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time to believe now 10

 えー、この先、学校関連のお話がほぼありません。というか、今までも場所が学校なだけで、学校に纏わる話はありませんね。

 ですが、学園ものと言い張ります。

 ひかるちゃんのエピソードが終わるまで、どうかお待ちを……

 一月二十九日 土曜日 昼下がり




 俺は再び其処に居た。

 其処とは何処か。

 先週の土曜日、水沢ひかるの母親と思われるあの女性と出会った場所である。

 その時点では「出会った」とは捉えていなかった。それは「起こった」のだと思っていた。現実とは連関しない、ただの幻覚なのだ、と。

 しかし、今はもう、俺はそれを現実だと信じてしまっている。

 幻覚でも妄想でもない、信ずるべき現実なのだ、と。


「う~ん……居ないかぁ」


 アーケード街を駅側から入り、最初にある横町の曲がり角に俺は居る。先週の土曜日の丁度今頃の時間に、あの女性が現れた場所だ。しかし今日は、あの女性らしき姿は見当たらない。まあ、すんなり会えてしまうのもどうかと思う。何しろ相手は、あまりにも特異な存在なのだから。

 俺はひとまずウロウロするのを止め、アーケード内に設置されているベンチへと腰を預けた。


「ふ~……」


 座ると同時にケータイを取り出し、時間を確認する。()手柏(てがしわ)医院へ行くべき時間まで、たっぷり二時間以上あった。

 俺は、約束の時間まで、なんとなく水沢の母親を探してみよう思った。三十分ほど前、伊波千夏との会話を切り上げた直後に、なんとなく思い立ったのだ。特に何かをしようという訳ではなく、本当になんとなくここへとやってきた。

 なんとなく。

 なんとなくの行動だ。

 実を言うと、あの伊波千夏に出会った事により、水沢ひかるに関わろうとする意欲? のようなものが消え始めていた。ナツさんに会うまでは、「もしかして、俺に何か出来る事が……」などと考えていたのだが、今はもう確信してしまっている。俺に出来る事など無い、と。ようするに、「水沢にはナツさんが付いていれば大丈夫だ」という事だ。

 そして、父さんには申し訳ないのだが、水沢の父親に訊きたかった事は、あらかたナツさんから聞けてしまった。だから明日は、ただ謝罪を受け入れてお終いという事になるだろう。

 そんな訳で、俺のすべき事はもはや、例の写真を水沢へと返すのみとなった。

 それでなんとなく気が抜けた形となって、今はなんとなくベンチに座りながら、なんとなくあの女性を探しているのだ。結局何が言いたいのかというと……


「……俺、何でここに来たんだろう」


 自分の行動が理解できない。

 仮にあの女性に会う事が出来たとして、そこに何の意味があるというのか。

 俺は一体何をしたいのだろうか。


「……ん?」


 ビイイイイイィィィィィ……


「ッ!? こ、これって……!」


 俺は反射的に立ち上がる。

 この音。

 この耳鳴りのような小さな音。

 これが聴こえるという事は、何かが起こるのかもしれない。もしもこれが、俺の考えているような現象だとするならば、水沢の母親が現れる可能性がある。……葉山ことりの方かもしれないが。

 俺はキョロキョロと周りを見回した。もちろん、水沢の母親の姿を求めてだ。今日は土曜日だから、この時間の人の数は比較的多い。しかし、それは主に学生。そんな中にあの派手な女性が居れば、むしろ見つけやすい筈。そう思っていたのに……


「あれ? 音が聴こえない……」


 ……あの音はいつの間にか消えていた。


「なんなの、一体」


 本当に困惑する。この耳鳴りのような音が、一体どういった現象なのか、未だに解らない。何かが見える、何かが聴こえる予兆なのかと思っていたのだが、よく考えてみると、あの音が鳴った時に知覚できたのは、葉山ことりだけ。

 ひょっとして、ことりさん関連限定の現象だったりするのか? 

 うーん……俺に一体何が起こっているのか、誰か詳しく教えてくれないものだろうか。


「…………」


 そう考えて浮かんでくる人物が一人。

 月曜日の朝に出会ったあの男。

 狂気の笑みをその顔に浮かべる、右眼が義眼のあの男だ。

 あの男は俺の事を理解しているかのような素振りだった。彼と話が出来れば、色々な事が解決してしまうような気がする。

 だが、しかし、はっきり言おう。

 俺はもう二度とあの男には会いたくない。

 何やら父さんとの関係性を匂わせていたが、俺はあの男の事を父さんには話さなかった。あの時、別れ際に、もう俺に会う気は無いと言っていた為、俺はあの義眼の男との出会いを無かったものとしているのだ。

 それは何故か。

 その理由はただ一つ。

 俺はとにかく、あの男が怖い。


「――……怖がらないで」


「ん?」


「……あなたなら大丈夫」


「え? え?」


 声が聴こえる。どこかで聴いた声が。


「……あなたなら出来るよ」


 どこだ? どこから聴こえる?


「……あなたならきっと出来る。だから……」


 アーケード街の雑踏の中、必死に声の出所を探す。


「……だから、あなたが……」


 そしてついに見つけた。

 沢山の学生達が行き交う中、一人足を止めている女子学生。


「き、君は……!」


「……あなたが、救ってあげて」


「葉山ことりさん!?」


「……あなたなら、出来るから」


 葉山ことりはそう言って、どこかを指差した。

 俺がその方向に目を向けると、そこには……


「……ッ! あの女性!」


 俺は足を踏み出しかけたが、すぐにはっとなって、一旦ことりさんへと目を戻す。だが、彼女はすでに居なくなっていた。


「俺が……救う?」


 確かにそう言っていた気がする。ことりさんの意図は解らないが、あの女性を指差したという事は、彼女を救えという事だろうか。


「……とりあえず今は」


 ことりさんの事も気になるが、今はひとまず置いておこう。

 俺はあの女性……水沢の母親の元へと駆け寄った。


「…………」


 彼女はぼんやりと立ち尽くすだけで、全く動く気配がない。だからすんなりと近付く事が出来た。少なからず躊躇はあったが、思い切って声を掛けてみる。


「あのっ、み、水沢……さん?」


「…………」


 彼女は視点の合っていないような目つきで、ゆっくりと俺に顔を向けた。そして目が合った瞬間……


「ねえねえ、お兄さん、ちょっとこっちに来てくれない? ねえ、いいでしょ~?」


「…………」


 ……うん、間違いなく先週の土曜日に出会ったあの女性だ。


「ね? ね? いいよね? 来て欲しーの。お願いっ。ね? このとーり」


「分かりました、行きましょう」


「本当っ!? やったー! お姉さん、とっても嬉しいわ!」


 俺がついて行く意思を見せると、彼女はガシッと俺の右腕に組み付いてきた。そしてそのまま、例の路地裏へ向かって引っ張りだす。


「あ、あの! そんなに引っ張らなくても、ちゃんとついて行きますから!」


「さあ、行っくよ~」


「だから聞いて下さい!」


 なんだか随分と注目を浴びている気がする。やはり一人芝居に見えているのだろうか……。

 いや、今は気にしてはいけない時だ。この人を――水沢さんを救う為……に?


「…………」


 勢いに任せて声を掛けたが、何をどうすればいいんだ? 

 なにか俺、ことりさんに乗せられた? 

 だいたい、救うってなんだ? 

 この人は救われなかったからこんな風になってるのでは? 

 ……俺は何をすればいいんだよ、ことりさん。


「ええと……水沢さん?」


「ふんふふ~ん、ふんふふ~ん、ふん、ふん、ふ~ん……」


 鼻歌を歌ってらっしゃる……。

 これ、無為無策でどうにかなるんだろうか。 


「あの、水沢さん? ひかるちゃんの話をしませんか?」


「あ、お兄さん、こっちよ、こっち~」


「ひかるちゃんの話ですよ? 娘さんでしょう?」


「もうっ、話はあとあとっ。ほ~ら、早く、速く~」


 だめだこりゃ、ここは黙ってついて行こう。というか、すれ違った人達の「ビクッ!?」って反応が悲しすぎる。どこかに着く前に通報されてしまいそうだ。


「は~い、こっちに行きましょ~ね~」


(それにしても、これはなんとも不思議だ。ちゃんと腕を組んでいる感触がある。引っ張られている感覚もだ。体温は……二人とも厚着しているから判らない。ん? 厚着って……この毛皮のコートも感触があるぞ。本当に俺にしか見えていないのか? 自信が無くなって――)


「ほ~ら、そこ曲がるわよ~」


「――ッッッ!?」


「おっと、すいません」


 それは、角を曲がろうとした時の事だった。

 向こうから曲がって来た人にぶつかりそうになったのだ。

 ぶつかりそうになったのは互いの右肩。ぶつかりはしなかったが、かすったように思う。その人は、俺に一言謝って通り過ぎて行った。

 だがそんな事はどうでもいい。

 ここで特筆すべき事は一つ。

 「俺の右腕には、水沢の母親が組み付いている」という事。

 俺は我が目を疑った。

 当たり前だ。

 何せ、さっきの人、水沢の母親の身体を通り抜けて行ったんだから。


「か、勘弁して欲しいかも……」


 有り得ない現実を突き付けられ、にわかに恐怖感が生じた。

 果たして俺は、どこへと連れて行かれるのだろうか。――そしてそのまま帰ってこなかった……。なんてありがちな展開は嫌だぞ。

 やばい、逃げたくなってきた。


「…………。……そう、だな……ありがちな展開と言えば……」


 水沢の母親が、自分を見つけて貰いたがっているという展開。この手の話では、もはやお約束とも言える。救うっていうのはそういう事なのかもしれない。

 だとすると、俺が連れて行かれる先には、水沢の母親のアレが……?

 しかも八年経ってるから……


「はい! 到着~!」


「……ビクッ!?」


「さあ、入るわよ~」


「え……?」


 入る?

 どこへ?

 ええと……ん?


「……て、ちょっと待てーーーーーっ!?」


「ほら、急いで急いで~」


「無理! 無理ですってば! 俺まだ十六ですからっ!」


 ホテル、だった。

 そこは、いわゆる、ラブホテル、だった。


「ちょっと何やってるの? 早く入ろってば」


「え? 嘘? まじ? 入るの? ここに? だってここって……うそ~ん」


 抗えなくはない。

 抗えない訳ではないが、ここまで来てほっぽりだすのも悔いが残る。

 よし、ここは覚悟の決め所だ。

 決して興味があるから入る訳ではないぞ。

 いや、本当に。


 ウィィィン……


 やけに稼働音のする自動ドアが開き、俺は遂にそこへと足を踏み入れる事となった。


「こ、これがラブホ……」


 エントランスは小ぢんまりとしていて、俺が利用した事のある観光ホテルのそれとは比べるべくもない。俺達以外に人は居らず、スタッフすら見当たらなかった。というかフロント無くない? どこで受け付けるんだろうか。不思議に思いながらも、ざっと周りを見回す。すると、壁にあるパネルのような物に目が留まった。見ればそれは部屋の写真。何かボタンのような物もそこにはある。なるほど、自動販売機(?)か。


「こっちよ、こっち~」


 ゆっくりと観察する間もなく、水沢さんが俺を引っ張りだした。どうやらエレベーターホールへと向かっているらしい。


「い、いいんですか? 勝手に……その、お金……とかは? ――て、あれっ!?」


 気付くと、誰も俺を引っ張ってはいなかった。

 消えた。

 水沢の母親は、一瞬にしてその姿を消してしまった。


「え? え? な、なんで? だって、遺体がまだ……」


「――おい君っ! 困るよっ!」


「へ?」


 鋭い怒声に振り返ると、そこには蝶ネクタイを付けたワイシャツ姿のおじさんが居た。


「ここらは学生が多い地域だから、いろいろ厳しくしとかないと、目ぇ付けられちゃうんだよねぇ。君、高校生だろ? うちはNGなんだ。ていうか、この辺はどこもNG。ビジネスホテルでも探しな」


「え? あ、はあ……」


 急な展開に状況の把握が遅れたが、どうやらこのおじさんはここのスタッフで、高校生である俺がここを利用することを、拒絶しているようだ。

 水沢の母親は消えてしまったし、もはや長居は無用と見た。

 結局何も得るものは無く、ただの叱られ損だったという訳か。……くそっ。


「す、すいません。利用しようとした訳じゃなくて、その……そ、そうトイレ! ……を、使わせて貰えないかと」


「はあ? トイレ? ……何もこんなトコのを使わんでも……」


「限界なんです! もう漏れます!」


「むっ、そ、そっちの角だ。終わったらすぐに帰ってくれよ?」


「ありがとうございます」


 俺は示された場所へと、ダッシュで駆け込んだ。

 別に漏れそうだった訳ではなかったが、入ってみたらなんとなく催したので、用は足していく事にした。


「フゥゥゥ……。はぁ、骨折り損の~ってヤツかぁ……」


 色即是空、空即是色。こんな存在しないような存在を信じるような真似は、ある種の悟りが必要。俺には無理っす……。

 俺はがっくりとしながらエントランスへと戻り、そそくさとそこを後にする。


 ウィィィン……


 やはり稼働音の大きい自動ドアをくぐり、ホテルから外へと出た直後の事だった。

 突然、眩暈を感じたかと思ったら、一瞬で目の前が真っ白になったのだ――




 ――気付けばそこは、夜のホテル街。

 かつて身を置いた事の無い環境。こんな時間のこんな場所に、高校生である俺が居るだなんて、間違いなく誉められた事では無い。本当ならば、すぐにでもこの場から離れるべきなのだが、そんな必要が無い事を俺は知っている。

 俺はここに居て、ここに居ない。

 ここでの俺はアウトサイダー。

 許される行為は、見る事と聞く事だけ。俺の側からは何も干渉が出来ない。

 ならば見るしかないし、聞くしかない。

 そう思い、周囲に意識を向けた。

 ここは、さっき俺が中に入ったホテルの前にある通り。夜になってはいるが、場所自体は変わっていない。ホテルの利用者への配慮か、青い照明が灯されており、辺りは薄暗かった。人目を忍ぶ環境が整えられているようだ。俺ぐらいの年齢だと、やや背徳感を覚えてしまう。


 ウィィィン……


 不意に、ホテルの出入り口の自動ドアの稼働音が聴こえた為、そちらの方へと視線を移す。すると、そこから一組のカップルが出て来た。ここにある光源でその姿を明視するにはややカンデラが足りないが、男女である事は間違いない。


「ねえ、ねえ~、次はいつ逢えるの~?」


 これは……暗くて顔は判別できないが、その女性の声は、間違いなく水沢の母親の声だった。


「まあ待ちなさい、こっちにも都合ってもんがある。いつもの通り、こちらから連絡するから」


 男性の方は、全く聞き覚えの無い声だ。

 声の感じからすると、かなり年配の男性だと思われる。

 詳しい状況は読み取れないが、少なくとも、この二人がホテルを利用するような間柄である事は、明々白々。恋人同士か、夫婦か、あるいはもっと不純関係か。


「もぉっ、いつもそう言って連絡くれないんだから~。私、さびし……」


「――亜季っ!」


「ッ!?」


 薄暗い路地に突如として響く男の声。

 見ればそこには、怒気の孕んだ空気を纏う男が居た。

 やはり、暗くてその顔は確認できないが、その声と、微光の中で微かに浮かぶその装いから、かなり若い男性だと思われる。


「お前……お前っ! ふざけやがってぇっ!」


 その男は、怒張声と共に女へと詰め寄った。


「な、直人……さん」


「よくもこんな真似を……絶対に許さねぇ! 終わりだ! もう終わりだぁっ!」


「直人さん……な、なんで……ここが……?」


「調べたんだよ! お前が怪しいから、人を雇って調べさせたんだっ! お前がここに居るって報せがあったから、現場押さえに来たんだよっ!」


「そ、そんな……」


 若い男は酷く激昂している。

 察するに、これはいわゆる修羅場といった事態ではないだろうか。


「あ、あの……亜季ちゃん? 彼は……?」


 女と一緒にホテルから出て来た年配の男が、おずおずと口を挿む。彼は状況を理解していないらしい。


「ッ! テメェ! テメェの事も調べが付いてるんだからなっ!」


 若い男が、年配の男へと標的を変えた。


「な、何なんだね、一体……うわっ!?」


 グイッと、若い男が年配の男の胸ぐらを掴みあげる。怒りの為か、必要以上に力が籠っているようだ。


「んぐ……は、離しなさい……! く、苦し……い」


「直人さん!? やめてっ!」


「……あんた、三浦……さんだよな? 大学の教授センセなんだって?」


「なっ!? き、君は……一体、誰……なんだね……?」


「……亜季の夫だ」


「えええっ!?」


 女の夫?

 という事は、水沢ひかるの父親?


「そんな……っ! だって、亜季ちゃんは……独身……て」


「んなこと俺が知るか! あんた、解ってんのか? あんたは人の妻に手ぇ出しやがったんだよ。それで教育者だとか、笑わせんじゃねぇっ!」


 修羅場という解釈は正しかったようだ。

 今、この場は『夫』『妻』『妻の不倫相手』の三人が対峙している状況という事になる。


「あんたの家族がこれを知ったらどう思うかねぇ?」


「!? ま、まさか……」


「ああ、ぶちまけてやるっ。何もかも、あんたの妻と娘にぶちまけてやる! ついでにあんたの職場にもなっ!」


「ま、待ってくれ! それだけはやめてくれ!」


「ざけんなっ! 人の家庭ぶち壊しておいて何言いやがる! こっちだってテメェの家庭ぶち壊してやらぁ!」


「そんな……さ、誘ってきたのは亜季ちゃんの方なんだ……私は、悪く……」


「この野郎っ! テメェが誘いに乗らなきゃよかっただけの話じゃねぇか! だいたい、どっちが悪いかなんて俺には関係ねぇ! どっちもくたばれっ!」


 夫の感情が怒りで爆発している。それはそうだ、妻の不倫現場なんて、冷静でいられる筈がない。だが、妻に明らかな非があるとしても、今の冷静さを失っている夫は危険だ。いつ暴力を振るってもおかしくない。


「もうやめてぇぇぇっ!」


 妻も危険を感じたのだろう、横合いから夫へとしがみ付いた。


「お願い直人さん! 三浦さんを離して! 全部私が悪い……きゃっ!?」


 しかし妻は、簡単に弾き飛ばされて、地面に尻餅をついた。


「俺に指図すんな! 亜季、お前はもう妻でもなんでもねぇっ!」


「け、警察……警察呼ぶよ! 直人さん!」


 自分では止められないと悟ったのだろう。この状況では、それが正しい判断だと思われる。しかし夫は……


「おお、呼べやっ! 俺は全然構わねぇ!」


 ……歯牙にも掛けない。警察を呼ばれて困るのは自分ではないと確信しているのだろう。


「待ってくれ亜季ちゃん! それは困る、家族に知られてしまう!」


 そう、困るのは妻の不倫相手。警察に介入されると、内々で済ます事が出来なくなるかも知れない。


「な、なあ君? 話し合おう。わ、私は……ある程度ならば、自由の利くお金が……あるんだ」


 どうやら金銭での解決を試みるようだ。だがその瞬間、夫の雰囲気が張り詰めたように思える。


「…………。テメェ……」


「そ、そうだな……。二百、いや三百万ならすぐにでも用意できる」


「……んじゃねぇ」


「……え?」


「ナメてんじゃねえええええっ!」


「ひっ!?」


 ついに夫の右腕が振り上げられた。

 もちろん拳は握られている。

 これはかなり危険な状態だ。

 今の夫の精神状態では、歯止めが効かないかもしれない。


「ダメェェェェェーーーーーッ!」


 間一髪、妻が再び夫へとしがみ付く。

 今度は腰にしっかりと。

 突進だった事もあった所為か、夫の手は、妻の不倫相手から離れていた。


「亜季ぃっ! 放せぇぇぇっ!」


「三浦さん、行ってっ! 早くっ、早くぅっ!」


「あ、亜季ちゃん……で、でも、このままじゃ家族に……」


「私が説得するからっ! 今は行ってっ! このままじゃ三浦さんが危ないっ!」


「う……くっ、あ、亜季ちゃん! 彼が落ち着いたら連絡してくれ! ちゃんと話し合おう!」


 そう言い残すと、彼は脇目も振らずに駆け出した。


「待てやコラァァァッ! くそっ、亜季! 放しやがれっ! ぶっ殺されてぇのかぁぁぁぁぁっ!」


 !――




「――おいおい君~、まだこんな所にいたのか~? とっとと帰ってくれよ~」


「……へ?」


「へ、じゃないよ。言っただろ? 高校生にウロウロされちゃ困るんだよ~」


「…………」


 目の前には見覚えのあるおじさん。確か、ホテルのスタッフだ。そして、周りは明るい。照明ではなく太陽のお蔭で。今、ホテルの前に通りに、さっきまで居た三人はもちろん居ない。居るのは俺とこのおじさんだけ。

 こんな状況は前にもあった。

 そう、これはあの時……月曜日の五時限目の時と一緒だ。

 あの時は、葉山ことりの過去らしき光景を見た。

 ならば、今見た光景は、水沢の母親の過去なのか?

 つまり、今のが、俺をここへと連れてきた理由?


「お~い、君~、聴こえないの~?」


「――ハッ。あ、す、すいませんっ」


「ほら、帰った帰った~」


「…………」


「ちょっと?」


「あの……貴方はここに勤めて長いんですか?」


「は? なんだよ急に……」


「八年前もここで働いてました?」


「いたけど……それが何?」


「その頃、ここのホテルで何かトラブルとかってありませんでしたか?」


「はあ?……あのねぇ、そんな前のこと憶えちゃいないって。大体、こんな場所じゃトラブルなんて日常茶飯事だよ」


「……そうですか」


「いいから帰ってくれよー」


「あ、は、はい。失礼します」


 俺は軽く会釈してから、その場から離れる。

 ふと、周りをきょろきょろと見回してみたが、水沢の母親の姿は見つけられなかった。


(…………。さっきの……ことりさんの時と同じ現象……だよな?)


 先ほどの白昼夢……この言い方は嫌だな……うーん、ビジョン、でいいか。あの“ビジョン”が、ことりさんの時と同じく過去の“ビジョン”だというのなら、これはかなり重苦しい展開になった。

 暗い場所での出来事だったから、視覚情報はいまいち信憑性に欠けるが、話していた内容はしっかりと思い出せる。

 少し考えをまとめてみよう。

 暗かった為、はっきりと顔は確認出来なかったが、声から判断するに、“ビジョン”の中の女性は水沢の母親だ。何せ、直前まで聴いていた声なのだから、そうそう間違えたりしないだろう。そして、やりきれない話だが、どうやら水沢の母親は不倫をしていたらしい。

 相手は確か……大学教授? で、名前は「三浦」と言ったか……彼も妻子持ちのようで、互いに不倫関係だったという事になる。

 そんな二人の逢引の現場に現れた男性。その人は彼女の夫で、つまりは水沢ひかるの父親だった。「直人」と呼ばれていたな。その直人さんの憤りはかなりのもので、あの場で三浦さんが殺されてしまうのではないかと思った程だ。結果的にそんな事にはならなかったが、俺はそこに安堵を覚える事が出来ずにいた。何故なら、三浦さんが去った後、あの場に水沢の母親が残されてしまっている。冷静さを失っているあの人の側に、彼女が残されてしまっているのだ。

 そこで“ビジョン”は途切れたが、その後の展開は想像に難くない。


「これが……真実?」


 いや、解ってる。

 こんな事、なんの証明にもなりはしない。

 決定的な場面を見た訳ではないし、証拠になり得るものを見つける事も出来ていない。

 だが、疑うきっかけにはなる。

 「水沢の母親を殺したのは、水沢の父親である」という可能性を疑うきっかけに。


「……でも、そうなると……」


 果たして、この真実は暴くべきなのだろうか。

 一般良識の観点からならば、もちろんそうすべきなんだろう。でも、そうしたら水沢ひかるはどうなる。母親の死を認識しそうになると解離を起こすような子に、こんな真実が耐えられるのだろうか。俺だったら、父親が母親を殺しただなんて事、きっと耐えられない。

 水沢の母親は、一体何を思って俺をここへと連れてきたのだろう。

 彼女の目的は何なんだ?

 俺に何を期待しているんだ?

 ことりさんが言うような救いか?

 この真実を暴けば救いになるのか?

 けどその場合の水沢ひかるの心情は? 


「…………。はぁ……」


 下手の考え休むに似たり。

 ただの高校生である俺には重すぎる問題だ。

 大体、父親が犯人と決まった訳ではない。見込み捜査の危険性は父さんからよく聞かされている。一人の冤罪を生むくらいなら百人の犯罪者を世に放つ、というあれだ。俺の判断は飽くまで状況証拠のみによるもの……いや、それすらにも達していないかもしれない。こんな、非常識という言葉すら生易しい方法で得た情報なんかで、水沢の父親を犯人と決め付けるのは、早計にも程がある。


(と、言うか、だ。そもそも、水沢の母親って殺されたのか? 根本的にそれが判明してなくない? なんか、無意識に『死者の無念を晴らす』みたいな使命感に駆られていたが、水沢の母親に無念があるなんて、俺は何を以って判断してるんだ? ……むむむ、これは……ちょっと俺の手には……)


「――……諦めないで。私の時みたいに、あの人も救ってあげて」


「え?」


 ――……ビィィィィ……


「…………」


 耳鳴り?

 いや、何か言葉をかけられた気がする。


「ことりさん……か?」


 辺りを見回す。どうやら俺はアーケード街の雑踏の中に戻って来ていたようだ。思考に集中するあまり気付いていなかった。賑わう人通りの中を、ことりさんの姿を求めて目を走らせたが、結局見つける事は出来なかった。


「『私の時みたいに』、か」


 考えてみれば、葉山ことりという少女も、一体何なんだろうか。

 俺が彼女を救った?

 いや、だから、救われなかったからああなってるんだろ?

 俺に感謝しているような事を言っていたが、確か俺、彼女には結構キツイ事をされた気が……。

 これは、いわゆる、あれ、か?

 俺、ひょっとして、ことりさんに、憑りつかれた?

 ……やばい、これ、納得いっちゃいそう。

 だからちょこちょこ現れるのかも知れない。

 そして何故か、俺が水沢の母親を救う事を望んでいる。いや、救えると信じている。


(ん? ことりさんは俺の事を……信じてる? ……そうか、だったら……)


 信用を得たのなら、それに応えるべきだ。そうすれば大切なものを手に入れることが出来ると、俺は知っている。

 トラ。

 ミケ。

 美作先生。

 そして父さん。

 それはどれも俺にとって大切な存在。

 ことりさんは特異な存在だが、俺を信用してくれるというのなら、友人と呼べるのかもしれない。

 なら、彼女も大切な存在だ。


「ことりさん……俺、もう少しだけ首を突っ込んでみるよ……」


「――……うん」


「え?」


 ――……ビィィィィ……


「…………」


 別に姿を見せてくれてもいいと思うんだが……。


「さて、と。時間は……うん、いい頃合いだ。美作先生のトコに行こう」


 その後、俺は児の手柏医院へと向かった。

『ことりさん』のエピソードは別に考えています。今はひかるちゃんのエピソードなんです。……ひかるちゃんの出番、少なげですが……。

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