現代に文学は可能かどうか (近代との比較)
以下に書くのは「自由という名の抑圧」という文章で触れた内容だが、もう少し整理しておこうと思う。
現代の社会で何がつまらないかと言うと、結局のところ誰も彼もが欲望の肯定、利益の最大化といった方向に走っており、それに対して誰も疑うところがないからだ。
こう言うと「いつの時代でもそうだっただろ」と言う人間もいるだろうが、歴史を振り返るとそう決まっているわけではない。封建社会では、社会を成立させる為に個人は欲望を抑えるというのが普通だった。だから日本のような国でも、我慢や忍耐を美徳と捉えていた。
現代を生きる人々は現代しか知らないので、テクノロジーの発達や社会の進歩といったものを最も優れた歴史的達成のようにごく自然に考えているようだが私はそんな風には思わない。
欲望を肯定し、利益を求めるというのは動物とあまり変わらないのだから、そういうものをテクノロジーで強化する現代人とは、テクノロジーで武装した猿とあまり変わらないと思っている。欲望の方向性は同じで、その強化度合いが違うだけだ。
それでは人間の本質、あるいは特質は何かと言うと、脳が発達して理性が発達し、自己を否定する事が可能になった事だと私は考えている。
この特質が行き過ぎると、宗教的な聖者となる。あえて自分の身体を壊すような事をして、欲望を節制する為に断食したり、厳しい環境に身を置く。これは、理性によって身体を壊す倒錯的な存在とも言えるが、人間の持っている特質が最大限発揮された存在だと私は考えている。
その反対の存在としては、自己の欲望の為に他者を否定する犯罪者がある。この場合、この犯罪者はただの犯罪者ではなく、頭脳的には非常に優れている犯罪者であると考えてみたい。
頭脳の優れた犯罪者とは、自らの理性能力を、自己の欲望の下位に置いている存在である。精密な計画を練る強盗犯を考えてみよう。彼は頭が良いが、その頭で自己の欲望を相対化し、否定する事はできない。彼は欲望に敗北する。そして欲望に敗北した後に、彼の頭脳がその欲望を充足させる為に精緻な計画を練るのだ。
私の中ではこれら聖者と犯罪者は人間の両極を形作っている。普通の人間はこの中間にいて、時に犯罪者的な方向に動き、時に聖者の方向に動く。
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現代はこのような時代だが、それでは近代はどうだっただろうか。
普通、我々が最初に読む文学作品とはたいてい、近代の文学作品となっている。夏目漱石、ゲーテ、ドストエフスキー、シェイクスピアといったあたりが有名どころで、よくわかっていない人も文学作品としてはそのあたりから読むのだろう。
近代の文学作品では、封建社会との矛盾から、個人の自由、情熱、主体性といったものが謳い上げられている。この場合、主体性は恋愛のような形を伴う場合が多い。当時は恋愛感情というのはあくまでも個人的なもので、社会制度としては「結婚ー出産ー育児」といった形で、家庭の存続が主な目標だった。好き勝手に恋愛していいというわけではなかった。
だから、社会制度に対して恋愛の素晴らしさを語る事は、主体の可能性を重視する近代の哲学としては非常に重要なものだった。
例えば、恋愛において、階級を越えた恋愛を描くという事は、社会が決めたヒエラルキーを越えたそれぞれの人間の平等・自由を謳い上げる行為に該当しただろう。これは比較的わかりやすい。
しかし、恋愛賛歌が徹底されてもはや常識になった現代では、面白い事に、かえって金持ちと貧乏人との恋愛といったものは嫌気されるようになっている。
資本主義と民主主義を基礎とする現代のシステムにおいて、個人の自由は肯定されているものの、自由の「結果」としてのヒエラルキーがかえって固定的になっている。その中では、金持ちと貧乏人との結婚といったものはむしろ夢見物語として嫌われたりするわけだ。
現代では容姿・資産・年齢・地位といった形でのヒエラルキーがかえって重視され、それらを越えた「自由な」恋愛はむしろありえない夢幻として嫌われる。人間は自由で平等であるというその哲学の発露として過去には謳い上げられた「恋愛」は今では、むしろ固定されたヒエラルキーに準じたものになろうとしている。
ここで人々は自らの利益の最大化を念頭に置いているので、恋愛もその一如とされている。自らの胸の高まりがあらゆる社会的格差を乗り越える、といった話はもう過去のものとなっている。
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近代文学に話を戻すと、たしかに近代文学の多くは主体の情念や自由というものが理想とされた。それが社会構造との矛盾として現れたのが近代文学の本質だったと私は考えている。
だが、これは単なる欲望肯定という形を取らなかった。またそれ故に近代文学は歴史に残る優れたものとして残るのだと私は考えている。
どういう事かと言えば、例えば夏目漱石の「それから」の主人公・代助は親友の妻を奪い、自分のものにするのだが、それ故に彼は彼が所属している上流社会から追放される。
この矛盾した箇所において、代助が悩むのは二つの選択肢である。ひとつは上流社会に居続ける為にお見合いした令嬢と結婚する事。もうひとつは自己の欲望(恋愛)を貫き通して、親友の妻を奪い、上流社会から見放される事。
このどちらが彼の利己心に叶うのかと答えるのは難しい。ただ、彼は自分の中の自然(欲望)を貫き通す事によって社会から追放される道を選ぶのである。この時、彼の決断に自己の身を切断するような苦行層のような痛みもまた存在している。ここでは自己否定と自己肯定が同時に行われ、それ故に「自己とは何か」「人はいかに生きるべきか」といった問題が深く追求されているのである。
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要するに、近代文学においては個人の情熱、主体性の発露といった現象が描かれたのだが、それは当時の社会制度と矛盾する為に、個人は多大な苦痛や社会的追放、あるいは死という罰を受けなければならなかった。
この矛盾が近代文学を輝かせたわけだが、現代においてはまるで事情が違っている。現代における主体性の発露、その肯定とは、そのままそういうものを絶賛している社会システムの肯定となる。
そこに矛盾は存在せず、したがって身を引き裂くような苦痛もなく、凡庸で弱々しい個人が存在するばかりだ。
ひとつ例をあげると、以前に川上弘美の「センセイの鞄」という小説を批判した事がある。この小説は一応文学作品という形式を取っているらしいが、中身は「こんな年上の男がいたらいいな」という女性の妄想を書いたものでしかなく、読んでいて馬鹿馬鹿しくなってしまった。
もっとも、作者と同じ趣味の持ち主はああした作品を読んで楽しめるだろうし、趣味として楽しむのは自由なので私はそれを批判しない。ただ一応は文学作品という形を取っているので、あまりの問題意識のなさ、思想の浅さに驚いてしまった。
川上弘美ひとりが問題なわけではないが、そもそもああした欲望肯定はどうあがいてもサブカルチャーにしかならない。村上春樹の小説を読んでいると感じる「ラノベ臭」も、川上弘美の軽さと直結している。彼らは幸福な存在であり、あるいは幸福であろうとしている存在である。そして驚いた事に彼らはその反対にある不幸をーー深淵を見ない。
かつてどれだけの作家や哲学者が自ら深淵を覗いてきただろうか。チェーホフは何故サハリン島に出かけたのだろうか。シモーヌ・ヴェイユはどうしてわざわざ寿命をすり減らす為に工場労働をしたのだろうか。
これら近代の優れた作家らと現代の深淵を回避する作家らとは大きな違いがある。そしてこの違いは矛盾に身を投じるか、それとも矛盾を回避しようとするかという姿勢の違いとして現れてくる。
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話をまとめるなら、たとえ同じ恋愛を描いていたとしても現代の作家と近代の偉大な作家ではそもそも立っている場所が全く違うので、質的に全く異なるものになっている。
現代では個人の欲望肯定は、資本主義のシステムと一致する限りにおいて肯定されているので、そこでは強烈な矛盾を引き起こさない。自己否定、自己批判は必要ない。ここからサブカル、アニメ、ラノベといったものと文学が区別できないという現象が起こってきている。
文学的なる作品というのは単に修辞的にこった言い回しをしているだけ、という事になってしまう。本質は全てサブカルであるから、表面を変えなければ差異が作れなくなっている。
それでは現代において文学作品はどのように可能だろうか。これについてははっきりした事は何もわかっていない。
ただ私が思うのは、人間の特質というのは自己否定、自己批判にあるのだから、この要素を抜きにして文学は不可能であろうという事だ。
これを現代に当てはめると、まず現代の社会システムに対する離反という形として現れてくるだろう。ところが、現代のシステムは個人の欲望を肯定しているので、形としては近代と逆になる。
要するに現代において文学である為には、個人の欲望の否定がシステムの否定となるような、そうした要素を考えなければならないという事である。
これに関しては、これを裏返った形として表現しても良いだろう(むしろ文学はそうした逆説的表現の方が得意だ)。
どういう事かと言えば、例えば、個人の欲望の肯定を徹底して描き、その「破滅」を描いていくという事である。この手法は、現代でも有効であろう。この場合はあえて個人=システムを肯定して、その終焉を描く事でそれを批判していくという間接手法となる。
ただやっかいなのは、こうした手法は近代作品でもあったが、その当時においては封建社会の倫理が、個人の欲望の否定項として社会的に是認されており、それ故にそうした作品も形作りやすかったのだが、現代においては個人の欲望を否定するものがなにもない。この事が問題となる。
だから現代においてはむしろ主体を否定するなにものかを探し求めて世界を旅しなければならないという事になる。
伊藤計劃の「虐殺器官」には、主人公が自分を罰してくれる存在を求めるという要素があったが、ああした要素は予見的なものだったのではないかと私は考えている。
現代においてはそのように矛盾そのものが作れないという事が問題になっている。ほとんどの事が金を与えれば解決するという程度の事でしかない。
それでは主体的に世界を拒否すればどうなるだろうか。…ところが、現代では主体的に世界を拒否する思想というものがどういうものなのか、世界的にも全く形作られていないので、そういうものがあっても、それはみなが馬鹿にするようなものにしかならないだろう。個人の暴発としか見られないだろう。
要するに世界はひとつのシステムと、そのシステムに一致できないものを差異として検知して、修正したり排除したりする、そうした機能しか存在していない。それ以外のものは存在しない。
偉大な文学作品は例外なく、鋭い、強烈な矛盾から起こってきたのだが、矛盾が絶えず消失される現代では文学作品が生まれる事が不可能に近い(それは現れた瞬間に消去される)。しかし文学の本質を考えるなら、こうした差異を求め、求め続けるという事が重要という事になるだろう。