猫になる方法
仕事帰り、いつもと違う道を通った。
新しく打ち直されたばかりのコンクリート。まだ乾ききっていないのか、表面が妙に白っぽい。
「立入禁止」のロープの向こうに、小さな足跡が並んでいた。
肉球の形。爪の跡はない。猫だ。
工事現場の隅から始まって、細い路地の方へと続いている。
どこから来て、どこへ行ったんだろう。
そんなことを考えながら、俺はロープをまたいでいた。柵の意味なんて、この程度の好奇心の前ではあってないようなものらしい。
足跡を目で追う。一歩、また一歩。気づけば自分の足も、その隣に並べるように動いていた。最後の足跡に、自分の靴のつま先を重ねた瞬間――
世界が、大きくなった。
いや、違う。
俺が、小さくなったんだ。
視界が急に低くなる。色がどこか薄れて、その代わりに音と匂いがやけに鮮明になる。隣のアパートの換気扇の匂い。三軒先の生ゴミの匂い。今まで気づかなかった匂いの層が、いっぺんに押し寄せてきた。
手を見ようとして、地面に目線を落とす。
手じゃなかった。
白い毛に覆われた、小さな前足だった。
「は――」
出したつもりの声は、
「ニャー」
にしかならなかった。
*
最初にわかったのは、猫の身体は思っていたより不便だということだった。
家の鍵は開けられない。爪を立ててドアノブに飛びついても、つるりと滑って落ちるだけだった。スマホの画面は、前足の肉球で押しても反応しない。コンビニのガラス戸に映った自分の姿に驚いて、思わず後ずさったこともある。白い毛。丸い目。見慣れない生き物が、そこにいた。
けれど、慣れというのは早いものだった。
二日目の夜、俺は初めて塀の上を歩いた。最初は怖くて、爪を立てて必死にしがみついていた。でも三歩目あたりから、身体が勝手にバランスを取り始めた。重心をどこに置けばいいか、次の一歩をどこに置けばいいか、考えるより先に身体が知っていた。
見下ろす景色が、いつもと違った。
いつも歩いている道が、こんなに人間の匂いに満ちていたなんて知らなかった。誰かの夕飯の匂い、洗剤の匂い、排気ガスの匂い。そのひとつひとつに、輪郭があった。人間だったときは、ただ「街の匂い」としか感じていなかったものが、今は何十もの層に分かれて鼻に届く。
夜の暗さも、思っていたのと違った。真っ暗だと思っていた路地の奥に、ちゃんと形がある。塀の陰、室外機の裏、電柱の根元――どこに何があるか、目を凝らさなくてもわかった。
そのことに気づいたとき、少しだけ、怖くなった。
このまま慣れていったら、戻りたいと思わなくなるんじゃないか。
――事件、その一。
公園のベンチの下で丸くなっていたら、小さな女の子に見つかった。
「わあ、猫だ! かわいい!」
逃げる間もなく抱き上げられた。じたばたしても、女の子の腕は思ったより力強い。「俺は人間なんだぞ、離せ」と言いたかったが、出てくるのは「ニャー」だけだった。
腕の中で暴れるのをやめたのは、諦めたからじゃない。喉の下を指でくすぐられた瞬間、喉が勝手に鳴り始めたからだった。
(待て。俺は今、喜んでいるのか)
抗議したいのに、喉はごろごろと鳴り続ける。身体が、頭より先に降参していた。
女の子の母親が「あら、人懐っこいのね」と笑いながら近づいてきて、俺はようやく地面に下ろされた。走って逃げながら、俺は自分の喉に手、いや、前足を当てた。まだ、少し鳴っていた。
――事件、その二。
夜の公園。ベンチに座ったスーツ姿の男が、缶コーヒーを片手に、誰に言うでもなく呟いていた。
「はぁ……会社、辞めたいなぁ」
俺はその足元に、吸い寄せられるように座った。他人事とは思えなかった。ほんの一週間前、俺も似たようなことを、誰もいない部屋で呟いていた。
男はしばらく黙って夜空を見上げていたが、ふと俺に気づいて、頭を撫でてきた。
「お前は気楽でいいよな。何も考えなくて済むんだから」
――は?
言い返したかった。猫にだって考えることはある。この塀は登れるか、あの犬に見つからないか、今日の飯にありつけるか。人間よりずっと切実に、今この瞬間を生きている。それを、この男は知らない。
でも、それを伝える言葉を、俺は持っていなかった。
男は缶を潰してベンチを立ち、俺の頭をもう一度撫でてから去っていった。
残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
――「気楽でいいよな」。
その言葉を、俺は前に、誰かに言ったことがなかったか。
道端で丸くなっている猫を見て、羨ましいと思ったことが、確かにあった。
人間だったときの俺は、猫を見るたびに、今のこの男と同じ顔をしていたんだろう。
――事件、その三。
三日目の夜、俺は迷い込んだ先を間違えた。
古い月極駐車場の奥。段ボールとブルーシートの隙間から、いくつもの目が光っていた。
低い唸り声。一匹が、じりじりと距離を詰めてくる。耳が伏せられ、尻尾が太くなっているのがわかった。喧嘩の作法なんて知らないのに、身体は本能的にそれを理解していた。
「待て、俺は――」
言いかけて、思い出す。言葉は、もう出ない。
「お前らと違って、人間なんだ」
そう続けたかった台詞は、結局「ニャー」にしかならなかった。その情けない響きに、相手はますます毛を逆立てた。
爪が頬をかすめた瞬間、無我夢中で走った。塀を飛び越え、路地を三本抜け、息が上がりきったところでようやく足を止めた。心臓が、これ以上ないくらい速く動いていた。頬に、じくじくとした痛みがあった。
段ボールの陰にうずくまりながら、俺は自分の前足をじっと見つめた。
――人間だったときも、こうだった。
言いたいことがあるのに言えない。立場が違う相手には言い返せない。結局、頭を下げて、その場をやり過ごすだけ。
猫になれば身軽になれると、どこかで思っていた気がする。塀の上を歩けるようになって、少し得意にもなっていた。でも、身体が変わっただけで、俺は俺のままだった。ただ「ニャー」としか言えない分、もっと不自由になっていた。
初めて、本気で「戻りたい」と思った。願うことしかできない自分が、情けなかった。
*
四日目の朝。風に乗って、懐かしい匂いがした。
人間だったときには気にも留めなかった、柔軟剤の匂い。それなのに、今は誰の匂いかすぐにわかった。
気づけば、俺はその匂いを追っていた。
ちょうど彼女が、ゴミ袋を提げて玄関から出てきたところだった。寝癖のついた髪、着古したパーカー。休日の、飾らない格好。
俺は反射的に駆け寄って、彼女の足元に座った。
彼女はゴミ袋を地面に置くと、しゃがみこんで俺の顔を覗き込んだ。
「……あなた、どこから来たの?」
答えられるはずもなく、「ニャー」とだけ返す。
彼女は少し困ったように笑ってから、ふと真顔になった。指先が、俺の頬――さっき爪でかすめられたあたりに触れる。
「……怪我してる。喧嘩でもした?」
彼女はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、ふと目を細めて、独り言のように呟いた。
「……なんか、あなたに似てる」
胸がどくんと鳴った。まさか、わかるのか。
似てる、って誰に。聞きたくても聞けない。
でも彼女はすぐに首を振って、「そんなわけないか」と苦笑いした。指先が、耳の後ろを撫でる。慣れた手つきだった。
「最近、連絡もつかないし。……どこ行っちゃったんだろう」
その声のトーンが、少しだけ沈んでいた。
その瞬間、初めて気づいた。
俺がいなくなって、彼女は困っている。心配している。
猫になって四日、自分のことばかり考えていた。塀を越える楽しさに浮かれ、事件に振り回され、戻れないかもしれない不安に押しつぶされそうになっていた。
その間、彼女がどんな顔で、あの部屋で、あの声で「どこ行っちゃったんだろう」と呟いていたか、俺は一度も想像していなかった。
「……ニャー」
今度は、違う意味を込めたつもりだった。伝わるはずもないのに。
彼女はもう一度俺の頭を撫でると、ふう、と小さく息をついて立ち上がった。ゴミ袋を持ち直し、玄関の方へ戻ろうとする。
俺は思わず、その後を追った。他に、行くあてもなかった。
*
彼女について玄関先まで戻ったところで、彼女は足を止めた。俺の方を振り返り、しばらく考え込むように黙っていた。
「……ついてきて」
そう言うと、ゴミ袋を玄関の脇に置き直し、鍵をかけ直して、俺の返事も待たずに歩き出した。
俺は迷わず後を追った。他に、選べる道なんてなかった。
彼女が向かったのは、俺があの日足跡を辿った、あの工事現場だった。歩きながら、彼女は一度も振り返らなかった。まるで、行き先を確認する必要すらないみたいに。
コンクリートはあの日よりだいぶ乾いていたが、まだ完全には固まっていないようだった。「立入禁止」のロープは、まだそのままだった。彼女はロープの前で一瞬だけ足を止めたが、迷いなくまたいだ。
隅の方に、何かが転がっていた。
見覚えのあるスニーカーだった。
――そういえば、猫になったあの瞬間、履いていた靴はどうなったんだったか。覚えていない。気づいたら四本の肉球で立っていて、それきり考えたこともなかった。四日間、靴のことなんて頭になかった自分に、少し驚いた。
彼女はそれを拾い上げ、しばらく何も言わずに見つめていた。土がついて、少し湿っている。彼女の指が、靴紐の結び目でぴたりと止まる。二重に結んで、余った紐の先を輪の中に押し込む――俺の癖だった。
長い沈黙だった。
「……やっぱり」
小さな呟きだった。俺に向けたものなのか、自分に向けたものなのか、わからなかった。
「やっぱり、って何だ」
聞き返したくても、出るのは「ニャー」だけ。もどかしさに、思わず彼女の足に頭を擦りつけていた。
彼女は靴を両手で持ったまま、俺を見下ろした。何かを確かめるような、値踏みするような目だった。それから、ふっと表情を緩めた。
「大丈夫……」
言葉の途中で切られたことに、引っかかりを覚えたが、確かめる術はなかった。
彼女は履いていたスニーカーを脱ぎ、まだ柔らかさの残るコンクリートの上で、俺の靴に足を入れた。俺の靴は彼女には少し大きかった。歩くたびにかかとが浮いたが、それでも彼女は気にする様子もなく、一歩を踏み出した。
迷いのない足取りだった。まるで、何度もこの動作をしたことがあるみたいに。
数歩進んだところで、彼女は足を止めて振り返った。
「これを辿って」
「……どうして知ってるんだ」
言葉にならない問いを、俺は精一杯の「ニャー」に込めた。
彼女は少し困ったように笑って、口を開いた。
「私も、昔――」
そこで言葉を切る。何かを言いかけて、飲み込んだ。
「ううん。なんでもない。早く、辿って」
その表情に、それ以上何かを聞き出せる余地はなかった。
俺は、彼女がつけた足跡に、自分の前足を重ねていく。
一歩。視界が、少しだけ高くなった気がした。
二歩。白い毛が、肌の感覚に変わっていく。丸みを帯びていた前足に、少しずつ関節の感触が戻ってくる。
三歩。頭の位置が変わる。世界の見え方が、また変わっていく。
四歩、五歩――最後の足跡に、自分の足を重ねた瞬間。
世界が、元の高さに戻った。
膝から力が抜けて、俺はコンクリートの上にへたり込んだ。両手を見る。両足を見る。するどい爪のない、人間の指だった。
「……戻れた」
出た声は、ちゃんと言葉になっていた。掠れていたけれど、確かに自分の声だった。それだけで、じわりと涙が出そうになった。
顔を上げると、彼女がこちらを見下ろしていた。何も言わず、ただ、安堵したような、少し寂しいような、複雑な表情をしていた。
*
「ありがとう」
やっと出せた人間の声で、そう言った。掠れていて、自分の声とは思えないくらい情けなかった。
彼女は何も答えず、ただ小さく頷いた。それから、地面に置いていた俺の靴を拾い上げ、こちらに差し出してきた。
俺はそれを受け取り、裸足の足に履いた。柔らかいコンクリートの感触が、指先のあたりにまだ残っている気がした。靴紐を結ぶ手が、少し震えていた。人間の指で何かをするのが、ひどく久しぶりのことに思えた。
立ち上がると、視界の高さが元に戻っていた。見慣れているはずの景色が、やけに新鮮だった。
「なあ」
「何?」
彼女は歩き出しかけた足を止め、こちらを振り返った。
「どうして、戻し方を知ってたんだ?」
彼女はすぐには答えなかった。俺を見て、それから、少し視線を落とした。工事現場のロープの向こう、まだ立ち入り禁止のままのコンクリートに目をやっているようだった。
沈黙が、思ったより長く続いた。
「……なんとなく」
そう言って、彼女は笑った。いつもと変わらない、柔らかい笑い方だった。だからこそ、それ以上の追及を許さない笑い方でもあった。
「なんとなく、って」
「そう。なんとなく」
繰り返すだけで、彼女はそれ以上の言葉を継がなかった。俺はしばらく彼女の顔を見ていたが、そこに何かを読み取れるほど、俺は彼女のことを知り尽くしていなかった。
聞いても、同じ答えしか返ってこない。そんな気がした。
「……そっか」
それだけ言って、俺は諦めた。
帰り道、彼女の少し後ろを歩いた。並んで歩くには、まだ心のどこかが追いついていなかった。
ふと、彼女の足元に目がいった。
さっき履いていたスニーカー。脱ぎ替えたはずのそれの、靴底の隅に、白っぽいものがこびりついていた。
コンクリートの粉にも見えた。ただの泥かもしれなかった。
見なかったことにできたはずだった。でも、目に入ってしまった以上、頭の中から消えてはくれなかった。
思い出す。四日前――いや、俺にとってはもっと長く感じられた、あの夕方のことを。
新しく打ち直されたコンクリート。まだ乾ききっていない、白っぽい表面。工事現場の隅から始まって、細い路地の方へと消えていた、小さな猫の足跡。
何気なく、あれを辿った。だから、俺は猫になった。
――では。
あの足跡をつけた猫は、いったい何者だったのか。
そして彼女は、どうして戻る方法を知っていたのか。
問いはいくつも浮かんだが、答えは、どこにもなかった。
彼女は何も言わず、少し先を歩いている。いつもと変わらない、彼女の後ろ姿だった。
俺はその背中を見ながら、思う。
彼女の足跡を、辿ってみたくなった。
今度は、どこへ続いているのか、確かめるために。




