第60話:与えられた代償
――私の出した離婚届は無事に受理され、晴れて【弓削汐未】という名前から、弓削の部分を捨て去ることができた。離婚しても苗字を婚姻時のときのままにしておくこともできるそうだが、私はもちろんそれを選ばなかった。
面倒な手続きを済ませ、会社へ連絡をし、チラホラと私が連絡するよりも先になぜか離婚を知った友人へ説明していたら、あっというまにもう四月だ。桜が咲き連日の雨で散ってしまわないかとハラハラしながら、新入社員を迎えた。こんなにも待ち遠しかった新しい生活は、自分で思っていたよりも早く体へ馴染んでいった。
『忙しくありたい』と思ったのが功を奏したようで、仕事以外のことを考える余裕は段々となくなっていった。ほんの数週間前に離婚したばかりだというのに、新人研修で月の半分が終わるころには、離婚や元夫のことで悩んでいた自分が懐かしくなるくらいには、遠い昔に起こった出来事のような感覚に陥っている。だからどう……ということもないので、私はその感覚のまま日々を過ごしていた。
新しい家は快適で、たまに大家さんがやってきては敷地の花壇に水をやっている。私も一緒に水を撒くこともあるが、聞くところによると元夫はまだあの部屋に住んでいるらしい。ただ『うるさい、気味が悪い、迷惑だと苦情が他の住民から寄せられた』そうで、何度目かの注意喚起から改善されなければ追い出そうと思っているらしい。苦情の件は砂苗ちゃんからも聞いていて、主に砂苗ちゃんの御主人と、上階と下階の住人からきているらしい。理由は言わずもがな、連日私の親友だった人と、元夫の同級生が押しかけてくるからだ。他の住人からも、このふたりに関しては苦情が来ているらしく、いわく『マンション周りを不審者がずっとうろついている』そうだ。毎回調子の良いことを言って追い返しているのか、はたまた三人で話し合いをしているのかはわからない。ただ、部屋の前で女性ふたりが言い争いをしているのも少なくないようで、誰かが警察を呼んだという話も聞いている。他にも子どものいる家庭からの苦情も出ていて、マンションへ入りづらいと言っているようだから、もう時間の問題だろう。
私にはもう関係のないことだが、住人に迷惑をかけるのは許せないなと怒りを湧かせつつ、早くどちらと結婚するのか決めてしまえば良いのに……と呆れたのはここだけの話だ。そうしたら、せめて騒ぎは半分になるのに。元夫の再婚を急かす元妻もあまりいまい。
私が弓削ではなくなって、新入社員を迎えて研修にいそしんでいるあいだ、萌乃さんのほうでは進展があったそうだ。結論から言うと、元夫は降格のうえ左遷となった。四月の頭に出された辞令では、実は昇進していたらしい。異動にもなっていない状況だったと聞いている。
萌乃さんが言うには、社内での人事異動の際に、外部から女性のかたが入ってきて、かなり上の役職に就いたそうだ。萌乃さんは以前から自分がしたことの報告をしていたが、それがこの女性の目に留まり、早急に周囲を巻き込んでの事実確認が行われたらしい。
といっても、元夫に直接言ってしまうと逃げられる可能性があったため、元夫の同期と部下、そして全女性社員へのヒアリングを、事前にアンケートを取りローラー作戦で行ったと言っていた。
そこでわかったのは、常習化していた元夫のパワハラとセクハラ。
私にとっていたような態度を、会社内でも一部の人間には見せていたというのだ。それがひとりやふたりの話ではなかったようで、一度誰かが口を開いたとわかったら、次から次へとタレコミがやってきたというのが萌乃さんの話だった。みんな思うところがあったのか、メールを残していたり、スマホに電話がかかってきた人のなかには、録音している人もいたとか。萌乃さんと同じようにkiccaの履歴を残している人、私と同じように日記に書いている人、ぼかしてSNSへ愚痴を投稿していた人もいて、証拠と証言は大豊作だったらしい。
誰も今まで言わなかったのは『会社の上司だから』というのが大半で、断ったり反論したり、誰かに愚痴ることも相談することもできなかったから。味方がいるのかもわからない、言ったから解決するとも限らないのに、仕事を失うような手は打てないという考えは、容易に想像もできる。
ちなみに、萌乃さんにしたのと同じようなことを、今年度の新人にもしようとしていたらしく、悩みに悩んで両親へ相談した女の子もいたそうだ。
今まで怖くて言えなかったが、思いがけないタイミングができた。そのタイミングに賭けたのは、女性たったひとりじゃない。そうして生まれた結果が、時期の外れた辞令なのである。
誰もなにも言わなくてもなにかある、おかしいと思った人が大半で、怖い顔をした男性たちに囲まれて私物を片付ける元夫の姿は、しばらく社内で噂にもなったそうだ。
その姿をこの目で見たかったと言ったら怒られるかもしれないが、これを聞いて私は心のなかの私とハイタッチした。萌乃さんにも処分は下ったのだが、元夫に比べれば微々たるもので、別部署への異動だけだった。もともと自分から元夫の手の届かない部署への異動を願っており、その異動先が人手不足だったことから、この異動は好意的なものとして受け入れられたらしい。理由を知っているのは、萌乃さんが相談している先輩とその上司、そして萌乃さんが元居た部署の上司と異動先の上司だけだ。
『私以外にも、粉をかけられている同期の女の子は何人もいた。けれど、誘いに応じたのは自分だけだった。自分の浅はかさに反吐が出る』と言ったのは萌乃さんで、もうこんなことは二度としない、困っている後輩や女性社員がいたら全力で力になりたいと意気込んでいた。
少なくとも、今回の出来事は萌乃さんにとって大きな出来事で、人に話すには恥ずかしく、責められて当然のことと心に刻んでいるように見えた。また今度会って食事をする約束をしているが、彼女のことだからきっとまた謝罪から入るのだろう。『した側は忘れるが、された側はずっと覚えている』のも、たまに例外があるみたいだ。彼女がその気持ちを忘れなければ、もう悲しむ人は出てこないと思う。
……後日談ができたところで、私のこの離婚へ向けた日記も終わりだ。書きなぐった自分の気持ちは、しばらく残しておきたいと思う。年度が切り替わって少し経ってからという、微妙なタイミングではあるが、今書いているノートもちょうど終わるし、明日から新しいノートへ換えるタイミングだからもう引きずらないでおこう。
周りの人間を見たらそれも難しいかもしれないが、今後笑い話にできるくらいには、終わったことにしたいと思う。
少し気になるのは、砂苗ちゃんのことだ。二か月もあのマンションで彼女と過ごした日はなかったが、彼女の御主人とは最後までほとんど顔を合わせないまま終わった。写真と、たまに遭遇したときのあいさつしか、接点はなかったのだ。砂苗ちゃんの心配事は、解消されたのだろうか。
私が気にすることではないかもしれないが、自分が離婚した理由に夫のモラハラとお金の使い込みも含まれていたから、彼女のことが心配になってしまう。私もたくさん助けてもらったから、彼女の力になれることがあったら全力で力になりたい。萌乃さんがいる前で、ご主人のことを少し砂苗ちゃんも話していたことがあったが、あのときの萌乃さんの表情は絶対に愛想笑いだった。私自身大丈夫かな? と思う内容だったし、砂苗ちゃん自身『私の夫おかしいんじゃないかな?』と思っての相談だったから、彼女が自分のための行動を起こすのも時間の問題だろう。私はその彼女が良しと思った行動を、これから見守っていきたいと思う。
明日からまた、仕事も頑張ろう。しばらくは、なにもない平和な毎日を送れますように。




