1:キャシーと王太子殿下の契約
「殿下、頭をあげてください。
元々、契約してあったことではありませんか」
「契約?
なんのことだね?」
そういえば、私と殿下、そして私の家族だけしか、契約のことは話てませんでしたね。
ドレスの中に隠してある懐刀を出して脅そうかというくらいカチンと来たのは内緒です。
「申し訳ありません、陛下。
数ヶ月前に、殿下と私の間で、殿下が伴侶を見つけたら、私は婚約の解消にすぐに応じるという契約を結んでおりました。
今回、殿下は伴侶とすべき女性をお選びになりましたので、円満な婚約解消であれば私はお認めいたしますわ」
「お前、そんな、勝手な!」
陛下は青ざめた顔で殿下に向かいますが、私が「お待ち下さい、陛下」と呼び止めました。
「この数年、殿下と婚約者の関係ではありましたが、義務的なお手紙と出席必須の夜会のエスコート、誕生日のカード、そのくらいしか殿下と過ごしてきませんでしたが、殿下は私を含めた女性に全く興味を示されませんでした。
しかし、彼のお方にはそんな殿下が執着と言って過言でないくらいの寵愛を与えられております」
食事している場所に棺を持ち込むくらいだ、寵愛どころか執着だろう。
「そして、その方は目を覚まされ、お元気になる目処も立ちました。
そして寵愛を受けられなかった私ですが、このまま王妃になれば、彼のお方以上の立場になることになりますが、私はそれを望みません。
どうか殿下が初めて見せた寵愛に免じ、婚約解消をお願いできませんでしょうか」
思えば不思議な懇願だった。
一国の王太子の婚約者が、国王に婚約破棄を願い出るなど、前代未聞である。
国王陛下、王妃殿下ともあっけにとられているが、ノウゼン伯爵一家側は特に反応せず、王太子殿下はなぜか傷ついたような顔をする。
なんでそんな捨てられた猫みたいな顔するかな、捨てたのはアンタでしょうに、私はため息混じりに顔を上げた。
「貴様もそれでいいのか」
苦虫を潰したような顔の国王陛下は、成り行きを見守っていた王太子殿下に問いかけると、小さな声で「はい」とだけ答えた。
「キャシー嬢…あなたを娘と呼びたかったわ…あなたは優秀な王妃になれたのに」
「勿体無いお言葉です」
自身の息子には一瞥もくれず、王妃殿下は私に労いの言葉をくれた。
王妃殿下の王族教育は非常に厳しく、私も何度も挫折しかかった。
けれども、なんの取り柄もない私が王妃となるのだから、と歯を食いしばって耐え抜いた、その結果、王妃様から先程の言葉がもらえたと思うと、感慨深い。
「それと、陛下、私からも一つ」
しんみりした空気に包まれた謁見の間だったが、実は両親にはもう一つ陛下に話がある。
それが昨日、家族会議で決まったことだ。
「なんだね、伯爵」
「実は、隣国の妻の実家である子爵家の当主が、病を患いまして、後継はまだ幼いので、子爵代理を立てたいと希望があるのです」
「ほう、それが?」
陛下は息子の婚約解消で放心しかけており、伯爵の父の話もあまり聞いているようには見えない。
「私が隣国に行けば、子爵代理と後継の教育ができると思います。
つきましては…」
そこで父は言葉を切る。
そして、何を言いたいか分かっていない陛下に一枚の紙を手渡した。
「ま、まて、伯爵、これは!?」
放心していた陛下がその紙を見て狼狽える。
「伯爵の地位を返上いたします。
そして、隣国へとこれから向かいます」
「な、なぜだ伯爵!
確かに、君の娘を王妃にできないのは残念だ!
バカ息子のせいで婚約解消になったのも申し訳ない、謝罪する!
しかし、本人も納得している、ならば爵位を返上する必要は…」
残念などとつゆほども思っていないでしょうに…と心の中でだけ悪態をついた私は悪くないでしょう。
お父様の発言に国王陛下は非常に慌てておいでです。
なぜかはわかりませんが。
…懐刀の出番か?と一瞬思いましたがここで何か問題起こせば何か間違いが起こって話が進まなくなるかもしれないので何も言いませんでした。
「はは、これは国王陛下も酷なことをおっしゃいますな。
子爵領程度の広さしかない土地しか納められていない伯爵家のくせにだの、偶然王太子殿下と年頃の近い娘がいたから調子に乗っているだの、王太子殿下から寵愛の得られない娘を無理やり婚約者に捩じ込んだだの、大した歴史もないのに伯爵家で恥ずかしくないかだの…我が伯爵家は娘が王太子殿下と婚約してから散々な評判でしてね。
これで婚約解消ということになれば、我が家は後ろ指を指され、罪人のように生きていくしかございません。
しかしたまたま、縁者である妻の実家の当主が体を悪くし、代理を求めている。
娘は嫁の行き先も、この国では難しいでしょうが、隣国なら見つかるやもしれません」
つまり、娘が王太子殿下の婚約者になった上、それが破棄されたらこの国に居場所がなくなった、とお父様は畏れ多くも国王陛下に言っているわけで。
「確かに酷なことね。
元々望んでいなかった王家との縁を結ばされ、あまつさえこちらの不手際でそれを解消するのだから、こちらも無理は言えないわ」
狼狽える国王陛下と王太子殿下とは対照的に、王妃殿下は落ち着いた声で答えられました。
「マリア!」
思わず国王陛下は王妃様の名前をお呼びになってます。
「国王陛下、今回はこちらの事情で振り回した伯爵に敬意を表さなければいけませんよ。
伯爵は優秀な方ですし、本来なら隣国に渡すなどとんでもないことです。
しかし今回はバカ息子の行為で居た堪れないことになったのは紛れもない事実。
さらに、件の女性を目覚めさせたのは伯爵夫人というではありませんか。
もしかしてそれに言及しないのは意図的なのかしら?」
確かに国王陛下も王太子殿下も、お母様への感謝は一切口にしていませんね。
仮にも王太子殿下の未来の婚約者を救ったというのに。
「それが事実なら、その褒美も含めて、伯爵のおっしゃることをお認めするのが筋です。
バカ息子はともかく、なぜ親であるあなたまでそれを謝罪もしくは感謝の意を表さないのか、不思議でなりませんわ」
確かに王太子殿下は婚約者だから助けるのは当たり前とか言いそうな顔してますわね。
やはりこの方と結婚しなくて良かったと言うべきでしょうか。
そして王妃殿下の正論に国王陛下も王太子殿下も何も言えなくなりました。
いやまぁ、王太子殿下は言うつもりも無かったのかもしれませんが。
斯くして、大した歴史があるわけでも、また新興というわけでもない普通の伯爵家、ノウゼン伯爵一家は、王宮を辞し、隣国へと旅立つのでした。




