雨の僕と晴れの君
「あなたが生まれた日は静かな雨が降っていたのよ」
誕生日の度、母は言う。
「だから、アンタは湿っぽい性格なのかねぇ」
そう言葉を重ねるのは祖母。
僕達は三人で暮らしている。シングルマザーとして僕を産んだ母は、実家に僕を連れて戻った。母自身もシングルマザーの家庭で育った人だった。
母の年齢より十歳上の二DKの古めかしい団地。壁は黒ずみ、ベランダのパイプには錆が浮いているし、部屋の壁には所々ひびが入っている。
こんな陰鬱とした家に住んでるから、湿っぽい性格になるんだ、と僕は心の中で反論する。でも、実際は俯いて祖母から目を逸らしている。
「行ってきます」
僕はそう言って鞄を肩にかける。中学に入ってから、鞄が随分、重くなった。部活に入っている生徒は、この鞄にプラス部活で使う用具(よく見るのはテニスのラケットとかバスケットシューズとか)も持っているのだから信じられない。
自転車通学の子が羨ましい。僕の団地は中学からギリギリ徒歩通学圏内にある。
僕、有村展は中学二年。部活にも入っていないし、勉強や運動ができる訳でもない。クラスでは、もの静かで害はないけれど、掴みどころのない奴、と思われている。
長所を上げるとしたら、真面目ということだ。その真面目さが買われて、二年三組の保健委員に任命された。保健委員は些細な雑務が多い。
一番面倒くさいのは、出欠調べ。毎日、クラスのみんなの出席と欠席を取り、人数を表に記入する。月末には保健室にその表を提出する。
地味で面倒くさい作業だということもあり、月末に適当にまとめて書く、という生徒もいるようだ。僕には、そっちの方が難しい。適当の塩梅がわからない。
だから僕は毎日A4の紙に向かう。欠席者の氏名の横に×印をつけ、出席人数と欠席人数を書く。教室の隅で、こんな作業に没頭している僕は、やっぱり祖母が言う通り『湿っぽい性格』なのかもしれない。
でも、その作業こそが僕の居場所なのだった。
∴ ∴ ∴
「今日も記入してくれたんだね。ありがとう」
二時間が終わった休み時間、同じ保健委員の谷口雫が、出欠表を手に僕の席に来た。
「今日こそは書こうと毎日思ってるんだけど、やっぱ有村君の方が早い」
表をめくりながら谷口さんが言う。ベリーショートと言われるくらい短く切った髪、頬にはいくつかにきびの後がある。笑うと目が細い三日月みたいになる。
背は僕の方が高いけれど、体格は谷口さんの方ががっしりしている。
「あ、うん……」
何て答えたらいいのか分からず、籠ったような喋り方になった。
「いつ書いてくれてるの?」
「一時間の予鈴が鳴った後かな」
「そっか。じゃあ明日は私が書くよ!」
谷口さんは表を閉じながら言った。そして、僕に背を向けると表を元の位置へと戻しに行った。
∴ ∴ ∴
翌日、出欠表を記入したのは僕だった。
谷口さんは予鈴が鳴ってしばらくしてから、教室へ駆け込んできた。朝晩は、ひんやりするのに、おでこに汗が吹き出していた。
谷口さんはテニス部だ。朝練が長引いたのだろうか。でも、他のテニス部員である生徒は、既に着席していた。
もしかして休みか?と思って、さっき『谷口雫』の名前の横に×印をつけてしまった。僕は消しゴムで、それを消した。
一時間目の地理の授業が終わった後、谷口さんが僕の席までやって来た。
「有村君。ごめん! 今日も」
片手を顔の前に立て謝って見せる。そのジェスチャーがちょっと古くさいというか、おじさんくさい。
僕が言葉を返すより先に谷口さんは続けて言った。
「朝練で使ったボール、倉庫まで運んだら、そこでぶちまけちゃって」
「そうなんだ……」
校庭の片隅にある体育倉庫。あの埃っぽい匂いが、僕は苦手だ。鼻がムズムズする。その埃っぽい中で、あちこちに散らばったボールを一人で黙々と拾う、谷口さんの姿が目に浮かんだ。
谷口さんはきっと僕と同じで真面目なのだ。みんなが率先してしようとしないボールの最後の片付けも、引き受ける。
「谷口さん一人だったの?」
他の部員もいたはずだ。
「え? あ、うん。だって、使ったら片付ける。これ、決まりじゃん」
何を訊くのかという口調で谷口さんは言った。
僕がこんなことを思うのは悪いけれど、利用されてると思った。どうして、一人でボールを最後まで片付けるのか。みんなで片付けるべきだ。
谷口さんには、そういう雰囲気がある。
あの子に押し付けたらいいよね、みたいな。あからさまな態度には出さないけど、面倒なことは谷口さんにお願いしようみたいな。
谷口さんはそのことに気づいていない。きっと、仕方なぁくらいにしか思っていない。いつでも、からりとしている。それが僕には眩しく見えた。
∴ ∴ ∴
月末。僕と谷口さんで一ヶ月分の出欠表を、保健室に提出に行く。保健委員が提出に来るというきまりなので、別に二人でそろって行かなくても、いいんだと思う。
でも、二年三組の僕達は、必ず二人で提出に行く。
谷口さんは部活があるし、僕が行くよと初回に言ったのだけれど、「ダメだよ。表の記入は有村君が、ほとんどしてくれるんだし、保健委員が提出するようにって言われたでしょ? 委員二人で行かなきゃ!」と、谷口さんが力説したのだった。
やっぱり、谷口さんは少し変わっている。周りとちょっとズレているというか。言葉通りに物事を捉える癖や、自分が決めたことは何がなんでもする、という感じがする。
そういうところが、同じクラスの女子から浮く原因になっているのかもしれない。いじめのようなことを、谷口さんが受けている訳ではないけれど、女子は谷口さんを私達とは別の生き物、という風に接しているように感じる。
そんな雰囲気が、谷口さんと僕は似ていると思う。だから、接していて構える必要がない。楽だ。
保健室のドアを開くと、保健担当の城木先生が机に座っていた。僕達の方に顔を上げ、かけていた眼鏡を上に持ち上げる。
城木先生は、おそらく五十代。ボブヘアくらいの長さの髪は、落ち着いた深みのある茶色だ。下がり気味の眉と目のせいか、いつも優しく微笑んでいるようにいるに見える。
他の先生は柔道家みたいな体つきをしていたり、声が大きかったり、いつでも難しい顔をしていたりと近づきにくい中で、城木先生だけは違った。目の前に立っても緊張しない。
「今月の出欠表を提出にきました」
はっきりとした口調で、谷口さんが言う。その隣で僕は頷く。
「はいはい。ありがとう。二年三組は優秀だわ。いつもきちんと月末に持って来てくれるし、記録の仕方も丁寧に書いてあって見やすいのよ」
先生は谷口さんから表を受け取ると、メガネをかけ直し、それをめくって確認した。
「三組は今月、欠席者は少なかったのね。来月はインフルエンザとかで欠席者が増えるかもしれないけれど、記録お願いしますね」
そう言って、谷口さんと僕の方を見て笑う。僕達は「はい」と声を合わせて返事をした。
∴ ∴ ∴
「失礼しました」
と挨拶をして保健室を出て行こうとした谷口さんと僕を、先生が呼び止めた。
「忘れていたわ。このポスター、クラスの掲示板に貼ってちょうだい」
そう言って一枚のポスターを渡された。僕はそれを受け取った。そこには〝正しく手を洗いましょう〟という太字の文字と、手洗いの順番が絵で描いてあった。
きっと誰も見ないポスター。それでも、谷口さんと僕は教室の掲示板にきちんと貼る。
保健室を出て、人気のない廊下を歩く。部活時間の今は、保健室があるこの校舎は静かだ。
「ポスター貼っておくよ」と言いかけてやめた。きっと谷口さんは保健委員としてポスターを貼らなければならないと思っているはずだから。
教室に戻り、作り付けの収納棚からセロハンテープを出す。数年前、とある生徒の椅子に画鋲が貼り付けられる事件があり、それ以降、掲示物はテープで留めることになった。
聞くところによると、画鋲事件は自作自演だったらしい。その顔も知らない誰かも、僕と同じように湿っぽい奴だったのだろうか。
少なくとも僕は、そんなことしないけれども。
真っ直ぐにポスターが貼られているか、少し離れたところから確認する。
「うん! これでいいね」
谷口さんが短い髪を揺らして頷く。
彼女はこれから部活に向かうのかと思うと、尊敬の念を抱いた。六時間、授業で拘束された後に部活なんて、僕には考えられない。
「部活って楽しい?」
気づくと、そう尋ねていた。
「え? あ、うん。気分転換みたいな感じ」
谷口さんがこちらを見る。笑っていなくても目が細いのだと気づいた。
「みんなで力を合わせて、とか僕には無理だ。おばあちゃんから『湿っぽい性格って』言われてるし」
そんなことまで話していた。それを聞いて、谷口さんは、あははと笑う。やっぱり、からっとしている。僕も「あはは」って羽が生えたように、軽く笑えたらいいのに。
「名前だけ見ると、私の方が湿っぽくなりそうなのにね」
そう言って、また笑う。この雰囲気いいな。クラスでは谷口さんも僕も、どちらかというと一匹狼のような存在だ。必要最低限しか他人と関わりを求めない
でも、今、谷口さんと僕は必要最低限を超えた会話をしている。それを楽しいと思う。
僕の中にあるじっとりした心を、谷口さんのからっとした笑い声が、心地よく撫でる。一緒に保健委員ができてよかったなと思う。任期満了まで後、一ヶ月。
「じゃ、また明日」と言って部活に向かう谷口さんの背中を見送る。
僕は明日からも、毎日せっせと出欠表を記入するだろう。そして谷口さんに「有村君、今日も書いてくれたんだ!」と言われるのだろう。
読んでいただき、ありがとうございました。