第27話:タカナシモエノ_1
「……ね、寝られなかった……」
当然と言えば当然だが、緊張してなかなか寝付くことができず、やっと眠ったのは明け方のことだった。睡眠時間が短いとき特有の、フワフワした感覚が私を襲う。
「……実家……に行く前に……」
キャリーケースの中に最低限のものは詰めたが、他に持って行きたいものはある。両親にお願いしたら、しばらくは実家に置いてもらえるだろうが、会社までの距離が遠くなってしまう。フルリモートの仕事なら問題ないだろうが、そうもいかない。私は家を出るつもりで、荷物をまとめると決めた。ひとりで住む家も探す。
二月二十八日の今日、私にとっても、あの人にとっても大きな転機になることは間違いなかった。
断捨離のつもりで不要な物、持って行く必要がない物はもう捨てることにした。残っていても引き取りに来るのは手間だし、持って行ったって邪魔になるだけだ。あの人との思い出はいらないし、家電は重たくて持って行けない。共同で使っているものは、便利で多少思い入れがあっても置いていくしかない。まだ新しい良いおうちだったが、借りている名義は私ではないからここには住めない。追い出す必要がないぶん楽で良いが、慣れ親しんだ場所から離れるのは寂しい。
「……あー、大家のお婆ちゃんに、話しておこうかな……」
もう花壇の水やりも、立ち止まって世間話をする機会も無くなってしまうのか。……なんて考えたら、悲しくなってしまった。砂苗ちゃんともお隣さんではなくなってしまう。連絡先を交換しているから、会えなくなることはないのだが。
ダンボールに持って行くつもりの荷物を詰め込み、いらない物をゴミ袋へ詰めていく。引っ越し先は今よりも収納が少なくなるだろうから、思い切って普段なら悩む服も雑貨も、どんどんゴミ袋へ入れていった。忙しなく動いていると、あっというまにお昼が近くなった。このあとまだ、実家へ言って説明しなければならない。
「やばっ……急いで実家へ行かなきゃ……!!」
車には乗らない。電車へ実家へと向かう。今日は平日だ。父はいないが母はいるはず。念のためにkiccaで連絡を入れると、やはり今日は家にいるとのことでホッとした。私が平日行くことは珍しいため、いったいどうしたのか聞かれたが、着いてから離すとお茶を濁した。大きな荷物を持って出かける私を、マンションの入り口にたまたまいた大家さんが呼び止めた。
「あら? どこかへお出かけなの?」
「あ……その……」
「どうかしたのかしら? いつもの元気がないわねぇ」
「あんまり、その、大きな声では言えないんですけど……」
ずっと、誰かにぶちまけてしまいたかった。サトコに話はしていたが、それ以外に、関係のない第三者に。
「私、多分、離婚……するんです」
「え? あら、あらあら。そうなの?」
「はい」
「私が聞いても良いのかしら?」
「聞いてもらえたら嬉しいです。……その、実は、夫が、その……」
「あらあら。えぇ、そうなの。全部言わなくて良いわ。アナタが出て行くのよね? ご主人が、なにかした、のよね?」
「はい、その、そうです」
「そうなのね、その目を見たら、なんだかわかる気がするわ。……よく我慢してたわね。もう無理しなくて良いのよ」
「……ありがとうございます」
一瞬困った顔をしたようにも見えたが、大家さんはすぐにいつもの優しい笑顔で私を励ましてくれた。
「そうねぇ……。会えなくなってしまうのは寂しいわ。いつもお手伝いしてくれて助かっていたし、お話するのも楽しかったもの」
「私もです。……けれど、ここの付近にはもう住めないなって。その、夫に会うのも嫌なので……」
この周辺は便利だ。だから、その便利さを手放すのも惜しいと思っていた。だが、だからと言って毎回元になろう夫に毎回ニアミスしたくはない。うっかり顔を合わせてしまったら気まずいことこのうえないし、コソコソするのも嫌だ。
「前に会社のことを教えてくださったわよね? 私、そちらのほうにもうひとつマンションを持っているの。あっちはひとりで住む部屋だから、もしよかったらどうかしら? ここに比べると少し古いけど、オートロックだし、駅からもそう遠くないし。この時期、入れ替わりが多くてね。毎年空きが出ていて。今回も話が来てるのよ。アナタが良かったら、そちらに住まないかしら?」
「い、良いんですか……?」
「少し管理会社に確認するわね? そうしたら連絡するわ。急ぎかもしれないけど、少し待っていただけるかしら」
「全然そんな! ありがとうございます! このタイミングで、良い部屋はもうなくなってると思っていて……」
「いろいろ大変ね。協力できることがあったら、なんでも言ってね?」
「ありがとうございます! ……ずっと、ひとりで考え込んでいたんです。だから、話を聞いてもらえて嬉しいです」
「今日は戦いがあるのかしら? その荷物」
「はい、そういうことです」
「頑張ってね」
「はい!」
手を振って大家さんと別れた。まだ、今日は大きな仕事が残っている。
実家へ帰ると、母がいつも通りの出迎えをしてくれた。特別な話があることはうすうす感づいていると思っている。それでも、向こうから聞くことはせず、お茶とお菓子を用意してくれて、今一緒にダイニングテーブルで話をしている。
「それにしても、そんなおっきなスーツケース、海外旅行でもするの?」
「これ? ……あのね、お母さん」
「なぁに?」
「……私、離婚しようと思ってるの」
紅茶をカップに注ぐ母の手が止まった。
「……離婚?」
「あのね、浮気してるみたいなの。会社の後輩……今年度入社した。もうね、家に帰ってもあの人はいないし、いつもどこかへ行ってるの。連絡しても返ってこないし、言葉も態度も乱暴になっちゃって。……お金もね。一緒に貯めてたのに、残ってたお金あの人全部使っちゃってたの」
「シオ……」
「それでね、これ……」
私はまず、昨日たまたま録音できた音声を母に聞かせた。
……
『反省しろよ』
――ガチャン。――キィ――。
『……え、え?』
よく録れている。私の声も、あの人の声も。
「これ……あおと君……なの……?」
「そうだよ。あの人の声でしょ?」
「あの人、って……」
「ねぇ、私なにを間違えたのかな? もっといっぱい話をすればよかった? ケンカをすべきだった? それとも、優しくすればよかったのかな? 自由にさせればよかったの? 反対に、束縛すればよかった? 口出しして、でも全部受け入れて? わかんないよ……」
仲が良いと、自分では思っていた。夫婦としては、上手くやっている……と。それなのに、どうして。――私が聞きたい。
「っ……と、とにかく。これが、お金の話。浮気の話は、こっち」
次に、まとめていたノートにアルバム、私の日記を出す。
「……知ったのはね、本当に偶然だったの。結婚式に来てくれた、私の友達が、あの人が女の人と仲良さそうにしてるのを見つけて、怪しいって写真を撮ってくれたの。……それまで、私。全然気が付かなかった。バカだよね。人に言われるまで気が付かないなんて」
母の手で、ノートがめくられていく。私がメモをしたレシートの中身や、お揃いの服にキーホルダー。あの人が出かけて行った履歴。アルバムも同様で、だんだんとその目つきが険しくなり、一度めくったページも気が付くと見たページへ戻っている。その手はしっかりとしていたのに、めくる速度はゆっくりと、指先は震えていくようだった。
自分のことなのに、人がその軌跡を辿っているときは、まるで他人ごとのようだった。自分の身に起こったことなのに、その実感が湧かない。浮気をしていたのは私の夫なのに、ドラマを見ているようだった。
「……シオ」
「なに?」
「あなた、いったいこれからどうするの?」
「どうしたらいいと思う? 浮気して、私のお金も使っちゃって、家に換帰って来ない、約束は守らない家事もしない。そんな人要ると思う?」
「……」
「少しだけ、荷物を預かってほしいの。このへんの証拠も、コピーはとったから原本を。これから、この女性の家へ行ってくるから」
「乗り込むってこと? 危なくないの?」
「わかんない。でも、なにもせずに黙っていたって、馬鹿にされるだけでしょ? ……嫌なの」
「……わかったわ。私もお父さんも、あなたの味方よ? ……お父さんには、連絡を入れておくわね?」
「うん」




