第30話:タカナシモエノ_4
「わかっていますよね? 私がなぜ今日ここへ来たのか」
「……あ、あの」
「なんでしょうか?」
「……どこまで?」
「良かったら、これどうぞ」
私は萌乃さんに、アルバムやノートのコピーを渡した。父と母にも見せたアレだ。たくさんコピーを取っておいてよかった。相手の女性から『どこまで』――『私たちの関係をどこまで知っているのか』という意味だろう――と聞かれるとは思っていなかった。あの人からは、言い訳や突破口のために聞かれるかもしれないとは思っていたが。
完全に私の偏見で妄想だが、この子、小鳥遊萌乃は慣れている。こういった事態に。
「……」
黙って萌乃さんはそれを受け取ると、ペラペラと中身を確認した。見なくてもだいたい察しはつくだろうのに、律儀な人だ。
「蒼飛君。君は見ないのか? 私は見たぞ? すべて、な」
「っ……」
「えっと、こっちはレシートで、これはねぇ、一緒にご飯でも買いに行ったのかな? 随分と仲が良さそうだよね。このときも、このときも」
サトコからもらった写真が、ここでも役に立つとは思わなかった。誰もこんな写真撮られているなんて思わないだろう。……彼と知り合いでなければ、わざわざこんな写真を撮ることもない。女性とふたりの写真を撮る理由――この場合なら、既婚者が妻以外と出かけていると確証がなければ。そしてそれが、誰か身内や共通の知り合いや、友人と出かけるというわけではなく、浮気だとわかっていなければ。
「イイ顔萌乃さんにみせられた? 私のお金まで使ってたもんね、あれだけ使ったらいろんな物買えるし、いろんなところへも行けるよね?」
「え……蒼飛さんのお金……じゃないの?」
「もちろんこの人のお金もあるけど。私たちね、共同で貯金していたの。将来のために。このあいだね、口座を見たら、小銭しか残ってなかったわ。多めに入れていたし、ボーナスも半分はそこに。毎月ね? 生活費……私が変動費として使うぶんは、この人にその口座から下ろしてきてもらって使っていたの。その毎月の生活費を抜いても、それなりの額が貯金されているはずだった。それがね? 入っていないの。ほとんど空っぽなの。……いったい、なにに使ったのかしらね?」
「……」
見ない。萌乃さんは見たのに、この人は一枚ページをめくることもしない。めくらなくてもわかっているだろうが、往生際が悪いのか、それとも諦めているのか――。
「あのね? 私は離婚します」
「――は? 離婚? たかだか浮気で?」
この人は鼻で笑っているが、自分が今どういう状況に立たされているか、まったくわかっていないのだろうか。ずっと年下の、彼女は理解しているというのに。
「たかだか浮気? 浮気だけじゃないよね? お金の使い込みにモラハラ」
「あ? なに言ってんだよ」
「はい、どうぞ」
昨日録音した音声を流す。
「……酷い」
「ごめんね? 結婚した私も私なんだけど、この人のどこが良かったの?」
「そ、それは……」
お金か、それとも会社での立場か。人のモノだからなのか。
ものすごく腹が立つ。腹が立っているし、気持ち悪い。壁を一枚隔てた、まったく別の場所か次元にいる人と話している気分だ。そこにいて話もしているのに、相手の感覚が掴めなくて落ち着かない。脳みそが聞いた言葉を一言一句処理しようとしてくれない。なにを言っているかはわかっているし、私も言いたいことがあって話している。それなのに、なんとも言えない不思議な感覚だった。
「慰謝料は請求させてもらうから。あ、アナタは今日明日家には帰ってこないでね? ……実家にでも帰れば?」
「は? クソが! お前のいる家なんか帰るわけないだろ!?」
「だよね? 良かったー!」
私は電話をかけた。父がいるから、この人はなにかしたくてもなにもできないだろう。
「――もしもし」
『あら、もしもし? シオちゃんどうしたの?』
「いつもお世話になっています、お義母さん」
「――!?」
『あらあら、いやぁねぇ。急にそんな改まって』
「うふふっ、いえ、たまにはきちんとお伝えしなきゃな、って思ったので」
「お、おい、やめろ……」
怯えた表情でこちらを見ている。私たち夫婦しかいなければ、この電話はきっと奪われて切られていただろうし、そのまま罵倒されて殴られていたかもしれない。まだ手を出されたことはないが、今この状況だったら十分にあり得ただろう。
「あの、今日なのですが。このあと、息子さんがそちらへ帰ると思います」
『え? 蒼飛が? あらやだ、もしかしてケンカでもしたの?』
「……いいえ。ケンカではありません。彼が浮気しました」
『……えっ?』
動揺している。明らかに。
「証拠ならあります。それに、今浮気相手の家に来ているんです。私の父と一緒に。……浮気相手の女性と、息子さんもいます」
『蒼飛が……? そ、それに、今、シオちゃんのお父さん……って』
「全部わかったので、父にも来てもらったんです。私、離婚しますから」
『ちょ、ちょっと待って!? あの、詳しい話を……』
「もちろん、させていただくつもりです。明後日の日曜日、お時間いただけますか? ……お昼の、一時に。息子さんは、いてもいなくてもどっちでも良いですけど。本人がいないのは不公平かと思いますので。まぁ、それなりに言い訳もあるかと思いますので」
『えぇ。お父さんにも話しておくわ。……ごめんなさいね、うちの息子が……』
「いえ。私も……気が付きませんでしたから。話も全然していなくて、家にいませんでしたし、彼が」
『……本当に、ごめんなさい』
「また、連絡します」
『待ってるわ』
「それでは、また」
電話を切った手が震える。
「……萌乃さん?」
「はい」
「失礼を承知で申し上げますが、逃げられたら困るので身分証と会社の名刺、渡していただけますか? 身分証は写真を撮ってお返しします。名刺は……返さなくても良いですよね?」
なにも言わずに、彼女は会社用と思しき鞄から名刺入れを取り出すと、一枚抜いて私に渡した。
「すみません、私、車の免許取ってなくて。身分証って言ったら、保険証かマイナンバーしかなくて。住民票も使わないから持っていないし……」
「保険証で良いです。住所がわかれば」
「わかりました」
保険証を受け取り、写真を撮った。それをただ、彼女はじっと見ていた。
「ありがとうございます。それから、電話番号を」
さすがに名刺にはプライベート用の電話番号は書いていない。実家の住所と電話番号、ご両親の名前も知ることができたら万々歳なのだが。
「必ず私が対応します。最後まで必ず。……だから、両親には言わないでください」
「それは、アナタの対応次第だと思うよ?」
「……はい」
素直だ。怖いくらいに。
萌乃さんがなにも言わないからなのか、あの人も黙っている。喋れば喋るほど不利になるということに、ようやく気が付いたのかもしれない。
「付き合ってるんですよね? この人と」
私はチラリと目線をやって、彼を見た。目が合ったはずなのに、彼は慌てて視線を外す。萌乃さんも彼のほうを見ているが、視線を合わせようとはしなかった。
「……はい。私はそのつもりでした」
「既婚者と知っていて?」
「……そうです」
「関係は、いつから?」
「私が入社してしばらくしてから」
「最初のきっかけは?」
「……歓迎会です。会社の、飲み会で」
「合鍵渡してるの?」
「い、いえ。それはその、バレたら……と思ったので……」
「ふーん。チョコレートの手紙はアナタ? バレンタイン」
「……はい」
「楽しかった? クリスマスのテーマパーク。オフィシャルホテルに、さぞかし満喫したんでしょうね?」
「……っ」
「今日はもういいわ。……ありがとう。あ、この家に今日いたっていう証拠、もらうわね。……証明以外には使わないから、悪く思わないで?」
スマホを彼女へ向ける。そして一枚写真を撮り、ビデオモードにして部屋の中とあの人を映した。
「離婚はします。そのあとこの人と付き合っていくのかどうか、そこはもう好きにしてください。そのときにはもう、私たちは夫婦でなくなっていると思いますので」
「な、なぁシオ」
「気安く呼ばないでくれる?」
「なっ、にを偉そうに……!」
「それじゃあ、私は帰ります。離婚は決定ですから。……日曜日は、どこへ行ったとしてもまっすぐ帰ってきてくださいね? 逃げたら……会社へ迎えに行きますから。捕まるまで、毎日。お互いの両親を踏まえて、しっかりとお話ししましょう。悔いのないように」
「なんだよそれ……冗談だよな? な?」
「なにか今の時点で言いたいことはありますか? 萌乃さん」
「……いえ、ありません」
「そうですか」
「おい、ちょっと!」




