第25話:広がるだけの溝_3
「それなんだけど……。今月は振り込めないから、残ってる余剰分から引き落としてくれる?」
少し困ったような、申し訳ないような口調で私は言った。『自分も不本意だ』という気持ちを表すように。
「は?」
明らかにムッとした顔で、この人は不機嫌そうに言う。こんなものは想定内だ。想定内というか、むしろこれを待っていた。この人は、私が知っていることを知らない。だからこんな態度をとる。『俺は怒っている』という態度を見せて、私を委縮させるために。
「ちょうど保険の見直しがあってね。同じ保険ではあるんだけど、内容が変わったの。保険料も下がるし、カバーしてくれる部分も増えるんだけど。それで更新したら、年払いもできるようになっててさ。だから、年払いに切り替えたんだよね。それで今回の給与、その支払いに回したから。だから、来月分の生活費、口座に残ってるお金から出してくれる?」
自然と笑顔になる。嘘なのにスラスラと言葉が出てくるあたり、私はなんの罪悪感も抱いていないのだろう。
「なんで勝手にそんなこと決めてんの? 払えよ」
「払えないもん。支払いに使ったから」
「ふざけんな。お前の貯金から出せよ」
……浮気は人の性格を換えるのだろうか。それとも、この人はもともとこういう性格で、隠していただけなのだろうか。
「なんで?」
「生活費払うのが当たり前だろ!?」
「え? こういうときのために、共同口座に毎月余ったぶん貯金してるんだよね? そこから出してよ」
「ほ、保険うんぬんはお前の我儘なんだから、そんなものに使えるわけないだろ!?」
「どうして? あ、もしかして出金する時間がない? それなら、私が代わりに出してくるから、クレジットカード出して?」
ニコニコしながら、私は右手を差し出した。
「う、うるせぇ!! とにかく俺は認めない! 自分で出せ!」
「だから、出せないの。はい、これ」
「なんだよそれ」
「私が結婚してからつけてた家計簿のコピー。これで見るとね、別にこの先数か月くらいは口座にお金入れなくたって、全然余裕で生活費として使えるお金が残ってるはずなの」
「……」
「だから、出してくるからカード貸して? 忙しいもんね? 私が行ってくるよ」
「だっ、だいたい! そういうことは事前に相談するもんだろ!? なに勝手に決めてんだよ!!」
「え、それ言う? 会話ないのに?」
「はぁ!?」
「そもそも、家にいないじゃん? 私が連絡しても、既読か未読でスルーだし、帰る連絡も無くなったし」
「それとこれとは別だろ!?」
「出かけるときも連絡ないし、遅くなるときもご飯が要らないとか、そういうのも報告ないし。……あ、このあいだ、実家に帰ったんだってね? お義母さんから聞いたけど、それも報告なかったなぁ?」
「俺は良いんだよ」
(――あ? 良いわけないだろうが?)
そう思ったが、今言うべきではないと、問い詰めるべきは明日だと、自分に言い聞かせて別の言葉を探す。
「アナタがしないことは、私もしないことにしたの。不公平だから。さ、早くカードちょうだい?」
「なんで口答えしてんだよ……自分の立場わかってるのか?」
「立場ってなに? 嫁だけど?」
「お前は年下なんだし、俺のほうが稼いでるんだからな? 俺よりも格下なわけ。黙って俺の言うこと聞いてればいいんだよお前は」
「ん? 今その話関係ないよね? 明日出してくるよ。お金ないと困るし。……それとも、私がお金下ろすと困ることでもあるの?」
(……ここまできたら、私が口座の中身がないこと気付いてるって、うっすらとでも察することできると思うんだけどな……?)
とんでもなく腹は立つが、この先のことを考えたら黙っているほうが得策だ。でもつい、チクリと余計な一言を追加してしまった。
「……はぁ? なんで困るんだよ!」
明らかに焦っている。が、私はなにも突っ込まない。
「明日月末だから忙しいよね? あ、やっぱり、今から私が下ろしてくるよ! はい、カード」
一旦下げた手を、私は再度上げた。
「うるせぇ!」
私を無視して、そのまま外へ出ていった。バタン! と大きな音を立ててしまったドアが、あの人の怒りや苛立ちを表している。
「えぇぇ……なんで怒ってるの……?」
心からの言葉だ。なぜあの人が怒っているのか、私にはわからなかった。確かに相談せずに保険……の話は良くなかったかもしれない。が、それがもうちっぽけなくらいに、あの人は自由にやっているのだ。そんなこと言われたくはない。だいたい、私が格下だとか、どれだけ馬鹿にすれば気が済むのだろうか。これは部長の言っていたモラハラなのかもしれない。私も仕事はしているし、それなりに稼いでいる。家にお金を入れて、家事を引き受けて、勝手にいなくなる夫に文句も言わず生活しているのに。浮気をしてお金を使い込んでいる男に、そんなことを言われる筋合いはない。
――ガチャン。――キィ――ドンッ!
「わっ!」
どこへ行ったのか連絡を入れるべきか、それとも放っておくべきか考えていると、大きな音が鳴った。多分、乱暴に玄関のドアを閉めた音だ。
「これで十分か? 来月は金入れろ。じゃねぇと追い出すぞ」
彼は手に持っていた万札を宙に向かって放り投げた。
「あ! お金をそんな雑に扱わないでよ! 放り投げるなんて!」
「うるせークソが! 離婚されたくなかったら、お前は金入れて黙ってればいいんだよ!」
ふわふわと舞った一万円札が、順番に床へと落ちていく。
「お前なんかと結婚してくれるやつなんて、俺以外にいねぇよ。お前だって、俺に捨てられたくないだろ?」
「……な、なんで、そんなこと……」
「反省しろよ」
――ガチャン。――キィ――。
フンッと鼻で笑うと満足げにそのまままた部屋を出て、あの人はどこかへ行ってしまった。
「……え、え?」
戻ってこないことを確認して、私はボタンを押したままになっていたボイスレコーダーと、スマホのカメラを止めた。
「ビックリした……」
まさか、モラハラの証拠を残してくれるなんて。
「……あれホントに、私が結婚した人なのかな……? 途中で宇宙人と入れ替わってないかな……?」
私が好きになった【弓削蒼飛】は、優しくて頼りがいのある大人の男性だった。少し不器用なところもあったが、それも含めて愛していた。今のあの人とは、似ても似つかない。
「どこで間違えちゃったんだろうなぁ……」
学生の私から見た彼は、素敵な大人の男性だった。……そもそもそこから、間違っていたのかもしれない。二十六歳になった今の私は、出会った当時のあの人の年齢を超していた。そこで、思ったことがある。学生だった私から見ると、この年齢の社会人はすごく大人に見えたが、実際に自分がなってみるとそんなこともない。立っているフィールドが違うだけで大人に見えた。というか、周りの同年代の異性が子どもに見えた。だからこそ、相対的に大人に見えていた。
『大人だから言うことは正しい』『年上だからつき従うべき』『社会人だから敬うべき』と、勝手に思っていた。そして彼もそう思っていた。それが私の中で越えられない壁になって、あの人相手になにも言えなくなっていた。喧嘩はしたくない、言い合いもしたくない。機嫌が悪くなれば機嫌を取って、相手を上げて自分を下げた。嫌われたくなくて肯定して生きてきた。誰かに『良い彼氏だね』『素敵な旦那さんだね』と言われると、自分が目を瞑っていた気になる部分はそのまま目を瞑り、相談もできなかった。しなかった。周りにそう見えているのだから『そうじゃない』なんて言えなかった。
それでも、上手くやっていると思っていた。
もっと本音でぶつかれば良かったのだろうか。それとも、自分の意見をハッキリ言えば良かったのだろうか。優しく諭せばよかったのだろうか。見て見ぬフリをしなければ、会話をたくさんしていれば、私が結婚したあの弓削蒼飛のままだったのだろうか。
浮気もせず、ちゃんと家に帰ってきて、一緒に食事をとり、休日はともに出かける。それがこんなに、難しいことだとは知らなかった。




