよねぇ。御和(みわ)の方まで行かないと」


「ふうん、結構意外ですね。因幡君、お菓子作りが好きだなんて」


「お菓子だけじゃないわ、料理も得意よ。というか、家事全般が得意ね。ほら、志朗君のトコは父子家庭だから」


「ああ、なるほど」


「家計のやり繰りとかもやってるそうだから、もう実質、因幡さんの奥さんね」


「お、奥さんて……。父さんは忙しい人だから、なるたけ負担を軽くしてあげたいだけで……」


「志朗君はいい子ね~。なでなで」


「あ、いや、美作先生? 子ども扱いしないで欲しいんですけど……」


「ふふふ」


「ふふふじゃなくて……」


 見る人によっては、というか誰が見てもお茶会しているようにしか見えないだろう。

 いつも始めはこんな感じだ。

 ただ雑談するだけ。

 俺はとにかく好き勝手に話をする。どんなにくだらない話をしても、突然に脈絡の無い話をしても、美作先生は常に関心を持って聞き入ってくれるので、非常に気分が良い。

 確か先生はアブレークションて言い方をしていたな。多分、これも治療技法の一つなのだろう。

 それにしても、今日は高井先生も反応してくれるので、本当に気分が良かった。俺が元来おしゃべりな事と、学校におけるコミュニケーション不足も手伝って、なかなか口が止まらない。二人に話すべき事があるというのに、それを知っている高井先生も、本題に入るよう促すような素振りは見せず、俺との世間話に興じていた。流石はプロと言ったところか。きっと、俺が自分のタイミングで話し出すまで、決して話を振ったりはしないのだろう。

 しかし、時間は有限。そろそろ切り出すか。


「あの、美作先生。先週の土曜日の幻覚の話、憶えてます?」


「ええ、バッチリ憶えてるわ。綺麗なお姉さんに逆ナンされたのよね?」


「うん、バッチリ歪んでます。実は、あの話には続きがありまして――」


 俺は水沢ひかるに関する話をした。もちろん、実名は伏せて、だ。


「――志朗君の幻覚の女性が、その『A子』ちゃんの母親だったって事?」


「はい……」


 『A子』とは、水沢ひかるの事である。


「俺は最初、自分が憶えていないだけで、その子のお母さんに会った事があるんじゃないかって思ったんです。それをフラッシュバックしたんだろうって」


「意識下に保持されている記憶が幻覚に表れる事はままあるわ。でも、それは間違いなく曖昧なものになる筈。志朗君みたいに明瞭な認識は無理ね。となると、過去の体験のフラッシュバックという事になるけど、それだと志朗君は、その女性と何か印象深い関わり合いを持った事になるの。言ってしまえば、心的なトラウマ体験」


「俺は憶えていません」


「幻覚に表れたというなら、忘却はしていない。なら、その記憶を抑え込んでいる因子が、志朗君の中に有るという事ね」


 うん、美作先生は医者としての見解を述べているな。ふぅ、俺はこれからそれを否定しなければいけないのか……気が重い。


「院長、想起に失敗しているのに、その女性の容姿を細かく説明出来るのは矛盾していませんか?」


「あら、そうね」


 俺が、どう説明するかを考えていると、高井先生が言葉を挿んできた。


「因幡君、君はその女性を見ただけではなく、言葉も交わしているんですよね? 女性のひととなりは印象に残っていますか?」


「あ、はい。明るくて、なんか見た目に比べて、幼い言動がある感じです」


「そこまで判って、少しも憶えていないなんて事、あるでしょうか」


「『あれ、何処かで……』くらいは思いそうなものよね」


 なんだか高井先生は、俺が話を切り出し易いに、誘導してくれている気がする。


「じゃあ、縁も所縁も無い女性が志朗君の幻覚として表れた事になるわね。この場合は内因性を疑うのだけど、そう考えると今度は現実との符合点に疑問が出てくるわ。A子ちゃんとそのお母さんしか知らない事を、志朗君が幻覚で知るなんて……。京助君、こんなの聞いた事ある?」


「高井でお願いします。……ありませんね。『事前に知っていたから幻覚に表れた』と考えるのが自然でしょう。ですがそうなると、因幡君が、縁も所縁も無い人達の情報を知っている事に疑問が出ますね」


 縁も所縁も無い、か。

 確かにその通りだ。

 俺と彼女達は、先週まで何の関係性も持たない、全くの赤の他人だった。

 そもそも、水沢の母親と出会うだなんて事は、普通なら絶対に有り得なかった事だ。死んでいる人間に出会うなんて普通じゃない。つまり、俺は――普通じゃない。


「ねえ、志朗君」


「あ、はい」


「その、A子ちゃん母娘にしか解らない事って、どんな内容なのかしら。差し障りなければ教えてくれない?」


「ええと……」


 差し障りは……ないかな。


「み……んんっ、A子は、俺が口にした『カルチョ』と『ミスミソウ』という言葉を聴いて、俺と自分の母親を関連付けたみたいなんです」


「カルチョ? ミスミソウ? ……うーん?」


 それだけ聞いても解らないよな。


「三角草って確か……春に咲く多年草ですよね? えっと、雪割草の事だったと思います」


「あら、京助君て草花にも詳しいのね、知らなかったわ」


「高井でお願いします。……でも、カルチョっていうのは誰の事でしょうか」


「ああ、みず……A子は幼い頃、母親にそう呼ばれていたそうなんですよ。あだ名ですね。因みに三角草の方は、母娘二人だけの思い出の花」


「本当にプライベートな情報ね。なるほど、一つ一つなら偶然も有り得るけど、両方ともなると、二人のどちらかに聞きでもしない限り、知り得ない情報かもね」


「そうですね。それを聴いたA子ちゃんが、因幡君と自分のお母さんを関連付けるのも、当然と言えるでしょう。……あの、因幡君の幻覚の女性がA子ちゃんのお母さんである事は、もう間違いないんですか?」


 来た。

 このタイミングしかない。

 少し気が引けたが、俺はあの写真をバッグから取り出した。


「あ、それ、さっきの写真ですね。まさか……」


 高井先生が写真の意味に気付く。


「この写真の女性に、俺は出会ったんです」


 そう言って、写真を美作先生に手渡した。


「これは……A子ちゃん母娘なの?」


「はい。その写真を見て、俺が出会ったのはA子の母親だと確信しました。ただ、見て下さい。その女の子がA子なんですが、見ての通り小学生ぐらいの年齢です。多分、八年前の写真なんですよ」


「ふんふん、それで?」


「だけど、俺が目にしたのは、この写真に写っている女性の姿。つまり、八年前のこの人に、先週、出会ったんです」


「う~ん?」


「実はですね、A子の母親は八年前に失踪しているんですよ。去年には失踪届けも出して、民法上の死亡が確定していると思われます。だから、その……ええと、何を言いたいのかと言いますと……」


 いざ言うとなると言葉が詰まる。父さんと違って、美作先生は精神科医だ。こう言っては何だが、正気を疑うのが仕事。だから、こんな正気を疑われるような話をしたら、正気を疑われてしまうかもしれない。って、落ち着け、俺。


「……志朗君、もしかして自覚しちゃってるのかしら?」


「へ……?」


 自覚?

 なんの話だ?


「そうみたいですよ」


「あら、京助君、気付いてたの?」


「ええ、先ほど待合室で少し話をしたものですから。その時に因幡君が、『自分のは幻覚ではない』といった主旨の発言を」


「もうっ、そういう事は最初に教えなさい、京助君」


「すいません、タイミングが掴めなかったもので。あと、高井でお願いします」


「え? ……え? ……えっ?」


 二人はなんの話を?


「志朗君。貴方は、自分の出会った女性が、八年前に亡くなった、A子ちゃんのお母さんだと言いたいのでしょう?」


「…………」


 あれ? えっと……ん? おや? あー……美作先生? なんの話をしてますか?


「つまり、志朗君には“死者”が見えているのよね」


 ……………………………………………………ッ!


「ええええええええええええええええええええーーーーーーーーーー!?」


「きゃっ」


「おっと」


 美作先生は知っている!?

 いや知っていた!? 

 俺に何が起こっているのか、全部知っていたのか!?


「ちょ、ちょ、ちょ……ちょっと待って下さいっ! えっ? いつから? もしかして初めからっ!?」


「し、志朗君、落ち着いて。ちゃんと説明するから」


「お、お、落ち着けと言われてもっ! え!? なんで!? 何でなんですかっ!?」


「あらら……ごめんなさいね、志朗君。混乱させてしまうだなんて、医師失格だわね」


 それから俺が落ち着くまでには、少し時間を要した。

 美作先生と高井先生の二人に宥め(すか)されて、ようやく話を聞く態勢が整う。

 それを見て美作先生は、申し訳なさそうな顔をしながら、口を開いた。


「――まず、初めに言っておきたいのだけど、志朗君がPTSDを患っているという事は間違いないと思われるわ。そこは忘れないで欲しい。貴方があの水難事故で負った心の傷は、まだ癒えていない。幻覚症状を別にしても、その傷の治療は、これからも続けていかなくてはならないのよ」


「は、はい……」


 それは……なんとなく解っていた。

 俺の水辺恐怖症は、幻覚が起こらなくても水辺に居る事で心が不安定になるし、過去のEMDRでは事故の瞬間を回想できなかった。

 そして何より、一緒に事故に遭った筈の母さんの事が――何も思い出せない。


「志朗君の幻覚症状には、頭を悩まされてきたわ。どうしても確定要素が見つけられなかったからねぇ」


 おっと、美作先生の話が始まっている。考え事は後だ。


「PTSDに伴うフラッシュバックにしては、原因となった事故とあまりにも関係のない内容も多い。志朗君には解体した言動がないから、統合失調症を疑うには弱い。fMRIの画像にも異常は見られなかったから、器質性の線も薄い。まさかいけないお薬をやっているなんて事、志朗君にある訳ないし。これ、どういう事か分かる?」


「え、えっと……」


「私は医者として、志朗君は健康だ、って診断しなければならないのよ」


「た、確かに俺は健康です。学校、今のとこ皆勤だし。ほとんど毎日ジョギングしてるし」


「だから、京助君なんかは、ミュンヒハウゼンを疑ったわ」


「へ? ミュンヒハウゼン?」


 ホラ吹き男爵? 

 ……ホラ……ですか。


「い、院長、それはもういいですから。というか高井でお願いします」


「さすがに私も行き詰ってねぇ。根底から見直そうかと考え始めた時に、今まで全部を覆すような事が起こったのよ」


「全部を覆す? ……それって一体?」


「去年の五月、ゴールデンウィーク明け、放課後の教室で志朗君が出会った女の子の話」


「え……?」


 それは……葉山ことりの事だよな?

 この間の月曜日の事は、まだ美作先生に話していない。だから先生は、俺が幻覚だと思っていた時のことりさんの話しか知らない筈。なのに、何故ここで彼女の話が?


「去年、その話を聞いた時は愕然としたわ。志朗君に悟られないようにするのに、どれだけ苦労したか」


「そうだったんですか? 全然気付かなかった……。でも、何にそんな驚いたんです?」


「志朗君は、その女の子の自殺を説得して止めたのよね?」


「は、はい」


「その際、女の子は志朗君に、自分の思いを吐露した」


「あの時は俺も必死だったので、詳しい所までは憶えていないんですけど……。去年、先生には思い出せる限りの事を話しましたよね?」


「そこなのよ。志朗君が教えてくれた、その女の子の自分を卑下する言葉の数々。私はね、志朗君。それらとほとんど同じ言葉を聞いた事があるのよ。葉山ことりちゃんっていう女の子から」


「えええっ!?」


 今、なんて言った?

 「葉山ことり」って言ったよな?

 先生はことりさんに会った事があるのか?


「私、若い頃にね、徳英でスクールカウンセラーをやった事があるのよ」


「あっ」


 そうか、それがあったか。

 美作先生は今でも、市の要請を受けてCRT(自治体が学校等に派遣する専門家の緊急支援チーム)として学校に派遣される事が時々ある。だから過去に徳英でカウンセラーをしていたとしても、意外ではあるが、別に不思議な事ではない。

 しかし、まさかことりさんと面識があるとは。


「ことりちゃんていうのは、その時に出会った生徒の一人なんだけどね? 私、志朗君が会った女の子はその子だと思ってるのよ。でもね……その子はもう、十六年も前に……」


「教室で首を切って自殺、したんですよね?」


「……知っているのね」


「はい、実は――」


 俺は月曜日の五時限目に起こった事を美作先生に伝えた。

 葉山ことりに再び出会った事。

 過去の出来事と思われるビジョンを見た事。

 そして、その後、俺に起こった出来事。

 話を聴いている間の先生は、ひどく沈痛な面持ちだった。これはとても珍しい事だ。いや、こんな先生を見た事は無い。先生とことりさんの間に、一体どんな事があったのだろうか。


「――それで、保健室に連れてかれたんです」


「もう、志朗君? そんな大変な事があったなら、すぐ私に連絡しなさいな。パニックなんて、高校生になって初めてじゃないの」


「い、いえ、パニックって程じゃ……ただちょっと、すごくびっくりしただけで。それに、その二日前に診て貰ったばかりでしたし」


「志朗君、そういう事よくあるわよね。いつになったら遠慮しなくなるのかしら。いい? こっちの都合なんて気にする必要はないのよ? 私は自覚を持ってこの仕事をしているんだから」


「は、はい」


 美作先生はすでにいつもの調子を取り戻していた。

 本当はことりさんの事を詳しく訊きたかったが、それは簡単に訊いてはいけない事のような気がする。先生がカウンセラーの立場でことりさんと関わっていたのなら、そのカウンセリングは最悪の結果に終わったという事になるからだ。


「ふふ、ホント志朗君は聡い子ね。そういう子、大好きよ」


「へ?」


「ことりちゃんの事はいずれ話してあげる。志朗君だったら、彼女もきっと怒らないと思うしね。でも、それより今は、志朗君の事の方が重要だわ。貴方は今、私限定だけど、証明してしまってるんですもの」


「え? 証明?」


「志朗君の話は事実と符合する。報道では知り得ない、人伝にも知り得ない、私とことりちゃん以外には知り得ない事を、志朗君は知っていた。……A子ちゃんと同じね。私が話していないという事は、ことりちゃんから聞いた事になるわ。けど、ことりちゃんは十六年前に亡くなってる。そして、その時の志朗君は0歳。これらの事から、『志朗君はことりちゃんの幽霊と出会った』と、私は信じるわ」


「先生……」


 それは、患者に話を合わせている感じではなかった。

 それは、精神科医としてではなく、美作奈緒子という個人が、俺を信じてくれているようだった。

 これにより、俺の懸念が完全に消える。

 美作先生は、今も尚、俺の理解者だった。


「いやあ、なんと言いますか、僕は医者として、ここはどうすべきなのでしょうね」


 そう言えば、高井先生が居たんだった。


「幽霊……。過去、僕もそう言った事を訴える患者を、幾人か診てきています。ですがいずれも、幻覚、妄想、虚言のどれかと判断してきました。それが正しかったと、今でも信じています。しかし、因幡君のケースを認めてしまうとなると、過去にあったそれらのケースが覆ってしまう可能性がある。院長のような当事者ではない僕には、正直受け入れ難い状況です」


 高井先生の言い分は尤もだ。むしろ、信じてくれた美作先生が特異と言える。けど……


「……あの、高井先生は、俺の事が解っていた訳じゃないんですか? 俺、てっきり解った上で話しているものと思っていました」


「ああ。いやね? 実は以前、院長が仰っていたんですよ。因幡君はエスパーかも知れないと」


「ぶふっ、エ、エスパー……?」


 なんか一気に胡散臭い。

 それ、俺の事?


「まあ、普通は額面通りに受け取ったりはしないのですが、院長が……美作奈緒子先生が、十年来診てきた上での意見ですからね。一笑に付すなんて事、出来る筈がありません。だから、ちょっと主客の一意性を確認してみたくなったんですよ」


「え、えっと、俺も自分を……その、エ、エスパーだと思っているのか、って事ですか……?」


「ははは。因幡君が自分の症状を幻覚ではないと考え、主治医もそれを疑っているのなら、現状の維持は無意味ですからね。院長は自ら指摘するような事はしないでしょうし、ここは因幡君が言い出しやすい雰囲気を作ってみようかと、まあ、そう思った訳です。ふふふ、エスパーかどうかは、特に考えていませんでした」


「え? あ、そうですよ。言われてみれば、なんで美作先生は教えてくれなかったんですか? 俺のは幻覚じゃないって」


 話からすると、去年の五月には気付いていたという事になる。


「志朗君の症状はね、悪く言えば停頓しているんだけど、裏を返せば安定しているとも言えたのよ。度重なる幻覚症状にも、貴方はセルフ・モニタリングの機能を損なわなかった。それはつまり、幻覚と上手く付き合えているという事。そんな志朗君に『その症状は幻覚ではない』と伝えるのは、去年の五月の時点では、早計に思えたのよ。症状が窮している訳でもないのに、仮言的判断で治療方針を変える訳にはいかない。というか、幽霊を理由に治療法を変えるなんて、普通出来ないわ。医学も科学なんだから」


 ご尤も。

 そもそも、仮に五月の時点で伝えられたとしても、俺の方が受け入れられなかったかもしれない。


「だから、志朗君が自覚して、何かを訴えてきてからでも遅くないと思ったのよ。ただ、志朗君の場合、自覚しても言い出さない可能性が、多分にあったのよね~。志朗君てば、変な気遣いするから」


「へ、変て、何がですか?」


「例えば……『十年もお世話になってるのに、今更先生の診断を否定するような真似は出来ない』とか?」


「むぐ……」


 近い事を考えた。

 やはり精神科医って人の心が読める?


「日本人気質よねぇ。美徳ではあるんだけど、欠点にもなり易いわ。私、セカンド・オピニオンを推進している時点でどうかしてると思うのよ。だって、それって当たり前の事じゃない?」


 何か違う話にシフトしてるけど、言いたい事は解る。要するに、医者と患者は対等だという事だろう。日本人はどうしても「お医者様」だから、自分が意見するなんて畏れ多いと、思ってしまうところがある。


「それで、京助君って訳」


「は?」


 高井先生? が、何?


「私と違ってしがらみが無いからね、京助君は。他の精神科医じゃ、幽霊云々を真に受ける筈が無いし、私以外で志朗君の事を受け入れられそうな医者は、京助君しか思い付かなかったのよ。でもまさか、会って二回目で志朗君が切り出すとは思っていなかったわ。京助君、さすが」


「いい加減高井って呼んで下さい。……あの、もしかして叔母さんは、この為に僕に声を掛けたんですか?」


「貴方も叔母さんて呼んでるわ。この為に()よ、京助君」


「僕はまだ、受け入れたという訳ではないんですが」


「でも可能性の一つには数えたんじゃない?」


「……まあ、頭ごなしに否定するつもりはありません」


「ふふ。……とまあ、こういう訳なのよ、志朗君」


「は、はあ……」


 気遣いが過ぎるのは、美作先生の方のような気がするぞ。


「私達には気兼ねせずに話して欲しいわ。今までと同じように、自分が話したい事だけでいいの。志朗君のその……そうね、その“チカラ”は、幻覚症状ではないとしても、精神的負担には十分になり得るものなんだから。それと、もう理解していると思うから、敢えて言わせて貰うわね。その“チカラ”を抑える術を、私達は有していないわ。私達は医者だから、医者として出来る限りの事はするけれども、現状で出来得る事は、その“チカラ”がもたらす害悪から、志朗君の心を護る事だけ。害悪そのものを取り除く事は、私達には無理だわ」


「はい。でも、結局は今まで通りでいいんですよね? 『幻覚』の呼び方が変わっただけな感じですし」


「そうね。だけど、志朗君のすぐ遠慮する癖は改善して欲しいかな。何度でも言うけど、私には気遣い無用よ?」


「そ、そこまで気を遣っているつもりはないんですが……」


 俺はそんなに遠慮しているのだろうか。自分としては随分と頼っているつもりなのだか。今日だって相談したい事が……


「……あ」


 そうだった。

 水沢の事を相談するんだった。

 完全に脱線していたからすっかり忘れていた。


「ん? どうしたの、志朗君」


「あ、あの……話を最初に戻してもいいでしょうか?」


「んん? 最初って言うと……。あっ、これからは『エスパーシロー』を名乗るべきかどうかって話ね?」


「どんな奇跡が起ころうとも絶対に名乗りませんっ!」


「院長、エスパーはどうもしっくりきません。『ミーディアムシロー』の方がより正確かと」


「正確性がどうとかじゃなくて名乗りたくないんですっ!」


 戻った線路は、明後日へと続く線路だった。


「水……! じゃなくてっ、A子の話ですよ! 自分じゃ考えが行き詰まってて、アドバイスが欲しいんです!」


「ああ! A子ちゃんの話ね! そんなに気に掛けるだなんて、志朗君、本気でホレたのね。うちの娘とは遊びだったの?」


「なんでそーなるのっっ!? ホレてないし、先生の娘さんなんて知りませんっ!」


「あれ? でも確か……因幡君て妻子持ちでしたよね?」


「貴男その頭でよく医者になれましたねっっっ!?」


 患者を翻弄する精神科医達。

 これは出るとこ出てもいいんじゃないだろうか。


「これくらいにしましょうか。志朗君の頭に危険な考えが浮かんだようよ」


「おっと、やり過ぎましたか」


 そして患者の心を読む精神科医達。

 これは泣いてもいいとこじゃないだろうか。


「ごめんなさいね? ちょっと一呼吸入れたかったのよ」


 俺をからかうのが一呼吸?


「はぁぁぁ……。えー、話、いいっすか?」


「いっすよ、いっすよ」


 仕切り直して話をする。

 水沢の母親がどういった存在なのかは、少なくとも美作先生には、理解して貰う事が出来た。しかし、俺が本当に相談したかった事は、水沢ひかるの事だった。

 まだ推測の域を出る事は出来ないが、水沢の母親は、自分が死に至った経緯を伝えようとしていると、俺は解釈している。つまり、俺は水沢の母親の死の真相を暴こうと考えているのだ。だがそうなると、水沢ひかるの事がネックになってくる。果たして、俺がやろうとしている事は、水沢ひかるにとって良い事なのだろうか。そこに自信を持つ事が出来ない。彼女に母親の死を受け入れさせるのは、至難であるという事を、俺は身を以って知っている。よって俺は、美作先生達に、水沢ひかるの事を相談しようと思ったのだ。

 そして俺は、やはり名は明かさないまま、聞いた話という形にして、昨日の放課後の水沢の様子や行動を説明し、暗に二人へと分析を促した。


「――人を殺しかけるほど逆上……ねぇ」


「そしてその間の事は憶えていない……と」


 美作先生と高井先生は、互いを窺う様に視線を合わす。俺の(つたな)い説明でちゃんと理解して貰えたか不安だが、二人は手に入れた情報を元に分析を始めてくれた。


「A子ちゃんが異常な反応的攻撃性を持っているとして、それがお母さんのこと限定となると、特殊な例ね」


「情動の発散かもしれませんが、それが他者への攻撃でしか出来ないのだとしたら、かなり危険ですね」


 特殊。

 危険。

 さっそく嫌な言葉が聴こえてきた。


「健忘が解離症状なら、よっぽど強い抑圧ね。もしくは、トランスに陥って記銘自体を失敗してるのかも。どちらにせよ過剰な反応よ。いくらお母さんの死を認めたくないからといって、同一性を失うほど取り乱すなんて、通常起こり得ない事だわ。うーん、これはあれかしら……」


「フラッシュバック、ですか?」


「あら、京助君も同じ見解?」


 ……フラッシュバック?

 それが結論?

 何か思ってたのと違うな。

 いや、素人ですけど。


「まあ、志朗君の情報を元にシミュレーションしたにすぎないから、直接会って言葉を交わさないことには断定出来ないわ。けど、もしこの考えの通りだとするなら……ふぅ、A子ちゃん、とても可哀相な子だわね」


「ええ、まあ、僕もそう思います……」


 水沢が可哀相?

 母親を亡くしているのだからそれは当たり前なのだが、先生たちの表情は、より強い悲愴を表しているように見えた。


「あの……美作先生? A子に母親の死を受け入れさせるのは、やっぱり難しいんですか?」


「…………」


「み、美作先生?」


 美作先生は、何故か俺を見つめてきた。その悲しげな瞳は、水沢ひかるに向けられるべきものである筈。どうしてそれを俺へと向けているのだろう。


「ねえ、志朗君。貴方は、自分とA子ちゃんを重ねたのかしら?」


「あ、えっと……まあ、そういう側面も……」


「そう……。あのね、志朗君。A子ちゃんはね、貴方と同じ病態で、貴方と逆の症状だと考えられるわ」


「え?」


「飽くまで、志朗君の話を聞く限りでは、よ? その前提を忘れないでね」


 俺と同じ病態。

 PTSDって事か?

 で、逆の症状。

 逆?

 ええと……俺の症状は水辺における恐怖症と幻覚症状だな。

 その逆って……?

 ……解らない。


「先生、俺の逆の症状ってなんですか? ていうか逆なんてあります?」


「…………。志朗君はその瞬間を想起できない。A子ちゃんはその瞬間をフラッシュバックする。これで解るかな?」


 その瞬間……て、どの瞬間? 

 なんだ? 俺の想起出来ない事って……


「……ッ! 母さんの死の瞬間っ!?」


「…………」


 美作先生は静かに頷いた。

 という事は、それはつまり、水沢ひかるは、俺と同じように、母親が死んだ時にそこに居た、と?

 しかも、その母親の死の場面のフラッシュバックを起こしているという事は、彼女は誰よりも母親の死を認識している事になるんじゃ? 


「え……? それって……だったら……」


 水沢は、母親が殺されたところを目撃している可能性が……!


「フラッシュバックで想起した内容を受け入れられなくて、解離を起こしていると考えられるわ。何にせよ、A子ちゃんにお母さんの死を受け入れさせるには、段階を踏む必要があるわね」


「…………」


 ……なあ、ことりさん。俺にどう救えと?

 真相を暴いたところで、良い事なんて何も無いんじゃないか?

 水沢の母親だって、娘を苦しめてまで救われたいなんて思わないだろ?


「美作先生、み……A子の母親の死の真相を暴く事は、A子の事を想えば得策ではないんですね……?」


「死の真相? 志朗君、何か知っているの?」


「その、詳しくは言えないんですが、それに繋がりそうな“ビジョン”を、今日見たんです」


「ん~……」


 美作先生は少し表情を厳しくして、腕を組み考え込んだ。本当は詳しく説明して、より的確なアドバイスを求めたかったが、さすがにこの情報は曖昧過ぎる。


「あのね? 志朗君はよく知っていると思うけど、心的トラウマの克服は、その原因となった出来事と向かい合う事が大切なの。だから志朗君は、あの事故の瞬間を思い出す為に、この十年、私と一緒に頑張ってきたのよね? それはやっぱりA子ちゃんも同じ事。A子ちゃんの心の傷を治したいのなら、まず本人が傷を負った原因を知らなければならないわ。そしてそれは、一緒に頑張らなくてはいけないA子ちゃんのご家族も、知って然るべきなの。お母さんの死の真相にその原因があるのだとしたら、それは解明されるべきだと私は思うわ」


「あ、そっか……」


 母親の死の真相は、水沢にとって最も辛い事ではあるが、最も必要な事でもあるのか。


「なら、俺はこのまま彼女の母親の事を……」


「いいえ、それは止めときなさい」


「へ?」


「真実は明かされるべきだと思うわよ? でも、そこに志朗君が関わる事は、貴方の主治医として看過出来ないわ」


「ど、どういう事ですか?」


「深層心理学用語でね、『逆転移』という言葉があるの。私達精神科医は、患者さんに共感することによって、ある種の影響を受けてしまうわ。それによって神経を病んでしまう医者も、少なからずいるのよ。言いたい事、解かるかしら?」


「…………。……俺が、A子に関わると、俺自身にも何か影響が出る……って事ですか?」


「志朗君、言ったわよね? 自分と重ねているって。私から見ても、貴方はかなり深く、A子ちゃんに共感を覚えているように感じるわ。専門家ならば転移の操作も可能だけど、志朗君はきっと彼女に引きずられてしまう」


 ……引きずられる、か。

 そうかもしれない。今日だって自分の意志もあやふやなままに、水沢の母親を探した。もう関わるのは止めようと何度も考えたが、結局突っ込んだ首は未だに抜いていない。それはきっと、俺も水沢と同じで、母親という存在にある種の妄執を抱いているからだろう。

 母親の死という心の傷を、いびつな形に付けてしまった俺達。舐め合って、逆に傷を拡げてしまう可能性は否定出来ない。


「……参ったな」


 それでもやっぱり、「自分に出来る事が有るのなら」と考えてしまう。どんなにジレンマを繰り返したとしても、最終的にはここへと行き着く気がする。ようするに、これが俺の本音なのだろう。


「先生、俺、自分の納得のいくようにやってみたいです」


「志朗君……」


「その……A子の為というよりは、彼女の母親が伝えたがっている事を、俺自身が知りたいんです。自分に起きているこの奇妙な現象を、理解して受け入れる為にも」


 仮に、水沢の母親の事を人伝に知ったのだったら、ここまで関わろうとなんてしなかったと思う。俺はこの訳の解らない“チカラ”によって引き合わされたからこそ、ここまで気に掛かっているのだ。

 この“チカラ”により受け取る事となった『死者からのメッセージ』。

 それはきっと俺にしか受け取れないもので、それはつまり、俺にしか出来ない事があるという事。そう思い至ってしまっては、もはや途中で投げ出すのは難しい。

 そう、俺は水沢の母親を救ってみたいんだ。

 葉山ことりの言う様に。


「はぁ……分かったわ、志朗君。但し、今から言う事を守ってね」


 どうにか先生に解って貰おうと、思いの丈をぶつけてみたが、最後まで難色を薄める事は出来ず、先生がしぶしぶ折れる形で、一旦話はまとまった。どうやら条件付きで黙認してくれるようだ。

 言いつけは三つ。

 一つは、美作先生に対して変に遠慮をしないで、些細な事でも頼れとの事。

 そして、事件性があるのなら必ず父さんに相談しろと、俺が一人で何かをする事を固く禁じられた。

 最後は――。


「――志朗君のそのチカラには、常に疑問を持ちなさい」


「え?」


 疑問を持つ?

 信じるなという事か?

 だけど美作先生は俺のこのチカラを信じてくれたのでは?


「鵜呑みにしては駄目という事よ。いい? その“チカラ”で得た情報は、飽くまで参考と捉えなさい。“チカラ”を前提に生きるようになっては、志朗君の社会性が損なわれてしまうわ。こう言ってはなんだけど、『幽霊が見える』なんて発言をする人に、社会的信用は得られない」


「うっ……」


「当事者の人にはきつい物言いだけどね、それが現実なのよ。どんなに私が志朗君の事を信じていても、そこは変えられない」


「……嘘か真かは関係なく、俺のチカラは社会的に受け入れられないって事ですか?」


「現代社会における幽霊の概念って、極端な話、宗教かエンターテインメントのどちらかでしょ? 実質、現代の人間社会は幽霊の存在を認めていないわ。だから、しっかりと線引きをして、志朗君に社会性を保って欲しいの。自分の事を理解してくれない社会からフェードアウト……なんて事にならない為にも、その非常識な“チカラ”を、常識的な目で見る事を忘れないで。『疑問を持つ』というのはそういう意味よ」


「この“チカラ”の所為で、社会から逸脱してしまわぬよう気を付けろ、と」


「そういう事」


 それなら問題ない。俺は常日頃から、社会規範に(のっと)った人間であるべくを心掛けている。やはり、幻覚の呼び方が変わっただけに過ぎない。今までのように、「幻覚と現実を混同しないように気を付けてきた」のと同じ要領で、やっていける筈だ。


「……こんな所、かしらね。今日は志朗君自身の話があまり出来なかったけれど、A子ちゃんの件が一段落するまで、志朗君は自分に目が行かなそうだし、一旦、日を改めましょうか」


「あ、すいません、俺の方の都合ばかり……」


「はい、さっそく遠慮してるわよ」


「あう……」


「ふふ。志朗君の“チカラ”に関しては、始めからゆっくりと対処するつもりだったから、問題ないわ。これから少しずつ受け入れていきましょう。お互いにね」


「はい」


「うーん……そうね、今日は、最後に一つだけ確認させて頂戴」


「はい?」


「幻覚ではないと自覚してから、水辺での症状に変化はあったかしら?」


 水辺での幻覚。

 水の中から女の人が現れるという、長年、俺を怯えさせてきた精神的脅威。


「このところ、水辺には近付いていませんので、変化があったかはちょっと……。あっ、でもそっか」


「…………」


「“チカラ”を考慮すると、あれも幻覚ではない可能性がある訳か……。あの女の人も、何か俺に伝えたい事があるのかなぁ。となると俺、十年もあの人を無視し続けた事になりますね」


「……まだ無理、か」


「え? 無理って?」


「いいえ、なんでもないわ。志朗君、水辺に関しては、PTSDに伴う幻覚症状の可能性が高いと思うの。“チカラ”とは別箇に考えましょう」


「そうなんですか?」


 結局俺は幻覚持ちって事か。自分の事ながら、なんてややこしい奴なんだ。


「ええと……じゃあ、水辺の方には何か“宿題”を?」


 俺は行動療法の事を宿題と呼んでいる。


「それは止めておきましょう。貴方が事故の瞬間を思い出さない限り、あまり効果が得られないようだから。やはり、心の傷の原因を正確に把握する事が先決だわ」


「はあ……」


 俺のPTSDが、十年前の水難事故に起因するものである事は間違い無い。だけど俺は、その事故の事がどうしても思い出せなかった。過去に行ったEMDRでは、事故当日までは回想出来たが、事故の瞬間はキレイに空白だった。

 それに、一緒に居た筈の母さんの事も……。


「それじゃ、今日はお終いね。……京助君? ずっと黙ってたけど、貴方から何かあるかしら」


「え? あ、ああ、その……高井と呼んで下さい」


「私にじゃなくて、志朗君によ」


「ああ、そうか。そうですねぇ……正直、因幡君の不思議な事にはお手上げだったので、実は僕、A子ちゃんの方の事を考えていました」


「A子の方……? た、高井先生、その……先生はどういったお考えを?」


 俺はつい明け透けに、興味津々と訊ねてしまった。


「多分に想像が混じっていますので、口にするのはちょっと気が咎めますねぇ」


「そ、そうですか……」


 それはそうだ、曖昧な情報しか与えていないのだから。そもそも、勝手に水沢の精神分析をして貰ってる時点で、色々と問題ある気がする。


「でもまあ、A子ちゃんと付き合っていく上で気を付ける点を、幾つかアドバイスしましょうか?」


「アドバイス……ですか?」


 水沢との付き合い方……か、俺に必要だろうか……。

 まあ、ナツさんに教えるという手もあるな。

 それにしても、高井先生は「水沢と付き合っていくには気を付けるべき点がある」と考えているのか。


「あの、お願いします、教えて下さい」


「では、帰りがてらにでもお話しましょう」


「は? 帰りがてら?」


「京助君?」


「あ、因幡君を車で送ろうかと思いまして。もう外は暗いですからね」


「いえいえいえっ、女の子じゃないんですから、そんな事して頂く必要は……」


 今は冬。暗くても時間的にはまだ夕方だ。


「今日はお客さん因幡君だけですし、僕、やる事が特にないんですよ。新参ですから、専任している患者さんもまだ居ませんしね。いい機会なので、もう少しお話しましょう? 因幡君」


「え、え~と……」


 美作先生へと伺いを立てるように視線を向ける。先生もそれに気づいて俺と視線を絡めると、何やら難しげな表情を浮かべた。


「み、美作先生? な、なんですか、その意味ありげな顔……」


「……うん、まあ、志朗君がいいなら、いいんじゃない?」


 美作先生とは思えない程の煮え切らない態度。何があるというのだ。


「は、はあ……。では、お願いします」


 いろいろ気にはなるが、高井先生の話は聞きたかったので、送って貰う事にした。


「はい。じゃあ、僕は車をまわしてきますね。……あと、院長。この事、妻には……」


「ええ、内緒にしておくわ」


「今のやり取りちょっと待てぇぇぇいっ!」


 俺を送る事を、何故奥さんに隠さにゃならんっ!?

 え?

 何? 

 高井先生って何?


「やぁねぇ、冗談よ」


「因幡君は反応が素直なので楽しいですね」


「……おい」


 この二人……ホントに俺をからかうのが好きだな(怒)。


「まあまあ、そう怒らないの。私はそんな志朗君が大好きよ」


「アリガトウゴザイマース」


「あらら、スネちゃった? 京助君、帰り、ご機嫌取りよろしくね」


「はは……まあ、やってみます」


 その後、俺は、高井先生に宥められつつ、自宅へと送られた。

 おお、ここまで読んで下さいましたか。ご苦労様でした。感謝いたします。

 えー、次回ですが、最初にチラッと出てきた、あの子が登場します。

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