第2話:ことの始まり_2
今日は十二月二十日。あお君の三十三歳の誕生日。忘れたくても忘れられない一日になりそうだった。
「はいはい、まず、今日起こったことは……」
今すぐ日記を書けば良いかという気持ちもあったが、日記は一日の終わりに書くことにした。寝る直前になにかあるかもしれないが、それはよっぽどだろう。そして、日記や浮気についてのノートを書くときはこの部屋を使うことに決めた。ドアを閉めておけば、あお君が入ってくるならばすぐにわかるし、漫画やパソコンがあるから長い時間いてもおかしくない。
「……ということは、あれ。あお君もこの部屋にこもってるときは浮気相手に連絡入れてたり……?」
すべてが悪いほうへと考えいたってしまう。送られてきた写真のインパクトが強すぎて、今はまだ『浮気じゃない』と思うことが難しい。自分の頭を整理して、冷静にあお君と向き合うためにも、これからすることは絶対に必要だと自分に言い聞かせて、まだなにも書かれていないノートを開いた。
私は、自分で言うのもなんだがどちらかというと勘が良いほうだ。しかも、悪い方向であればあるほどよく当たる。が、それは他人に対してだけであって、自分に関わることだと途端にセンサーが鈍るのか反応が悪い。今回の件もそうなのかもしれない。よく探偵に調査依頼を出すというのも聞くが、あれは現実的なのだろうか。いつか生まれる子どものためにしてきた貯金と、結婚するまでに貯めていた貯金がある。できればどちらも使いたくない。そうなると、自分で調査することになるのだが……。
「よし、まとめよう!」
私はとにかく気合を入れてノートへ今日あったことを書き出した。まず、さっきの出来事。サトコからkiccaが届いた。そこには写真が一枚添付されており、その写真にはあお君らしき男性と、見たことのない女性が仲睦まじく写っていた。距離だけ見れば恋人同士にも見える。表情は笑顔で、ショーウィンドウでも見ているのか、目線は斜め下を向いていた。女性は見たところ自分よりも年下に見える。可愛らしい女の子といった感じで、なんというか、あお君の好きそうなタイプ、だ。
あお君は年下が好きだった。それは昔から公言していて、大学生になってから付き合ってきたのは年下ばかりだと言っていた。最初出会ったときは、同じOBに『高校出てすぐのまだ子どもみたいな女の子を狙うなよオッサン』と言われていた。自分は年上が好きだったし、あお君と同年代の人から見たらそう見えるのか……と軽く考えていた。当時は制度として二十歳で成人だったし、言われてみればまだ大人だと思っていても大人になり切れていなかった部分もあったと思う。私が十八、あお君は二十四歳で付き合い始めた。あまり差はないように思えるが、大学一年生から見た二十四歳は、すごく大人に見えたことを覚えている。あお君の言うことはだいたい正しかったし『そうだね』と、納得できることばかりだった。私の知らない世の中を知っていて、周りが同じ学生同士で付き合っていく中、自分も同じ大人の枠に入ったような気がして嬉しかった。
たまにケンカもしたが、関係は概ね良好だとずっと思っていたし、だからこそ結婚もした。付き合った期間は六年、結婚して二年とだいたい半年。合計八年半ともに過ごしてきた。それなりに長いはずだ。それがまさか、こんなことになるなんて。
大学時代を思い返すと、確かにあお君はモテた気がする。モテたというか、周囲に人が集まって来ていた。集まりの中心にはあお君がいたし、在学生の中にはあお君に憧れている子もいたのだ。他の人たちはあお君のことを遊び人と評する人もいたが、本人は否定していたし私と付き合ってからはそんな素振りは一切見なかった。
それは今でも同じで、私の両親や兄弟からの評判も良く、真面目に仕事をしているのを評価されたのか、同期の中では早くに主任となった。そこからだんだんと忙しくなってはいたが、今ほどではない。次の昇進がかかっていると本人が言っていたからそれを信じていたし、同じ会社ではないから会社での評判はわからないが、酷ければ昇進もしないだろう。私の会社でもプロジェクトや部署によっては忙し過ぎて本当に大丈夫? と聞きたくなるような働きかたをしている人はまだまだいるし、私自身一度だけだが経験したからわかる部分もある。
「……とりあえず、この女の子が誰だか調べたほうが良いのかな……?」
この女性が親戚ではないことはわかっている。同じく本棚から引っ張りだしてきた結婚式の写真と二次会の写真を見てみたが、そのどちらにも姿は映っていなかった。だから、昔からの、結婚式や二次会に呼ぶ間柄の友人でもない。
私はもらった写真をプリンタで印刷すると、一枚をノートに貼り、もう一枚をもらっただけで使っていなかったアルバムにしまった。そして自分のメールアドレス宛に送って、証拠として保管することにした。ノートに貼ったほうへは『同じ会社? マッチングアプリ? それとも旧友? 知り合い?』の文字も添える。既婚者でも、マッチングアプリで相手を探しているという話を聞くし、考えたくはないがパパ活というやつかもしれない。それであれば女の子には優しく手を引くようお願いしたいところだが、まだ実際はどうなのかなにもわかっていない。
「あ、この写真のコート、いつものお気に入りじゃない……? でも確か、随分長いこと着てるから新しいのを買った……って言ってた気もする」
夫婦ともに、職場へ来ていく服と、普段着る服は分けている。と言ってもあお君はスーツが基本だが、アウターに指定はなく、何枚か気分に合わせて変えたいと言って揃えていた。写真のコートはお気に入りだったが、似たようなデザインが毎年販売されずに、仕方なく着倒しているものだった。それが今週になって、新しいコートを着ていたのだ。今まで着ていたコートはネイビーだったが、この写真のコートはチャコールグレーに見える。照明の加減もあるかもしれないが、紺と灰を間違えたりはしないだろう。
――そうだ。会社へ行くときはそのコートばかり着ていたのに、月曜日に急に違うコートになって驚いたから、私はあお君に聞いたのだ。『前のお気に入りのコートはどうしたの?』と。『気に入ったコートができたから買い換えた』と言っていた。そのときは新しく気に入るコートが見つかって良かったね、結構古くなってたもんね、程度の感想しか持たなかったが、よく考えたらいつ買いに行ったのだろうか。この土日はショッピングモールへは出かけたが、お互いに服を買った記憶はない。冬物のコートとなればそれなりに袋もかさばるだろうし、大きな荷物を持っていたら話題にも上がるだろう。
「……前のコートは?」
私は悪いと思いつつ、あお君のクローゼットの中に掛けてある服を一枚一枚見ていった。
「……あった」
見つけたのはずっと着ていた古いコートだった。年季が入っているが、毎年クリーニングに出して綺麗にはしていた。今月何回か着ていたからだろう、クリーニング後にかけられるビニールのカバーは外されており、洗濯済みのタグも無くなっている。とっくに捨てたと思っていたが、そんなことはないようだった。
「ちょっと失礼しますよ、と」
私はコートのポケットに手を入れてみたが、中にはなにも入っていなかった。
「……そりゃそうですよね」
残念に思いつつも、私は念の為にコートの写真を撮り元へ戻した。この写真になんの意味があるかはわからないが、そんなときも来るかもしれないと思うようにした。そして、余計だと思いながらも、他の服の写真も残すことにした。あお君がいつ、どの服を着て行ったかは覚えていない。が、写真に残しておけば、今後なにかに役立つときが来るかもしれない。
「……? レシート?」
アウター一枚、ポケットの中にレシートが入っていた。知らない住所のコンビニだ。近所ではない。が、アプリでだいたいの位置を見るに、あお君の会社とうちとのあいだくらいに位置するようだ。私は行った記憶がないから、きっとあお君だけが行ったのだろう。購入品は、お酒といわゆるコンビニスイーツがふたつずつ。
グチャグチャに丸められていたが、丁寧に皺を伸ばしてみたら中の印字はまだ消えていなかった。これ幸いと、これも写真に残し、実物はファイルに挟んでしまうことにした。